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2006年10月27日 (金)

貞慶(1155~1213)

国史大辞典によれば

少納言藤原通憲(信西)の孫で、権右中弁藤原貞憲の子
応保2年(1162)8歳で興福寺に入る
永万元年(1165)11歳で得度
後に興福寺別当にもなった叔父の覚憲に指導を受け、承安2年(1172)に醍醐寺の実運から虚空蔵求聞持法の伝授を受けたのをはじめとして多くの御読経や御八講をおこない、九条兼実からも「末代有り難き顕賢」と将来を嘱望される
ただし当時の仏教界や寺院生活には批判的で、建久3年(1192)に隠棲を決意、翌年(1193)笠置寺に入る

笠置寺は東大寺末で、おそらく叔父の勝賢や覚憲の援助があったのだろう
笠置との関係は、寿永2年(1183)の弥勒石仏の斎会や建久元年(1190)11月の弥勒信仰高揚のための「竜華会願文」の作成にさかのぼる

建久6年(1195)11月に般若台を創建、11年をかけて書写した「大般若経」をおさめた六角三間の堂と僧坊など

建久7年(1196)に重源が六葉の梵鐘を寄進
建久9年(1198)に般若台の北に十三重塔を建立
元久元年(1204)に竜華会をおこない、弥勒信仰の流布につとめる

また、建久8年(1197)8月には重源がプロデュースした播磨浄土寺落慶の導師となり、建仁元年(1201)12月には元興寺玉華院の弥勒講のために『弥勒講式』をつくり、翌年には浄瑠璃寺や唐招提寺にもかかわり、元久2年には法然房源空の念仏興行停止の「興福寺奏状」をつくる
笠置を本拠としながらも、各地をまわり活発な活動をしていたようである

承元元年(1207)、53歳で恭仁京北山上の寺院を海住山寺として再興

小林義亮さんの『笠置山』によれば

建久4年(1193)入山
建久7年(1196)日本第三代の由緒をもつ「法華八講」の勧進をおこなう
建久7年(1196)笠置寺千日「舎利講」をおこなう
建久7年(1196)八条院は、貞慶の「舎利講仏供」の勧進に接し、伊勢国蘇原御厨を寄進
建久9年(1198)11月に建立された木瓦葺の十三重塔は、中央に釈迦如来像を安置し、「般若報恩塔」と名付けられ、現在の石造層塔のたつ場所にあったという
正治元年(1199)後鳥羽上皇から平式重が寄進した伊賀国阿閇(あへ)郡の「重次名田」を般若台領と
建仁3年(1203)には、笠置信仰の中心の弥勒像に接して、大治5年(1130)に焼失して草堂が建てられていた礼堂の改築を計画
元久元年(1204)『吾妻鏡』によれば、貞慶の使者が鎌倉へ赴き寄進を依頼、頼朝は砂金を提供
元久元年(1204)、本堂において「龍華会」(弥勒三会:56億7千万年後に弥勒が全ての人間を救うという信仰に基づく説法の法座)をおこなう
承元4年(1210)後鳥羽上皇が笠置へ臨幸し瑜伽論を筒に入れて埋経供養

その頃の境内地は
東が野野目河(東の山塊の東を流れる川)
西は小倉河中の仏石(おそらく打滝川)
南は阿多恵谷(柳生の北端に「あたやの地蔵」)
北は木津川

地名辞典によれば
安元2年(1176)後白河法皇が笠置へ臨幸
八条院は後白河にも重源にも関係の深いところで、舎利信仰はまさに重源の特徴
貞慶の笠置に重源の気配

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