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2006年6月15日 (木)

俊寛とカムイヤキ

東京大学の村井章介さんが、山川出版の日本史ブックレットで『境界をまたぐ人びと』を出された

その中に沖縄県を中心とした南西諸島にちなむ章がある
時は治承元年(1177)、舞台は鬼界ケ島(現在の硫黄島)、主人公はあの有名な俊寛である
その日、現在の京都市左京区にあった俊寛の鹿ケ谷の別荘で、後白河院の近臣だった藤原成親と藤原師光(西光)と俊寛は、平家討伐の会議をしていた。しかし多田行綱の密告でそれが発覚し、西光は死罪、藤原成親は備前へ、俊寛は鬼界ケ島へ流されることになる

法勝寺の執行という、白河天皇のアイデンティティと権力の象徴だった六勝寺と白河街区の中でも最も重要な寺の要職にあった俊寛は、その謀議の首謀者とされ、共に鬼界ケ島に流された平康頼や藤原成経が翌年赦免によって戻されるのに対して、1人島に残され生涯を終えることになる
俊寛が遠く離れていく船に追いすがるという「平家物語」に題材をとったその有名な場面が、能の「鬼界島」や浄瑠璃の「家女護島」となり、多くの人々の記憶にとどめられ、
鋤柄も小学生くらいの時に、絵本で見たような記憶がある

村井さんはそのエピソードの中から平安時代後期から中世における日本列島の南の境界を描き出す
例えば鬼界ケ島の人々の様子から中世の日本にとっての境内と異界との境界のイメージを浮かび上がらせ
しかしその一方で鬼界ケ島には平教盛の所領だった肥前国の鹿瀬荘とつながる交易ルートがあって、硫黄をめあてにした商人が行き来していたことや、それに関連して15世紀の史料には、硫黄島から坊津を経て上松浦へいたる航路があったこと
さらにその航路の延長上に赤間関や兵庫浦、そして恵羅武まで乗ってくることも注意し
その結果
俊寛が流された鬼界ケ島というところは、絶海の孤島だったかのように印象づけられてはいるが、活発な海上交通の世界の中では、けっしてそうではなかったと見ることができることを示す

よく知られているように、北条得宗家は日本列島の沿岸交易ルートを初めて体系的におさえたという点で日本歴史上とても重要な役割を果たしている
日本列島の流通は、この環境が整備される前と後でまったく違った世界になっていったと言え、もっと注目されるべき出来事だと考えている
そしてその北の領主が安東氏で南の領主が千竈氏で、1306年に千竈氏の所領として、「口五島」「わさの島」「喜界島」「大島」「永良部島」「七島」「徳之島」「屋久島」の名前がでてくる

2001年にあった森浩一先生の春日井シンポジウムで、カムイヤキと呼ばれている南西諸島を中心に分布する中世前半のやきものについて勉強したが、その時千竈氏についても調べたことを思い出した
カムイヤキの窯は徳之島の伊仙町にあって、鹿児島県と伊仙町による調査がおこなわれている
いわゆる須恵器であるが、南は沖縄本島、北は鹿児島県の一部でもみつかっている
技術系譜は熊本の下り山窯につながり、もっと言えば東海の窯業生産とも無縁では無いと考えているが
少なくとも徳之島から南方に起源が求められるものではない
東海の窯業生産に北条氏が関係していたことは、藤澤良祐さんの古い論文で紹介されている

善光寺の大門町遺跡も同様であるが、ものの動きとひとの動きを積極的に評価してみる段階にきていると思う

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