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2006年9月

2006年9月30日 (土)

五輪塔と上京について少し

岩波日本史辞典などによれば、平安後期頃から死者への供養塔や墓塔、舎利容器などとして作られた日本独自の塔とのこと。
特徴的な形で、宝珠形の「空」、半球形(請花)の「風」、三角形(笠)の「火」、球形(塔身)の「水」、方形(基礎)の「地」が上から順番にならぶ。
この五つは、密教の教えで世界を構成する五大元素とされ、またその形は大日如来を象徴するとされる。
在銘が最古の現存の塔は、岩手県平泉の中尊寺釈尊院にある仁安4年(1169)銘の石造五輪塔。
一番多い素材は石であるが、水晶や金属製もある。また五輪のデザインは立体以外に平面で表現されたものもある。俊乗坊重源が好んだ三角五輪も有名。
基本的にはそれぞれを別個体でつくるが、空風は一緒のものが多い
形の特徴としては、請花は浅鉢形や半球形が古く、深鉢形で側面の張り出したものが新しいと言われる
宝珠は重心の低いものが古く、新しいものが高いと言われる
各部の四面に四門(東方は発心門 南方は修行門 西方は菩提門 北方は涅槃門)の梵字を刻むのを理想としたようだが、多くは東方のみの「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」を刻む
なお、四門を刻んだものは熊本県玉名郡玉東町西安寺跡の正嘉元年(1257)のもの
元来は密教との関係が強かったとされるが、鎌倉時代以降宗派を越えて大流行した

以下、
川勝政太郎『日本石造美術辞典』東京堂出版1978.8

竹村俊則解説・加登藤信撮影の『京の石造美術めぐり』京都新聞社1990.5
から上京と五輪塔の散策を少し

Sany0590 解脱上人五輪塔
建保元年(1213)に没
切石の高さ40センチの八角形基壇の中央に安置
地輪は背が低く、水輪は少し角張る。火輪の背も高くなく、風・空輪もおおらかな曲線をみせる。各部分ともに鎌倉様式完成直前の様式
四方に「キア・カ・ラ・バ・ア」の五輪塔種子を薬研彫し、全体にどっしりした見事な五輪塔である

西法寺五輪板卒塔婆
上京区大宮鞍馬口一筋目下がる東入る、新ン町(しんちょう)
寺伝によれば、文禄2年(1592)に応仁の乱で焼けた安居院(あぐい)を復興しようとして建てたもの
享保15年(1730)の西陣焼けと天明8年(1788)の大火で被害にあう
安居院(あぐい)は、元現前之町(西法寺の南約200m)にあったものだが、起源は平安時代に遡る延暦寺東塔竹林院の里坊
安居院流唱導の名人とされた聖覚(しょうかく)(信西の子の澄賢(ちょうけん)の子)が文暦2年(1235)に安居院で没しており、その墓が西法寺にある大きな石塔五輪
また、大正末年に安居院の跡地で道路工事中にみつかった板状五輪は、高さ98センチの花崗岩製。表面に南無阿弥陀仏を彫り、その下に阿弥陀如来を舟形光背内に彫る。永仁2年(1294)の年号をもつ鎌倉時代の京都を知る貴重資料。
なお寺蔵の阿弥陀如来立像は室町時代で、畿内で少ない鉄仏で安居院にあったもの
鉄仏は関東が中心で、関東学の話をする時に、鋳造関係で熱田の鉄仏(たしか断夫山古墳の近くで見たような)や東京の鉄仏(元は鎌倉の新清水寺にあり、鶴岡八幡宮の井戸から見つかって中央区日本橋人形町の大観音寺にある)を調べたことがある
安居院は関東とどのような関係があったのだろうか
関東の鉄仏は多くが13世紀と聞くが、五辻大宮にあった景愛寺の無外如大が鎌倉と関係していたこともあるし、持明院大路が鎌倉時代の京都の中心で西園寺との関係が深かったことにかかわりそう
非常におもしろい

石像寺弥陀三尊石仏
上京区千本通上立売上がる東 花車町
浄土宗知恩院末で、元百万遍知恩寺に属した
一般に釘抜地蔵で有名。弘仁10年(819)の空海の開基とも言われ、俊乗坊重源が真言宗から浄土宗にあらためたと言うから、ここも鎌倉時代の歴史遺産
近世には「四十八願寺」まいりの8番目として、7月の地蔵会には諸願成就を願う市民でにぎわった
西陣焼けで類焼
3尺6寸の石造地蔵菩薩の由来は、寺伝によれば、弘治年間(1555~1558)に油小路上長者の商人の紀ノ国屋道林が両手の痛みにたえかねて祈願したところ、夢に地蔵尊が出てきて、「汝は前世に人を怨み、仮の人形をつくり、両手に八寸釘を打ち込んで呪ったことがある。その罪によって苦しみを受けている。われが救ってあげよう」というと、地蔵尊の手に二本の釘がにぎられ、痛みがとれたという
地蔵堂後ろの小堂に石造阿弥陀如来座像が安置されている(重要文化財)
光背に弘仁元年(1224)12月2日 略 伊勢権守佐伯朝臣為家の銘がある
佐伯為家は治承2年(1178)に従5位下になっている以外不明
なお、和束町の宝篋印塔の願主も佐伯だった
これも鎌倉時代

般舟院陵石仏
般舟院は、伏見の橘俊綱邸が離宮となった伏見殿に、後土御門天皇が住み、即位後、ここに二尊院の善空から菩薩大戒を受け仏閣を建立したものと
文明11年(1479)の朝廷による建立の儀式の記録がある
その西にあるのが般舟院陵で、室町時代の多くの天皇の母の墓がある
また後白河天皇第3皇女で賀茂の斎院だった式子内親王墓と伝える石仏もある
なお、この場所が藤原定家の時雨亭跡と伝えられているが、この塚は藤原定家の式子内親王への恋心が葛となって親王の墓に巻き付いたからという由来ももつ
これももちろん鎌倉時代

引接寺(いんじょうじ)十重塔(重要文化財)
千本通芦山寺上がる
千本閻魔堂とも言う。高野山金剛峯寺末。本尊は閻魔大王
梵鐘は円阿弥陀仏の勧進による康暦元年(1379)の銘
銘文による草創の定覚上人は肥後の人で、恵信僧都(源信)の弟子で比叡山で修行の後、寛仁年間(1017~1021)に創建
鎌倉時代の「野守鏡」によれば、「蓮台野の定覚上人は源信の二十五三昧をうらやみ、おこなえば、蓮華化生したので、結界して 略 蓮台野となづけて一切の人の墓所となれり」と創建の由来を記す
文永10年(1273)に明善律師が再興
室町時代には春の大念仏狂言と盂蘭盆会の精霊迎えでにぎわい、延徳2年(1490)には春竜太夫による猿楽座の勧進能がおこなわれる
京都の三大念仏狂言
またこの寺の念仏会は桜と深く関わっており、名木の普賢象桜は後小松天皇が北山山荘行幸の際に分け与えたとも、鎌倉の普賢堂からとも言われる
ここも鎌倉時代の遡る歴史遺産
境内の西北隅に二重の宝塔と十三重塔の一部を組み合わせた花崗岩製の塔がある。至徳3年(1386)の銘文があり、古来紫式部供養塔とも呼ばれ、かつては紫野白毫院にあったとも言われる

東向観音寺五輪塔
御前通今小路上がる 北野天満宮の二の鳥居の西にあたる
もと北野神社の神宮寺だったが無人如導が再興し律寺となり、その後真言宗になったという
本堂の南に高さ2mほどの五輪塔がある。もとは北野社の3の鳥居の脇にあり、菅原道真の母の伴氏の墓とも言われるが不明
空輪、風輪が火輪に較べて大きく、水輪が細身で鎌倉時代の作風を示すと言われる

