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2006年9月25日 (月)

極楽寺について考える-城塞化する寺院か-

個人的には、この数年で一番ホットなシンポジウムだった。
会場となった鎌倉女学院の4階ホールは一杯で、前日に一緒に歩いた学生さんもたくさん参加
歴史情報の総合化による臨場感のある歴史研究のめざす姿のひとつがここにあったと思う

JR鎌倉駅から江ノ電に乗り換えると、最初の駅が和田塚で、ふたつめが由比ヶ浜、三つ目が長谷で四つ目の駅が極楽寺である。
これまで鋤柄的な鎌倉と言えば、鶴岡八幡宮と若宮大路から六浦へ向かう永福寺への道と建長寺・東慶寺・円覚寺のおかれる北鎌倉がなじみの場所で、長谷についてもつい数ヶ月前に行ったのがほぼ初めて(小学校に家族旅行で行ったことがあるが)だったため、おろかにもそれで鎌倉の風景は語れるものと思っていた。
ところがどっこい極楽寺である

五味文彦さんの基調報告-極楽坂は信仰の山、深沢は13世紀後半にはじまる新興開発の代表、極楽坂は境界の地、極楽寺は京風文化の地-
松尾宣方さんの「一升桝」「五合升」の調査-13世紀終わりにさかのぼる郭遺構-
玉林美男さんの極楽寺地区の寺院と交通路-極楽寺坂は別のルートか-
斎木秀雄さんの極楽寺地区の発掘調査-針磨橋から南は由比ヶ浜と同じ?-
原廣志さんの極楽寺地区出土の瓦とその変遷-注目すべき和泉系瓦の出土-
大塚紀弘さんの空間から見た極楽寺-極楽寺の空間構成要素を整理すると-
の発表と、市民をふくめた意見交換がおこなわれた

きわめてすぐれた資料集を借りて、まずは歴史情報の年表的な整理を

承久元年(1219)北条泰時が「普明山法立寺願成就院」を創建
 成就院境内に13世紀中頃以前と推定される石製宝塔(五輪塔?)がある
寛喜2年(1230)北条重時が上洛し六波羅探題につく
宝治元年(1247)宝治合戦で三浦氏がほろび、得宗が強化。北条重時帰り、若宮大路に新造花亭を築く。
建長4年(1252)忍性が常陸国三村寺を律院として止宿
建長6年(1254)北条時頼が大庭御厨内に「聖福寺」(音無川上流)を建立
△そのころまでに?僧正永が丈六の阿弥陀如来像を安置した「極楽寺」がどこかにあった
△正嘉2年(1258)僧正永が「極楽寺」未完成のまま没す
△正元元年(1259)北条重時が忍性を招き、これを移して「極楽寺」を創建
弘長元年(1261)忍性が鎌倉へ移り、釈迦堂・多宝寺
弘長元年頃(1261)北条重時が出家し、「山荘」に丈六阿弥陀如来を安置。宗尊将軍が「極楽寺亭」「極楽寺新造山庄」へいく。重時没。「山荘」が寺院として整備され、住持として浄土宗西山派の修観房(宗観房)が招かれる。
弘長3年(1263)極楽寺で北条重時の3回忌が、修観房によっておこなわれる。修観房は証空の門弟の証恵の門弟で、後嵯峨天皇の帰依を受ける。後嵯峨院の実現に六波羅探題にいた北条重時が支援。(ちなみに一遍の父はこの西山派)
文永4年(1267)北条重時の息子の長時と業時が忍性を招き極楽寺を整備
 江ノ電車両研修施設用地の調査で、13世紀後半から14世紀前半の建物がみつかる
 五合桝の遺跡で13世紀末の遺物がみつかる
 一升桝の遺跡で13世紀末の遺物がみつかる。15世紀以降の遺物は見つかっていない
弘安6年(1283)忍性が飢饉で門前にあつまった人々を救済
永仁6年(1298)忍性が坂下に馬病屋を設置
元弘3年(1333)元弘の乱で成就院が蹂躙され西ヶ谷(実際は馬場ヶ谷)に仮移転
 稲村ヶ崎小学校の調査で14世紀後半から15世紀半ばの建物もみつかる
 14世紀末から五合桝は霊場化する
 針磨橋より南の集団墓地はこの時期か
永禄5年(1562)「極楽寺願成就院御同宿中」とあって成就院が極楽寺保護下にある

・極楽寺地区には、成就院・聖福寺・極楽寺があって、そのうち極楽寺は六波羅探題として西園寺や後嵯峨とも親しい京文化の代表者だった北条重時が、山荘として築いた邸内の阿弥陀如来を原型とするとなるのだろうか
・自邸内に持仏堂をおいて、それが邸宅の名前になった例としては、身近な「持明院」がある
・注目される畿内系の瓦は、大きく括れば和泉系と言えると思う。文覚がそうであったように、渡辺津を拠点とする海上交通の覇者達が、紀淡海峡を越えて東日本へのルートを確保していたことは明らかで、これらの瓦の出土は、極楽寺地区で谷地整備を始めるにあたって、重時が畿内の資材を求めた時、そこに、海上交通にもくわしい和泉の商人?がかかわって可能性を示すものだと思う
・北条重時の没後は、極楽寺は忍性を長老とした律院となり和賀江島と海岸を管理した
・針磨橋から南地区が由比ヶ浜と同じ風景だったのではないかという斎木さんの意見は示唆的
・五合桝と一升桝の成立は、北条重時没後の忍性時代にあたる
・あるいは元弘の乱で成就院が蹂躙された頃の時代か
・成就院を配下におさめた(?)後の極楽寺が、南北朝期という緊張状態の中で、鎌倉の西の玄関口として、長谷へ入る2つのルート(極楽寺坂から長谷へのルートと、馬場ヶ谷から大仏坂へつながるルート)を掌握するために、城塞的な施設(砦のような?)を必要としたためだろうか
 
鎌倉を中心とする地域では、遺跡をベースにしながら歴史情報の総合化による臨場感のある歴史研究が、文献史の研究者によって積極的(もちろん遺跡研究者も一緒になって)におこなわれている
遺跡と文献がいたるところに残っている西日本よ、もっともっと勢いを

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