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2006年9月18日 (月)

豊田武「西陣機業の源流」『豊田武著作集』第1巻による中世の織業-西陣の源流を求めて-

奈良時代の宮廷で必要な高級織物は、多く大蔵省に属する織部司所属の工場でつくられた。平安時代におけるその役所の場所は、大宮の東、土御門の北に、東西40丈、南北20丈の地域をもったという(『大内裏図考証』)。またおそらくその役所の管理下で実際の作業をおこなっていた織部町と織手町は、その南方の正親町の南、大宮の東に移り住んだと言われるため、平安時代の織物に関わった高級技術者達は、現在の大宮中立売あたりを本拠としていたことになる。
 しかしこの時代になると、一部の貴族に権力が集中することにより、中央政府の政治機構の縮小と分解がすすみ、内蔵寮や内匠寮にも製織を専門に行う手工業者がみられ、また特定の貴族に付属する工人も姿を現すようになる。
 有名な保延7年(1141)の記録によれば、織部町(大宮中立売あたり)で町の長者を打った2人の綾織は、院の織部と女御殿の織部だったという。また関白頼通の女房宅にも織部がいたという。その結果、織部司はいよいよ衰退し、役所としては、その職務は内蔵寮付属の御服所に移っていったと言われる。
 なお、寿永3年(1184)の後鳥羽天皇の大嘗会に呼ばれた綾の名匠として、佐伯為光と佐伯為盛、羅の妙手として藤井依貞の名前が出ている。
 ゆえ、この段階において、京都の機業を担っていたのは、織部司に代わってその役割を果たした内蔵寮の御服所付属の工人と、宮廷の役所から独立して、様々な貴族に付属した工人達になっていたと言える。

 鎌倉時代に入り、京都の機業は次第に活気を帯びてくる。
 貞永元年(1232)、皇女の降誕にあたって、織手為宗の名前が出てくる。その中にあって、宮廷の役所として織部司に代わって力をもった内蔵寮の寮頭をつとめていたのが山科教賢だった。山科家は、その後も代々その役を担い、貞和2年(1346)の山科教言以来、世襲となったため、内蔵寮の織手は、山科家の支配下に属することになる。
 しかし内蔵寮の寮頭だった山科教言は、その邸内に御服所を設けていたわけではなく、支配下の織手は、各々自宅に機を構えて製作していたようで、応永13年(1406)には織手のリーダーだった定禅やその部下の織手の妙禅や宗心などの名前が出ている。
 また寛正5年(1465)の記録によれば、織人として、(北櫛笥)の新左衛門次郎衛門「中」、「かにつら」の次郎左衛門、(大内)の山わきなどが見え、寛正4年には井上与三郎、文明13年(1481)には井上新左衛門、中(綾小路室町)、ふかみ(四条坊門町尻西)、つかたに(五条坊門西洞院東)、このこうへ(五条坊門町尻東)とあって、とくにこの4人は、応仁の乱以前は10余人いたが、応仁の乱で堺へ下り、戻ってきたとされている。
 さらに井上家はその後も内蔵寮(山科家)に属し、大永15年(1535)の山科家文書にもみえるため、織手の中でも代表する人物だったと言える。
 なお、元亀元年から2年(1570~71)を中心とするには、遠山・小川・小島・井関・和久田・中西・階取・久松の名前が見え、その多くが内蔵寮の織手を兼ねていたとされるため、鎌倉時代から続く伝統が、信長の時代になっても生きており、その中でも遠山は、内蔵寮に属する数人の織手を率いた「司」で、本拠は大宮とひょうたんの辻子の2箇所としていたそうで(ひょうたんの辻子は白雲之新在家付近=現在の今出川新町東あたり)、とくに大宮については、まさに近世における西陣の源流と言える関係にあったことになる。
 
