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2006年7月31日 (月)

赤松満祐邸跡

嘉吉元年(1441)6月24日、6代将軍の足利義教は、室町幕府の有力な守護大名だった赤松満祐の邸宅で催されて酒宴に招かれた。宴の中で観世音阿弥が「鵜羽」を演じていた時、満祐は突如義教を襲い暗殺したという(建内記)。
この事件は、足利義教による有力守護大名の抑制政策の一環として、播磨・備前・美作の守護を兼ねていた満祐から守護職を没収し、それを赤松貞村へ与えるという風評を、満祐がおそれたもので、満祐はその後、屋敷に火を放ち播磨に下るが、9月に山名持豊に率いられた幕府軍に追われ、現在のたつの市(旧兵庫県揖保郡新宮町)の城山城で自害し、首が三条西洞院の新獄に送られたと言う。
「建内記」(建聖院内府だった万里小路時房の応永21(1414)から康正元年(1455)の日記)によれば、その場所は西洞院西、冷泉南、二条北とあり、現在の槌屋町・薬師町・東夷川町・薬屋町におよぶという(二条城の東で、京都国際ホテルの北東)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.25.34N35.0.39.729&ZM=11
なお、この場所は陽成天皇(868~949、母は藤原基経の妹)の後院の南部だった場所で、64年間過ごしている。『今昔物語』によれば、没後の姿として、北の1町は民家となり、南の1町に池など少し残るとあるので、それが長く引き継がれたのだろうか。

9月9日、備前焼・海の道・夢フォーラム 備前市
中澤克昭 2006「居館と武士の職能」『鎌倉時代の考古学』高志書院

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