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2006年10月

2006年10月29日 (日)

鳥羽について考える5

例によって、鳥羽離宮関係史料の集成をおこなっている

参考文献は
平凡社『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)
古代学研究所『平安京提要』
景山春樹「古代」『城南』城南宮
京都市『京都の歴史』
杉山信三『院家建築の研究』

データ項目数は1114
同じ史料をもとに違った見解があってなかでも泉殿の成立は混沌
Sikou_1 ・承徳2年(1098)4月2日:(泉殿か『京都の歴史』。田中殿か『城南』。証金剛院か『院家建築の研究』)閑院の舎屋を鳥羽殿へ移す。工事担当は丹波守高階為章。閑院御所(藤原冬嗣の邸宅)は白河院第一の近臣、六条修理大夫顕季が嘉穂2年(1095)に造営した邸宅『中右記』。この新造御所については、「泉殿」「田中殿」「証金剛院」の3つの推定がされているが、承徳2年(1098)10月20日の『中右記』に記事により、閑院御所を移したのが鳥羽殿北殿新造御所であるとされているため、「証金剛院」ではありえず、「田中殿」についても、記事の頻出は長承3年(1134)以後であるため考え難い。残りは「泉殿」であるが、その場所が後に「成菩提院」になっており、エリアとしては「東殿」にあたるため、矛盾するとされてきている。ここでは、、「東殿」の史料初出が嘉承3年(1108)であることから、この時はまだ「東殿」が存在しておらず、後の成菩提院の場所が「北殿」エリアと意識されていたのではないかと考えておく。
課題がまたひとつ

それから、卒論でまとめた土師器皿の生産地に関連して
久寿2(1155)2月6日の記事に鳥羽北殿から北大路を東へ行くと、東殿の北で鴨川の河原に出て、その先が深草の土取りだという記載がある
12世紀中頃の土師器皿の生産地を考える時の重要史料になる

・豊島区遺跡調査会2006『高松1』
・牛山佳幸2000「高野山大学図書館架蔵『善光寺如来講式』について」『市誌研究ながの』7
・牛山佳幸2006「近世における善光寺史関係の著作について」『市誌研究ながの』13
・牛山佳幸2005「室町・戦国期の新善光寺」『市誌研究ながの』12
・牛山か幸2006「モンゴル襲来前後の時期における地域社会と仏教」『佛教史研究』49
・杉原和雄2003「5世紀の旦波と倭政権下の古墳について」『古代近畿と物流の考古学』学生社
・杉原和雄1991「京都府綾部市所在の「永久2年」銘石碑について」『史跡と美術』619
・杉原和雄2004「丹後一宮・籠神社所蔵の遺物について」『考古学と文化史』

2006年10月28日 (土)

『平安京六角堂の発掘調査』を読む

シリーズ名は 平安京跡研究調査報告第2輯
発行は 財団法人 古代学協会
発行年は 昭和52年
文献の考察は佐々木英夫さんと朧谷寿さん

調査によって、六角堂の北限を示すと思われる平安時代中期に溯る溝がみつかった
また5枚の焼土層が確認され、このうち
第5焼土層は安土桃山時代末の遺物が多いので元和元年(1615)
第4焼土層は第5焼土層と近いので元和4年
第3焼土層は宝永5年(1708)
第2焼土層は天明8年(1788)
また
第5焼土層の下には焼土層が無く判然としないか
下の第6遺構面の下からレンズ状の瓦溜があるので
第6層は文安4年(1447)に建てられ、応仁の乱で焼失した層か?

現在の頂法寺六角堂の建築は、六角形平面の本堂の南面に唐破風を備えた礼堂部分をもつ構造で、それは『都名所図会』の挿図と同じ(本堂と礼拝堂)

「六角堂」について
五角形以上の多角形平面を「円堂」と呼び、八角形が一般的で、六角形は稀
法隆寺に現存する『黒漆六角厨子』
浅草寺の六角堂(元和4年(1618))
2001年9月に長野県千曲市(更埴市)八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡で出土した側面に多数の仏像を描いた「六角木幢(もくどう)」(平安時代末~鎌倉時代)
など
なお親鸞上人の廟堂は六角形(大谷御影堂)で、これは六角堂の影響か

一方八角堂は、法隆寺東院夢殿、同西円堂、五條市栄山寺八角堂、興福寺北円堂、広隆寺桂宮院本堂、安楽寺八角三重塔と多い
岡田英男さんの「八角円堂の平面と構造」『平安京歴史研究』によれば
八角形の施設は、古墳(舒明・斉明・天智・天武持統)・宮殿(前期難波宮内裏正殿両脇の建物)・高御座・宝殿・仏像の台座・八稜鏡などその種類も多い
前期難波宮の建物については、「荘厳のための楼閣的建築」「鐘台的建物」「仏殿あるいは経楼」「儒教道教にかかわるもの」などの見解
これらは大王や天皇を意味する

奈良時代の八角は法隆寺東院夢殿・栄山寺八角円堂・樫原廃寺・南法華寺・ドドコロ廃寺・飛鳥寺の八角円堂などなど
日本霊異記によれば、西大寺に八角七重塔が計画され、藤原永手が変更して地獄に堕ちたという
発掘調査によると土壇経26.7mで現在の基壇よりかなり大きい

この時期中国でも唐代の仏光寺無垢浄光塔が八角(土偏に専)塔で、その後の遼代宋代は八角形の仏塔が一般的になる
八角円堂との関係にふれたのは沢村専太郎さんが最初とされ
河南省の会善寺浄蔵禅師身塔が法華経にみえる多宝塔をあらわしたものといわれる
朝鮮半島では高句麗の清岩里廃寺が飛鳥寺伽藍の祖形として有名

