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2006年8月

2006年8月28日 (月)

平安時代の距離感覚

『延喜式』の巻26主税(上)の「諸国運漕雑物功賃」に非常におもしろいデータが載っている
與等の原稿を書くために、国会図書館から延喜式をダウンロードして読んでいたら思わず別の仕事になってしまった
『延喜式』は、養老律令の施行細則を集大成した法典で、醍醐天皇の命により905年編集に着手して927年に完成しているが、その時の標準的な諸国からの運送料の基準値である
なお701年の大宝律令で整備された租の率が1段の収穫50束に対し1束5把で、収穫の約3パーセントと言われてるが、最も運送料の低い山城の数値が、これと同じになっている(10把=1束)

1、畿内
 ①山城(稲1束5把/駄)
 ②大和・河内・摂津(3)
 ③和泉(5)

2、東海道
 ①伊賀(6)
 ②伊勢(12)
 ③志摩(18)
 ④尾張(21)
 ⑤三河(33;海路は米1石あたり稲16束2把)
 ⑥遠江(35;S23)
 ⑦駿河(54)
 ⑧伊豆(60)
 ⑨甲斐(75)
 ⑩相模(75)
 ⑪武蔵(80)
 ⑫安房(100)
 ⑬上総(100)
 ⑭下総(90)
 ⑭常陸(100)

3、東山道
 ①近江(2)
 ②美濃(12)
 ③飛騨(45)
 ④信濃(66)
 ⑤上野(90)
 ⑥下野(105)
 ⑦陸奥(210)
 ⑧出羽(131)

4、北陸道
 ①若狭(10.5;S勝野津(高島市)から大津までの船賃は米1石あたり1升、舵取り代4斗(0.4升)、水手代3斗。ただし舵取り1人、水手が4人で50石の米を漕ぶ場合)
 ②越前(24;S比楽湊(白山市の手取川河口)から敦賀津までの船賃は1石あたり7把、舵取りは40束、水手20束。ただし舵取り1人、水手が4人で50石の米を漕ぶ場合。加賀・能登・越中は同じ。敦賀から鹽津(西浅井町)までの駄賃は米1斗6升、鹽津から大津の船賃は2升、屋賃は1升、舵取り6斗、水手4斗。大津から京への駄賃は8升。)
 ③加賀(24)
 ④能登(78;S加島津(七尾市?)から敦賀津までの船賃は2.6束、舵取り70束、水手30束。「敦賀から鹽津(西浅井町)までの駄賃は米1斗6升、鹽津から大津の船賃は2升、屋賃は1升、舵取り6斗、水手4斗。大津から京への駄賃は8升。」)
 ⑤越中(78;S亘理湊(新湊市)から敦賀津までの船賃は2.2束、舵取り70束、水手30束。「敦賀から鹽津(西浅井町)までの駄賃は米1斗6升、鹽津から大津の船賃は2升、屋賃は1升、舵取り6斗、水手4斗。大津から京への駄賃は8升。」)
 ⑥越後(105;S蒲原津湊(信濃川河口)から敦賀津までの船賃は2.6束、舵取り75束、水手45束。ただし水手は1人につき8石を漕ぐ。「敦賀から鹽津(西浅井町)までの駄賃は米1斗6升、鹽津から大津の船賃は2升、屋賃は1升、舵取り6斗、水手4斗。大津から京への駄賃は8升。」)
 ⑦佐渡(108;S國津(佐渡市松ヶ崎)から敦賀津までの船賃は1.4束、舵取り85束、水手50束。「敦賀から鹽津(西浅井町)までの駄賃は米1斗6升、鹽津から大津の船賃は2升、屋賃は1升、舵取り6斗、水手4斗。大津から京への駄賃は8升。」)

5、山陰道
 ①丹波(3、氷上・天田・何鹿郡は10束)
 ②丹後(21)
 ③但馬(24)
 ④因幡(36;S京まで14.53)
 ⑤伯耆(32)
 ⑥出雲(39)
 ⑦石見(90)
 ⑧隠岐(180)