Sany0406 安楽寿院五輪塔
鳥羽天皇が法皇になった時に冠を埋めた「冠石」の北にある
「如法経塚」とも言い、鳥羽上皇が如法経を埋めたとも
もとは境内の北西のかつての本堂の前にあった
高さ3m、
「地輪はあまり高くなく、水輪はやや壺形だが、豊かな曲線で、火輪は軒が厚く、両側へ力強く反る」と表現されている
弘安10年(1287)と阿弥陀信仰の銘文がある

Sany0445 石清水八幡宮五輪塔
石清水八幡宮の放生池のすぐ東にある
高さは約6m、最大規模と言われる
基礎に幅の広い単弁の反花座をもうける。「水輪は下すぼまらず、火輪は軒が両端に向かって反っており、鎌倉中期の作」とされている
伝説では平安時代終わりの尼崎の富豪が宋との貿易で遭難しそうになった時に石清水に祈って助かったことを記す
海上交通と石清水との関係を示すものとして重要な伝説である

Sany0475 岩船寺五輪塔
高さ2.35m、基礎に複弁の反花座をもつが、これは大和の特徴という
火輪の軒が厚く、端は強く反る。水輪は少し壺形でふくらむ
鎌倉時代後期の代表作といわれる
中興開山の平智僧都の墓と伝えられている

過日書き上げた原稿に少し追加がありそう
西陣マップのコンテンツに追加しよう

2006年9月29日 (金)

何度目かの鳥羽

のつもりが
なぜか一遍で行ったり来たり


桐原健2006「松本平の富豪層に係わる予断」『信濃』58-9
五味文彦2006「王の記憶」『歴史読本』51-4
荒木浩 編2006『小野随心院所蔵の文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその展開』科研報告
京都府埋蔵文化財調査研究センター2006『第22回 小さな展覧会』
和歌山県文化財センター2006『徳蔵地区遺跡』
和歌山県文化財センター2006『高田土居城跡・徳蔵地区遺跡・大塚遺跡』
北川央2006「伊勢大神楽の回檀と地域社会」『漂泊の芸能者』岩田書院
小林康幸2006「東国の中世瓦」『鎌倉時代の考古学』高志書院
小林康幸2006「寺院境内絵図にみる経塚」『考古学の諸相Ⅱ』坂詰秀一先生古希記念論文集
鎌倉市教育委員会2006『鎌倉の埋蔵文化財9』

2006年9月25日 (月)

極楽寺について考える-城塞化する寺院か-

個人的には、この数年で一番ホットなシンポジウムだった。
会場となった鎌倉女学院の4階ホールは一杯で、前日に一緒に歩いた学生さんもたくさん参加
歴史情報の総合化による臨場感のある歴史研究のめざす姿のひとつがここにあったと思う

JR鎌倉駅から江ノ電に乗り換えると、最初の駅が和田塚で、ふたつめが由比ヶ浜、三つ目が長谷で四つ目の駅が極楽寺である。
これまで鋤柄的な鎌倉と言えば、鶴岡八幡宮と若宮大路から六浦へ向かう永福寺への道と建長寺・東慶寺・円覚寺のおかれる北鎌倉がなじみの場所で、長谷についてもつい数ヶ月前に行ったのがほぼ初めて(小学校に家族旅行で行ったことがあるが)だったため、おろかにもそれで鎌倉の風景は語れるものと思っていた。
ところがどっこい極楽寺である

五味文彦さんの基調報告-極楽坂は信仰の山、深沢は13世紀後半にはじまる新興開発の代表、極楽坂は境界の地、極楽寺は京風文化の地-
松尾宣方さんの「一升桝」「五合升」の調査-13世紀終わりにさかのぼる郭遺構-
玉林美男さんの極楽寺地区の寺院と交通路-極楽寺坂は別のルートか-
斎木秀雄さんの極楽寺地区の発掘調査-針磨橋から南は由比ヶ浜と同じ?-
原廣志さんの極楽寺地区出土の瓦とその変遷-注目すべき和泉系瓦の出土-
大塚紀弘さんの空間から見た極楽寺-極楽寺の空間構成要素を整理すると-
の発表と、市民をふくめた意見交換がおこなわれた

きわめてすぐれた資料集を借りて、まずは歴史情報の年表的な整理を

承久元年(1219)北条泰時が「普明山法立寺願成就院」を創建
 成就院境内に13世紀中頃以前と推定される石製宝塔(五輪塔?)がある
寛喜2年(1230)北条重時が上洛し六波羅探題につく
宝治元年(1247)宝治合戦で三浦氏がほろび、得宗が強化。北条重時帰り、若宮大路に新造花亭を築く。
建長4年(1252)忍性が常陸国三村寺を律院として止宿
建長6年(1254)北条時頼が大庭御厨内に「聖福寺」(音無川上流)を建立
△そのころまでに?僧正永が丈六の阿弥陀如来像を安置した「極楽寺」がどこかにあった
△正嘉2年(1258)僧正永が「極楽寺」未完成のまま没す
△正元元年(1259)北条重時が忍性を招き、これを移して「極楽寺」を創建
弘長元年(1261)忍性が鎌倉へ移り、釈迦堂・多宝寺
弘長元年頃(1261)北条重時が出家し、「山荘」に丈六阿弥陀如来を安置。宗尊将軍が「極楽寺亭」「極楽寺新造山庄」へいく。重時没。「山荘」が寺院として整備され、住持として浄土宗西山派の修観房(宗観房)が招かれる。
弘長3年(1263)極楽寺で北条重時の3回忌が、修観房によっておこなわれる。修観房は証空の門弟の証恵の門弟で、後嵯峨天皇の帰依を受ける。後嵯峨院の実現に六波羅探題にいた北条重時が支援。(ちなみに一遍の父はこの西山派)
文永4年(1267)北条重時の息子の長時と業時が忍性を招き極楽寺を整備
 江ノ電車両研修施設用地の調査で、13世紀後半から14世紀前半の建物がみつかる
 五合桝の遺跡で13世紀末の遺物がみつかる
 一升桝の遺跡で13世紀末の遺物がみつかる。15世紀以降の遺物は見つかっていない
弘安6年(1283)忍性が飢饉で門前にあつまった人々を救済
永仁6年(1298)忍性が坂下に馬病屋を設置
元弘3年(1333)元弘の乱で成就院が蹂躙され西ヶ谷(実際は馬場ヶ谷)に仮移転
 稲村ヶ崎小学校の調査で14世紀後半から15世紀半ばの建物もみつかる
 14世紀末から五合桝は霊場化する
 針磨橋より南の集団墓地はこの時期か
永禄5年(1562)「極楽寺願成就院御同宿中」とあって成就院が極楽寺保護下にある

・極楽寺地区には、成就院・聖福寺・極楽寺があって、そのうち極楽寺は六波羅探題として西園寺や後嵯峨とも親しい京文化の代表者だった北条重時が、山荘として築いた邸内の阿弥陀如来を原型とするとなるのだろうか
・自邸内に持仏堂をおいて、それが邸宅の名前になった例としては、身近な「持明院」がある
・注目される畿内系の瓦は、大きく括れば和泉系と言えると思う。文覚がそうであったように、渡辺津を拠点とする海上交通の覇者達が、紀淡海峡を越えて東日本へのルートを確保していたことは明らかで、これらの瓦の出土は、極楽寺地区で谷地整備を始めるにあたって、重時が畿内の資材を求めた時、そこに、海上交通にもくわしい和泉の商人?がかかわって可能性を示すものだと思う
・北条重時の没後は、極楽寺は忍性を長老とした律院となり和賀江島と海岸を管理した
・針磨橋から南地区が由比ヶ浜と同じ風景だったのではないかという斎木さんの意見は示唆的
・五合桝と一升桝の成立は、北条重時没後の忍性時代にあたる
・あるいは元弘の乱で成就院が蹂躙された頃の時代か
・成就院を配下におさめた(?)後の極楽寺が、南北朝期という緊張状態の中で、鎌倉の西の玄関口として、長谷へ入る2つのルート(極楽寺坂から長谷へのルートと、馬場ヶ谷から大仏坂へつながるルート)を掌握するために、城塞的な施設(砦のような?)を必要としたためだろうか
 