平安時代の研究は田中重久さんが詳しく「日本の八角層塔、日本の円堂と印度の円堂、記録に見ゆる日本の円堂」、興福寺南円堂・法成寺・平等院・法勝寺(1076の有名な九重塔)・仁和寺(発掘で円堂基壇発見)・高野山・薬師寺・法金剛院経蔵・東福寺など多い

さて、問題は八角形の意味である
橋川正さんは補陀落山との関係
五来重さんは山城風土記から先祖をまつる意味
福永光司さんは中国で起源前二世紀から八角形の宗教哲学があったとし、全宇宙空間は八角形という道教思想の影響とし
網干善教さんは中国の政治・祭儀の儒教思想と仏教の融合としている

古墳時代は天空の神々を地上でまつる帝王の象徴とされ
寺院建築以降は法華経の多宝塔が意識されたのであろうか

さて六角堂にもどろう
さきに見てきたように、平安時代は八角円堂が大流行した時代で
それでは八角ではなくてなぜ、六角なのかはわからないが、頂法寺六角堂にも多くの有名貴族が参詣している
右大臣藤原実資(小右記)は物忌や厄日などあるいは夢見によって六角堂へ参詣している
藤原道長(御堂関白記)は法成寺があるので、まず行っていないだろう
左大臣藤原頼長(台記)はできものの病に悩まされ、継続的に参詣、また大願成就の目的のもとで定期的に参詣
関白藤原忠通も
高倉天皇の中宮の建礼門院徳子も安産を期して六角堂に如意輪観音像を造進
九条兼実(玉葉)もたびたび参詣、邸宅が隣接していた
白河法皇も百度参り

そして12世紀中頃から末にかけて太子信仰の高まりにあわせて多くの貴賤の参拝するところとなる
朧谷さんは、史料の初現が『親信卿記』天延2年(974)の「度六角小宅」で、上限は『聖徳太子伝暦』に見えないため10世紀中頃とされるゆえ、頂法寺六角堂を平安時代(10世紀後半)になって京内に建立された最初の私寺とみている

笠置寺の般若台の六角堂の建立は建久5年~6年(1194~1195)なので、ちょうど頂法寺六角堂が、太子信仰の高まりで多くの貴賤の参詣をあつめた時期にあたる
頂法寺六角堂がなぜ八角でなかったかのわけはわからないが
笠置の六角堂を建立した貞慶が頂法寺六角堂の繁栄を知らなかったはずはない

ところで頂法寺六角堂の太子信仰と結びつくのが、重源の太子信仰ではある
けれども、笠置六角堂の内陣に納められたのは、法隆寺にのこるものと同じような、六面の御厨子だったと言うから
そんな深読みは必要ないのかもしれないが

2006年10月27日 (金)

貞慶(1155~1213)

国史大辞典によれば

少納言藤原通憲(信西)の孫で、権右中弁藤原貞憲の子
応保2年(1162)8歳で興福寺に入る
永万元年(1165)11歳で得度
後に興福寺別当にもなった叔父の覚憲に指導を受け、承安2年(1172)に醍醐寺の実運から虚空蔵求聞持法の伝授を受けたのをはじめとして多くの御読経や御八講をおこない、九条兼実からも「末代有り難き顕賢」と将来を嘱望される
ただし当時の仏教界や寺院生活には批判的で、建久3年(1192)に隠棲を決意、翌年(1193)笠置寺に入る

笠置寺は東大寺末で、おそらく叔父の勝賢や覚憲の援助があったのだろう
笠置との関係は、寿永2年(1183)の弥勒石仏の斎会や建久元年(1190)11月の弥勒信仰高揚のための「竜華会願文」の作成にさかのぼる

建久6年(1195)11月に般若台を創建、11年をかけて書写した「大般若経」をおさめた六角三間の堂と僧坊など

建久7年(1196)に重源が六葉の梵鐘を寄進
建久9年(1198)に般若台の北に十三重塔を建立
元久元年(1204)に竜華会をおこない、弥勒信仰の流布につとめる

また、建久8年(1197)8月には重源がプロデュースした播磨浄土寺落慶の導師となり、建仁元年(1201)12月には元興寺玉華院の弥勒講のために『弥勒講式』をつくり、翌年には浄瑠璃寺や唐招提寺にもかかわり、元久2年には法然房源空の念仏興行停止の「興福寺奏状」をつくる
笠置を本拠としながらも、各地をまわり活発な活動をしていたようである

承元元年(1207)、53歳で恭仁京北山上の寺院を海住山寺として再興

小林義亮さんの『笠置山』によれば

建久4年(1193)入山
建久7年(1196)日本第三代の由緒をもつ「法華八講」の勧進をおこなう
建久7年(1196)笠置寺千日「舎利講」をおこなう
建久7年(1196)八条院は、貞慶の「舎利講仏供」の勧進に接し、伊勢国蘇原御厨を寄進
建久9年(1198)11月に建立された木瓦葺の十三重塔は、中央に釈迦如来像を安置し、「般若報恩塔」と名付けられ、現在の石造層塔のたつ場所にあったという
正治元年(1199)後鳥羽上皇から平式重が寄進した伊賀国阿閇(あへ)郡の「重次名田」を般若台領と
建仁3年(1203)には、笠置信仰の中心の弥勒像に接して、大治5年(1130)に焼失して草堂が建てられていた礼堂の改築を計画
元久元年(1204)『吾妻鏡』によれば、貞慶の使者が鎌倉へ赴き寄進を依頼、頼朝は砂金を提供
元久元年(1204)、本堂において「龍華会」(弥勒三会:56億7千万年後に弥勒が全ての人間を救うという信仰に基づく説法の法座)をおこなう
承元4年(1210)後鳥羽上皇が笠置へ臨幸し瑜伽論を筒に入れて埋経供養