6、山陽道
 ①播磨(15;S與等津までの船賃は1束、舵取り18束、水手12束。與等から京までの車賃は5升。ただし舵取り1人、水手2人で米を50石漕ぶ場合)美作・備前同様
 ②美作(21、ただし備前国片上津までの駄賃は5束)
 ③備前(24;S與等津までの船賃は1束、舵取り20束、水手15束。「與等から京までの車賃は5升」)
 ④備中(24;S與等津までの船賃は1.2束、舵取り13束、水手20束。「與等から京までの車賃は5升」ただし舵取り・水手で米10石を漕ぶ場合
 ⑤備後(33;S與等津までの船賃は1.3束、舵取り24束、水手1人で米10斛を漕ぶ。「與等から京までの車賃は5升」)
 ⑥安芸(42;S與等津までの船賃は1.3束、舵取り30束、水手25束、ただし水手1人。米15石を漕ぶ場合。「與等から京までの車賃は5升」)
 ⑦周防(57;S與等津までの船賃は1.3束、舵取り40束、水手30束。「與等から京までの車賃は5升」ただし舵取り1人、水手2人で米50石を漕ぶ場合。長門同じ)
 ⑧長門(63;S與等津までの船賃は1.5束、舵取り40束、水手30束。「與等から京までの車賃は5升」)

7、南海道
 ①紀伊(12;S與等津までの船賃は1束、舵取り12束、水手10束。「與等から京までの車賃は5升」)
 ②淡路(12;S與等津までの船賃は1束、舵取り12束、水手10束。ただし舵取り・水手が米8斛2斗を漕ぶ場合「與等から京までの車賃は5升」)
 ③阿波(27;S與等津までの船賃は1.1束、舵取り14束、水手12束。ただし舵取り・水手が米10斛を漕ぶ場合「與等から京までの車賃は5升」)
 ④讃岐(30;S與等津までの船賃は6.3束、舵取り20則、水手16則。ただし舵取り・水手が米10斛を漕ぶ場合「與等から京までの車賃は5升」)
 ⑤伊豫(30;S與等津までの船賃は1.2束、舵取り30束、水手25束。ただし舵取り・水手が米10斛を漕ぶ場合「與等から京までの車賃は5升」)
 ⑥土佐(105;S與等津までの船賃は2束、舵取り50束、水手30束。ただし舵取り・水手が米8斛を漕ぶ場合「與等から京までの車賃は5升」)
 ⑦太宰府(S博多津から難波津までの船賃は5束、舵取り60束、水手40束。「京までの車賃は5升」)

この数値を元に手間賃からみた距離感をはかれば、京に一番近いのは近江の2で、次が畿内の隣国となり、大きく(太陽系の惑星と同じように?)8つのエリアに分けられそう

第1エリア(1~6)は近江・大和・河内・摂津・丹波・和泉・伊賀
第2エリア(10~18)は若狭・伊勢・美濃・紀伊・淡路・播磨・志摩
第3エリア(21~24)は尾張・丹後・美作・越前・加賀・但馬・備前・備中
第4エリア(27~42)は阿波・讃岐・伊予・伯耆・三河・備後・遠江・因幡・出雲・安芸
第5エリア(45~66)は飛騨・駿河・周防・伊豆・長門・信濃
第6エリア(75~80)は甲斐・相模・能登・越中・武蔵
第7エリア(90~105)は下総・上野・石見・安房・上総・常陸・下野・越後・土佐・佐渡
第8エリア(131~210)は出羽・隠岐・陸奥

Engiunso このエリアと現在の地理上距離との関係をみるために、ゼンリンのデジタルマップのルート検索で自転車による推奨ルートの距離をそれぞれの国府推定地まで測ってみると、グラフのように、基本的に物理的な地理距離と対応していることがわかる

関東の語源になった3関はそれぞれ若狭・美濃・伊勢にあるが
みごとに第2エリアがそれに該当している
あわせれば、畿内中心部の縁辺としての西が播磨で南が紀伊にあたることになるが、これもリアリティのある感じだ

第3エリアはその周縁部にあたり、東は愛知、北は石川、西は岡山となっているのもうなずける

第4エリアはさらにその外郭であるが、おもしろいことに、三河以外はすべて西国で、山陰と広島と瀬戸内に面した四国である
やはり海上交通を利用したネットワークの有利さが、このエリア群をつくったものであろう

第5エリア以降は比較的素直に実距離を反映したものに見える
第5エリアでは東が東海道の静岡、西が山陽道の山口と均等に分かれ、第6エリアは北陸道の富山、東海道の山梨と東京と言ったようにやはりきれいに分かれる
さらに第7エリアは関東の奥へ進んでいくのだが、この中でなぜ石見がここにあるのかはわからない
石見の文化は北部九州の影響が強いが、あるいは流通についても同様なことが言えるのだろうか

2006年8月27日 (日)

