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2006年7月24日 (月)

物部氏と長野氏と金刺氏と信濃

善光寺門前の遺跡についていろいろ調べていて非常に興味深いレポートに出会った
大和岩雄さんの「善光寺と渡来人」『信濃古代史考』名著出版1990である

善光寺がおかれる現在の行政地域名は長野市であるが、関西の人にとって長野と言えば河内長野のことになる
大学へ入るために長野県から出てきて、大学を出た後に大阪で働くことになって初めて河内長野という場所を知り、珍しい偶然か、何か関係があるのだろうかと思いながら今日まできていた

大和さんの説明によれば、河内長野の起源は『日本書紀』雄略13年3月に見える「餌我の長野邑をもって、物部目大連にたまう」に遡るもので、その周辺にあたる藤井寺市国府には、式内大社の志貴(紀)県主神社があって(土師ノ里駅北東約500m」)、その南西1キロに式内社の長野神社があるという(藤井寺の長野神社は明治に藤井寺駅南の辛国神社に合祀されたというが、このことだろうか)。
ちなみに辛国神社のすぐ南に仲哀天皇陵とされている岡ミサンザイ古墳があり、その正式陵名が惠我長野西陵で、志紀県主神社のすぐ南にある市野山古墳(允恭天皇陵)は恵我長野北陵なので、ちょうど誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のあるあたりが「長野」の中心地だったことになる。
つまり河内長野の源流とされる藤井寺市の一角は、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所だったということになる。
そしてこの志紀氏が信濃国造家につながる多(おお)氏の関係になるというが、詳細はまだ確かめていない。
ちなみに多氏は神武天皇の子の神八井耳(かむやいみみ)命を祖と伝える氏族で、表記には「太」や「意富」なども見られ、森先生の言葉をひけば出雲との関わりも推定される。大物主神の子孫で和泉の陶邑に関わる大田田根子を神主として祀った大神神社や太安万侶もその流れだろうし、本拠地は多神社のある大和国十市郡飫富(おふ)郷(現在の田原本町多字宮ノ内)とされている。
なお、奈良盆地中南部は十市郡(田原本・橿原など)と式上郡(三輪・纏向・柳本)と式下郡(三宅・川西・田原本)が再編されて現在の磯城郡と各市になっているもので、それゆえ河内の志紀と多氏の関係は大和の磯城(城)と多氏の関係から来ているとの見方もある。
補足すれば倭の六県(やまとのむつのあがた)の1つの磯城県には、崇神天皇の磯城瑞籬(みずがき)宮と欽明天皇の磯城嶋金刺宮などが伝えられると言うが、この金刺宮と信濃国造家の金刺氏がどのように関係するかも興味深いところである。

そしてその河内の長野氏が信濃へ移住したとするのが、大和さんのレポートの骨子となっている。
まず大和さんによれば、河内の長野連は『新撰姓氏録』の「河内国諸蕃」にみられ、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人で、右京諸蕃の長野連も周霊王(東周の第10代王で在位は紀元前571~545))の太子晋を祖とする忠意の後裔とする渡来人でおそらく朝鮮半島を出自とするものとされ
なかでも司空王(永辺に日)は、水工事を司り、城を営み溝を掘り邑を起こした伝説をもっており、河川工事の技術集団だったと言う
一方河内の長野氏が本拠とした藤井寺から羽曳野周辺には、仁徳紀に科野国造と同祖の紺口県主が感玖(紺口)に大溝を掘って石川の水をひいたという伝承がある

また、信濃の長野は和名抄の水内郡芋井郷にみられるが、芋井郷の東の尾張郷は、河内の志紀郡と石川を挟んである安宿郡の尾張郷から移住したものと思われ、その尾張部氏も多氏系で本来は渡来氏族、また芹田も『旧事本紀』の物部氏の始祖に随行した芹田物部に関係しているという(この芹田という地名は現在の長野駅の南東にあり、鋤柄が飯田から転校して長野で最初に学んだ芹田小学校に残っている

さらに『新撰姓氏録』の肩野連・物部肩野連は肩野物部の伴造だが、その神社は式内社の片野神社で、それを分けてできたのが枚方市山田の山田神社とされている
ところがこの地名は石川郡の山田から移住したのではないかということで
安閑天皇の皇女の春日山田が現在の太子町の石川郡山田村春日のことを指し、蘇我倉山田石川麻呂は河内国石川郡山田郷からきているとのことをふまえれば、「五天皇略年譜」に登場する「川内志奈我山田」が南河内郡太子町山田におかれる科長(しなが)神社に関連し、磯長谷とあわせてそれがシナノへつながるということも考えられると言う

ところで枚方を中心とする北河内と善光寺平で共通する要素に「馬」の存在と渡来系の古墳があるという
河内牧は「河内馬飼首(おびと)」や「河内国更荒(さらら)郡馬甘(うまかい)里」という史料や四条畷市の蔀屋北遺跡から5世紀の馬の骨が見つかっている
一方善光寺平の南の丘陵には大室古墳群という渡来系の特徴をもつ積石塚があり、長野市の長原7号墳からは7世紀代の百済系土器がみつかっているというが、それぞれ近くに大室牧と高井牧がある。そして柏原市の茶臼山古墳は渡来系の特徴をもっているといわれる

話しが非常に込み入ってはいるが、朝鮮半島から渡来した忠意を祖とする河川工事に長けた一族が藤井寺に住み、そこは物部氏の所領で、かつ河内多氏の志紀県主・紺口県主の本貫地であったが、物部・蘇我勢力による権力の拡大強化のための馬の増産を目的とした政策の下、多氏に関わる金刺氏が、伊那における猪名部志・弖良氏の場合と同様に、芋井郷を本拠に(裾花川の)灌漑で芹田・尾張・古野をおさめるために、河川工事に秀でた長野氏を率いて水内郡に移住し、居住地を長野としたとされるのである

いろいろ確かめてみたいことはあるが、朝鮮半島から大和と河内と出雲と伊勢と信濃をむすんで古代史と考古学を組み合わせた非常に勉強になるレポートだと思う
加えて色々なことを調べていくと色々なことに出会い、頭の中の引出に入れておいたさまざまな疑問や見方に新しい手がかりを与えてくれる体験が愉快でまたまた時間を忘れてしまった

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