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2006年7月

2006年7月31日 (月)

赤松満祐邸跡

嘉吉元年(1441)6月24日、6代将軍の足利義教は、室町幕府の有力な守護大名だった赤松満祐の邸宅で催されて酒宴に招かれた。宴の中で観世音阿弥が「鵜羽」を演じていた時、満祐は突如義教を襲い暗殺したという(建内記)。
この事件は、足利義教による有力守護大名の抑制政策の一環として、播磨・備前・美作の守護を兼ねていた満祐から守護職を没収し、それを赤松貞村へ与えるという風評を、満祐がおそれたもので、満祐はその後、屋敷に火を放ち播磨に下るが、9月に山名持豊に率いられた幕府軍に追われ、現在のたつの市(旧兵庫県揖保郡新宮町)の城山城で自害し、首が三条西洞院の新獄に送られたと言う。
「建内記」(建聖院内府だった万里小路時房の応永21(1414)から康正元年(1455)の日記)によれば、その場所は西洞院西、冷泉南、二条北とあり、現在の槌屋町・薬師町・東夷川町・薬屋町におよぶという(二条城の東で、京都国際ホテルの北東)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.25.34N35.0.39.729&ZM=11
なお、この場所は陽成天皇(868~949、母は藤原基経の妹)の後院の南部だった場所で、64年間過ごしている。『今昔物語』によれば、没後の姿として、北の1町は民家となり、南の1町に池など少し残るとあるので、それが長く引き継がれたのだろうか。

9月9日、備前焼・海の道・夢フォーラム 備前市
中澤克昭 2006「居館と武士の職能」『鎌倉時代の考古学』高志書院

2006年7月28日 (金)

美のかけはし

京都国立博物館の開館110周年記念特別展である
著名な作品がずらりと並び、生の資料の迫力が部屋一杯に満ちている

入るといきなり後白河法皇と顔を合わせる
「後白河法皇像」14世紀(神護寺)
隣を見れば、あの有名な「文覚四五箇条起請文」の赤い掌の印が目に飛び込んでくる
春学期の間、鳥羽離宮や重源や善光寺に関わっていたため思わず挨拶
藤原為家が1236年に写した「土佐日記」に感嘆して後ろを振り向くと
恰幅の良い平清盛と九条兼実が並んで座っている
「公家列影図」13世紀(京都国立博物館)

面白かったのは「白描絵料紙金光明経第三(無目経)」1192
絵巻の下絵を継いで経のベースにしているもので、文字の間に線描きの下絵が見える
元の絵のストーリーは不明とのことだが、高精細デジタルアーカイブにして下絵の検討ができたらと思う
「平家物語絵巻」は、岡山の大原美術館が有名だが
ここでは墨絵の「平家物語絵巻」が見られる

あの有名な方広寺の梵鐘拓本と大仏雛形と巴文の大瓦にも圧倒され
「柳橋水車図屏風」を見て、あらためて現世の浄土、平等院に思いを馳せる
雪舟の「天橋立図」を見て成相寺を思い出し、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」に感動
まだ写真撮影が大変だった頃、博物館では展示品の詳細な縮図をつくっていたそうで
後の部屋にはその展示があったが、それも見事なもの

太田牛一の「信長公記」と桶狭間の戦いで今川義元から信長が奪った刀まで来る頃には
すっかり歴史の重みが体中に充満してしまったが
再び『一遍聖絵』の有名な筑前の武士の館と備前福岡の市の場面をしっかり堪能して
方広寺の石垣を見ながら正門を出る
必見の展覧会だと思う

気がついたら今年の祇園祭も終わっていく
今年はほとんど祭に入ることが出来なかった
とても悔やまれる
祇園祭は平安期のコンセプトが大きく中世に変わり
元気な下京の町衆(ちょうしゅう)達が主人公になって現在に続いていると言う
現在の山鉾は、その象徴だと言われているが
それぞれの山鉾のエピソードと各町の関係についてはあまり詳しく語られていないと思う
その点で蟷螂山は秀逸である
秋学期の文化史特論では、この点に注目した検討をしてみたい


藤本史子ほか2006『兵庫津遺跡』大手前大学史学研究所オープンリサーチセンター
10月1日に岡山大学で瀬戸内の流通の研究会

2006年7月26日 (水)

頑張れ上京探検隊

今年も文化情報学部と工学部の学生・院生による上京歴史探訪館webの運営がおこなわれています
このうち文化情報学部の学生君たちの担当は、コンテンツ制作とwebデザインとデータ更新などのweb編集
すでに青山さんによるwebデザインのリニューアルがすすみ、いかにも京都らしい雰囲気がページに満ち溢れています
web編集は東峰くんで、ディレクターの欅君と相談しながら、ついにgoogleを活用した上京の歴史情報コンテンツ閲覧が始まりました
コンテンツの中身はまだ修正と充実が必要な暫定版ですが、だんだん進めていきますから、関係各位の方々はご容赦のほどお願い申し上げます