鎌倉を中心とする地域では、遺跡をベースにしながら歴史情報の総合化による臨場感のある歴史研究が、文献史の研究者によって積極的(もちろん遺跡研究者も一緒になって)におこなわれている
遺跡と文献がいたるところに残っている西日本よ、もっともっと勢いを

2006年9月24日 (日)

五合桝と一升桝

稲村ヶ崎の駅で降りると、もうすでに20人ほどのメンバーが集まっていた
知った顔と知らない顔が混じる中、挨拶もそこそこに出発
テレビのニュースで良く見る稲村ヶ崎の海岸のサーファーたちの実物に感動しながら
ああ、サザンだ、中村雅俊の「俺たちの旅」だと思いながら
江ノ電沿いに極楽寺へ向かう
Sany0677 なるほど、左も右も山で、ここは鎌倉へ入るときの一番の難所なわけだと
あらためて実感しながら、日蓮御袈裟懸松をすぎるとまもなく針磨橋
ここをまっすぐ行くと極楽寺だが、道を右手にとって、新田義貞が元亨3年(1333)に攻め込んだときの稲村ヶ崎の道を探る
左手に仏法寺の丘陵を見て、右手の海岸との間に立つ低い丘陵の裾をしばらく進むと、道はそこで途切れる。そこから先は何度もの地震で崩れたそうで、現在の風景はその頃から大きく代わってしまったそうだが、新田はこの道を通り、海岸沿いに鎌倉を目指したと言う。

再び針磨橋までもどり、五合桝と仏法寺跡へ向かう
仏法寺跡は、稲村ヶ崎の海岸を見下ろす丘陵頂部を少し降りたところにある平坦面で
調査により、建物と池がみつかっている
Sany0714 遺跡からは鎌倉の湾がすべて見渡せ、それこそ、和賀江島へ到着する船の数がわかると誰かが言う
鎌倉時代末期に遡る寺跡だというが、当時の寺が宗教活動以外にもさまざまなことをおこなっていたことを実感させる場所だ
五合桝はいわゆるまわりを土塁で囲んだ枡形郭のことで、こちらも鎌倉時代末期に遡り
急に落ちる斜面の下には成就院の屋根が見え、ひらかれた北西の先に長谷の大仏が見える
Sany0704 こちらはもちろん、極楽寺坂をおさえる場所となる

山を降り、南北朝期の作とされる導地蔵の角を曲がり、忍性の墓のある極楽寺に参詣したあと一升桝をめざす
山を降り、南北朝期の作とされる導地蔵の角を曲がり、忍性の墓のある極楽寺に参詣したあと一升桝をめざす
極楽寺を左手後方にみて、東に馬場谷、西に月影谷を見下ろす丘陵の狭い稜線を一段登ると、突然みごとな郭がひろがる
丘陵の中位形成された緩斜面をうまく造成して方形に築いたもので
東に稜線沿いの道をもち、南と西は急な角度で下降する
京田辺キャンパスの新宗谷館と同じイメージだ
南の尾根の先には尾根を断ち割る掘り割りもあった
これも鎌倉時代後半に遡るというからすごいが、これはまさに笠置と同じイメージだ

これまでこういった風景は15世紀に入った頃以後とされてきたが
去年の笠置山の調査で考えていた14世紀代の寺院に関わる城塞施設のイメージがここで姿を現した気がした

いやはややはり鎌倉はすごい
それにしても、鎌倉で携帯の電波が入らないところがあったり、GPSの必要性を感じるとは思わなかった
勉強しなければならないことは、まだまだたくさんある

ということで、さんざん歩いて疲れたので
最後に、今度は別の五合桝と一升桝へ行く
という、お約束の落ちで
おあとがよろしいようで

2006年9月23日 (土)

極楽寺へ

中央史学の12号に、饗場実さんの「近世後期幕藩関係の一考察ー「問答集」の数量的考察にみる幕藩間「問答」の実態ー」という論文がある。まったく別の論文を探していて、偶然であった。同志社には文学部書庫にしかなく、ほかを探したら奈良大学の図書館にあったので、借りて読んでみた。今も昔も行政世界では、中央官庁と出先との関係が、様々な形の情報と人間関係によって形作られていて、10年以上行政の末端にいた者として、非常に身近に感じることにできるテーマに関わるものだった。情報をキーワードにした人間関係から社会構造への考察の一例として、いずれ授業で紹介したいと思う。

笠置寺のことを半分頭に残しながら、鎌倉の極楽寺へ向かう
鎌倉の極楽寺と言えば、馬淵さんの有名な本で西大寺流律宗教団の拠点としての知識しかなかったが
哀しいかな、それはあまりにも薄っぺらな知識にすぎなかった
じつは、笠置にも関係する非常にダイナミックな歴史の現場だということを遅まきながら知った
京都から鎌倉へ入る時の最重要拠点で、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻撃に際して、臨んだ極楽寺坂の切通しは、さながら数万の兵が待ち受けた巨大な要塞だったという
稲村ヶ崎の海岸沿いのルートをおさえるように仏法寺がおかれ
極楽寺坂のルートをおさえるように五合桝、一升桝と呼ばれる郭がおかれたらしい
時は、まさに笠置の時代である
実は、城塞関係の遺跡が明確なのは、森浩一先生がよく言われるように、弥生時代の高地性遺跡の時代と戦国時代の山城の時代で、それ以外の時代のその種の遺跡はよくわかっていない
(ただし、この数年、平安時代終わり頃の青森を中心とした地域の城塞的な集落については注目が高まってきた)

その意味で、後醍醐の時代の鎌倉と笠置は
日本列島の歴史の大転換期と言われる南北朝期の様子を明らかにする大きな手がかりになる
12時半に稲村ヶ崎に集合の予定
足跡は後日GPSログで公開します

2006年9月22日 (金)

西陣マップの製作ミーティング

昨年の上京歴史散策マップの続編として、西陣マップの製作をすすめています
昨日のミーティングで基本的なレイアウトも決めました

サイズはA3横で表裏カラーです
近鉄電車の中で折り方も考えました
1、横長の状態から、まずマップ面が内側にくるように中央でふたつに折ります
2、次に、縦長で、左が開く状態にして、下から3分の1のところで内側に折ります
3、次に左が開く状態で正方形になったと思いますから、それを中央で横に折ります
4、ひっくり返してみると、右開きの縦長の面ができます。これを表紙にします
5、全部を開いてみると、A3の横位置で、横に4分割の折れ線があって、さらに下から3分の1のところに折れ線があります
 これで、一番右の区画の上3分の2が表紙で、3分の1が奥付になります
 そして左の3列がコンテンツの写真と文章の紹介エリアになります

1面はマップ面です
マップ面は中央にA4縦組で、南が下立売・東が小川、北が鞍馬口、西が七本松の範囲の地図が入ります
左右の空きスペースはぞれぞれ3分割されていて、西陣の歴史や西陣織りの説明やそのほか西陣に関わるコラムと西陣の街並みの風景写真を入れます
マップには、西陣の中でも最も古い風景のある場所や、歴史遺産情報や西陣らしいコンテンツや町歩きに便利なスポットの案内をのせます

