« 何度目かの鳥羽 | トップページ | 森浩一の大切なもの展 »

2006年9月30日 (土)

五輪塔と上京について少し

岩波日本史辞典などによれば、平安後期頃から死者への供養塔や墓塔、舎利容器などとして作られた日本独自の塔とのこと。
特徴的な形で、宝珠形の「空」、半球形(請花)の「風」、三角形(笠)の「火」、球形(塔身)の「水」、方形(基礎)の「地」が上から順番にならぶ。
この五つは、密教の教えで世界を構成する五大元素とされ、またその形は大日如来を象徴するとされる。
在銘が最古の現存の塔は、岩手県平泉の中尊寺釈尊院にある仁安4年(1169)銘の石造五輪塔。
一番多い素材は石であるが、水晶や金属製もある。また五輪のデザインは立体以外に平面で表現されたものもある。俊乗坊重源が好んだ三角五輪も有名。
基本的にはそれぞれを別個体でつくるが、空風は一緒のものが多い
形の特徴としては、請花は浅鉢形や半球形が古く、深鉢形で側面の張り出したものが新しいと言われる
宝珠は重心の低いものが古く、新しいものが高いと言われる
各部の四面に四門(東方は発心門 南方は修行門 西方は菩提門 北方は涅槃門)の梵字を刻むのを理想としたようだが、多くは東方のみの「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」を刻む
なお、四門を刻んだものは熊本県玉名郡玉東町西安寺跡の正嘉元年(1257)のもの
元来は密教との関係が強かったとされるが、鎌倉時代以降宗派を越えて大流行した

以下、
川勝政太郎『日本石造美術辞典』東京堂出版1978.8

竹村俊則解説・加登藤信撮影の『京の石造美術めぐり』京都新聞社1990.5
から上京と五輪塔の散策を少し

Sany0590 解脱上人五輪塔
建保元年(1213)に没
切石の高さ40センチの八角形基壇の中央に安置
地輪は背が低く、水輪は少し角張る。火輪の背も高くなく、風・空輪もおおらかな曲線をみせる。各部分ともに鎌倉様式完成直前の様式
四方に「キア・カ・ラ・バ・ア」の五輪塔種子を薬研彫し、全体にどっしりした見事な五輪塔である

西法寺五輪板卒塔婆
上京区大宮鞍馬口一筋目下がる東入る、新ン町(しんちょう)
寺伝によれば、文禄2年(1592)に応仁の乱で焼けた安居院(あぐい)を復興しようとして建てたもの
享保15年(1730)の西陣焼けと天明8年(1788)の大火で被害にあう
安居院(あぐい)は、元現前之町(西法寺の南約200m)にあったものだが、起源は平安時代に遡る延暦寺東塔竹林院の里坊
安居院流唱導の名人とされた聖覚(しょうかく)(信西の子の澄賢(ちょうけん)の子)が文暦2年(1235)に安居院で没しており、その墓が西法寺にある大きな石塔五輪
また、大正末年に安居院の跡地で道路工事中にみつかった板状五輪は、高さ98センチの花崗岩製。表面に南無阿弥陀仏を彫り、その下に阿弥陀如来を舟形光背内に彫る。永仁2年(1294)の年号をもつ鎌倉時代の京都を知る貴重資料。
なお寺蔵の阿弥陀如来立像は室町時代で、畿内で少ない鉄仏で安居院にあったもの
鉄仏は関東が中心で、関東学の話をする時に、鋳造関係で熱田の鉄仏(たしか断夫山古墳の近くで見たような)や東京の鉄仏(元は鎌倉の新清水寺にあり、鶴岡八幡宮の井戸から見つかって中央区日本橋人形町の大観音寺にある)を調べたことがある
安居院は関東とどのような関係があったのだろうか
関東の鉄仏は多くが13世紀と聞くが、五辻大宮にあった景愛寺の無外如大が鎌倉と関係していたこともあるし、持明院大路が鎌倉時代の京都の中心で西園寺との関係が深かったことにかかわりそう
非常におもしろい

石像寺弥陀三尊石仏
上京区千本通上立売上がる東 花車町
浄土宗知恩院末で、元百万遍知恩寺に属した
一般に釘抜地蔵で有名。弘仁10年(819)の空海の開基とも言われ、俊乗坊重源が真言宗から浄土宗にあらためたと言うから、ここも鎌倉時代の歴史遺産
近世には「四十八願寺」まいりの8番目として、7月の地蔵会には諸願成就を願う市民でにぎわった
西陣焼けで類焼
3尺6寸の石造地蔵菩薩の由来は、寺伝によれば、弘治年間(1555~1558)に油小路上長者の商人の紀ノ国屋道林が両手の痛みにたえかねて祈願したところ、夢に地蔵尊が出てきて、「汝は前世に人を怨み、仮の人形をつくり、両手に八寸釘を打ち込んで呪ったことがある。その罪によって苦しみを受けている。われが救ってあげよう」というと、地蔵尊の手に二本の釘がにぎられ、痛みがとれたという
地蔵堂後ろの小堂に石造阿弥陀如来座像が安置されている(重要文化財)
光背に弘仁元年(1224)12月2日 略 伊勢権守佐伯朝臣為家の銘がある
佐伯為家は治承2年(1178)に従5位下になっている以外不明
なお、和束町の宝篋印塔の願主も佐伯だった
これも鎌倉時代