その頃の境内地は
東が野野目河(東の山塊の東を流れる川)
西は小倉河中の仏石(おそらく打滝川)
南は阿多恵谷(柳生の北端に「あたやの地蔵」)
北は木津川

地名辞典によれば
安元2年(1176)後白河法皇が笠置へ臨幸
八条院は後白河にも重源にも関係の深いところで、舎利信仰はまさに重源の特徴
貞慶の笠置に重源の気配

2006年10月26日 (木)

栢杜遺跡(かやのもりいせき)

伏見区醍醐栢ノ森町に所在する平安時代終わりから鎌倉時代初めの寺院跡である
醍醐寺の南約1キロで、上醍醐につながる笠取山の西麓に形成された標高48~50mの段丘先端に位置する
西を見れば山科南部の低地がひろがる
昭和47年(1972)の遺跡地図には古瓦の散布地とあり、開発にあたり、昭和48年(1973)5月~6月に試掘調査がおこなわれ、その結果をうけ、昭和48年7月から昭和49年3月まで本調査がおこなわれ、八角円堂と方形堂の二つの建物が南北に並んで確認された
これらの遺構は『醍醐雑事記』や『南無阿弥陀仏作善集』に記された、源師行「大蔵卿堂」或いは俊乗房重源の「栢杜堂」と推定され、現在国の史跡となっている
また2004年には、その近接地で調査がおこなわれ、塔跡と推定される基壇遺構がみつかっている

『醍醐雑事記』によれば、久寿2年(1155)に正四位で大蔵卿の源師行が、八角形で二階建の堂舎と三重塔を建てたことが記されており(大蔵卿堂 八角二階 九躰丈六堂 三重塔一基 各檜皮葺 本佛阿彌陀丈六像 願主大藏卿正四位上源朝臣師行之建立也、敷地者三寳院領也)
平家の南都攻撃で被災した東大寺を再興した俊乗房重源の『南无阿彌陀佛作善集』には、その仕事として栢杜堂一宇と丈六阿弥陀如来像9体および金色三尺立像などを安置したとの記録がある(下醍醐栢杜堂一宇并九躰丈六 奉安置皆金色三尺立像一ゝ 上醍醐經蔵一宇 奉納唐本一切經一部)

史料にあるように、この地は醍醐寺三宝院の領であったが、三宝院は永久3年(1115)に勝覚が建立して白河院の帰依を受け発展をはじめるが、勝覚は、藤原頼通の養子として左大臣にのぼり村上源氏の最盛期を築いた源俊房(水左記の作者)の子なので、まさに村上源氏の寺
(ちなみに鳥羽離宮と桂川をはさんで西にある久我は村上源氏を出自とする)
源師行は師時(長秋記の作者)の子で俊房の孫にあたる。山城守と長門守を経て大蔵卿になり醍醐に住んでいたが、「支度第一の俊乗房」と呼ばれた重源が手本とした人物でもある(師行は重源の支援者でもあった)
(ちなみに2:杉山信三氏によれば、父の師時は鳥羽離宮の北殿の勝光明院造営の苦労を語っているので、子の師行も同様な素質があり、八角堂は彼の発案で、それもあり「支度大蔵卿」と呼ばれたのではという)
また重源は醍醐寺を本拠としていた
(ちなみに3:重源は、この醍醐寺と村上源氏の関係を背景に東大寺復興のリーダーに選ばれたとも言われる)
ゆえ、源師行がひらいた栢杜は、重源にとっても非常に深い関係のある地だったことになる
そこに八角形の建物があった

発掘で見つかった八角円堂跡は、平面形が東に付属棟をもつ柄鏡形をしており、西には小石の敷かれた庭園をもつ
八角円堂は、その外側に1辺9mの石組の雨落ち溝を輪郭とし、その内側約2mの位置で、8カ所の礎石とその抜き取り穴が配される(間隔は約5.2m)
またその内側にも対応する抜き取り穴がある
ただし、これらの柱跡と中心との距離が離れており、構造は弱かったものと考えられている。

一方方形堂は、重源が建久3年(1192)に建立した兵庫県小野市の浄土寺浄土堂と同じ規格であることから、建久6年(1195)頃の重源の「栢杜堂一宇」に推定されている
笠置の般若台に貞慶が六角堂を建てたと言われる建久5年(1194)頃と、とても近い

ちなみに4:後醍醐の側近を代表する北畠氏は、村上源氏中院(なかのいん)流で、中院通方の子雅家が北畠と称したことに始まる。また後醍醐の側近には村上源氏の土御門流が集中したとも言われる。

今回の「ちなみに」連発による謎かけの答えは11月4日に

2006年10月25日 (水)

笠置山般若台院六角堂跡発掘調査概報を読む

解脱上人貞慶は、建久5年(1194)8月に、大般若経1部600巻を納める黒漆塗りの六角経台1基をつくり、続いてそれを安置する六角堂を般若台に造営したという
ということはいわゆる経蔵になるのだろうか
記録によれば、六角堂は板葺き3間で本尊は文殊菩薩、さらに茅葺き5間の僧坊と、春日大明神を勧請した小社も近くにつくったという

昭和50年度からはじまった六角堂跡保存整備事業の一環で行われた調査は、その六角堂を解明するためのものであった
調査期間は昭和51年11月5日~12月4日
笠置寺の南約100mに位置し、標高約276mの一尾根上
般若台院の敷地は3段の平坦地から構成され、上段が鐘楼跡、中段が六角堂跡、下段が僧坊跡とされている
六角堂跡の中段と僧坊跡の下段の間に岩盤を削りだした石段が露出
3段は人工的な造成によるものと推定される
調査前の測量では上段と下段では遺跡の痕跡は見つからなかったが、中段では盛り土と下段に取りつく斜面ののりかたで、築地塀の跡と思われる列状の盛り土および、六角堂の東で別の建物跡と思われる段がみつかった。
また六角堂の盛り土の一部には礎石が露出していた
発掘開始は11月12日、最初に表土を除去していったが、近世の遺物包含層などが10~15センチの厚さであり、その下で明褐色の粘質土がみつかる(この層からは遺物はみつからない)
この面で新たな2つの礎石と8つの抜き取り穴を確認
15日に盛り土周辺の外陣の隅の礎石と堂の中心を結ぶ延長線上に礎石を発見し、縁束石と推定。合計13個の礎石と1カ所の抜き取り跡を発見
 平面の全体を調べるために測量をおこない、内陣、外陣縁のそれぞれが、8尺、17.5尺、23.5尺を1辺とする正6角形であることがわかる
20日から測量を開始、1/10の平面図を作成。堂の中心を通る東西南北と同じくやり方の直交する2本の基準線の断面図作成
30日までに測量終了
追加のトレンチを調査し4日に調査を終了

