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2006年9月12日 (火)

鳥羽離宮について考える3

もう一月以上前になるが、学生君たちと鳥羽離宮から伏見を歩いた
梅雨が終わったとたんにいきなりの酷暑が襲ってきたため、当初の予定を短縮して午後からのスタートになったが
薄曇りの天気に助けられ、足の疲れと同じだけの新しい発見を得ることができた

白河上皇の築造で有名な鳥羽離宮を現在訪れようとした時
もっとも有名なポイントが安楽寿院である
場所は近鉄&京都市営地下鉄の竹田駅から南西へ徒歩10分あたり
竹田駅の出口はできれば南口が良い
南西方向をめざしてジグザグに路地を歩き、公園を抜けるとひときわ大きな五輪塔が道の右手に見える
13世紀の銘文をもつもので、木津の五輪塔とならび関西では非常に稀な資料と言える
この五輪塔の南にみえる林が鳥羽天皇陵で、その南東におかれているのが、鳥羽上皇の建立による安楽寿院
鳥羽天皇陵から不思議な屈曲をみせる路地と冠石を記憶にとどめながら、東へ曲がり安楽寿院の南へ回り込むと、右手(南に)鳥羽より2代後の近衛天皇陵の綺麗な多宝塔が見える
安楽寿院を中心にすれば、南に近衛天皇陵で、西に鳥羽天皇陵が並んでいる
鳥羽天皇陵の南の不思議な路地の屈曲を頭の隅にとどめながら、足を南東に向ける

あまり知られていないかもしれないが
鳥羽離宮に面する鴨川の流れは現在と当時と大きく異なっていたようで
現在は鳥羽離宮の北西を流れている鴨川が当時は南東を流れていたという
名神高速道路をつくるまえの測量図と、現在の字名の地割りにその痕跡がみえると思われるが
確かなことはわからない
ただし竹田駅の西の南北の道を南へいって、城南宮の西の参道と交差するところに東高瀬川が流れており、その雰囲気を感じることはできる
現在の城南宮の南に「中島」という北東から南西に細長く続く古い街道集落がある
昔の地図には、そこがまわりより少し高くなっていて、さらにその南西側中央に「船入」という記述がある
現在もその場所を歩くと、区画整備されたまわりの風景とは全く違う
まさに中世にタイムスリップしたような雰囲気に溶け込むことができ、非常に面白い
鳥羽離宮の調査が始まった頃、そんな景観により、一時は南殿とも考えられた場所であるが
今思えば、旧鴨川によって形成された自然堤防で、あるいは史料にみえる鴨川沿いの路の跡かもしれない
現在の城南宮の参道は、あたかもこの中島の細長い集落と直行するような軸をもっている
あくまで想像ではあるが、当時の「中島」にあった旧鴨川の津を意識した関係になるのではないだろうか

旧鴨川の流路を追いかけたい気持ちをおさえながら
城南宮の参道の西のずっと先に見える鳥居を確認して、北西へむかう
鳥羽離宮の遺跡として有名な場所は、城南宮の北地区の金剛心院周辺と城南宮の西の秋の山だが、実は最も調査面積が広いのは、白河上皇陵の東を南北にはしる油小路拡幅道と、その南を東西にはしる4車線道路
なかでも後者は調査の初期におこなわれ、当時、船着場ではないかと考えられた遺構や園地が見つかり、さらにその南では鴨川旧流路跡もみつかり注目されてきた
その後、船着場との解釈は、建物の地業と変更されたが
その間の経緯はとても学問的で学ぶべき事が多かったと聞く

もとより遺物も遺構も遺跡の中で歴史資料として合理的な説明ができたときに
初めて意味を持つことになる
この業界は、停まったらそれまでと言われる所以である

閑話休題
4車線道路の北を見ると木々の間から近衛天皇陵の多宝塔の相輪が見える
その西の区画が不思議な多角形をしているが、実は発掘調査によって、この地下に中島をもつ園地が眠っていることがわかっている
したがって鳥羽上皇の墓と近衛天皇の墓は、この園地を囲む形で配置されているのである

そしてその西にあるのが北向不動院
勅願は鳥羽上皇で創建は興教大師、年は大治5年(1130)とされ、京都を守るために北向きにされ、播磨国大国庄が寺領千石を賜うという。
以前から何度か鳥羽を訪れていたが、この不動はいわゆる鳥羽離宮の歴史にあまり取り上げられることがなかったために見過ごしていたが、今回歩いてみてひとつの可能性に気づいた
これは、今書いている原稿にぜひ活かそうと思う

すっかり様変わりとなった油小路から続く大通りを渡り、白河陵を左手に見て田中殿公園に向かう
すぐ北に名神高速道路のランプがせまり、南にはホテル街がそびえる
やはりこれはなんと言ったらいいか

城南宮から国道1号線を西へ渡ると、有名なおせき餅の店がある
森先生に聞いていたので、さっそく買おうと近づいたら本日休業
残念なこと限りなし
秋の山からかつての鳥羽作道を南下しながら現淀川の堤防に上がり
かつての草津はこのあたりだろうかと、二条城の石が置かれた「鳥羽の大石」で南を見渡す
振り返ると、街道沿いに古い造り酒屋がある
ここも伏見の一角なのだろうか
そのまましっかり1号線の歩道を歩いて、また東へ向かってしっかり歩いて
伏見の街へ入る
境界線を構成する東高瀬川は、竹田で見た時と違ってすっかり立派な川になっていた

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