もう1面は表紙面です
コンセプトは、普通のガイドブックには載っていない西陣情報で
基本コンテンツは、個性的なエピソードのある歴史遺産とものづくりです
ものづくりは、西陣織り関係を代表として千家十職や和菓子もみていきたいと思っています
それからものづくりとして忘れてはいけないのが、映画産業です
京都の映画館の一番多いのはやはり新京極だそうですが
西陣にも18の館があったそうです
西陣自体も映画の舞台となったようで
水上勉の代表作『五番町夕霧楼』もそのひとつです

近年は町家の活用で、アーティスト達が西陣に新しいものづくりの風を吹き込んでいます
そんな古代から近代までのさまざまな文化の交錯する西陣の新たな発見につながれば良いなあと思っています

2006年9月21日 (木)

上京薪能

11時23分の各駅で興戸を出ると、12時08分に今出川に着く
秋学期が始まったら、2講が終わりかけていて、寒梅館も混み出す頃
烏丸通の向こうの塀の向こうで響く中学校の運動会の練習の音を聞きながら
田辺の方は間に合うんかいな、とイケメンと軽口をたたきながら久しぶりに500円ランチを食べる

愛しのアイシャで四条の事務所へ行った帰りに
ソニーのGPSを起動して京都御苑を少しうろうろ
迎賓館の前まで初めて行き、猿が辻と呼ばれている御所の東北の隅の由来の猿像を初めて見る
再びイケメンへ戻って西陣マップの打ち合わせをして
別の原稿の件で図書館で調べ物をして出てきたら渡邊くんに会う
広報へ例の作品を納品してきたと言う
あらゆることに言えるが、形にするということはとても大事なこと
それにいたるまでの様々な試行錯誤と紆余曲折があって
それもとても勉強になるし、やはりなんだかんだいっても
形にするとそれまで苦労の分がすべて経験値となって、人間をひとまわり大きくする
先輩の杉本カントクの後継者として、しっかり仕事をしてくれた
10月中旬の公開が楽しみ
えらいやっちゃ

白峯神宮でおこなわれる上京薪能に第2部から行く
田舎出身の者として(という決めつけは大いに語弊があるが)
これまで歌舞伎や能に代表される伝統的な文化には、まったくと言って良いほど縁が無かった
縁があったかもしれないと言えば、大昔、ちょっとだけ能楽に凝ったことがある
「石橋」という演目のレコードを聴き
日本ビクターが製作した「能楽囃子全集」のレコードを買ったことがある

Sany0645 上京の関係者だからという訳ではないが
上京薪能は京都を代表する薪能だと言って良いと思う
今年はその42回目だと聞く
大変なことです
京都というところは面白いところで
新しい文化をつくりあげる発動力と、それを持続するバイタリティの両方をもっている
やはり大きなサイクルでまわり続ける歴史の深さというものに
日頃から慣れ親しんでいる人たちが持っている潜在的な力なのだろうか
いわゆるイベント事とは違う性質のもので
どちらが良い悪いの問題ではなく
マスコミに登場するさまざまなプロデュースやイベントも大事なことは間違いないのだが
そういったプロデュースやイベントを違ったプロデュースやイベント的なこと
(これが行事や儀式だろうか)
京都の人たちは長い歴史の中で身につけているのではないかと思う

鋤柄的にはカタカナのプロデュースやイベントも興味はあるが
根っこはもうひとつの方かもしれないと、今日の上京薪能を見ながら感じた

誤解を恐れずに言えば不思議な空間だった
特別席へとの案内をなんとか遠慮して空いている席に座ると
右の前にはバイクのヘルメットをもった男の子
二列先に孫をあやすおばあちゃん
後ろに学生らしいカップル
それからあちこちに外国人の観光客
となりではおっちゃんが缶の蓋を開けてなにか食べ始めた
けれどもみんな熱心に舞台を見ている
立ち見も出たそんな大盛況の中
演目は粛々とすすむ
船弁慶は迫力があって、仕舞はノーブルで
寝音曲ではどっと笑いがおこり、鵺は思わず身をのりだしてしまう緊張感がはしった

Sany0662 時間の都合があって、最後まで見られなかったが
一歩境内を出ると、そこにはまったくいつもの当たり前の普通の日常の今出川通
けれども後ろ振り返ると
油小路通の向こうの築地塀の向こうから、高い鼓の音がしっかり聞こえている
あらためて京都はすごいところだと思った

それから本日はさらにえっらいやっちゃが×2

スーパーマップルで読める本日の軌跡
http://scoophand.cocolog-nifty.com/gps/060921.txt

2006年9月20日 (水)

実験を兼ねました

とあるメーカーのGPSを使って、実験を兼ねました
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/sony/060920.htm
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/sony/jikken.html
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/sony/kasagi.html
移動経路の一部をカシミールにのせました
Image01

2006年9月19日 (火)

ちょっと一息

多分、今頭の中にあるのは、淀と石清水と持明院と室町殿と近衛殿と宇治と鳥羽と西陣と笠置と栢ノ杜と多気と村上源氏と

恋塚寺       城南宮4    城南宮3    城南宮2    城南宮  
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白川天皇陵   小枝橋     三面石     近衛天皇陵 
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田中殿公園   冠石      
Photo_19 Photo_28           御香宮     御香宮2
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鳥羽天皇陵   油懸地蔵   
Photo_20 Photo_30           寺田屋    伏見   
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中島町     東高瀬川    鳥羽の大石
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Photo_34 草津はるか
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西が城南宮   今出川菊亭鳥羽殿
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真幡寸神社
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2006年9月18日 (月)

豊田武「西陣機業の源流」『豊田武著作集』第1巻による中世の織業-西陣の源流を求めて-

奈良時代の宮廷で必要な高級織物は、多く大蔵省に属する織部司所属の工場でつくられた。平安時代におけるその役所の場所は、大宮の東、土御門の北に、東西40丈、南北20丈の地域をもったという(『大内裏図考証』)。またおそらくその役所の管理下で実際の作業をおこなっていた織部町と織手町は、その南方の正親町の南、大宮の東に移り住んだと言われるため、平安時代の織物に関わった高級技術者達は、現在の大宮中立売あたりを本拠としていたことになる。
 しかしこの時代になると、一部の貴族に権力が集中することにより、中央政府の政治機構の縮小と分解がすすみ、内蔵寮や内匠寮にも製織を専門に行う手工業者がみられ、また特定の貴族に付属する工人も姿を現すようになる。
 有名な保延7年(1141)の記録によれば、織部町(大宮中立売あたり)で町の長者を打った2人の綾織は、院の織部と女御殿の織部だったという。また関白頼通の女房宅にも織部がいたという。その結果、織部司はいよいよ衰退し、役所としては、その職務は内蔵寮付属の御服所に移っていったと言われる。
 なお、寿永3年(1184)の後鳥羽天皇の大嘗会に呼ばれた綾の名匠として、佐伯為光と佐伯為盛、羅の妙手として藤井依貞の名前が出ている。
 ゆえ、この段階において、京都の機業を担っていたのは、織部司に代わってその役割を果たした内蔵寮の御服所付属の工人と、宮廷の役所から独立して、様々な貴族に付属した工人達になっていたと言える。