今回の調査のポイントは、六角堂が基壇をもつ土間床なのか、亀腹をもつ高床なのか。縁束石の発見は、六角堂が床張りであることを示す
断面の観察から、この盛り土が亀腹(整地するとき、建物の下だけ地山を一段高く削り残し、土をのせ、その周囲を粘土としっくいとで固める)であり、しかもノリのたちあがりが緩く、鎌倉時代初期の様式をとどめていることが判明した
六角堂の建立時期は文献で建久5年と言われているが、地業の様式と一致する
記録によれば、元弘の乱によって、笠置山は千手堂・六角堂・大湯屋以外は焼けたというが、礎石には焼けた跡が残り、とくに平らな礎石の上面には円柱状の輪郭がみえる
遺構の上に攪乱土が厚く、遺構に関係する遺物が無いのは意外だった
これは六角堂の焼け跡が瓦や灰と共に整理され、新たに土が入れられたからだろう
六角堂の基礎の平面構成は、礎石の残存状況などから単位尺を29.8センチと推定、堂の中心および礎石の間隔を決定した
堂の中心を通る真南北線を単独に求めたが、その線は階段石の中心を通る線と一致し、堂が真南北に向かって建てられていたと判明
縁束石4個は、その痕跡もわからなかった。縁束石をのぞくほかの礎石は、上面が平滑に加工され、内陣と外陣の隅の礎石には近在の打滝・布目川産および横川産の硬砂岩、チャート質の硬い石が採用
ほかは花崗岩
多くは露頭から鱗状に剥離しやすい花崗岩の断片
特殊な建物ゆえ、回転式の須弥壇をもった輪蔵とも思ったが、それを示す仕組みはわからなかった
縁束石同志を結ぶ線の外側にほりこみを見つけたが、雨落ち溝かどうか不明

六角堂は頂法寺と万福寺にあるが、きわめて稀な建築様式
今回の調査ではなぜ六角堂という形にしたかを解明する有力な資料を得ることができなかった
今後の課題

調査名:六角堂跡保存整備事業にかかる発掘調査
遺構名:笠置山般若台院六角堂跡
所在地:笠置町笠置神宮山20
調査面積:約150㎡
調査主体:笠置町
調査委員:杉山信三(近畿大学教授)
昭和52年3月

2006年10月24日 (火)

頂法寺

というより六角堂と言った方がわかりやすいかもしれない
天台宗。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音
本堂の構造が六角形になっていることで有名
縁起によれば、草創は聖徳太子に溯り、太子が四天王寺建立のために用材を求めて来た時に建立という
「元亨釈書」には、平安遷都の時に、お堂が街路にあったってしまい、5丈(15m)ほど北に移したという
(現在のへそいしが以前のお堂の中心とも)
平安時代前期は天皇との関係が強く、弘仁13年(822)に嵯峨天皇の勅願所になり、長徳4年(998)には花山天皇の行幸をうけ、西国巡礼18番札所

平安時代後期は庶民との関わりが加わる
『御堂関白記』の寛仁元年(1017)には六角小路という地名表示がみえ
『小右記』の寛仁2年(1018)には六角堂で修諷がおこなわれ、『長秋記』元永2年(1119)には六角堂が八幡・加茂・祇園・北野・吉田・清水・広隆寺・延暦寺・法勝寺と並んでみえる。この時期のメジャーな寺社がわかる
『中右記』長承元年(1132)の清水寺と六角堂へ数千万の参詣人の記事は注目

中世に入る頃には一般庶民にさらに広く信仰され、因幡堂・革堂・広隆寺とならぶ洛中の験仏所として、また六波羅蜜寺・清水寺・長楽寺・新長谷寺と共に洛陽七観音としても知られていた
さらに親鸞が比叡山から下り、真宗への道筋を決めることになった建仁元年(1201)の六角堂100日参籠にかかわり、建保6年(1218)までには比叡山末になっている

応仁の乱後は庶民信仰の場として、いわゆる「町堂」的性格が強まったとされ、天文法華の乱の集結地や町組の集会場となり、上京の革堂に対する下京の中心としてその鐘の音が多くの人々の記憶に残った

なお、華道家元として著名な池坊はこの寺の執行

2006年10月22日 (日)

文化史特論エクスカーションと西陣プロジェクトとそれから

本日は文化史特論のエクスカーション
国土交通省中部地方整備局のサイトによれば、「エクスカーションは従来の見学会や説明を受けるタイプの視察とは異なり、訪れた場所で案内人の解説に耳を傾けながら参加者も意見を交わし、地域の自然や歴史、文化など、さまざまな学術的内容で専門家の解説を聞くと共に、参加者も現地での体験や議論を行い社会資本に対する理解を深めていく「体験型の見学会」」とのこと
現地での体験や議論を行い社会資本に対する理解を深めていくというフレーズはとても意味のある内容を含んでおり、良い表現だと思う