西陣散策

上京歴史探索マップ第2弾の作成準備のために、西陣を歩く
いつものいけめんでブリーフミーティングを済ませて、テーマを、(1)京都最古の町家探し、(2)こだわりのエピソードに注目した歴史遺産、(3)懐かしの西陣行進曲をたずねて、(4)ものづくりの心と決め、まずは上立売を西へ向かい鳴虎報恩寺へ。
Photo_6
平安時代にさかのぼるという梵鐘の一部を眺めあと、堀川に出て北へ、東にPhoto_7 水火天満宮とその北にある御陵が何かなと思いながら、紫明通まで上がると北区で、Photo_8 玄武神社の案内が見える。
上京の企画なので、ここまで足をのばすことはないのだが、せっかくなのでPhoto_9 紫式部と小野篁の墓を見学
再び、上御霊前通までもどり成逸学区を西へ行くと、すぐに大宮
南へ下り、寺の内で有名な飴の看板の角を東へ入り妙蓮寺をたずねる
Photo_10 室町時代の京都は法華宗が大きな役割を果たしていたが、ここも大きな伽藍をもち、赤穂浪士の衣鉢の墓もある
いやいや驚き
大宮へもどり、なつかしい洋食屋を右に見ながら二筋上がると廬山寺通
今の廬山寺は寺町今出川下がるにあるが、ここにも京都の深さを知る手掛かりが
仁和寺の東へつながる智恵光院の細い通を過ぎ、すぐに南へおりると西にあるのが猫寺で有名なPhoto_11 称念寺、門前を4人の若い女性が地図を片手に通り過ぎる
日曜のこのあたりはとても静かだが、ちゃんと観光客が訪ねて来る
そのまま南へ下り、最初の角を東へ曲がり、また最初のととやの角を南に曲がるときれいな石畳と西陣らしい町家の並ぶ通Photo_14
かわいらしいイラストマップに見とれていたら空から大粒の飴
おもわず織成館の北にある銀花の不思議な空間で雨宿り
これまでの情報から想像するマップの全体イメージを話し合いながら半時ほどして小雨の中を西陣へもどる
五辻のかま八の角を西へ行った市場で158円の傘を買って再び上立売にもどり、岩上神社とPhoto_12 雨宝院を過ぎる。南に接する本隆寺の築地塀すれすれにくろねこの車が行くPhoto_13
智恵光院を今出川へ出る直前の首途八幡では、地域の催し物が行われていたが、突然の雨で大変そう
でも子供たちは元気元気
今出川をはさんで北の大宮から浄福寺のエリアと、南のエリアと、千本中立売のエリアと
3つの探索エリアができそう

本日の勉強は、廬山寺通を境に変化する浄福寺通と智恵光院通の謎
それから西陣のあちこちでみかけるこだわりの店
次は南を歩こう

2006年8月26日 (土)

残暑の余談

行ってみたいところ


1、寺町二条の村上開新堂
明治37年創業の京都で最古の洋菓子屋だとのこと

2、城南宮西のおせきもち
江戸時代に遡る鳥羽街道沿いの和菓子屋さん

3、長岡京の錦水亭

4、珍皇寺の六道詣りの高野槙

5、有用植物図説

6、播磨一宮

私事であるがようやく書き出しが決まった
8月前半から中旬の終わりにかけて、断続的なスケジュールで個別の仕事が入り、考えを煮詰めるまでに至らなかったが、先日48歳の誕生日を過ぎて少し時間が空いたので、府立総合資料館へ行って鳥羽離宮の報告書をコピーしながら、つらつらと考えを巡らせて、その整理を二日がかりでやっていたら、ようやく書き出しを決めることが出来た

思わず網野先生の『蒙古襲来』の再版の後書きを思いだす
言うまでもなく日本の中世史研究を代表する網野善彦氏の著作
初版は1974年。網野氏はまだ40代半ば
当時名古屋大学の助教授だった網野先生は、その夏、冷房の無い自宅の部屋で、畳に汗を落としながら原稿を書き綴ったと言う
中世の真ん中にあった、日本歴史全体に関わるとてつもなく大きなドラマの創造である
その後網野氏は中世史研究に衝撃を与えた著作を次々に発表していくが、この本にはそれらのエッセンスがちりばめられており、しかも「無縁・公界・楽」に代表される網野史観の中に否応無しにとりこまれてしまう魅力があった
高校の教科書には載ってないことばかり、どころではなかった
頁を繰るのがもどかしいほどドキドキした

だからやはり石清水八幡宮で行こうと思う
最初に考えていた書き出しは、もうひとつ先に考えている本に使うことにして
それから先日嬉しい知らせを寄せてくれた彼に期待することとして

2006年8月22日 (火)