そして5月から始めた定例会で姿を見せ始めたのがスタッフメンバーによるコラム
まずは第1回が田中さんによる和菓子がテーマのシリーズ
タイミングよく祇園祭にまつわるニューウェーブの和菓子について書かれています
ぜひ注目を
この後、ほぼ隔週で並木さんの生活文化コラム、青山さんのデザイナーズコラム、欅君のメイキングコラム、渡邊くんの歴史的建造物コラム、上田君のスポーツコラムが登場します
ぜひお楽しみに

ところで、並木さんの生活文化コラムに関係する上京区のボランティアひまわりの皆さんと一緒に作成した「上京の知恵と文化」が、25日の9時10分からKBS京都ラジオの「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演しました
上京を始めとする多くの人たちに、まだまだ知られていないことが一杯の京都の歴史と文化をもっともっと知ってもらえたらと思います

追伸 レポートに追われる若者達へ
インターネットによる図書館の検索情報を活用しましょう
必要な論文や本があっても、それがどこの図書館にあるかわからず
身近な図書館に無いと、その資料へのアプローチをあきらめていた昔
今はそんな昔からは想像できないほど便利な時代になっています
1、全国の大学が連携した図書の検索サービスがあります
 自分の大学の図書館に欲しい本がなくても、最寄りの大学にそれがあればおおむね利用が可能です
2、国会図書館西館があります
 ちょっと不便ですが、雑誌や図書で、一般に入手しにくい行政関係のものが豊富です
 また、雑誌論文データベースはすぐれものです
3、都道府県立図書館があります
 ネットサービスで先駆的な活動をすすめてきた大阪府立図書館に加え、奈良県立図書館がリニューアルオープンし、ネットワークも充実してとても便利になりました
4、地域図書館があります
 奈良県には、県内の地域図書館をつないだ図書検索サービスがあります。今日はそのおかげで、近畿の諸大学にも国会図書館西館にも無いけれど、どうしても見たかった善光寺関係の図書を、生駒市立図書館で見ることができました

歴史系の研究はさまざまな見方とテーマでおこなわれている研究成果群の蓄積と総合によって生まれてくるものなので、代表的な雑誌論文への関心も必要ですが、関心のあるテーマに関係しそうなありとあらゆる分野にアンテナを張って、どんな小さな(と思われる)ものでも頭の引き出しに入れていくことが重要になります(ちなみに、その時のコツは、学会名や雑誌名で追いかけるより、研究者名で追いかけることです)
インターネットの普及による図書情報の共有化促進は、そんな歴史系の研究にとってもきわめて有用な環境だといえます
けれども、もちろん、言うまでもなく
まずは現場を歩くことから始めましょう

2006年7月24日 (月)

物部氏と長野氏と金刺氏と信濃

善光寺門前の遺跡についていろいろ調べていて非常に興味深いレポートに出会った
大和岩雄さんの「善光寺と渡来人」『信濃古代史考』名著出版1990である

善光寺がおかれる現在の行政地域名は長野市であるが、関西の人にとって長野と言えば河内長野のことになる
大学へ入るために長野県から出てきて、大学を出た後に大阪で働くことになって初めて河内長野という場所を知り、珍しい偶然か、何か関係があるのだろうかと思いながら今日まできていた

大和さんの説明によれば、河内長野の起源は『日本書紀』雄略13年3月に見える「餌我の長野邑をもって、物部目大連にたまう」に遡るもので、その周辺にあたる藤井寺市国府には、式内大社の志貴(紀)県主神社があって(土師ノ里駅北東約500m」)、その南西1キロに式内社の長野神社があるという(藤井寺の長野神社は明治に藤井寺駅南の辛国神社に合祀されたというが、このことだろうか)。
ちなみに辛国神社のすぐ南に仲哀天皇陵とされている岡ミサンザイ古墳があり、その正式陵名が惠我長野西陵で、志紀県主神社のすぐ南にある市野山古墳(允恭天皇陵)は恵我長野北陵なので、ちょうど誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のあるあたりが「長野」の中心地だったことになる。
つまり河内長野の源流とされる藤井寺市の一角は、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所だったということになる。
そしてこの志紀氏が信濃国造家につながる多(おお)氏の関係になるというが、詳細はまだ確かめていない。
ちなみに多氏は神武天皇の子の神八井耳(かむやいみみ)命を祖と伝える氏族で、表記には「太」や「意富」なども見られ、森先生の言葉をひけば出雲との関わりも推定される。大物主神の子孫で和泉の陶邑に関わる大田田根子を神主として祀った大神神社や太安万侶もその流れだろうし、本拠地は多神社のある大和国十市郡飫富(おふ)郷(現在の田原本町多字宮ノ内)とされている。
なお、奈良盆地中南部は十市郡(田原本・橿原など)と式上郡(三輪・纏向・柳本)と式下郡(三宅・川西・田原本)が再編されて現在の磯城郡と各市になっているもので、それゆえ河内の志紀と多氏の関係は大和の磯城(城)と多氏の関係から来ているとの見方もある。
補足すれば倭の六県(やまとのむつのあがた)の1つの磯城県には、崇神天皇の磯城瑞籬(みずがき)宮と欽明天皇の磯城嶋金刺宮などが伝えられると言うが、この金刺宮と信濃国造家の金刺氏がどのように関係するかも興味深いところである。