 鎌倉時代に入り、京都の機業は次第に活気を帯びてくる。
 貞永元年(1232)、皇女の降誕にあたって、織手為宗の名前が出てくる。その中にあって、宮廷の役所として織部司に代わって力をもった内蔵寮の寮頭をつとめていたのが山科教賢だった。山科家は、その後も代々その役を担い、貞和2年(1346)の山科教言以来、世襲となったため、内蔵寮の織手は、山科家の支配下に属することになる。
 しかし内蔵寮の寮頭だった山科教言は、その邸内に御服所を設けていたわけではなく、支配下の織手は、各々自宅に機を構えて製作していたようで、応永13年(1406)には織手のリーダーだった定禅やその部下の織手の妙禅や宗心などの名前が出ている。
 また寛正5年(1465)の記録によれば、織人として、(北櫛笥)の新左衛門次郎衛門「中」、「かにつら」の次郎左衛門、(大内)の山わきなどが見え、寛正4年には井上与三郎、文明13年(1481)には井上新左衛門、中(綾小路室町)、ふかみ(四条坊門町尻西)、つかたに(五条坊門西洞院東)、このこうへ(五条坊門町尻東)とあって、とくにこの4人は、応仁の乱以前は10余人いたが、応仁の乱で堺へ下り、戻ってきたとされている。
 さらに井上家はその後も内蔵寮(山科家)に属し、大永15年(1535)の山科家文書にもみえるため、織手の中でも代表する人物だったと言える。
 なお、元亀元年から2年(1570~71)を中心とするには、遠山・小川・小島・井関・和久田・中西・階取・久松の名前が見え、その多くが内蔵寮の織手を兼ねていたとされるため、鎌倉時代から続く伝統が、信長の時代になっても生きており、その中でも遠山は、内蔵寮に属する数人の織手を率いた「司」で、本拠は大宮とひょうたんの辻子の2箇所としていたそうで(ひょうたんの辻子は白雲之新在家付近=現在の今出川新町東あたり)、とくに大宮については、まさに近世における西陣の源流と言える関係にあったことになる。
 
 ところで、このように鎌倉時代以来の宮廷の役所の伝統をひく内蔵寮(山科家)支配下の織手とは別に、西陣に関係して、万里小路家を本所とする大舎人(おおとねり)座あるいは大宿(おおとのい)と呼ばれる織手集団が、やはり平安時代終わりから存在していた。
 このうち大宿織手の姿は、『平家物語』に「大とのゐの綾織」として見え、その織手町が安貞元年(1227)に全焼したことが知られ(『明月記』)、永徳3年(1381)の記録には「万里小路一位申す、大宿並びに洛中の織手」とあって、万里小路家との関係がわかり、文安4年(1447)には大宿の織手が帯を直接街頭で販売したことで相論になってことがわかっている。
 これに対して大舎人座は、元来中務省に属する宮中の警護役だったが、律令体制の弛緩に伴い副業を求め、その本拠(正親町南、大宮東=現在の大宮中立売周辺)に近い織部町の関係から織手業を発展させていったという
 記録に現れるのは建武年間(1334~37)で、石清水八幡宮の神輿の錦帳が織手大舎人長谷河隼人に注文され、南北朝時代の『庭訓往来』には京都の産物として大舎人の綾が見える。その後も応永19年(1412)の記事には「嵯峨にて大舎人織手」とあり、文安6年(1449)には高野山の鎮守天野山の舞童の装束が大舎人之内大内坊西頬、右馬孫三郎経信(結紋紗以下織物士)に頼まれている。また天文13年(1544)には、帯を座を経ずに直接街頭販売しようとして問題になっている。ちなみに永正15年(1518)の『閑吟集』によれば、「孫三郎」が「おほとのえ」と出てくるため、「大舎人」と「大宿」は同じ存在として見られていたとも思われる。
 一方このような大宿織手と、先に見てきた内蔵寮の関係を見れば、嘉吉元年(1441)の記事で、内蔵寮の織手の数が不足したため、山科家が万里小路家に対して、属する大宿織手を編入したいと申し入れたが断られている。したがって、この時期までは、両者は違ったメンバーで構成されていたようである。
 しかし寛正4年(1463)の記事には千本の住人である内蔵寮の織手の井上新左衛門が「大とのへのいのうえ」と呼ばれ、文明13年(1481)の記事にみえる井上新左衛門も、内蔵寮に属する織手でありながら、万里小路殿の公事となっているため、万里小路家を本所とした大舎人座の織手達は、同時に内蔵寮の寮頭である山科家の支配下にもついたということになりそうである。その関係は、おそらく後者が天皇家に付属するという特権の立場で、後者が実質的な生産者組合だったのではないだろうか。
 豊田氏は、このような中世における織手の変遷から、万里小路家を本所とする大舎人座の織手たちは、平安時代の織部司の系譜を源流にもちながら、とくに鎌倉時代初期から大宿と呼ばれて発展し、15世紀後半には山科家の支配する内蔵寮の織手も兼ねたとする。

 ところで西陣とこの大舎人座との関係であるが、応仁の乱で堺へ下った織手たちの戻ってきた場所が、「大宮の織手小島」「西陣小島」「織手大宮司とへうたんの通子司」と見える以外にも、井関が聖天図子に住んでいたことが知られ、西陣跡の大宮近くに住んだと考えられている。
 なおよく知られているように、地名としての「西陣」は、文明19年(1487)の『蔭涼軒日録』に見えるのをはじめとし、その地域は「大体堀川以西、一条以北」と言われる。
 ただし、16世紀前半から中頃の風景を描いた洛中洛外図には、大宮以西の民家は描かれておらず、もしこの図に従えば、その範囲は堀川以西で大宮以東だったことになる。

 さて、応仁の乱後に戻ってきた西陣において、織手の座が成立したのは、永正3年(1506)の史料にみえる明応9年(1500)の事件が最古と言われる。先に述べたように、彼らは万里小路家を本所としていたため、年に1度課役を納めていたようだが、記録によれば、その関係は永禄元年(1558)まで続いていたことが知られ、さらに文亀元年(1501)や天文6年(1537)に幕府の介入がみられ、天文16年(1547)には将軍家内室の被官人にもなっており、白雲(「山城名跡志」によれば、新町今出川上がる元新在家町の辺の南北2町東西1町と言われ、同志社大学新町キャンパスの東の三時知恩寺の南か?)を本拠とした練貫座との16世紀初めころからの対立に勝つためにも様々な活動をおこなっていたことがわかる。

 座衆の人数は、天文17年(1548)には31名に定められ、織手司は遠山能次で、中西・小島・井関は、内蔵寮の織物司としての勅許をもらった6人衆の中の3家だったという。
 練貫座との争いに勝ち、繁栄を遂げた大舎人座が、史料から見えなくなるのは元亀2年(1571)で、その背景は秀吉の楽座政策によると言われる。しかし大舎人座31人は、その後裔を核として、早くも延宝9年(1681)に「西陣織屋中」の集団を組織し、その後の西陣の繁栄の基礎を築くのであった。

2006年9月14日 (木)

都市について(何度目かの個人的な体験)

小島道裕さんが2005年に『戦国・織豊期の都市と地域』という書を出されているが
その中で、とてもわかりやすい都市の説明をしており、参考になる
小島さんは「都市をなんらかの機能が集中した地点、すなわち中心地としてとらえている」
それは本来は地理学の概念で、小林健太郎さんはそれを応用して、城下町形成過程の問題を考えているという
非常に的確に表現された文章が並ぶので、できるだけそのまま引用したい
「その機能とは決して一様ではなく、経済的なもののみならず、政治、宗教など様々なものがある。従って、地域の中で他とは異なる機能を持つ場所、「しるし付きの」集落、という以上の定義はおそらく困難であり、「都市的な場」という言い方がよく言われるのも、このためである」

曰く
「近世史の中井信彦は、遊びの日常化というユニークなとらえ方をしている」
「石井進は、都市を「ごく常識的に」と断った上で」「(1)人口の集積地で、(2)しかもいわゆる第2次、第3次産業、すなわち商工業や交通・運輸・金融業、そして「公務」等々に従事する人々が優越し、(3)広域的なコミュニケーションや交通のネットワークの中枢となっている集落」とした
「桜井英治は 歴史的景観復原に基づく分析を旨とする歴史地理の立場にも近い試みで、石井の定義を基本的に肯定しつつ、そこが中心地であることを最も重要なもの」とした
「集落自体に中心地機能が無い場合、人口が多く、商人が集住していても、それは「商村」で、都市として認識すべきは、彼らが出かけていって商いをおこなう、交易の場という中心機能をもった市場の方で」
「自治などの住民組織や領主との関係には、都市と農村の差を見いだすのは困難」