歴史を見る目について

昨日、和歌山で根来寺について話しをする機会をもったが、遺跡の見方について、あらためてさまざまな勉強をすることができた。
考古学を専門にする仲間達は、一般に最初の勉強を土器や陶磁器や石器で始める。私の場合も、初めての発掘で、土の中から姿を見せる歴史の実物が、その形や色や模様から、時代や生活文化を語ることに感動し、土器や陶磁器の勉強に夢中になった。遺跡の調査員として大阪に就職すると、それはさらにエスカレートした。高速バスで各地の教育委員会を訪れ、土器や陶磁器を見て図面を作り、また高速バスで帰って現場に出た。充実感があった。
そんなことを何年か続けていたある日、薄暗い収蔵庫から外の明るい陽射しの中へ出た時、なにか違うんじゃないかと思った。全国各地を巡ったはずだが、その場所の風の匂いも風景も記憶に無いのである。各地の文化を調べに行きながら、実際は地域と遊離した無機質なモノしか見ていなかったのである。考古学はモノが大事とはいうが、その目的は人間探求。これではモノから出発してまたモノに戻ってしまう。動揺が走った。
そんな頃、大阪府堺市の日置荘遺跡を担当した。そこは中世史の網野善彦さんが注目してきた「河内鋳物師」の本拠地だった。具体的な関係史料を前にして、これまでのような無機質な研究では済まされない状態になった。否応なしに網野さんの著作を猛勉強した。例えば『蒙古襲来』。中世の真ん中にあった、とてつもなく大きなドラマストーリー。登場する多種多彩な人物と地域。交錯する意識と感情。さらにそれらの透徹した関係性。風の匂いを感じ、風景が頭の中に浮かび上がってきた。これだと思った。
翌日発掘現場に立つと、遺跡の向こうに中世の村と人が見えた、気がした。
遺跡に立脚し、関係する多彩な歴史情報を総合させ、臨場感あふれる歴史叙述をおこなうという現在の研究スタイルは、この時に生まれた。



田島公2005「抹消された「湯沐倉」」『正倉院文書論集』
田島公2005「「東人の荷前」(「東国の調」)と「科野屯倉」『律令国家と古代社会』
田島公2006「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究』
田島公2006「天皇家ゆかりの文庫・宝蔵の「目録学的研究」の成果と課題」『説話文学研究』
田島公2003「美濃国東大寺領大井荘の成立事情」『季刊 ぐんしょ』
田島公2006『禁裏・宮家・公家文庫収蔵古典籍のデジタル化による目録学的研究』

2006年8月20日 (日)

南山城を行く

★鳥羽離宮跡の2~149回次の調査地点データについて、位置情報のほとんどを取得し、ダミー数量を元にしたマップ表示をおこなっています
各種、お楽しみください
8月中に、正式版の数量化をおこなおう
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/toba/mandaratoba.htm

Sany0442 Sany0449 18日~19日の午前にかけて文献の研究者と一緒に南山城をまわる
御香宮で清めの水をいただいた後、石清水八幡宮の頓宮で放生池と、その西にある巨大な五輪塔を見る
本殿に登り、宮司さんから詳しい話しを聞き、石清水社に思いを馳せながら松井と大住を経て薪へ
Sany0418 薪神社で石清水神人について考えながら京田辺市の中央公民館で薪遺跡の遺物を見学
この冬までに宇治の中世を書くつもりだが、ここでも石鍋が目立っていることをあたらめて確認
京田辺キャンパスに入り、「城館」跡と考えている新宗谷遺跡を歩いてから観音寺へ
初めて国宝の11面観音を拝む
夕方宇治川の中島に建つ十三重石塔を見ながら盆踊りの波に飲み込まれる

Sany0462 翌日は午前2時まで飲んでいたのにもかかわらず、朝から元気に海住山寺へ
軒先をこすりそうなほどの狭い道をのぼりつめると加茂の盆地が一面にひろがる
Sany0464 笠置と同じく貞慶に関わる地だが「やる気地蔵」に目がひかれる
木津川を渡り当尾に入る
Sany0470 中学校の修学旅行で来て一番印象に残っている浄瑠璃寺と
Sany0477 歴史資料館の調査で貝吹き岩に登った岩船寺へ詣る

文献の専門家とすごしたきわめて濃密な時間
それぞれの専門をしっかり持った上での積極的な融合
もっともっとこの動きを広げなければ

2006年8月17日 (木)

調査員は気象予報士?