そしてその河内の長野氏が信濃へ移住したとするのが、大和さんのレポートの骨子となっている。
まず大和さんによれば、河内の長野連は『新撰姓氏録』の「河内国諸蕃」にみられ、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人で、右京諸蕃の長野連も周霊王(東周の第10代王で在位は紀元前571~545))の太子晋を祖とする忠意の後裔とする渡来人でおそらく朝鮮半島を出自とするものとされ
なかでも司空王(永辺に日)は、水工事を司り、城を営み溝を掘り邑を起こした伝説をもっており、河川工事の技術集団だったと言う
一方河内の長野氏が本拠とした藤井寺から羽曳野周辺には、仁徳紀に科野国造と同祖の紺口県主が感玖(紺口)に大溝を掘って石川の水をひいたという伝承がある

また、信濃の長野は和名抄の水内郡芋井郷にみられるが、芋井郷の東の尾張郷は、河内の志紀郡と石川を挟んである安宿郡の尾張郷から移住したものと思われ、その尾張部氏も多氏系で本来は渡来氏族、また芹田も『旧事本紀』の物部氏の始祖に随行した芹田物部に関係しているという(この芹田という地名は現在の長野駅の南東にあり、鋤柄が飯田から転校して長野で最初に学んだ芹田小学校に残っている

さらに『新撰姓氏録』の肩野連・物部肩野連は肩野物部の伴造だが、その神社は式内社の片野神社で、それを分けてできたのが枚方市山田の山田神社とされている
ところがこの地名は石川郡の山田から移住したのではないかということで
安閑天皇の皇女の春日山田が現在の太子町の石川郡山田村春日のことを指し、蘇我倉山田石川麻呂は河内国石川郡山田郷からきているとのことをふまえれば、「五天皇略年譜」に登場する「川内志奈我山田」が南河内郡太子町山田におかれる科長(しなが)神社に関連し、磯長谷とあわせてそれがシナノへつながるということも考えられると言う

ところで枚方を中心とする北河内と善光寺平で共通する要素に「馬」の存在と渡来系の古墳があるという
河内牧は「河内馬飼首(おびと)」や「河内国更荒(さらら)郡馬甘(うまかい)里」という史料や四条畷市の蔀屋北遺跡から5世紀の馬の骨が見つかっている
一方善光寺平の南の丘陵には大室古墳群という渡来系の特徴をもつ積石塚があり、長野市の長原7号墳からは7世紀代の百済系土器がみつかっているというが、それぞれ近くに大室牧と高井牧がある。そして柏原市の茶臼山古墳は渡来系の特徴をもっているといわれる

話しが非常に込み入ってはいるが、朝鮮半島から渡来した忠意を祖とする河川工事に長けた一族が藤井寺に住み、そこは物部氏の所領で、かつ河内多氏の志紀県主・紺口県主の本貫地であったが、物部・蘇我勢力による権力の拡大強化のための馬の増産を目的とした政策の下、多氏に関わる金刺氏が、伊那における猪名部志・弖良氏の場合と同様に、芋井郷を本拠に(裾花川の)灌漑で芹田・尾張・古野をおさめるために、河川工事に秀でた長野氏を率いて水内郡に移住し、居住地を長野としたとされるのである

いろいろ確かめてみたいことはあるが、朝鮮半島から大和と河内と出雲と伊勢と信濃をむすんで古代史と考古学を組み合わせた非常に勉強になるレポートだと思う
加えて色々なことを調べていくと色々なことに出会い、頭の中の引出に入れておいたさまざまな疑問や見方に新しい手がかりを与えてくれる体験が愉快でまたまた時間を忘れてしまった

2006年7月23日 (日)

観光都市京都

久しぶりの好天に恵まれた。
京都は祇園さんの山鉾巡行が終わって一息ついていると思ってバスに乗れば、還幸祭の交通規制の予告が貼りだしてあって、思わず30年近く前を思い出す