1022 今回は、京都の歴史の中で最も知られていない鎌倉時代について考えるをテーマに、それを具体的に物語る資料をたどるツアー
メンバーは文化史特論の受講生と文化情報の学生と文学部からの合わせて10名
手がかりは石造品
石造品というのは、どちらかというとあまり目立たない資料だが、多くの場所にあって地表面に露出していながら風化しにくく失われにくいため、実は有効な資料

Sany0978 平安京の基準地点を代表する船岡山から出発して、岩盤を確認しながら建勲神社から引接寺へ
以前のブログで紹介したように主に上京区の石造品をめぐる
小野篁に関わり千本閻魔堂と呼ばれて五山の送り火の時は精霊迎えで賑わうこの寺には、迫力ある閻魔像以外に、紫式部にちなむ石塔と室町時代の銘をもつ梵鐘がある
石像寺は釘抜き地蔵で有名だが、裏の小堂に重要文化財の石仏があり、その奥には弘法大師由来の井戸が水をたたえている
千本釈迦堂で、市内で唯一残る鎌倉時代の本堂(国宝)の美しさに感動した後、藤原定Sany1008 家にちなむ般舟院陵には入れなかったが、不思議な岩上祠社の磐座を見て、大宮を上がって西法寺に着いたのは4時少し前
ここには見事な鎌倉時代の五輪塔板碑と五輪塔がある
当たり前かもしれないが、京都の歴史の中で一番わかりにくい鎌倉時代が実物で目の前にある
東へ出ればすぐに堀川通、すぐ南にあるのが古田織部にちなむ興聖寺で、堀川を南に渡れば今日庵と不審庵

やはり、京都というところは奥が深い

16時半に寒梅館の保存遺跡の説明をして解散
皆さん、新しい発見があったでしょうか

引き続いて寒梅館で西陣プロジェクトのミーティング
こちらのメンバーはリーダーの京大院のMさん、文のMさんと文化情報のNさんと臨時のアドバイザーの文のMさん
前回のミーティングをふまえてコンテンツのほぼ確定(担当者)

①妙蓮寺(M)
②雨宝院(M)
③本隆寺(M)
④おかめさん(T)
⑤岩上神社(M)
⑥智恵光院(T)
⑦引接寺(T)
⑧西法寺(T)
⑨石像寺(T)
⑩茶くれん寺(京大M)
⑪日暮通(N)
⑫清明神社(文N)
⑬和菓子(文N)
⑭千家十職(京大M)
⑮高機(京大M)
⑯織屋建て(京大M)
⑰紋屋町(京大M)
⑱つづれ織り(京大M)
⑲映画館古写真(N)
⑳千本中立売周辺街並み(N)

般舟院陵の石造品と鳴虎報恩寺のエピソードはマップ面に書き込みましょう

次回のミーティングは11月5日で原稿と写真の読み合わせをしましょう
西陣の風景を8カット(ひとつは西陣碑)とこだわりの道案内もできるだけ

それから
『それから』と言えば、夏目漱石の有名な作品をすぐに思い浮かべるが
それから、である
史料編纂所のデータベースを前にして
古記録の本文データベースにヒットした1000余の鳥羽関係項目を、史料綱文データベースでヒットした3000余の鳥羽関係項目と重複のチェックをしながら
あれやこれやと頭をめぐらす
史料綱文データベースを元に1年毎に属性を分けてチェックを入れた表を作成し
次に古記録データベースを元に横軸に1月~12月、縦軸に1日~30日の表をつくって、1087年から1232年までの毎日の記録をとりなおそうと思って途中までチェックを入れていたが、どうもあまり効率が良くないようなので
これまでつくった資料は一遍脇に置いて
結局「和年号」「西暦」「月」「日」「内容」「出典」のスプレッドシート形式のデータベースを、史料綱文と古記録と平安遺文とあわせて1184年まで作成していくことに
あっちへ行ってこっちへ行って
コンピュータが活用されるようになって、表面的にはいろいろなことが手軽に素早くスマートにできるように見えるが
それはあくまで表面上のことで大きな勘違い
それを生み出す過程は、今も昔も地味で地道なあっちへいったりこっちへいったりの試行錯誤と右往左往の経験の蓄積
それが実は一番大事で重要なこと
学生君たちには、出来上がったコンテンツだけではなく、そんな姿もしっかり見て欲しいと思う

2006年10月21日 (土)

考古学・歴史文化情報の勉強会です

文化情報学部の中で、考古学や歴史研究が担う役割の実践的な学びのために
学生君たちとの肩の凝らない勉強会を始めてみたいと思っています
20日はその初回
記念すべき最初の報告は
夏休みに宇治市で発掘調査に参加した堀出くん

遺跡の中で、生の歴史に触れ
データ取得の意味とそれを歴史叙述に転化するプロセス
さらにその成果を社会に還元するところまで
しっかり理解して、話しをしてくれました
やはり実際の経験を経るということは、とても重要なことだと
あらためて実感しました

その後、参加者各々に関心のあるテーマを聞き
とりあえずは、各自のテーマがもっと明確になるような形の報告をしあい
その中で関連する歴史遺産の見学会をするというおおまかな方針で
ということで

興味の対象の時期は6世紀から19世紀まで
コンテンツは貴族文化あり武家社会あり仏教美術あり古代建築あり地理情報あり
和歌山と愛知と山口と東京と横浜と山口と奈良と熊本と奈良と埼玉
無理せず、あわてず、そして(形而上的にも形而下的にも)しっかり地に足を着けて行きましょう

次の予定は11月1日(水)

2006年10月19日 (木)

プロジェクト科目3回目

今年の秋学期木曜の3講は、今年度から始まったプロジェクト科目をおこなっている
初回の出雲路先生による京都の歴史の基礎知識ガイダンスを経て
2回目は寒梅館から上立売を通って洛中洛外図の世界をたどりながら小川を下がり
一条戻り橋と清明神社と西陣織会館をめぐるツアー
道すがら地名や街並みの風景や石碑や寺社にちなむ話しをしながら
京都の歴史へのより具体的な関心を高める
今日の3回目は、その時の体験をふまえながら各々が探してたくさんの人に知ってもらいたいテーマを発表