ほとんどの発掘調査は屋外でおこなわれるため、当然そのスケジュールは天候に左右されます。また発掘調査はたくさんの人に手伝ってもらっておこなうため、せっかく来てもらっても雨で屋外調査の出来ない時などは、いろいろな面で迷惑をかけることになります。そこで発掘の調査員たちは、日頃から天気図を読んで効率的な調査の進め方を考えています。とくに最近ではある程度大きな遺跡の場合、調査の区切りと天気の良い日を合わせて、現場の人が総出で時間をかけて遺跡をきれいにして、ヘリコプターやレッカーなどで写真を撮って測量をおこないます。だからその日に天気が急変して雨が降ったりしたら大変。その直前は、天気図を睨みながら胃の痛い日が続きます。

(歴史資料館コラムより転載)

2006年8月16日 (水)

考古学者は体育会系?

発掘調査の最大の仕事は、やはり土を掘ることです。 いろいろな掘り方があります。 確かに地面に腹ばいになって、竹べラとハケで砂粒をひとつずつ 取り除くこともあります。 でもそれだけではありません。移植ゴテも使います。 普通の大きさのスコップも使います。ツルハシも使います。 手がりと呼ばれる草刈り用の小道具やジョレンも使います。 そして掘りあげた土を運ぶために箕や一輪車を使います。 それを一日中して、何日もして、はっきり言って重労働。しっかり体育会系です。 でもそういった作業の中から、試行錯誤して土の固さや軟らかさ、 色の違い、遺構の見分け方を学び、そしてなによりも発掘調査という共同作業を オペレーションする方法も体で覚えます。 発掘現場に埋まっているのは遺物と遺構だけではないのです。

2006年8月15日 (火)

調査員はカメラマン

発掘調査では、掘ることとともに記録することが重要です。 発掘現場では様々な方法で遺跡の記録がおこなわれますが、 そのひとつが写真撮影です。 求められるのは正確さと手早さで、そのためのカメラの操作と撮影技術は、 調査員に求められる必須の条件です。 カメラは、普通は35mmサイズのフィルムカメラを使いますが、 6×7とよばれる中型カメラや、黒い布をかぶって撮影する大型カメラも使います。 大きなサイズのフィルムを使う中型や大型のカメラは、 ものの細かな部分まで鮮明に表現でき、さらにシャープなピントが得られるため、 広い遺跡の撮影には不可欠です。 撮影にー番向いているのは、薄曇りの日中です。 全体に平均に光りが行き届いて、全てが写しこめる状態が理想です。 だから逆に晴天の時などは、強い光の影で見えない部分ができてしまうため、 ひたすら雲を待って高い足場の上で天を見上げることもしばしばあります。 けっして遊んでいるわけではありません。 でもそんな時、ふとカメラのアングルを発掘地点から離して、 遺跡の全体とその周囲に目をやると、発掘だけではみえなかった大きな歴史の姿を見ることができる時があります。 実は発掘調査に必要なのは、こういった広い視野でもあるのです。

(歴史資料館コラムより転載)

2006年8月14日 (月)

職業、エディ夕一?

考古学はただ遺跡を掘るだけの学問ではありません。 発掘調査で得られた様々な情報を、多くの研究者や歴史に関心のある 総ての人々に公開し、共有化することによって研究をすすめ、 社会に貢献することにも重要な責務があるのです。 ところが考古学の重要な情報は、基本的に遺物や遺構についての 退屈で膨大なデー夕の積み重ねの中にあります。 しかしそういった情報は、そのままでは、その重要性は専門家にしかわかりません。 そこでこういった情報を歴史的に解釈して広く提供していく作業も必要になります。 それが発掘調査報告書や博物館図録や様々な概説書などの編集です。 考古学者たちは、限られた予算の中で必要な情報を的確に表現するために、 自ら原稿を書き、図面をつくり、レイアウトを考え、執筆の依頼や掲載資料の選択と その借用交渉もします。著者と編集者を同時にこなすその期間はとっても大変。 でも彼らはそんな膨大な情報を整理して、それを総合化する中で多くのことを学び、 そして新しい発見も、しばしばそんなところから生まれるのです。

(歴史資料館コラムより転載)

2006年8月13日 (日)

ものからわかること

私達の回りには様々なものが溢れています。 私達の生活はこのようなものとのかかわりを抜きにしては考えられません。 過去もまた同様です。考古学がどうして重要なのか、 その理由のひとつがここにあります。 ところでこのものたちは、時代により形を変えます。 身近なところだけでも、テレビ・洗濯機・車・電話など思い当たるものがたくさん。 考古学者たちは、このものたちの形をじっくり観察して、 時代の変化を読み取ります。 2階に森浩一先生の須恵器編年が展示してあります。 須恵器と呼ばれる古墳時代のやきものの形がどのように変化していったか、 じっくり観察してみましょう。

(歴史資料館コラムより転載)

2006年8月12日 (土)