京田辺の部屋を早々に出て、善光寺門前の遺跡についての短い原稿の準備で龍谷大学と立命館大学の図書館をまわる
興戸の駅で久しぶりに0先生と会って四方山話をしているうちに京都駅に着く
龍谷大学の大宮校地図書館は七条大宮を上がった場所にある
十分歩ける距離なので塩小路へ出て関電ビルの脇を七条に上がる
大分前から鎌倉時代の京都の風景として七条町と八条院町の話しをしているが
思えば七条新町の交差点をそのつもりで見たのは今日が初めてだろうか
もちろんバスに乗って通り過ぎたことは何度もあるが
やはり歩いて立ち止まって見ないことには見えるものも見えてこない
率直な感想は「新町通ってこんなに狭いんだ」
平安時代後期の面影を探して周りを見回しながら歩くが
もちろんそれと気づくものは無い
けれどもこの場所に藤原定家の時代、海内の財宝が満ちあふれていたと思うと
リアル世界とバーチャル世界が混濁してなにかとても不思議な気になる
これはオタクの気持ちに近いのだろうか

閑話休題
龍谷大学図書館は外観も内装も、とても重厚で雰囲気のある図書館である
去年改装されたばかりだそうだが、歴史と未来の共存する大英博物館の図書室のような空間だった
そこで坂井衡平さんの『善光寺史』を読む
知る人ぞ知る未完の名著である
名著の意味については、ぜひ吉原浩人さんの「坂井衡平-「今昔物語集」と善光寺史の輝かしい研究」『国文学』57-8を読んでもらいたいが、それを知らなくとも、この著作が善光寺に関わる歴史情報を徹底して総合した並外れた内容をもった歴史書であることはすぐにわかる
総合研究としての歴史書というものは確かに存在するのである
文化情報学部における鋤柄の目標のひとつがまた増えた
あまりに居心地が良いので時間を忘れそうになったが、次の予定を考えて再び夏の七条大宮に出る

七条大宮から七条堀川まで出て、さて、立命館にはどのバスに乗ったらいいのだろうかとバス停で行き先を覗き込む
思えばおきまりの路線以外の市バスに乗るのは修学旅行以来だと気づく
たしか30年前、修学院から銀閣寺へ向かうバスがわからず、おおいに迷ったことがあった
そんな頃にもどっていくつかのバス停を渡り歩いてなんとか205に乗れば行けそうだということがわかる
考えてみれば京都観光の旅行者は常にこの緊張感の中にあるということになる
どのバス停からも目的地への的確なルート表示ができれば、リピータの増える京都観光がもっと人気になるのではないかと思う
これもきっと携帯ツールに期待される役割だろうといつもの癖で思ってしまう
工夫すればもっともっと良くなることはまだまだある

立命館大学を出て59番で寒梅館へ向かう
バスの中は、市バスの経路図や京都の観光マップや立命館の校内図をもった観光客(外国人も)や大学見学の人たちで一杯
上京区役所で降りて、例によってイケメンで遅いランチをとりながらMさんにひょんなことで入手した五辻斉院の資料を渡す
ひょんなことで8月に根来寺と高田土居の勉強をすることになったが、その関連資料を探していて国会図書館西館でみつけたもの
日々の問題意識と持続する探索の大切さをあらためて思う
その後久しぶりに今出川図書館で、久しぶりに静かな思索の3時間を過ごす
見知った学生くんを3人みかける
歩いて調べて整理して読んで考えて
皆頑張っているようだ

2006年7月21日 (金)