テーマは大きく3つとピンの2つから検討が始まり始まり
まず最初のテーマは「和菓子」
あまり知られていないが、上京は日本で最も古い和菓子のお店が集まっている場所
その理由はもちろん御所と千家
そんな京の和菓子の原点を探るチーム(SさんとSくん)
「京羽二重」が参考になるでしょう

次のテーマは「食文化・生活文化・茶」
京文化の一番濃いところを残して今にいたる
生の京の人々の生活をしっかり記録して伝えたいとのこと
去年、上京区のボランティアひまわりのみなさんとつくった冊子がそのまま活かされそう
みんなの独自の視点で大きく深くしてください
メンバーはヨーロッパ文化も意識するMさん、とくに京の食文化に強い関心をもつYさん、Hさん、そして茶をめぐる政治と権力にも関心のあるIくんと、鋤柄の家に近いSくん

3番目のテーマは「歩いてまわればいつのまにか都人になってしまうマップ」
お寺や神社に興味のあるOくん、歴史を彩った人物に興味のあるKくん、西陣という場所に興味のあるMさん、そして斬新なマップの編集に挑戦するKさん

あとふたりのテーマは、京言葉に注目するSくんと、和歌のイメージを高め中のNさん

グループに分かれて自己紹介をして連絡先の交換をして
プロジェクト科目3回目
良い感じで始まっています

Photo_2 ところで鳥羽離宮関係の史料を調べていて
その出現頻度を表すためには、院政期の史料全体との関係をみないといけないので
それを調べて
Photo_3 さらに補正のデータグラフをつくってみました
現在平安遺文の精査中

2006年10月18日 (水)

鳥羽について考える4

東京大学史料編纂所と言えば、あの『群書類従』の編纂で著名な塙保己一が、寛政5年(1793)に幕府の援助をうけて開設した和学講談所に溯る、日本歴史の大本山とも言える研究機関である。
「大日本史料」・「大日本古文書」・「大日本古記録」をはじめとして、日本歴史を学んだことのある人間で、その研究成果に関わらなかった者はいないだろう。
史料とか古文書とか聞くと、とてもアナログで古びたイメージが先行するが、しかしここでは同時に史料情報についての先端研究を推進していることでも知られ、早くから「画像史料解析センター」が設けられ、多くの史料データベースを公開し、今年は前近代日本史情報国際センターが設立された。
考古学の世界でも1980年代後半から、膨大な資料情報の活用と共有を目的としたデータベースの試みが始まり、現在奈良文化財研究所や国立歴史民俗博物館などが多彩なデータの公開をおこなっているが、国文学研究史料館の先駆的な活動とあわせて、実践的な歴史情報データベースの運営としては、考古学の世界以上の成果をあげているのではないかと思う。

鳥羽離宮の存在形態の検討として、歴史情報の数量化による考察の試みを準備している
春学期から夏休みの間に、これまでの発掘調査の全ての資料を集め
MANDARAでのデモデータを作成し
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/toba/mandaratoba.htm

Sany0936 別の原稿と併行して既往の研究に目を通し
さてそれではいよいよ史料情報の格納だとばかりに史料編纂所のデータベースに入る
「鳥羽」をキーワードにすると
編年史料綱文データベースでのヒット数は3295件
Sany0937 古記録フルテキストデータベースでのヒット数は1033件
平安遺文フルテキストデータベースでのヒット数は142件
これを1087年から1320年の間で、行幸や御幸をはじめとして、施設名や儀式名など関連する項目に分けてエクセルに出現回数を入力
9ポイントで出力するとA4で14枚分
Photo_1 それを1年単位で単純に集計してグラフにしたものがこれ
単語を属性毎に分類して再整理すれば、記録に残された鳥羽殿の存在形態が示されることになる

遺跡情報の数量化はこれから
さあリキを入れよう

2006年10月15日 (日)

秋の特別展続々

・京都文化博物館
「始皇帝と彩色兵馬俑展 ~司馬遷『史記』の世界」
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special.html

・大阪城天守閣
「真田幸村と大坂の陣」
http://www.osakacastle.net/006/eventnow.html

・京都国立博物館
「京焼-みやこの意匠と技」
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

・大山崎町歴史資料館
「戦国の争乱と大山崎」
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/welink/contents_syousai.php?frmId=1050&frmCd=70-90-80

・奈良国立博物館
「正倉院展」
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2006toku/shosoin/shosoin-1.htm

・橿原考古学研究所付属博物館
「海を越えたはるかな交流」
http://www.kashikoken.jp/museum/special/06autumn/06autumntop.html

・大阪歴史博物館
「開館5周年記念 泉布観重要文化財指定50周年記念
煉瓦のまち タイルのまち-近代建築と都市の風景-」
http://www.mus-his.city.osaka.jp/

・大津市歴史博物館
「天台を護る神々-山王曼荼羅の諸相-」
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/index.html

・大阪府立近つ飛鳥博物館
「「修羅」重要文化財指定記念 応神大王の時代-河内政権の幕開け-」
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2006_autumn/index.html

・高槻市立しろあと歴史館
「三島古墳群の成立-初期ヤマト政権と淀川-」
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/shiroato/moyooshi_18mishima.html

・大阪府立狭山池博物館
「水にうつる願い」
http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/

・唐古・鍵ミュージアム
「 弥生時代の青銅器鋳造 -唐古・鍵遺跡の出土品を中心に-」
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html

・堺市博物館
「茶道具拝見 -出土品から見た堺の茶の湯-」
http://www.city.sakai.osaka.jp/hakubutu/cafetool.html