さすがに、実に奥が深く、しかも本質を突いた説明だと思う
「多彩な要素の集合体」「(地域における相対的な)中心機能」
これまでなんども言ってきたように、鋤柄のスタンスときわめて近いものだと思う
ゆえ鋤柄的な都市の見方もまたこの見方と同じ波長である
さらに、それを具体的に説明する方法のひとつとして
ソフトを使うことではなく、考え方としてのGISに注目していることも何度も書いてきたとおりである

それからこれも何度も言ってきたことだが、歴史的景観復原とはジオラマをつくるためのものではなく
臨場感のある歴史叙述をするための不可欠な研究で
そのベースになっているのが歴史地理的な考え方なのであると

あとがきによれば、小島さんは大学時代、歴史地理の見方と考え方に大きな影響を受けたというが
上手く表現できないが、歴史地理的な見方というのは、ある意味で
石井進さんが鎌倉や一乗谷などの風景にこだわったのも、まさにこの歴史家がもっている、とくにマクロ的な視野でミクロ的な臨場感ある叙述をおこなう時に、自然に生み出される根源的な感性ではないかと思う

服部英雄さんの著作に『歴史を読み解く』があるが、現代の風景の中から歴史の証人の痕跡を探し出し、それを史料におきかえて叙述を組み立てる
同じ現場のセンスだと思う

どうも、「都市」だけの問題では無いのだが、大きくふたつの見方があって
ひとつは、対象を分解・分類していくことでその対象の表現を求めるもの
もうひとつは対象に関わった様々な存在との関係でその対象の表現を求めるもの
後者の見方のひとつが、まさに「百姓は農業に携わっていただけではない」につながる

このふたつの見方は常にどこにでもあるもので、どちらかが正しいという問題ではなく
見方が違うということにすぎないのだが

先日、ひとまず書き上げた原稿を読み返しながら
鋤柄の場合は、小島さんや石井先生と同じ見方で都市を見ていると
あらためて思った

2006年9月13日 (水)

西園寺公経

あくまで個人的な感想ではあるが、歴史を学んでいて一番面白いと感じる時は
「つながった」と思った時かもしれない
物理法則や自然科学の理論では絶対におさまらない人間社会と文化というカオス
そのごった煮のような情報の中で、手探りで因果関係をさがして右往左往する
先学の本を読んで、資料にあたって、現地を訪れて
時には滅入りそうになりながら、そんな日を何日も過ごして
頭の中にいろいろな情報が染み込んでいって、それぞれがシナプスを意識したと感じ始めた時
突然「つながった」と思う瞬間を迎える時がある

1957年に刊行された『鎌倉時代』という大著がある
龍粛という大正から昭和に生きた歴史家の著作である
その中に西園寺家の興隆とその財力という章がある
中江兆民らと「東洋自由新聞」を発行し
政友会総裁をつとめ、2次にわたり内閣を組織し、明治から昭和の時代に大きな足跡を残した
あの西園寺公望の家である

西園寺氏は九条右大臣藤原師輔の第10子の公季(きみすえ)より出る
公季の兄は兼家で、その兼家の子が道長なので
公季の家系は、藤原家本流の脇で、大納言を最高官位とするにとどまったと言う
四世の孫公實(きみざね)に實行(さねゆき)・通季(みちすえ)・實能(さねよし)の3子がおり、それぞれが三条・大宮・徳大寺を称し、ちなみに元老西園寺公望は徳大寺公純の子になる
このうち次子の通季が父の意思で家を継ぐことになり
京の鎌倉で最も有名な人物の1人となった西園寺公経は、内大臣まで進んだ通季の孫の實宗の子になってくる

鎌倉時代研究にとっての西園寺は、公経が関東申次の役をもったことで
九条兼実と共に不可欠な存在ではあるが
一般には、九条兼実よりは知られてあらず、網野善彦さんが、瀬戸内海流通に関係してその存在に注意を促してはいるが、あの金閣寺が元は西園寺公経の建てた寺屋敷だったということもほとんど知られていない

しかし、西園寺公経の北山殿または西園寺はとてつもないものだったようだ
元は神祇伯仲資王(仲資王(保元2年(1157)~貞応元年(1222))は、神祇官の長官である神祇伯を世襲した、花山天皇皇子清仁親王の子延信(のぶざね)王に始まる伯家の白川家当主)の所有地で、極めて辺鄙なところだったが、西園寺公経が夢で源氏中将の病を養った遺跡とみて、思いを募らせ、尾張にあった自分の松枝荘と交換して整備したという
山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した西園寺を本堂とし、多くの殿堂と豪壮な別荘を建て、人境外の仙園と喧伝されたという
『増鏡』によれば
元仁元年(1224)12月2日に北白川院(持明院基家の娘陳子)と安嘉門院(陳子の娘)を迎え、盛大な落慶の宴がおこなわれた
公経は、北の寝殿を住居とし、周囲の山々に桜を植えて、「山桜、みねにも尾にも植えおかむ 見ぬ世の春を人やしのふと」とうたったという
また道長の法成寺を豪華の極地とされているが、この北山はさらに林泉の美が加わり、優るとも劣らずと評された
その後、嘉禄元年(1225)に不動堂と愛染堂が建てられ、安貞2年(1228)から貞和5年(1349)まで退転なく、寛喜元年(1229)には北隆石と呼ばれた大石が立てられ、17頭の牛で運び込まれたと言い、土御門通方は松の生えた石を提供したとされる

また公経は別に天王寺・吹田・槙の島・吉田・山崎にも山荘をつくり、
吉田の泉亭臨幸に際して赤地の錦でつくった橋を泉水に架け
山崎の圓明寺(医王寺)は紅葉の絶勝地で
吹田では近くの江口の遊女を招き、有馬の温泉から毎日200の桶で湯を運び入湯し
有馬には新たに湯屋を築いたという

この公経の贅を尽くした遊興や造作の資金がどこからきたものかというと
仁治3年(1247)7月4日に、公経が宋に派遣した唐船の入港があり、10万貫の銭貨とさまざまな舶来物があったと伝え、清盛同様の交易による財の形成があったとされている
藤原定家は公経の姉妹と結婚しているが、明月記には、福原の平禅門を超えたとの評がある

鎌倉時代の京を語る際にはもっと大きく取り上げるべきエピソードが一杯である

そしてその公経の一番大きな力は、平氏政権の没落から鎌倉の出現を迎えた時期に作り上げた人的ネットワークだった
公経の妻は一条能保の娘であるが、一条能保は源頼朝の妹婿
公経の妻の姉妹は九条兼実の嫡子良経の妻
公経と源氏の頼家・実朝は義理の従兄弟
公経と北条政子・義時は義理の叔母・叔父、北条泰時は義理の従兄弟
そしてなにより
公経の母は持明院基家の娘で、その妹が陳子(北白川院)で、持明院殿を初めて御在所にした後高倉院の妻
その後高倉院は後鳥羽の兄
したがって、公経の母方の実家は持明院殿で、後鳥羽とも北条鎌倉とも姻戚関係を持っていたということになり
さらに、後鳥羽の母方につながる親戚が五辻殿をつくった坊門信清で、鎌倉将軍実朝の妻になったのはその娘であるため、公経は坊門家とも遠い姻戚関係をもっていたことになる
先に明月記で有名な藤原定家の妻が公経の姉妹としたが、複数ある定家の邸宅のひとつは千本五辻の近くに推定されている。これも公経が支援した関わりであろう

