« 西陣マップの製作ミーティング | トップページ | 五合桝と一升桝 »

2006年9月23日 (土)

極楽寺へ

中央史学の12号に、饗場実さんの「近世後期幕藩関係の一考察ー「問答集」の数量的考察にみる幕藩間「問答」の実態ー」という論文がある。まったく別の論文を探していて、偶然であった。同志社には文学部書庫にしかなく、ほかを探したら奈良大学の図書館にあったので、借りて読んでみた。今も昔も行政世界では、中央官庁と出先との関係が、様々な形の情報と人間関係によって形作られていて、10年以上行政の末端にいた者として、非常に身近に感じることにできるテーマに関わるものだった。情報をキーワードにした人間関係から社会構造への考察の一例として、いずれ授業で紹介したいと思う。

笠置寺のことを半分頭に残しながら、鎌倉の極楽寺へ向かう
鎌倉の極楽寺と言えば、馬淵さんの有名な本で西大寺流律宗教団の拠点としての知識しかなかったが
哀しいかな、それはあまりにも薄っぺらな知識にすぎなかった
じつは、笠置にも関係する非常にダイナミックな歴史の現場だということを遅まきながら知った
京都から鎌倉へ入る時の最重要拠点で、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻撃に際して、臨んだ極楽寺坂の切通しは、さながら数万の兵が待ち受けた巨大な要塞だったという
稲村ヶ崎の海岸沿いのルートをおさえるように仏法寺がおかれ
極楽寺坂のルートをおさえるように五合桝、一升桝と呼ばれる郭がおかれたらしい
時は、まさに笠置の時代である
実は、城塞関係の遺跡が明確なのは、森浩一先生がよく言われるように、弥生時代の高地性遺跡の時代と戦国時代の山城の時代で、それ以外の時代のその種の遺跡はよくわかっていない
(ただし、この数年、平安時代終わり頃の青森を中心とした地域の城塞的な集落については注目が高まってきた)

その意味で、後醍醐の時代の鎌倉と笠置は
日本列島の歴史の大転換期と言われる南北朝期の様子を明らかにする大きな手がかりになる
12時半に稲村ヶ崎に集合の予定
足跡は後日GPSログで公開します

« 西陣マップの製作ミーティング | トップページ | 五合桝と一升桝 »

遺跡の見方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 西陣マップの製作ミーティング | トップページ | 五合桝と一升桝 »