・香川県歴史博物館の港町調査がサイトでみられます
http://www.pref.kagawa.jp/rekihaku/tyousa/tyousa.html

新刊紹介

鈴木康之2006『中世集落における消費活動の研究』真陽社

2006年10月10日 (火)

迂闊-村雲-

Sany0903 西陣織会館のエントランス前に「村雲」地名の石碑が立っている
以前から気になってはいたのだが、そのままにしていた
西陣織関係で登場する地名に、現在の新町今出川北東の白雲という地名があるが
例によって平凡社の地名大系の助けを借りる

村雲という不思議な地名は、応仁の乱以前の風景を描いたと言われる江戸時代の「中昔京師地図」には、堀川・大宮・北小路・一条の範囲とみえ、「太平記」巻26に「一条堀川村雲ノ反橋(もどりばし)と言う所に」と登場するそうである
その頃、一条戻橋近くには、「妙吉」の侍者が建てた大休寺という寺もあり、僧俗が群集したとされている
やはり「中昔京師地図」によれば、村雲の南東に(一条堀川南東だから楽美術館あたり)、「雲寺・森寺」が、南西に(一条大宮南西だから居酒屋「一揆」の西で糸屋町あたり)「細川治部」とあって、応仁の乱では一条大宮猪熊合戦の地で「寄せ手は雲の寺に火をかけて村雲に押し寄せて、百万遍、革堂は焼け立て責める。この雲の寺は一丈六尺の盧遮那仏・多宝塔・庫裏・方丈・革堂・僧坊・冷泉殿、一片に焼亡し、革堂・百万遍の焼ける中に入り乱れ、村雲の川を渡り渡されつ」とある

上杉本洛中洛外図に描かれている革堂や百万遍がすでに15世紀前半からあり、さらにおそらく小川通に沿って「雲寺」や「森寺」のあったことがわかる
ちなみに、日曜日に行った浄福寺についても、元は一条村雲にあり、上杉本洛中洛外図にも「上福寺」として描かれている。現在の地へは1615年に移転してきたというが、それまでは相国寺門前北にあり、平安時代には25寺のひとつだった名刹である。

なお、村雲御所とは、文禄5年(1595)に豊臣秀次の母、瑞龍院日秀(秀吉の姉)が、秀次の追善のために建てた寺で、日蓮宗唯一の尼門跡寺院。二条城客殿の二棟を堂舎にして増築されたが、天明8年(1788)の大火で被害を受け、昭和38年(1963)に近江八幡市へ移転

歩けば歩く度に見つかる隠れた京都の歴史
昨日は大きな事件がおこりながら普通に授業をしていた
常にリアルに学ぶ緊張感をおろそかにできない
迂闊迂闊

2006年10月 8日 (日)

西陣をあるく(南の巻)

西陣マッププロジェクトで西陣の南地区を歩く
13時半にいつものイケメン@今出川に集合
メンバーは松本(仁)・西尾・寺本・並木の4人衆
まずはマップとコンテンツのアウトラインの説明
掲載エリアは、北が鞍馬口、東は小川、南は下立売、西は七本松
コンセプトは3つ
まずはエピソード性の高い歴史遺産、次はものづくり、最後は地図を片手に歩いて出会うなにげない街角発見物語
それぞれの分担の確認をして、さあ西陣南地区へ

寒梅館を出るとすぐに室町上立売
西陣焼けのエピソードを松本さんから聞きながら
Sany0901 小川の欄干を通り過ぎて堀川に出る
メンバーの希望で清明神社にちょこっと寄って一条を西へ
如水町と黒門町を通り過ぎながら
何度かツアーを体験している別のメンバーがこまかな地名の背景に知的好奇心を高める
また別のメンバーの熱い思いで名和長年の碑をたずね
Sany0907 中立売通を智恵光院へ向かう
名和長年については下記参考
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_6a1b.html
http://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_6ea1.html

Sany0924 その西の浄福寺もそうだが
通りに面した街並みから一歩その奥に入ると
あっと驚くような風景がひろがる(まさに隠れた京都を探るそのもの)
小野篁ともっと話をしたがるメンバーに期待を寄せつつ
千本へ出て五番町をめざす

Sany0921 途中、千本京極の看板に感動し、街頭に掲示された史跡巡りの看板に感動する
メンバーの下調べによりかつての映画館の跡を確認して
下長者から五番町へ向かい、「大市」の風景にかつての賑わいをしっかり感じる

Sany0931 出水を東へ向かい、千本を越えたところで、弘徽殿跡の真新しい石碑を見ていたら
(京都市頑張ってます)
メンバーのひとりが地形の変化に気づく(えらい)
平安時代は内裏、桃山時代は聚楽第である
山中油店の向かいの上京歴史探訪館前に着いたのは16時ちょうど

ゆっくりしたいところだが、明日は授業日なので
涙を飲んで、あわただしく解散
荒削りでも良いから
知的好奇心いっぱいのマップにしましょう

2006年10月 7日 (土)

石清水門前を掘る

 新聞報道によれば、2006年10月6日、京阪八幡市駅から歩いて10分足らずの石清水門前で遺跡の説明会がおこなわれた。
 正式な遺跡の名称は「木津川河床遺跡」とのことだが、遺跡の歴史的な意味としては、まさに石清水門前である。
 資料によれば、調査面積は約200平方メートルで、平安時代とみられる大量の土師器や陶磁器などの遺物が出土したという。
 平安時代中期から中世におよぶ長期間、平安京と中世都市京都にとって、さまざまな意味で大きな役割を果たしてきた石清水八幡宮宮とその門前については、これまで木津川流路の変更などにより、わずかな史料と、近世に近い時期の絵図以外、詳しいことがわからなかった。
 しかし今回の調査では、その初現期に関わる遺跡が発見されたことになり、今後の石清水門前と中世前期の地域拠点の研究に大きな意味をもつことになると考える。、

