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2006年9月24日 (日)

五合桝と一升桝

稲村ヶ崎の駅で降りると、もうすでに20人ほどのメンバーが集まっていた
知った顔と知らない顔が混じる中、挨拶もそこそこに出発
テレビのニュースで良く見る稲村ヶ崎の海岸のサーファーたちの実物に感動しながら
ああ、サザンだ、中村雅俊の「俺たちの旅」だと思いながら
江ノ電沿いに極楽寺へ向かう
Sany0677 なるほど、左も右も山で、ここは鎌倉へ入るときの一番の難所なわけだと
あらためて実感しながら、日蓮御袈裟懸松をすぎるとまもなく針磨橋
ここをまっすぐ行くと極楽寺だが、道を右手にとって、新田義貞が元亨3年(1333)に攻め込んだときの稲村ヶ崎の道を探る
左手に仏法寺の丘陵を見て、右手の海岸との間に立つ低い丘陵の裾をしばらく進むと、道はそこで途切れる。そこから先は何度もの地震で崩れたそうで、現在の風景はその頃から大きく代わってしまったそうだが、新田はこの道を通り、海岸沿いに鎌倉を目指したと言う。

再び針磨橋までもどり、五合桝と仏法寺跡へ向かう
仏法寺跡は、稲村ヶ崎の海岸を見下ろす丘陵頂部を少し降りたところにある平坦面で
調査により、建物と池がみつかっている
Sany0714 遺跡からは鎌倉の湾がすべて見渡せ、それこそ、和賀江島へ到着する船の数がわかると誰かが言う
鎌倉時代末期に遡る寺跡だというが、当時の寺が宗教活動以外にもさまざまなことをおこなっていたことを実感させる場所だ
五合桝はいわゆるまわりを土塁で囲んだ枡形郭のことで、こちらも鎌倉時代末期に遡り
急に落ちる斜面の下には成就院の屋根が見え、ひらかれた北西の先に長谷の大仏が見える
Sany0704 こちらはもちろん、極楽寺坂をおさえる場所となる

山を降り、南北朝期の作とされる導地蔵の角を曲がり、忍性の墓のある極楽寺に参詣したあと一升桝をめざす
山を降り、南北朝期の作とされる導地蔵の角を曲がり、忍性の墓のある極楽寺に参詣したあと一升桝をめざす
極楽寺を左手後方にみて、東に馬場谷、西に月影谷を見下ろす丘陵の狭い稜線を一段登ると、突然みごとな郭がひろがる
丘陵の中位形成された緩斜面をうまく造成して方形に築いたもので
東に稜線沿いの道をもち、南と西は急な角度で下降する
京田辺キャンパスの新宗谷館と同じイメージだ
南の尾根の先には尾根を断ち割る掘り割りもあった
これも鎌倉時代後半に遡るというからすごいが、これはまさに笠置と同じイメージだ

これまでこういった風景は15世紀に入った頃以後とされてきたが
去年の笠置山の調査で考えていた14世紀代の寺院に関わる城塞施設のイメージがここで姿を現した気がした

いやはややはり鎌倉はすごい
それにしても、鎌倉で携帯の電波が入らないところがあったり、GPSの必要性を感じるとは思わなかった
勉強しなければならないことは、まだまだたくさんある

ということで、さんざん歩いて疲れたので
最後に、今度は別の五合桝と一升桝へ行く
という、お約束の落ちで
おあとがよろしいようで

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