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2006年8月 7日 (月)

そうだ 小坂氏の館へ行こう

奈良盆地のほぼ中央に位置する田原本町は、日本を代表する弥生時代集落遺跡で有名な唐古・鍵遺跡があるところ
Pict3173 現在遺跡公園として残されているその唐古池から南へ徒歩で約10分くらいのところに、唐古・鍵ミュージアムという、唐古・鍵遺跡と弥生時代についてなんでもわかる博物館があります
エントランスを入るとすぐ足下に有名な大型建物の遺構が展示されていてとても臨場感がある

一面的にはおだやかな農耕文化に特徴付けられる弥生時代ですが、この遺跡を中心とする奈良盆地の弥生時代は、それだけではなく、さまざまな技術産業が発展し、なによりこの時代が国家形成についての試行錯誤をおこなっていたことを実感させて、深く考えさせてくれるところでもあるのです

少し話しはずれますが、奈良盆地に立つといつも思うことがあります
その後の時代、国家の中心は奈良盆地の南東部から徐々に場所を北へ移して8世紀の終わりには現在の京都におさまります
これはいったいなぜなのか
鋤柄の研究の関心は、中世を中心としながらも、その前の時代も後の時代も、そして地球規模でも場所にこだわったものになっています
その起点が何かと考えたとき、岸俊男先生が『日本の古代宮都』の中でとりあげ、また森先生の授業の中で繰り返された、奈良盆地の古代史と風景にあるのではと思っています
地球上のどこの場所でもそういったことは常に感じるものですが
その中でもとくに奈良盆地は、時空を越えた人類全体にとって普遍の歴史というものをかんがえさせくれるところだと思います
ゆえ、鋤柄の文化情報学部での仕事にとって奈良盆地はとても大きな意味をもちます

閑話休題
そんな奈良の古代史についてたくさんのことを教えてくれる先輩達のひとりに
唐古・鍵ミュージアムの藤田三郎さんがいます
もちろん有名な弥生時代研究者ですが、地域に対するこだわりは弥生時代にとどまらず
鋤柄の専門時代の中世にも深い関心をもっています
実は田原本町を中心とする地域は、中世から近世にかけての集落遺跡の多いところでもあり
これまでも、十六面遺跡、Pict3174 法貴寺遺跡、伴堂東遺跡(三宅町)、中町西遺跡(天理市)、菅田遺跡(天理市)などで平安時代終わりから近世の村や館の跡がみつかっています
田原本町はその中心で現在も地名や地割りなどから多くの館跡や村の跡が推定されており、ちょうど今、そのうちのひとつを代表する「小坂氏」の館跡からみつかった土器や陶磁器の展示が始まり、藤田さんからお話をうかがうことができました

Pict3175 展示されている資料はおおむね14世紀から18世紀までの土器や陶磁器で
14・15世紀代は常滑や信楽の陶器が目立ち、なかでもその時期の常滑系の捏鉢があったのは驚きでした
その時期の捏鉢または擂鉢は明石市にあった魚住窯の製品か岡山の備前の製品が一般的なので、これが奈良盆地の普通のありかたなのか、小坂氏の特徴(東海との太いパイプ?)なのかおおいに関心があります
16世紀以降は、おそらく16世紀末と17世紀後半以降に分けられ、16世紀末は備前窯の擂鉢、中国製の染付、肥前系陶器(唐津)の碗が中心で、美濃瀬戸の焼き物はとても少なく感じました
これを、大阪や京都と比べると、擂鉢に信楽や丹波がみられないのは、京都より大阪との関係の強さを示すものと思います
また、大阪や京都では16世紀末の資料があれば大抵17世紀初めの資料もあるのですが、ここでは17世紀初めを特徴付ける美濃瀬戸の陶器が見あたりませんでした
これは、大坂城跡で言うと1598年以前の「豊臣前期」にあたります
館の歴史の転換点があった可能性があります
17世紀後半以降は肥前系の染付(伊万里)がほとんどになります
みな、もちろん破片ですが、割れの単位の大きなものが多く、また碗が目立ちます
これは何を意味するのでしょうか
場所にこだわり、見つかり方にこだわり、モノの属性にこだわる
遺跡から歴史を復原する大切な勉強ができそうです

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