大安寺と杉山古墳

今日は薄曇りでいつもよりは陽射しが優しいので、LISMOにさだまさしを詰め込んで、自転車で奈良県立図書情報館へ行くことにした
トトロの森を駆け下りると秋篠川の九条に西市の船着場跡碑が建っている
場所は平城京のインフラを構成した秋篠川と佐保川の合流ちかくにあたる
なるほどなあ、と、思いながら佐保川沿いに北へ向かう

柏木町の交差点の西まで来くると、左手前方に奈良市の埋蔵文化財センターが見え西は薬師寺東は大安寺の標識
薬師寺は何度も行っているが、大安寺は道が狭いのでこれまで一度も行く機会がなかった
寄り道にはなるがこれは行かねばと東へ向かう

国鉄の踏切を越えるとまもなく信号のある交差点で、ここから西は思いっきり旧道の狭い道
標識に従い南に折れ、大安寺の集落を回避するように南へまわりこむと、まもなく左手にCa330005 大安寺の南門が見えてくる

大安寺は南都七大寺の一つで南大寺とも呼ぶ。起源は聖徳太子の熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)と言われ、百済大寺と高市大寺(大官大寺)を経て藤原京で大安寺に。規模は15町で最澄・空海なども関わる
Ca330010 調査によって、現在の境内の北東を中心に僧坊や南大門などがみつかり、南に塔跡の基壇が残る
そのまま北へあがり元の道へ出て、さらに少し西へもどって北の小路を行くと、右手に杉山古墳への入り口が見える
杉山古墳は中期(5世紀後半)の前方後円墳で、奈良時代には南の前方Ca330013 部に6基の瓦窯が築かれ、大安寺の瓦をつくっていたものと考えられている
古墳は一部葺石も含めて丁寧に整備されており、一角に瓦窯も復原展示してある
墳丘に登り西を見ると宝来山古墳と生駒山を見通すことができる
Ca330014 奈良時代の寺院造営についても、古墳時代の社会についても学べる優れた遺跡公園である

奈良市内の古墳といえば、平城宮北側の佐紀盾列古墳群と西の京の宝来山古墳が最も有名で、それ以外はあまり知られていないが、若草山山頂には鶯塚古墳が、奈良教育大学構内にも吉備塚古墳があって、実は宝来山古墳も西からのびてきた丘陵縁辺に立地しているため、現在の奈良市中心部をとりまく周辺の丘陵縁辺は、古墳時代において標準的な墓Ca330019 域だったと見ることができる

その点この杉山古墳は、その東にある墓山古墳・野神古墳とあわせて平野部に独立して築かれたように見える
身近なところにも考えなければならないことはたくさんある
Ca330018

2006年8月10日 (木)

今出川からTくんが来て四半世紀前を思い出すの段

4回生にとってみれば、いよいよ卒論作成へ向けてのダッシュが始まった夏休みのとある昼下がり
今出川からTくんが来て鋤柄の部屋で報告書に目を通しながらなにやら悩み中の様子
ローム館でおこなったインターネット授業の録画でやや疲労感漂う中
田辺坂の麓にあるファミリーレストランへ誘って、一息ついて思いっきり甘いものを食べながらしばし時をすごす
そんな彼の姿を見ながら思わず四半世紀以上前の自らの姿を思い出す

京都の土師器皿の編年をテーマにしていたが
京都市内の土師器皿の研究にくらべてあまり知られていなかった同時期の他地域の資料を調べるため
一乗谷・大津・奈良・堺・草戸・山口・大宰府・有田をまわった(と思う)
報告書で調べたい資料を決め、連絡をとって、実測道具を持って、草戸は鞆のユースに泊まりながら3日ほど通ったと思う

そういえば、その頃の学生の旅は野宿かユースと相場が決まっていた
ユースではいろいろなことがあった
唐津の虹ノ松原に泊まったときには、ベッドで横になっていたら、突然構内アナウンスで呼び出され、なにごとかと思ってホールへ行ってみると、いきなり「誕生日おめでとう」と祝われ、かなり恥ずかしかったことを覚えている
去年の9月の青山での研究会で、その時お世話になった方にそれこそ四半世紀ぶりにお会いしてお互いの変化に大笑いした
なお、就職した1年目に行った山陰の遺跡めぐりがユースの最後になった

そんな夏を過ごした後、秋の風の中で、図面を作りながら図書館に通い
「土器」という単語を中世の記録に求めて、ひたすら史料とにらめっこをした
「群書類従」と「続群書類従」と「続々群書類従」と「時継卿記」の関連史料や箇所は網羅した(と思う)
この時に収集したデータとそれを基にした考察は、これまで誰もしたことが無かったが、その後もまだ誰も更新していない