この数週間、鎌倉時代の京都を説明するために、その昔、持明院通と呼ばれていた現在の上立売通を(バーチャルで)彷徨いながら、そこかしこに顔を見せる西園寺公経にとまどいながら翻弄されていたが、1957年の研究書に導かれながら、公経の果たした役割は何なのか、少しつながった気がした
偉大な先学から新しい学びを受けること
綿密な資料調査とダイナミックなビジョンをもった研究であれば
それがいつおこなわれたとしても、少しもあせることはないということ
これも歴史研究にとって重要なキーワードのひとつである

2006年9月12日 (火)

鳥羽離宮について考える3

もう一月以上前になるが、学生君たちと鳥羽離宮から伏見を歩いた
梅雨が終わったとたんにいきなりの酷暑が襲ってきたため、当初の予定を短縮して午後からのスタートになったが
薄曇りの天気に助けられ、足の疲れと同じだけの新しい発見を得ることができた

白河上皇の築造で有名な鳥羽離宮を現在訪れようとした時
もっとも有名なポイントが安楽寿院である
場所は近鉄&京都市営地下鉄の竹田駅から南西へ徒歩10分あたり
竹田駅の出口はできれば南口が良い
南西方向をめざしてジグザグに路地を歩き、公園を抜けるとひときわ大きな五輪塔が道の右手に見える
13世紀の銘文をもつもので、木津の五輪塔とならび関西では非常に稀な資料と言える
この五輪塔の南にみえる林が鳥羽天皇陵で、その南東におかれているのが、鳥羽上皇の建立による安楽寿院
鳥羽天皇陵から不思議な屈曲をみせる路地と冠石を記憶にとどめながら、東へ曲がり安楽寿院の南へ回り込むと、右手(南に)鳥羽より2代後の近衛天皇陵の綺麗な多宝塔が見える
安楽寿院を中心にすれば、南に近衛天皇陵で、西に鳥羽天皇陵が並んでいる
鳥羽天皇陵の南の不思議な路地の屈曲を頭の隅にとどめながら、足を南東に向ける

あまり知られていないかもしれないが
鳥羽離宮に面する鴨川の流れは現在と当時と大きく異なっていたようで
現在は鳥羽離宮の北西を流れている鴨川が当時は南東を流れていたという
名神高速道路をつくるまえの測量図と、現在の字名の地割りにその痕跡がみえると思われるが
確かなことはわからない
ただし竹田駅の西の南北の道を南へいって、城南宮の西の参道と交差するところに東高瀬川が流れており、その雰囲気を感じることはできる
現在の城南宮の南に「中島」という北東から南西に細長く続く古い街道集落がある
昔の地図には、そこがまわりより少し高くなっていて、さらにその南西側中央に「船入」という記述がある
現在もその場所を歩くと、区画整備されたまわりの風景とは全く違う
まさに中世にタイムスリップしたような雰囲気に溶け込むことができ、非常に面白い
鳥羽離宮の調査が始まった頃、そんな景観により、一時は南殿とも考えられた場所であるが
今思えば、旧鴨川によって形成された自然堤防で、あるいは史料にみえる鴨川沿いの路の跡かもしれない
現在の城南宮の参道は、あたかもこの中島の細長い集落と直行するような軸をもっている
あくまで想像ではあるが、当時の「中島」にあった旧鴨川の津を意識した関係になるのではないだろうか

旧鴨川の流路を追いかけたい気持ちをおさえながら
城南宮の参道の西のずっと先に見える鳥居を確認して、北西へむかう
鳥羽離宮の遺跡として有名な場所は、城南宮の北地区の金剛心院周辺と城南宮の西の秋の山だが、実は最も調査面積が広いのは、白河上皇陵の東を南北にはしる油小路拡幅道と、その南を東西にはしる4車線道路
なかでも後者は調査の初期におこなわれ、当時、船着場ではないかと考えられた遺構や園地が見つかり、さらにその南では鴨川旧流路跡もみつかり注目されてきた
その後、船着場との解釈は、建物の地業と変更されたが
その間の経緯はとても学問的で学ぶべき事が多かったと聞く

もとより遺物も遺構も遺跡の中で歴史資料として合理的な説明ができたときに
初めて意味を持つことになる
この業界は、停まったらそれまでと言われる所以である

閑話休題
4車線道路の北を見ると木々の間から近衛天皇陵の多宝塔の相輪が見える
その西の区画が不思議な多角形をしているが、実は発掘調査によって、この地下に中島をもつ園地が眠っていることがわかっている
したがって鳥羽上皇の墓と近衛天皇の墓は、この園地を囲む形で配置されているのである

そしてその西にあるのが北向不動院
勅願は鳥羽上皇で創建は興教大師、年は大治5年(1130)とされ、京都を守るために北向きにされ、播磨国大国庄が寺領千石を賜うという。
以前から何度か鳥羽を訪れていたが、この不動はいわゆる鳥羽離宮の歴史にあまり取り上げられることがなかったために見過ごしていたが、今回歩いてみてひとつの可能性に気づいた
これは、今書いている原稿にぜひ活かそうと思う

すっかり様変わりとなった油小路から続く大通りを渡り、白河陵を左手に見て田中殿公園に向かう
すぐ北に名神高速道路のランプがせまり、南にはホテル街がそびえる
やはりこれはなんと言ったらいいか

城南宮から国道1号線を西へ渡ると、有名なおせき餅の店がある
森先生に聞いていたので、さっそく買おうと近づいたら本日休業
残念なこと限りなし
秋の山からかつての鳥羽作道を南下しながら現淀川の堤防に上がり
かつての草津はこのあたりだろうかと、二条城の石が置かれた「鳥羽の大石」で南を見渡す
振り返ると、街道沿いに古い造り酒屋がある
ここも伏見の一角なのだろうか
そのまましっかり1号線の歩道を歩いて、また東へ向かってしっかり歩いて
伏見の街へ入る
境界線を構成する東高瀬川は、竹田で見た時と違ってすっかり立派な川になっていた

2006年9月11日 (月)

格闘の跡

当初の計画から10日も遅れてしまったが、なんとか原稿をひとつ形にすることができた。
できれば今月中にあと2本片付けておきたいとは思うが
鳥羽と宇治と

9日(土)に平安宮正親司(おおきみのつかさ)跡発掘調査現地説明会に行く
今出川から過日購入した自転車を転がす
思えばもっと早く気づいて入手しておけば良かったと西陣の風を切りながら思う
現地説明会の場所は仁和寺小学校のすぐ南
烏丸今出川から西へ向かい、大宮からここが千両ケ辻かと思いながら下がり
一条通を西へ智恵光院に突き当たるまで行って、中立売の商店街を見ながら二町ほど下がった立本寺の角を西へ曲がった仁和寺街道の先
別の言い方をすれば、北野天神さんの南南東約400m
あるいは、東京座標でhttp://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.22.66N35.1.15.814&ZM=12

比較的面積の広い平安宮の調査は稀で、今回は平安時代前期の溝や土坑や建物がみつかったと言う
よく授業で言っているが、遺跡はなんでも地下深くにあるわけではなく
とくに都市遺跡の場合は開発の多寡が遺跡の深さに比例することが多い
それで京都の場合も左京の四条あたりはとても深く、逆に右京や洛外は浅いのだが
ここもその例に従い、平安時代まで1mほど
Sany0559 しかも平安時代の次の層は近世というから
右京の開発の様子がそれだけでも推し量れることになる
好天に恵まれ、百数十人の見学者に混じって秋学期のネタを考えながら、しばし時をすごす

