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2006年6月 6日 (火)

八幡市の月夜田遺跡に想う

その遺跡は八幡市の市街中心部を少し南へ行って国道1号線へ出る手前の男山丘陵東斜面の麓にある
市の教育委員会の大洞さんが発掘調査をおこない、奈良時代の溝状遺構がみつかり先日の日曜日に一般公開説明会がおこなわれた

奈良時代の南山城は、平城京と外の世界をむすぶメインストリートだった
木津川の東を北上して宇治橋を渡れば北陸と東国につながり
木津川の西を北上して、大住で北へむかう道を選べば山陰道へすすみ、北西へ向かう道を選べば山陽道へすすむ
京田辺キャンパスの東の田辺坂を下がったところにあるローソンの西に南北の細い道と信号機があって、そこが山陽道と山陰道に分かれる前の奈良時代の道だったということは前に書いた

この道の推定は足利健亮さんによって、地割りに基づいた歴史地理的な方法で説明されてきた
地図を載せられないのがとても残念だが、昭和30年代の地図には見事にその姿が描かれている

(話しが少し逸れるが、足利健亮さんにあたるような先学の時代は、時代をさかのぼることがリアルに可能な環境や景観がいたるところに残っていた
現在の歴史系諸分野の研究が大きな曲がり角にあるのは、その頃と今とのそんなところの違いにも原因があるのかもしれない
鋤柄が歴史的景観復原を研究の柱のひとつにしているのは、そんな現在の危機感にもよる)

しかし、実はそれを実際に検証した例はまだほとんど無いと聞く
今回の調査はその謎を解き明かす大きな手がかりとなるという
遺跡の名称は月夜田遺跡というロマンチックが名前が付けられている

八幡市街の遺跡を見るときに注意しないといけないことだが
かつての木津川との闘いを物語るように、想像を絶する盛り土がいたるところでみられる
この遺跡も例外ではなく、厚い盛り土の下から中世~近世の何枚もの水田面がみつかり
さらにその下から奈良時代の溝状遺構がみつかったのである
現地表面からは3mほどの深さになるという

遺跡の発掘とは、傍目にみればとにかく肉体労働であろうが
実は猛スピードで論理の回路を頭の中で回転させている頭脳労働である
なにしろ失われた過去の断片を、それこそ手探りで掘り返したりつなぎ合わせたりするのが発掘で
しかも土を取り去る度に、その痕跡が失われてしまうので
一瞬一瞬が見えない過去を甦らせているだろうかの自問自答をしながらの真剣勝負なのである
その意味で、遺跡はその埋まり方が、いかに論理的に合理的に説明できるかにかかっているとも言える

この遺跡などはまさにその典型で、複雑に堆積した砂と粘土とシルトの関係を
頭の中で懸命に整理しながら、それが埋まる前にみせていたいくつもの姿を推定してほりすすんでいく
残念ながら、そんな時の現場では数量的な解析はまったく無力で
頼りになるのは、自らの知識と知恵と経験力
でもこれが本当の意味での文化の解析であると思う

狭い調査区ではあるが、溝状遺構の方向は見事に足利健亮さんの推測した古山陽道の軸と合っている
この溝状遺構と古山陽道との関係はわからないが、古山陽道に比定される軸が奈良時代までさかのぼってここに標されるのは間違いないだろう

しかしそれ以上に勉強になったのは
日頃から学生君たちに「視野を広く」と言っていながら
この場所が、西車塚と東車塚と志水瓦窯と志水廃寺と東高野街道に囲まれた遺跡の大密集地だということに
ここへ来て地図を見るまで気がつかなかったこと
この遺跡の溝状遺構は、とてもじゃないが、ただの溝状遺構ではないのである

南山城は古代・中世の宮都をむすんだメインストリートだった
研究や調査は古くからおこなわれ、森先生がそのひとつのまとめを古墳時代の遺跡と記紀を総合しておこなったが、埋もれている歴史情報はまだたくさん残っている
森先生の学びを継承・発展させた南山城の総合的なハイパー歴史(遺跡)地図をつくっていくことを
この学部での鋤柄のひとつの柱にしようと思っている

『信濃考古』184号に福島永さんが「よりより写真測量の活用をめざして」という文章を寄せている。写真測量とトータルステーションを用いた礫群の出土状況図の比較についてである。今この業界に求められているのは、地味にみえるけれど、こういった確かで実践的な歴史情報の取得についての普及や共有と活用である。学生君たちのめざす道のひとつとして意識して欲しい。

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