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2006年6月30日 (金)

韮山

幸運にも三河を過ぎる頃から雨雲を追い越したようで、三島は、富士は見えないものの夏の陽射しと暑さの中だった
何時だったかは思い出せないのだが、以前に一度訪れたことがある
鎌倉でおこなわれた最初の中世都市研究会の帰りだったか
東北でおこなわれた研究会の帰りだったか
勝山市で頑張っている松村君は、まだ卒論の準備段階の頃だったかもっと前だったか
御所ノ内遺跡からみつかった、京都と同じ姿をした素焼きの皿を見学した記憶がある
韮山の町は、その時にも少し歩いている
けれどもあまりに関心が土器に偏っていて遺跡に対する意識が低かったので、どうしてももう一度歩かなければならないと思っていた
とくに数年前にみつかった福原の遺跡を考えていたとき、その風景の源流のひとつとしてこの韮山をあてていたので、その検証の意味もあった

駅を降りるとそこは伊豆の国市になっていた
合併による名称変更である
インターネットで検索すると韮山の歴史探訪コースの丁寧な紹介があって
この市が歴史遺産の活用に対して積極的な取り組みをおこなっていることがよくわかる
複雑な心境になりながら道を西へとり、そのマップに教えられながら成福寺を訪ねる
守山の山塊の北東にひろがる北条氏関連館群または街区の最初のモニュメントである

Sany0269 成福寺は、すぐ西に狩野(かの)川をのぞむ平坦地の一角にあたる
寺の東を南北にはしる道は旧下田街道で、東へ向かえば蛭が島、西へ向かえば狩野川を隔てて江間の北条義時の館につながるという
説明によれば、元々は北条氏の祖にあたる平時家・時方の館で、北条時政が政子と頼朝のために建てた邸宅もこのあたりとされ、境内に土塁や堀などが残ると言う。
その意味では韮山で最も由緒のある場所と言える。

寺を後にして南へ向かい最初の角を西へ曲がる
Sany0277 主要な道の角には標識や案内のイラストマップが設けられており、歴史探索に親切な対応が嬉しい
まもなく北条政子の生誕地と伝堀越御所跡に着く
道をはさんで南が政子の生誕地で北が堀越公方の館跡である
時代は全く異なるが、時代を超えて求められた場所の力を具体的に見るSany0278 ことができるという意味で面白い
北条氏の館は、政子の生誕地と堀越公方の館跡からさらに西へ行き
狩野川を臨みかつ、背後に守山をひかえた場所にある
アバウトな見方かもしれないが、やはり福原と同じで鎌倉の大倉と同じだと思う

北条氏の館を過ぎ、狩野川沿いに守山の西を廻って南へ行くと、伊豆中央高校の手前でちょうど船入に都合のよさそうな支流に出会う
韮山の津だろうかという思いが一瞬頭をよぎる
しかし、確かなことはわからないが、狩野川は暴れ川だったようで
その名残が蛭が島の中州とも言われている
(NHKの大河ドラマのお陰もあって、頼朝の流された先が絶海の孤島ではないことは、もはやあらためて説明する必要無いだろう)
そうすると、狩野川の伝説に従えば、狩野川の上流にあたるこのあたりは、最もその氾濫の著しい場所のひとつだった可能性がある

北条氏の館群は、平安時代後期以降室町時代まで、あくまで守山の山塊の北を占め続けているのだが
もし狩野川の伝説が正しいのであるならば、川の氾濫を受けにくいこの守山の北の一角が北条氏の中心地であったことは、しごく当然なことになる
そうすると韮山の津は、素直に守山の山塊に近い北条氏の館群の近くに見れば良いことになる
遺跡を見るためには学ばなければならないことや情報が無数にある

守山の山塊を西へ回り込み、北へ歩きながら
真珠院の墓地で1303年銘の石造を見て、時政の墓のある願成就院と守山八幡を見る
Sany0297 願成就院は1189年に北条義政の御願によって頼朝の東北攻撃の成功を祈ってひらかれた寺で
七堂伽藍を配し、大きな池をもった壮大な寺院だったという
また北条氏の氏寺だったとも言われている
北条氏の館群にとってみれば、守山の山陰際といったところか

道を東へとって蛭が島へ向かう
Sany0302 国道と線路を渡ってまったく人気の無いのどかな田園風景の中を横切って西をふり返ると、守山の岩山が見事にそびえて目立っている
狩野川の氾濫のせいなのだろうか、韮山の歴史遺産は、狩野川に近い守山周辺と、狩野川に最も遠い韮山東部の伊豆山地の付け根にのみ残っている
蛭が島はその麓の歴史遺産群の中で最も平地に近い位置にあたり
そこから東へ登れば、韮山城・本立寺・香山寺といったが寺院や城館が連なる

Sany0303 蛭が島は、頼朝と政子の銅像と駐車場と休憩所の整った公園で、中央の東屋でほっと一息ついていたら、休憩所のおじさんが親切に声をかけてきた
「なにか難しそうな調査かね」「いえいえ」
「ただの観光ではないでしょ」「はあ」
「国土地理院かなにかかな」「いえいえ」

確かに、中年の男が1人でタクシーも使わず、なにか資料を片手に写真を撮りながら歩いていたらあやしいかもしれないと思いながら、さて、この先どうしようかと考える
三島で乗り換えたときに駅の案内に「三島広小路」で三嶋大社のイラストが見えたのがずっと気に掛かっていた
伊豆の一宮であり、頼朝も訪れ、一遍も訪ねている
熱海の走湯山とならんで東海東部を代表する大神宮である
携帯の乗換案内で時間を確かめ、三島へもどる

三島は水の街である
三島の水は富士山の水で、それは富士山の溶岩が冷えて固まった時にできた無数の亀裂を通って、この三島で表面にでてきたものだと司馬遼太郎が書いていた
広小路で列車を降りて西へ向かって街を歩いていると、次々に小さな流れに出会う
Sany0322水量の豊かな小河川が、三島の街中に彩りと落ち着きを与えている
そんないくつもの流れを渡りながら少し上り坂になった先の左手が三嶋大社である
見れば今歩いていた路が旧東海道で鳥居の正面を南下するのか下田街道という
三嶋大社は東海道をおさえ、しかも三島の宿の中でも南北にのびる広い尾根にのる形で鎮座していることになる(と思う)
しごく納得できる立地だと思う

Sany0324 三島について記した文学者の文章の碑が並ぶ小川沿いの道を通って駅に戻る
次の列車までもうあまり時間が無い
そういえばまだ昼を食べていないことに気がついたが
太平洋の生きの良い魚の看板が目に入ってくるけれど
やむなく泣きながらコンビニへ入る

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