善光寺門前について考えるための参考文献

広瀬善蔵 1928『古瓦より観たる善光寺』河原書店
清水保  1950.12「善光寺研究における二・三の問題」『信濃』2-12
内山信政 1951.06「善光寺平における地形論について」『信濃教育』774
小林計一郎1954.06「善光寺の寺侍」『日本歴史』73
小林計一郎1955.10「近世善光寺町の構造」『信濃』7-10
小林計一郎1956.07「善光寺金堂の造営」『信濃』8-8
米山一政 1957.07「善光寺古縁起について」『信濃』9-6
小林計一郎1957.10「近世善光寺町の市場」『信濃』9-12
藤田経世 1958「善光寺のこと」『信濃』10-3
小林計一郎1958「善光寺諸堂の造営及び修理」『信濃』10-4
坂井衡平 1969『善光寺史』東京美術
川瀬博美 1972.11「善光寺平における条里制の歴史地理学的研究」『地理学報告』39愛知教育大学地理学会
石岡信一 1973.12「一遍聖の善光寺参篭について」『印度学仏教学研究』22-1 
嶋口儀秋 1974.03「霊場信仰と善光寺」 『印度学仏教学研究』22-2
石岡信一 1974.4「一遍上人の善光寺参籠について」『時宗教学年報』3 時宗教学研究所
金井清光 1977.11「平家物語の義仲説話と善光寺聖」『文学』45-11 岩波書店
長野市立博物館1985.3『善光寺信仰』
湯本軍一・井原今朝男・小林計一郎ほか1986『長野県史』(通史編2中世1)長野県史刊行会
宮下潤子1986「信濃の勧進聖-融通念仏聖を中心として-」『聖と民衆』(仏教民俗学大系2)名著出版
大和岩雄 1990『信濃古代史考』名著出版
牛山佳幸 1991「信濃善光寺史関係文献目録」『寺院史研究』2
牛山佳幸 1991「善光寺創建と善光寺信仰の発展」『善光寺 心とかたち』第一法規出版
倉田治夫・倉田 邦雄1991.03「善光寺縁起研究1「善光寺縁起」の諸本と月蓋説話(序説) 」『説話』9説話研究会
吉原浩人 1992.08「坂井衡平-「今昔物語集」と善光寺史の輝かしい研究」『国文学』57-8至文堂
長島尚道 1993「一遍の善光寺と熊野参籠」『時宗教学年報 』21時宗教学研究所
小林敏男 1996「善光寺草創事情1」『大東文化大学紀要. 人文科学』34
牛山佳幸 1996「信濃善光寺史関係文献目録補遺(その1)」『寺院史研究』5
牛山佳幸 1996「中世律宗の地域的展開-信濃国の場合-」『信濃』48-9
米山一政 1996.11『信濃史の諸問題と善光寺・戸隠』信濃毎日新聞社
古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文1997『長野県の歴史』山川出版社
牛山佳幸 1997.10「善光寺信仰と中世の越中」『地方史研究』47-5
牛山佳幸 1997「『善光寺縁起』の成長」『古代・中世人の祈り-善光寺信仰と北信濃-』長野市立博物館
山本哲徳・土本俊和1997.06「近世信濃善光寺門前における大門町の原形とその変容」『日本建築学会計画系論文集』496
小林敏男 1998「善光寺草創事情2」『大東文化大学紀要. 人文科学』36
小林敏男 1999「善光寺草創事情3」『大東文化大学紀要. 人文科学』37
笹本正治 1999.03「中世末から近世初頭の善光寺門前町」『国立歴史民俗博物館研究報告』78
小林敏男 1999.08「善光寺と若麻積氏」『信濃』51-8
牛山佳幸 1999「中世武士社会と善光寺信仰)『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版
森浩一  2000「対馬と信濃の善光寺」『アサヒグラフ』4062
小林敏男 2000「善光寺草創事情4」『大東文化大学紀要. 人文科学』38 
平松令三 2000.03「善光寺勧進聖と親鸞」『高田学報』88高田学会
風間栄一 2000.06「科野・善光寺平における渡来系集団とその動向」『月刊考古学ジャーナル』459
田島公・井原今朝男・福島正樹・原田和彦・飯島哲也・牛山佳幸・小山丈夫・相原文哉・藤枝文忠ほか2000『長野市誌』(第2巻歴史編 原始・古代・中世)長野市誌編さん委員会
小林計一郎2000『善光寺史研究』信濃毎日新聞社
常磐井慈裕2001「善光寺草創論試案」『東方』17東方研究会
田畑千秋・平本留理・三宅聡子2001.10「『古今著聞集』巻二,第五〇話から第六二話訳注--「大御室性信親王有験の事」から「鎌倉右大将源頼朝,善光寺如来の印相の不思議を語る事」」『大分大学教育福祉科学部研究紀要』23-2
原田和彦 2001.11「善光寺平の官衙研究をめぐる諸問題」『信濃』53-11
福島正樹 2002.3「古代における善光寺平の開発について--旧長野市街地の条里遺構を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』96
井原今朝男2002.3「中世善光寺平の災害と開発--開発勢力としての伊勢平氏と越後平氏」『国立歴史民俗博物館研究報告』96
常磐井慈裕2003「続善光寺草創論試案」『東方』19東方研究会
鎌田宣之 2003.11「研究の窓 栗田氏と善光寺に関する一考察」『信濃』55-11
牛山佳幸 2004.11「出羽における善光寺信仰の展開--特に山岳信仰との関係について」『山岳修験』34日本山岳修験学会
小野澤眞 2005「中世宗教都市鎌倉形成の過程―寺社の分身を中心にみる」『印度学仏教学研究』53-2日本印度学仏教学会p607~610
平松令三 2005「善光寺の信仰とその勧進念仏聖親鸞」『親鸞の生涯と思想』吉川弘文館

考古学フォーラム情報BOXからの転載です
●岐阜市:織田信長居宅跡 現地説明会 織田信長居宅跡付近の試掘調査で、公園内の冠木門前から戦国期のものとみられる土橋跡と堀跡が発見。
日 時:7月29日(土)9:00~
場 所:岐阜県岐阜市大宮町1丁目(岐阜公園)
●藤枝市:寺家前(じけまえ)遺跡 現地説明会
是までの調査で中世前半の集落や水田がみつかる