集計用紙を使って一覧表をつくり、編年をまとめる
もちろん全て手書きである
図面はトレペ(トレーシングペーパー)にロットリングで製図をして、A2の方眼紙にレイアウトしてプリットで貼り付ける
いやはや昔から腕力でデータと格闘していたようだ

そんな話しをしていたら、どうやらTくんも何かを思ったらしく
少し元気になって帰って行った

その夜、卒論の資料調査に行くというメールが来たので
翌日、何人かの古くからの友人と先輩に電話をして
懐かしい話しをしながら、その支援を頼んだ
同じ苦労をしてきた仲間というものはありがたいもので、皆快くそれに応じてくれた

すぐにその旨をTくんに連絡をしたら
数時間後にその人たちに連絡をとり、日程調整も済んだというメールが来た
えらいものである
きっと新しい歴史をつくってくれると思う

文情の学生君たちの中にも、太陽に負けず、汗を流しながら自分たちの道を切り拓く動きが見え始めてきた
きっと新しい歴史をつくってくれると思う
2回生にとっても4回生にとっても、たくさんの経験を積む夏はまだ始まったばかり

2006年8月 7日 (月)

そうだ 小坂氏の館へ行こう

奈良盆地のほぼ中央に位置する田原本町は、日本を代表する弥生時代集落遺跡で有名な唐古・鍵遺跡があるところ
Pict3173 現在遺跡公園として残されているその唐古池から南へ徒歩で約10分くらいのところに、唐古・鍵ミュージアムという、唐古・鍵遺跡と弥生時代についてなんでもわかる博物館があります
エントランスを入るとすぐ足下に有名な大型建物の遺構が展示されていてとても臨場感がある

一面的にはおだやかな農耕文化に特徴付けられる弥生時代ですが、この遺跡を中心とする奈良盆地の弥生時代は、それだけではなく、さまざまな技術産業が発展し、なによりこの時代が国家形成についての試行錯誤をおこなっていたことを実感させて、深く考えさせてくれるところでもあるのです

少し話しはずれますが、奈良盆地に立つといつも思うことがあります
その後の時代、国家の中心は奈良盆地の南東部から徐々に場所を北へ移して8世紀の終わりには現在の京都におさまります
これはいったいなぜなのか
鋤柄の研究の関心は、中世を中心としながらも、その前の時代も後の時代も、そして地球規模でも場所にこだわったものになっています
その起点が何かと考えたとき、岸俊男先生が『日本の古代宮都』の中でとりあげ、また森先生の授業の中で繰り返された、奈良盆地の古代史と風景にあるのではと思っています
地球上のどこの場所でもそういったことは常に感じるものですが
その中でもとくに奈良盆地は、時空を越えた人類全体にとって普遍の歴史というものをかんがえさせくれるところだと思います
ゆえ、鋤柄の文化情報学部での仕事にとって奈良盆地はとても大きな意味をもちます

閑話休題
そんな奈良の古代史についてたくさんのことを教えてくれる先輩達のひとりに
唐古・鍵ミュージアムの藤田三郎さんがいます
もちろん有名な弥生時代研究者ですが、地域に対するこだわりは弥生時代にとどまらず
鋤柄の専門時代の中世にも深い関心をもっています
実は田原本町を中心とする地域は、中世から近世にかけての集落遺跡の多いところでもあり
これまでも、十六面遺跡、Pict3174 法貴寺遺跡、伴堂東遺跡(三宅町)、中町西遺跡(天理市)、菅田遺跡(天理市)などで平安時代終わりから近世の村や館の跡がみつかっています
田原本町はその中心で現在も地名や地割りなどから多くの館跡や村の跡が推定されており、ちょうど今、そのうちのひとつを代表する「小坂氏」の館跡からみつかった土器や陶磁器の展示が始まり、藤田さんからお話をうかがうことができました