 ところで、このように鎌倉時代以来の宮廷の役所の伝統をひく内蔵寮(山科家)支配下の織手とは別に、西陣に関係して、万里小路家を本所とする大舎人(おおとねり)座あるいは大宿(おおとのい)と呼ばれる織手集団が、やはり平安時代終わりから存在していた。
 このうち大宿織手の姿は、『平家物語』に「大とのゐの綾織」として見え、その織手町が安貞元年(1227)に全焼したことが知られ(『明月記』)、永徳3年(1381)の記録には「万里小路一位申す、大宿並びに洛中の織手」とあって、万里小路家との関係がわかり、文安4年(1447)には大宿の織手が帯を直接街頭で販売したことで相論になってことがわかっている。
 これに対して大舎人座は、元来中務省に属する宮中の警護役だったが、律令体制の弛緩に伴い副業を求め、その本拠(正親町南、大宮東=現在の大宮中立売周辺)に近い織部町の関係から織手業を発展させていったという
 記録に現れるのは建武年間(1334~37)で、石清水八幡宮の神輿の錦帳が織手大舎人長谷河隼人に注文され、南北朝時代の『庭訓往来』には京都の産物として大舎人の綾が見える。その後も応永19年(1412)の記事には「嵯峨にて大舎人織手」とあり、文安6年(1449)には高野山の鎮守天野山の舞童の装束が大舎人之内大内坊西頬、右馬孫三郎経信(結紋紗以下織物士)に頼まれている。また天文13年(1544)には、帯を座を経ずに直接街頭販売しようとして問題になっている。ちなみに永正15年(1518)の『閑吟集』によれば、「孫三郎」が「おほとのえ」と出てくるため、「大舎人」と「大宿」は同じ存在として見られていたとも思われる。
 一方このような大宿織手と、先に見てきた内蔵寮の関係を見れば、嘉吉元年(1441)の記事で、内蔵寮の織手の数が不足したため、山科家が万里小路家に対して、属する大宿織手を編入したいと申し入れたが断られている。したがって、この時期までは、両者は違ったメンバーで構成されていたようである。
 しかし寛正4年(1463)の記事には千本の住人である内蔵寮の織手の井上新左衛門が「大とのへのいのうえ」と呼ばれ、文明13年(1481)の記事にみえる井上新左衛門も、内蔵寮に属する織手でありながら、万里小路殿の公事となっているため、万里小路家を本所とした大舎人座の織手達は、同時に内蔵寮の寮頭である山科家の支配下にもついたということになりそうである。その関係は、おそらく後者が天皇家に付属するという特権の立場で、後者が実質的な生産者組合だったのではないだろうか。
 豊田氏は、このような中世における織手の変遷から、万里小路家を本所とする大舎人座の織手たちは、平安時代の織部司の系譜を源流にもちながら、とくに鎌倉時代初期から大宿と呼ばれて発展し、15世紀後半には山科家の支配する内蔵寮の織手も兼ねたとする。

 ところで西陣とこの大舎人座との関係であるが、応仁の乱で堺へ下った織手たちの戻ってきた場所が、「大宮の織手小島」「西陣小島」「織手大宮司とへうたんの通子司」と見える以外にも、井関が聖天図子に住んでいたことが知られ、西陣跡の大宮近くに住んだと考えられている。
 なおよく知られているように、地名としての「西陣」は、文明19年(1487)の『蔭涼軒日録』に見えるのをはじめとし、その地域は「大体堀川以西、一条以北」と言われる。
 ただし、16世紀前半から中頃の風景を描いた洛中洛外図には、大宮以西の民家は描かれておらず、もしこの図に従えば、その範囲は堀川以西で大宮以東だったことになる。

 さて、応仁の乱後に戻ってきた西陣において、織手の座が成立したのは、永正3年(1506)の史料にみえる明応9年(1500)の事件が最古と言われる。先に述べたように、彼らは万里小路家を本所としていたため、年に1度課役を納めていたようだが、記録によれば、その関係は永禄元年(1558)まで続いていたことが知られ、さらに文亀元年(1501)や天文6年(1537)に幕府の介入がみられ、天文16年(1547)には将軍家内室の被官人にもなっており、白雲(「山城名跡志」によれば、新町今出川上がる元新在家町の辺の南北2町東西1町と言われ、同志社大学新町キャンパスの東の三時知恩寺の南か?)を本拠とした練貫座との16世紀初めころからの対立に勝つためにも様々な活動をおこなっていたことがわかる。

 座衆の人数は、天文17年(1548)には31名に定められ、織手司は遠山能次で、中西・小島・井関は、内蔵寮の織物司としての勅許をもらった6人衆の中の3家だったという。
 練貫座との争いに勝ち、繁栄を遂げた大舎人座が、史料から見えなくなるのは元亀2年(1571)で、その背景は秀吉の楽座政策によると言われる。しかし大舎人座31人は、その後裔を核として、早くも延宝9年(1681)に「西陣織屋中」の集団を組織し、その後の西陣の繁栄の基礎を築くのであった。

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