矢田俊文さんからの転載です
石川県考古資料集成刊行事業報告書5
『いしかわの中・近世』2006年3月31日発行:石川県教育委員会、石川考古学研究会
夢前町文化財調査報告書 第7集 国指定史跡 赤松氏城跡 播磨置塩城跡発掘調査報告書 2006年3月10日 発行 兵庫県飾磨郡夢前町教育委員会

2006年7月17日 (月)

善光寺集約データ

善光寺について考える1
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_d852.html
善光寺について考える2
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_141c.html
善光寺について考える3
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_f533.html
善光寺について考える4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_9069.html
善光寺について考える5
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3f39.html
中世の町場と都市について
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_d74d.html
牛山佳幸さんの「中世武士社会と善光寺信仰」『鎌倉時代の社会と文化』東京堂 に学ぶ
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_53b0.html
大門の遺跡を学ぶ
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_3218.html
中世の善光寺門前を歩
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_ff70.html
善光寺門前について考えるための参考文献
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_c839.html
物部氏と長野氏と金刺氏と信濃
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_c3bf.html


善光寺にかかわるテーマのひとつはやはり7世紀と9世紀の問題
7世紀は後期古墳につながる氏族がテーマ(広島の康徳寺古墳、長野の御猿堂古墳)
9世紀は条里地割りと地域開発
両方むずかしい

もうひとつが後庁だが、それに県町や権堂がからむ

2006年7月14日 (金)

長刀鉾-北へ南へ-

四条で地上へ出るとそこはもうすっかり祇園祭だった
先週の金曜日に、えらいこっちゃと思いながら宇治から丸太町へ上がり
高瀬川の船入を見ながら遠くに祇園囃子の音を聞いていたことを思い出す
昨年から蟷螂山町の勉強を始めて
山鉾がもっているさまざまなエピソードの面白さをあらためて実感しているが
とくに応仁の乱以前の山鉾が盛んだった頃の下京の町衆(ちゅうしゅう)の勢いを
とてもリアルに知ることのできるものばかりなので
今年は個々の山鉾のエピソードにこだわってみようかと思い
長刀鉾の前で携帯ムービーを撮る
http://scoophand.cocolog-nifty.com/naginata.3GP

以下保存会の説明による
「貞観年中(9世紀第3四半期)に疫病が流行した際、三条小鍛治宗近の愛女もその病にかかり命が危うくなる。三条小鍛治宗近はそれを心配し、病気が治れば太刀を奉納すると祇園社に祈る。その後病気が治り、小鍛治は喜んで草薙の剣に心をこめて打ち鍛え、感神院へ奉納した。
大永2年(1522)の後柏原天皇の時に、疫病が流行して死者が多く出たとき、ある人が祇園社に祈祷を乞い、宝剣を借り受け、疫病狐狸の妖となす類に預けたところ、たちまち疫病がおさまった。
その霊験の速やかなことを貴び、その長刀をかたどり、守長刀として、盗難除けと疾病退散、一家安泰の守護としてもうけている。」

そんなことを森先生と話しをしていたら、占出山の隅田八幡の鏡に話題がひろがる
すでに森先生の『交錯の日本史』で「祇園祭と隅田八幡宮の銅鏡」として紹介されている
それから浄妙山には天保3年(1832)にイギリスから輸入されたピラミッドの絵「エジプト風景図」が掛けられているという
鎖国の時代にイギリスから、しかもピラミッドとは・・・
祇園祭には多彩で魅力的な京都の人々の文化を歴史を物語る資料が山盛りである
森先生からまた新たな課題をもらってわくわくしながら混雑する四条通りを東へ

京阪四条から宇治へむかう
行き先は宇治市教育委員会なので降りる駅はJR宇治が良いのだがと思いながら
東福寺で逡巡し、携帯のデジタルマップを見ながら伏見稲荷で逡巡し藤森で思わず降りる
名神高速の下を東へ向かいJR線に突き当たって、さて駅はと思いながら南へ歩くが見あたらない
乗換案内で調べたら奈良行きの列車はまもなく藤森に着くはず
ふうふう言いながらひたすら線路沿いを南下すると
最初に快速が、続いて各駅の奈良行きが脇を通り過ぎていく
地図を見間違えて墨染で降りるべき所を間違えてしまったようだ
今日のテレビの星占いが頭をよぎり苦笑い
それでもJR藤森の駅を東西に横切る道は、あの有名な大亀谷越えの街道
常に前向きの気持ちで西にひろがる伏見の街並みの写真を撮る
Photo_3