Pict3175 展示されている資料はおおむね14世紀から18世紀までの土器や陶磁器で
14・15世紀代は常滑や信楽の陶器が目立ち、なかでもその時期の常滑系の捏鉢があったのは驚きでした
その時期の捏鉢または擂鉢は明石市にあった魚住窯の製品か岡山の備前の製品が一般的なので、これが奈良盆地の普通のありかたなのか、小坂氏の特徴(東海との太いパイプ?)なのかおおいに関心があります
16世紀以降は、おそらく16世紀末と17世紀後半以降に分けられ、16世紀末は備前窯の擂鉢、中国製の染付、肥前系陶器(唐津)の碗が中心で、美濃瀬戸の焼き物はとても少なく感じました
これを、大阪や京都と比べると、擂鉢に信楽や丹波がみられないのは、京都より大阪との関係の強さを示すものと思います
また、大阪や京都では16世紀末の資料があれば大抵17世紀初めの資料もあるのですが、ここでは17世紀初めを特徴付ける美濃瀬戸の陶器が見あたりませんでした
これは、大坂城跡で言うと1598年以前の「豊臣前期」にあたります
館の歴史の転換点があった可能性があります
17世紀後半以降は肥前系の染付(伊万里)がほとんどになります
みな、もちろん破片ですが、割れの単位の大きなものが多く、また碗が目立ちます
これは何を意味するのでしょうか
場所にこだわり、見つかり方にこだわり、モノの属性にこだわる
遺跡から歴史を復原する大切な勉強ができそうです

2006年8月 2日 (水)

博物館情報のデジ夕ル化とその活用

博物館情報のデジ夕ル化が全国の関係諸機関で精力的にすすめられている。東京国立博物館をはじめとする全国各地の博物館の様々な貴重な資料が、自宅で好きな時間に閲覧できるなんて、ほんの少し前までは想像できなかったことである。同様に様々な大学にどれほど多くの貴重な資料が収蔵されているかわかったのも、このデジタル化と高速通信技術の進歩のおかげである。

これらのデジ夕ルアーカイブの利用により、博物館を訪れる前は言うまでもなく、訪れた後も見てきた様々な資料に思いを巡らせ、見落としたことに気づいたり、逆に新たな関心が生じ、再びその博物館を訪れてみたいと思う気持ちも生まれる。これまで以上に博物館とその収蔵品に親しむことができるようになったその効果は著しいものと言える。

しかしこの博物館情報のデジ夕ル化の意義とその可能性は、このようにそれが博物館資料に接する機会を増やしたことだけではない。歴史系の博物館展示の中で必ずみかけるのが復原図やその模型である。専門家でないとわからないような難しい個々の資料が、総合化され、わかりやすく説明されており、プレゼンテーションの方法としてまた研究上も非常に有意義な展示である。

ところがこの復原の展示が、実は専門家にとっては、手間もかかるし、またその内容においても非常に難しい研究でなのある。とくに考古学の場合、遺跡と遺物と遺構が全て別の媒体となって記録されており、またそれらは別の場所に保管されていることも多い。復原研究とはそんな物理的にも質的にも分散されている資料を元位置に戻して考えることなので、非常に有意義ではあるが、実際は、はかりしれない程の労力と想像力が要求される研究なのである。

実は、博物館情報のデジ夕ル化のもうひとつの大きな可能性が、ここにある。デジタル化された様々な資料は、ヴァーチャルな空間の中で自由に再配置され、それらの関係は、その資料に関係する様々な研究にしたがって、はるかに自由にシミュレートすることが可能なのである。これまでの諸研究は、これによって再検討され、そこからまた新しい視点が生まれる。博物館情報のデジ夕ル化は、これまで以上に復原研究の、とくに景観復原を軸とした遺跡の総合研究の可能性を拡大する、きわめて重要な役割をもっているのである。

2001年9月11日

今後、その基盤となるGIS研究の進展が期待される。

2006年8月 1日 (火)

南山城という歴史を辿る

古代・中世の南山城は、様々な文化の交錯した地域でした。古代の南山城は渡来系氏族の名を多く伝え、京田辺市の大住は南九州の大隅隼人との関係を示します。また仁徳期には皇后の磐之媛命が、筒城岡の南にあって養蚕を行っていた百済系氏族の奴理能美の家を宮室にし、継体大王はその5年から12年までを筒城宮ですごしたと伝えられています。いずれも現地比定は難しいですが、京田辺キャンパスのある山城国綴喜郡綴喜郷の周辺であった可能性は高いものと考えられます。

古代・中世において、南山城を縦貫する木津川は、大阪湾から奈良盆地へ入る最も重要な幹線であり、それゆえこの地は大和への玄関口として重要な位置にあったのです。そして京田辺キャンパスの南に位置する普賢寺谷は、木津川の支流として南山城で最も大きな普賢寺川を擁して開け、西は河内へもつながる交通の結節点でした。

木津川との合流点を見下ろして、弥生時代には天神山遺跡が、古墳時代には飯岡古墳群が築かれ、7・8世紀には普賢寺と下司古墳群および須恵器窯がつくられます。室町時代におきた山城国一揆の、拠点とも思われる中世居館跡群がこの地に営まれているのも、このような南山城の歴史的背景の中から考えていく必要があります。

2001年10月10日

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