般舟院陵石仏
般舟院は、伏見の橘俊綱邸が離宮となった伏見殿に、後土御門天皇が住み、即位後、ここに二尊院の善空から菩薩大戒を受け仏閣を建立したものと
文明11年(1479)の朝廷による建立の儀式の記録がある
その西にあるのが般舟院陵で、室町時代の多くの天皇の母の墓がある
また後白河天皇第3皇女で賀茂の斎院だった式子内親王墓と伝える石仏もある
なお、この場所が藤原定家の時雨亭跡と伝えられているが、この塚は藤原定家の式子内親王への恋心が葛となって親王の墓に巻き付いたからという由来ももつ
これももちろん鎌倉時代

引接寺(いんじょうじ)十重塔(重要文化財)
千本通芦山寺上がる
千本閻魔堂とも言う。高野山金剛峯寺末。本尊は閻魔大王
梵鐘は円阿弥陀仏の勧進による康暦元年(1379)の銘
銘文による草創の定覚上人は肥後の人で、恵信僧都(源信)の弟子で比叡山で修行の後、寛仁年間(1017~1021)に創建
鎌倉時代の「野守鏡」によれば、「蓮台野の定覚上人は源信の二十五三昧をうらやみ、おこなえば、蓮華化生したので、結界して 略 蓮台野となづけて一切の人の墓所となれり」と創建の由来を記す
文永10年(1273)に明善律師が再興
室町時代には春の大念仏狂言と盂蘭盆会の精霊迎えでにぎわい、延徳2年(1490)には春竜太夫による猿楽座の勧進能がおこなわれる
京都の三大念仏狂言
またこの寺の念仏会は桜と深く関わっており、名木の普賢象桜は後小松天皇が北山山荘行幸の際に分け与えたとも、鎌倉の普賢堂からとも言われる
ここも鎌倉時代の遡る歴史遺産
境内の西北隅に二重の宝塔と十三重塔の一部を組み合わせた花崗岩製の塔がある。至徳3年(1386)の銘文があり、古来紫式部供養塔とも呼ばれ、かつては紫野白毫院にあったとも言われる

東向観音寺五輪塔
御前通今小路上がる 北野天満宮の二の鳥居の西にあたる
もと北野神社の神宮寺だったが無人如導が再興し律寺となり、その後真言宗になったという
本堂の南に高さ2mほどの五輪塔がある。もとは北野社の3の鳥居の脇にあり、菅原道真の母の伴氏の墓とも言われるが不明
空輪、風輪が火輪に較べて大きく、水輪が細身で鎌倉時代の作風を示すと言われる

Sany0406 安楽寿院五輪塔
鳥羽天皇が法皇になった時に冠を埋めた「冠石」の北にある
「如法経塚」とも言い、鳥羽上皇が如法経を埋めたとも
もとは境内の北西のかつての本堂の前にあった
高さ3m、
「地輪はあまり高くなく、水輪はやや壺形だが、豊かな曲線で、火輪は軒が厚く、両側へ力強く反る」と表現されている
弘安10年(1287)と阿弥陀信仰の銘文がある

Sany0445 石清水八幡宮五輪塔
石清水八幡宮の放生池のすぐ東にある
高さは約6m、最大規模と言われる
基礎に幅の広い単弁の反花座をもうける。「水輪は下すぼまらず、火輪は軒が両端に向かって反っており、鎌倉中期の作」とされている
伝説では平安時代終わりの尼崎の富豪が宋との貿易で遭難しそうになった時に石清水に祈って助かったことを記す
海上交通と石清水との関係を示すものとして重要な伝説である

Sany0475 岩船寺五輪塔
高さ2.35m、基礎に複弁の反花座をもつが、これは大和の特徴という
火輪の軒が厚く、端は強く反る。水輪は少し壺形でふくらむ
鎌倉時代後期の代表作といわれる
中興開山の平智僧都の墓と伝えられている

過日書き上げた原稿に少し追加がありそう
西陣マップのコンテンツに追加しよう

« 何度目かの鳥羽 | トップページ | 森浩一の大切なもの展 »

上京」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 何度目かの鳥羽 | トップページ | 森浩一の大切なもの展 »