金曜日
灼熱の奈良盆地を歩き、田原本で小阪氏の館の実に興味深い資料を見学する
新しく重要なテーマがまたひとつ生まれる予感

2006年7月13日 (木)

3D新時代

3D新時代の開幕である
1、PDFでおなじみのアドビが、単体でDXFなどに対応する3DPDFソフトを販売はじめた
昨年くらいに発表されて、特定のCADソフトのプリンタドライバ対応になっていたが、これで一気に利用が高まるだろう

2、ご存じグーグルのスケッチアップである。これはすごい。グーグルアースに連動するものというが、単体でも十分活用が可能。しかもフリーである。授業での利用を考えてみたい。

現在進行中のコンテンツに関係する参考文献です
さて、テーマは何でしょう
・吉田敬市1930「山城盆地に於ける河川交通の変遷(1)~(4)」『歴史と地理』第29巻第3~6号
・吉田敬市1933「淀付近の地形変遷と奈良街道の移動」『歴史と地理』第32巻第3号
・小野晃嗣1937「卸売市場としての淀魚市の発達(上・下)『歴史地理』第65巻第5・6号
・吉田敬市ほか1962『巨椋池干拓誌』巨椋池土地改良区
・中村富三郎1972『淀納所の歴史』汐文社
・森浩一編1978『大阪府史』第1巻
・杉山信三1981『院家建築の研究』吉川弘文館
・豊田武1982「中世日本商業史の研究」『中世日本の商業』(豊田武著作集第2巻)吉川弘文館
・林正次郎1984「中近世(文禄3年以前)における淀(巨椋池を含む)周辺の交通路」『歴史地理学』第127号
・田良島哲1985「中世淀津と石清水神人」『史林』
・田良島哲1985「中世の寺社境内と市庭-石清水八幡宮の事例から-」『史潮』
・秋山元秀ほか1988『宇治の歴史と文化』宇治市教育委員会
・坂本博司1991『巨椋池』宇治市歴史資料館
・長宗繁一ほか1994「鳥羽殿」『平安京提要』角川書店
・杉本宏ほか1996『発掘ものがたり 宇治』宇治市歴史資料館
・藤本史子1999「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7山川出版社
・浜中邦弘2003「院政期宇治の情景」『考古学に学ぶ』2同志社大学考古学研究室
・京都府埋蔵文化財調査研究センター 2003『佐山遺跡』
・京都府埋蔵文化財調査研究センター 2004『市田斉当坊遺跡』
・杉本宏2006『宇治遺跡群』同成社
・美川 圭2006「鳥羽殿と院政」『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣  
・大村拓生2006「鳥羽殿と交通」『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣       
・冨島義幸2006「現世と浄土をつなぐ景観-平等院鳳凰堂仏後壁画の解釈をめぐって-」『寺院の社会史』(第4回考古学と中世史シンポジウム)考古学と中世史研究会

新着情報
伝中・上富士前5 豊島区遺跡調査会報告12 2006
金田明大2006「考古学と時空間情報(1)」『考古学研究』53-1

2006年7月 4日 (火)

根来と北畠

和歌山県立博物館で【企画展 根来-発掘された中世都市-】が開催されている
期間は平成18年6月10日(土) ~ 7月17日(月・祝)である
行きたいが・・・・・

斉宮歴史博物館で平成18年8月5日(土)~9月18日(祝)で企画展「北畠氏とその時代」 が開催される
中世都市研究会が2006年9月2日(土)・3日(日)に津リージョンプラザお城ホールで開催されます。
勉強会の企画とあわせてみようかとも思う

数値地図5mメッシュの京都及び大阪を入手
たいへんな時代になったものだと思う

高橋昌明2006「福原遷都をめぐる政治」『歴史学研究』816
高橋昌明2006「海をにらんだ前大相国」『兵庫のしおり』8
高橋昌明2006「寧波・天台山駆け足」『海事博物館年報』33
五味文彦代表2006『吾妻鏡と中世都市鎌倉の多角的研究』科研報告書
山梨県立博物館常設展示案内
五味文彦2006『中世の身体』角川書店
笹本正治2006『戦国時代の民衆たち』一草舎出版
山梨市教育委員会2006『杣口金桜神社奥社地遺跡』
山口博之2005「羽黒町執行坂窯跡の刻画文」『西村山地域史の研究』23
山田邦和2006「平安時代天皇陵研究の展望」『日本史研究』521
小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『中世の対外交流』高志書院
伊藤裕偉2006「ブロック形屋敷地群の成立と展開」『小牧・長久手の戦いの構造』上 岩田書院
伊藤裕偉「条里と方格地割・斉宮の中世的展開」『明和町史』
北野隆亮2006「備前焼水屋甕の分類と変遷」『陶磁器の社会史』桂書房
北野隆亮2006「「太田城跡」周辺の考古学的考察」『和歌山平野における荘園遺跡の復元研究』
三重県埋蔵文化財センター2006『鈴鹿市中ノ川中流域の考古資料』(中世鍛冶集落・古代集落・馬具)
斎木秀雄2006『川越重頼邸跡発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会
斎木秀雄2005『筋違橋町遺跡第Ⅲ地点発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会
斎木秀雄2005『佐助ケ谷遺跡発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会
斎木秀雄2005『覚園寺旧境内遺跡発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会
斎木秀雄2005『米町遺跡発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会
大阪城天守閣2006『大坂城代記録(1)』
大阪城天守閣2006『南木コレクション総目録三』