帰り道で、淳和院にちなむ寺院をみかけPhoto_16 、写真を撮り
西陣と言えば、高橋康夫さんの『京都中世都市史研究』1983に「西陣の成立」があるが
そうそう安居院(あぐい)も調べないといけないと思い
網野先生か細川先生かと思いながら
マップづくりに思いを馳せる

ところで最近携帯による無料のPCサイトビュアーが頑張っている
共にパケット定額でないと大変だが
http://ax-m.jp/http://lupo.jp/で提供されている
近鉄電車の中で、PCを開かなくても国会図書館や京都府立図書館や奈良県立図書情報館や奈良大学図書館の図書検索ができ、wikiで調べ物ができるのがありがたい
ずっと携帯による歴史遺産活用を模索してきたが
これでgooglemapが見られたらかなり期待できるマシンとなる
とくに鋤柄の携帯はディスプレイが2.6インチなので視界も遜色ない
千本丸太町へ行って説明しようと思ってどうしても臨場感の出ないことが悔しく
どこでも情報マシンの携帯活用を思ったのがきっかけだが
それもまもなくな時代だと思う
そのためにも、しっかりしたコンテンツを元に歴史を語れる人材を育てないといけない
秋学期からゆっくり勉強会を始めよう

参考までに、格闘の跡Photo_15 と参考文献リストの一部を
・小林保夫 一九八四年「淀津の形成と展開」『年報中世史研究』九
・西岡虎之助 一九七八年「荘園の倉庫より荘園の港湾への発展」『荘園史の研究』(上巻)岩波書店
・吉田敬市 一九三二年「山城盆地に於ける河川交通の変遷(1)~(4)」『歴史と地理』第二九巻第三~六号
・吉田敬市 一九三三年「淀付近の地形変遷と奈良街道の移動」『歴史と地理』第三二巻第三号
・田良島哲 一九八五年「中世淀津と石清水神人」『史林』
・林正次郎 一九八三年「淀町人考」『琵琶湖・淀川・大和川』大明堂
・小野晃嗣 一九三七年「卸売市場としての淀魚市の発達(上・下)『歴史地理』第六五巻第五・六号
・豊田武 一九八二年「中世日本商業史の研究」『中世日本の商業』(豊田武著作集第2巻)吉川弘文館
・大村拓生 二〇〇六年『中世京都首都論』吉川弘文館
・田良島哲 一九八五年「中世の寺社境内と市庭-石清水八幡宮の事例から-」『史潮』
・藤本史子 一九九九年「中世八幡町の空間復原と都市構造」『年報都市史研究』七
・高橋美久二 一九九三年「「弘福寺田数帳」と木津川河床遺跡」『平安京歴史研究』
・高橋慎一朗 一九九二年「空間としての六波羅」『史学雑誌』一〇一-六
・美川圭 二〇〇二年「京・白河・鳥羽」『院政の展開と内乱』(日本の時代史七)吉川弘文館
・脇田晴子 一九八一年『日本中世都市論』東京大学出版会
・上原真人 一九九五年「京都における鎌倉時代の造瓦体制」『文化財論叢』二 奈良国立文化財研究所
・山崎信二 二〇〇〇年『中世瓦の研究』奈良国立文化財研究所。
・龍粛 一九五七年「西園寺家の興隆とその財力」『鎌倉時代』下 春秋社
・美川圭 二〇〇二年「京・白河・鳥羽」『院政の展開と内乱』(日本の時代史七)吉川弘文館
・五味文彦 一九九五年『大仏再見』講談社メチエ
・秋山國三・仲村研 一九七五年『京都「町」の研究』法政大学出版局
・五味文彦 二〇〇三年「京・鎌倉の王権」『京・鎌倉の王権』(日本の時代史八)吉川弘文館
・横山尚恵 二〇〇〇年「五辻斎院 頌子内親王」『中世探訪紀伊国南部荘と高田土居-検注を拒否した人々- : 高野山領南部荘故地における荘園遺跡の復元研究』文部省科学研究費補助金研究成果報告書
・高橋康夫 一九八三年「北辺の地域変容ー十二世紀以降ー」「鎌倉時代における北辺道路網」『京都中世都市史研究』思文閣出版
・網野善彦 一九九二年「西園寺家とその所領」『国史学』一四六
・本郷和人 二〇〇一年「西園寺氏再考」『日本歴史』六三四
・網野善彦 一九九六年「西の京と北野社」『日本中世都市の世界』筑摩書房
・細川涼一 二〇〇二年「「北野天神縁起」と鎌倉時代の北野社」『鎌倉期社会と史料論』東京堂出版
・小野晃嗣 一九八九年「北野麹座に就きて」『日本中世商業史の研究』法政大学出版局
・榊原照枝 二〇〇一年「後鳥羽院の北野信仰」『語文』一〇九にある。
・川上貢 二〇〇二年『新訂 日本中世住宅の研究』中央公論美術出版
・高橋康夫 一九九九年「日本中世の「王都」」『年報 都市史研究』七 山川出版社

2006年9月 3日 (日)

頭の中は何時代?

もうすでに終わっておきたかった原稿を引きずりながら近鉄電車に乗る
例によって一番集中できる端の座席に座って、まずは鎌倉時代の京都を振り返りながらR3の扉をひらく
これまでに書いたものを見直しながら、さてどうしようかと思いあぐねて
つい室町時代の京都のファイルも開く
鎌倉時代と室町時代を行ったり来たりしながら
後鳥羽と水無瀬について、いくつか確かめなければならないことがみつかり
追加するエピソードをについてのメモを書き込む
あぶなく伊勢中川で乗り遅れそうになりながら着いた斎宮の空はまだ夏の色を残す碧
Ca330029 スルット関西カードが使えないことに少し狼狽しながら
とても中身の濃い多気の北畠の特別展示を見て
笠置の山を思い出し、さてやはり14世紀は問題だと思う
生活文化としての北畠と景観としての平泉寺だろうか
あるいは上京体制に多気は有効だろうかと思いながら、そう言えば、室町殿についての話しは何度もしてきたが、しっかりした形で書いてはないことに驚く
爽やかな秋風と夏の名残の陽射しを受けながら、とてもユニークな斎宮跡の遺跡展示を通り、体験館の見学に後ろ髪をひかれながら斎宮駅にもどれば
もう頭の中はすっかりごっちゃごちゃ
無事に帰れるだろうか
近鉄津新町駅から歩いて10分足らずのところで、中世史の総合研究を目指す研究会がおこなわれた
今年の幹事は三重県で、テーマは三重らしく「都市をつなぐ」である
東西日本の真ん中にあって、伊勢の海に面した要港を多くもつ
『続日本紀』の文武紀=大宝2(702)年10月10日
持統が三河に御幸した時は、伊勢国多気郡の的形(まとかた)という港から三河へ渡った
東海の陶器をめぐる熊野神人の活躍や綿貫さんの論文も有名
もちろん、ここを拠点にした伊勢平氏の活躍や北条氏との関わりも興味深い
鋤柄的には、「都市」という言葉にとらわれずに、伊勢と伊豆熱海と三浦六浦で考えてみたい気がしているが
いつものことではあるが、全国各地から集まってくる埋蔵文化財や歴史に関わる様々な立場の人々の知的好奇心のパワーのすごさを思い、この分野の研究が、大学だけではなく、いやむしろそんな枠にこだわらないみんなの力で進んでいることを実感する
大学時代、森先生から、同志社の考古学は江戸時代の京・大坂の伝統を引く町人の、在野の学問と研究の系譜にあると教わってきた
今そのスタンスを継承しながら
おそらく同じような思いの中で、この研究会を立ち上げてリードされてきた三人の偉大な先学に思いをはせる

偶然Hさんと帰りが一緒になる
お互いに石和を思い出しながら顔を見合わせて苦笑
昔話をしながら数週間後の再会を約して東と西に別れる

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