2006年7月 2日 (日)

みのぶ

運が良ければ
富士を拝むことが出来るかもしれないと思いながら身延線を下る
線路際を通過する忘れかけていた緑の勢いを目の当たりにして思わずたじろぐ
うまく表現できないが
ひとつひとつの木や枝が3Dの静止画像で飛び込んでくる
その原因のひとつは甲府駅で買った「七賢」の「なま生」にあるのだろうかと思いながら
いや、違う なにか違うと 思う

今年度の春学期に「プロデュース学概論」という科目が始まり
いつの時代もそうではあろうが、鋤柄の専門の関係で
古代・中世の宗教者の活躍に注目すべきプロデュース力を想い
日蓮を勉強してみたいと思っていた
個人的な話しではあるが我が家の父方は日蓮宗にお世話になっている
その関係は無いつもりではいるが、中世京都の町衆が大きな影響を受けたように
他宗攻撃などの強烈な個性で有名な日蓮宗が果たした役割には見過ごせないものがある

その日蓮が数々の流罪の後に著作活動に専念した場所が身延山である
日蓮は何をもって身延山を選んだのだろうか
身延を過ぎて暫くすると明らかに川幅が広がり風景が変わると想いながら富士川を南下する
確かに川幅は広がり風景は人家の多い川沿いの街道になった
しかし、どちらかというと長野県のどこにでもみられるような風景の連続に
うっかりうたたねをしたらすっかり太平洋岸に出ていた
富士宮である
オロオロする間に東海道線の富士に着く

身延線を甲府から静岡へ向かう特急は富士で進行方向を変える
乗客に備えて荷物を整理してなにげなく反対側の客席に目を向けたら
その先に富士がいた
http://scoophand.cocolog-nifty.com/fuji01.MP4
静岡まであと10分
東名高速道路の向こうに駿河湾が広がり、さらにその向こうには伊豆半島の低い山並みFujiumiizu1 とそしてその左端に富士がいる
思わずなんて贅沢な場所なんだろうと想った

網野善彦さんがプロデュース代表をされた山梨県立博物館が
石和温泉駅からバスで10分ほどのところにある
昨年できたばかりの新しい博物館である
ひとくちに言えば楽しい博物館である
にぎやかで元気で生き生きとしていた
これからの活躍に期待したい
そしてその企画展が富嶽三十六景だった

甲府で甲府城に登ることができた
Sany0347 昼に雨が降ってきた時には
なんとかうまくかわしてきた天気予報についにつかまったと思ったが
午後には再び雲が切れ、甲府は眩しい西日が射していた
絶好のロケーションの中で
今回の研究会のテーマのひとつである景観と宗教の両方をしっかり実感
次はゼミ旅行で来よう

夏きたる

木曜日の午後、今出川を歩きながら下御霊神社の出雲路さんと
「あさってから祇園さんが始まりますねえ」
と話しをしていたら
山梨のクールなテーマは富士山の山開きだった

帝京大学山梨文化財研究所で第4回考古学と中世史シンポジウムがおこなわれている
今年のテーマは景観と暴力である

放送大学へ移った五味文彦さんの主旨説明のあと
高橋慎一朗さん「中世寺院における僧坊の展開」
笹生衛さんの「考古資料から見た中世寺院」
小柳和宏さんの「国東の寺社と荘園-六郷山寺院の成立と展開を探る」
池谷初恵さんの「富士・箱根・伊豆」
上島亨さんの「顕密僧と禅律僧-王の葬送をめぐって」
中澤克昭さんの「中世寺院の暴力」
と続く

僧坊の役割変化に注目した高橋さんの話は非常に面白く
笹生さんの郡寺についての説明は善光寺を考え中の身にとってとても勉強になった
小柳さんの話しを聞きながら、国東を巡った時を思い出し
池谷さんの話しで願成就院の池のすごさにびっくり
上島さんの話は、鳥羽離宮の見直しのテーマに関係し
中澤さんの迫力ある展開力にただただ圧倒

懐かしい顔と新しい顔にたくさん出会い
お互いの年を実感したり驚いたり

そしてこの場所から新しい研究が始まることになった
楽しみながら、けれども意欲的にすすめていきたい

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