 この調査地点は、石清水八幡宮の頓宮から放生川沿いに少し南へ行った安居橋を渡り、そのまま細い通りを進み、単伝寺の山門を南へ曲がった位置にあたる。
 安居橋から東へのびるこの小路は、現在は市街の幹線をはずれた、とても細い通りとなっているが、途中には江戸時代に天下の豪商と呼ばれた淀屋辰五郎が、闕所になったのちの旧宅があり
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0x&unit=0&lat=%2b34.52.56.31&lon=%2b135.42.16.19&fm=0
実は、古代・中世には地域の空間基盤となった条里線にあたっている。
 西日本における古代・中世の集落を考える際には、この条里地割との関係を常に考えなければならないが、今回の調査地点についても、安居橋(の位置が変わっていなければ)という重要ポイントによった軸を北ラインに持ち、南は中世の史料に石清水門前の東の境界ゾーンと評価されている、薬園院がおかれた森村へつづく条里線(通り)に面している。
 さらにその西は、1町を隔てて、中世石清水門前のメインストリートだった常磐大路がはしる。
 史料や絵図によれば、安居橋を基準とする、調査地点北の東西条里線と、常磐大路が交差した場所の北西には市がたち、北東には宮司家を代表する田中家とその関連の屋敷が建ち並んでいたと推定されてているため、この調査地点の周辺は、何カ所か推定されている石清水門前の中心の中でも、最も重要な場所の一角だったと言って良いことになる。

 調査面積の関係から、具体的な建物などの復原は難しいかもしれないが、今回の調査で発見された多彩な遺物は、こういった遺跡の場所の意味を読み解く大きな手がかりになる可能性がある。
 周辺地区における今後の調査に期待が寄せられます。

2006年10月 6日 (金)

一遍から西陣をまわって漸く鳥羽に着いた話

森先生の大切なもの展へ行くと
さまざまな人々の珠玉の作品に混じって
森先生と司馬遼太郎さんが並んで写っている写真がある
入って右手奥である
1983年に古代学研究の100号を記念して開かれたパーティーでのショットである

ひとりで行っていたときはただ懐かしさだけを感じたのだが
先日学生くんたちと行って見たとき
少し違った感慨のようなものを覚えてしまった

このパーティーには鋤柄も末端の陽炎のようにして存在していたのだが
1983年の森先生は55歳である
古代学研究会を主宰してその機関誌を100号刊行し、同時に多くの研究者を育て
東アジア的視野で日本の古代史と考古学の協業を実践していた
そしてあれから23年たった
気がつけば、その時の森先生の歳に刻一刻と近づいている
右隣では、学生君たちが大学者の存在を実感してくれており
左隣では、森先生がニコニコ笑っている
えらいこちゃである

一遍にけりをつけて、日曜の準備で西陣の整理をしながら
いつものことではあるが
やはり京都というところは、コンテンツに事欠かないという点で
歴史好きにとっては、なんぎなくらい良いところだとつくづく思う
今度の上京探索マップは「こだわりの西陣をテーマ」にする予定だが
01 今出川以北を見れば
鳴虎報恩寺の梵鐘や、こんなところになぜかの岩神神社の磐座
釘抜き地蔵の伝説や千本釈迦堂のおかめさん
武藤先生からお聞きした雨宝院にちなむ逸話ももちろん
修学旅行のしおりや普通のガイドブックには載っていないエピソード満載のお寺や神社が
調べきれないほど一杯あるのは当たり前
今出川以南を見れば
現在の通り名と古代の大路小路を比べながら歩けば
地名と微地形に内裏と謎の聚楽第を探る手がかりが一杯
そうそう
過日入手した国土地理院の5m標高という
レーザー測量で作成されたとてつもなく詳細な数値地図を
カシミール3Dで見ながら文化史特論の準備をしていたら
なんと、謎の聚楽第の手がかりにつながるサインを見つけてしまった
これは来週の授業で話しをしなければ

台風と一緒の秋雨前線が抜け、青空がひろがりそうなシーズンINの週末
グループ行動の中高生や、地図を片手の家族連れが地下鉄で多く見られるだろうが
皆さんは京都のどこを訪ねるのでしょうか

ということで、鳥羽離宮の風景を記した『扶桑略記』応徳3年(1086)10月20日条
「公家近来九条以南、鳥羽山荘新建後院、凡卜百余町焉、近習卿相侍臣地下雑人等、各賜家地、営造舎屋、宛如都遷、讃岐守高階泰仲、依作御所已蒙重任宣旨、備前守季綱同重任、献山荘賞也、五畿七道六十余州、皆共課役、堀池築山、自去七月、至干今月、其功未了、洛陽営々无過於此矣、池広南北八町、東西六町、水深八尺有余、殆九重之淵或摸於蒼海嶋、或写於蓬山畳巌、泛舟飛帆、煙波渺々、飄棹下碇、池水湛々、風流之美不可勝計」

2006年10月 1日 (日)

森浩一の大切なもの展

秋学期が始まった
ほぼ2カ月の時間が自分の中に生み出した「なにか」を
各自が久し振りの友人に会うことで実感する喜びを祝い
今出川ならば、大抵の学生は59番の市バスに乗り
三条河原町で降りて東の方へ消えてゆく
詳しい事情を知っている者は、四条まで下りて西へ曲がり細い路地に面した店で
キャベツを肴に酒を飲む
しかし学生の身で鴨川を渡って東へ行く猛者はそうはいないと思う
もちろん昼間ならば話は別で、京都らしい土産物屋をひやかしながら
有名な甘党の店を過ぎて正面に見える祇園さんの石段に
思わずため息をもらす観光客に混じる地方出身の学生もシーズンになると沢山いる
そういえばお金の無い学生にとって
祇園さんの石段の交差点のちょっと北にある映画館はとてもうれしい存在だった

そんなことを思い出しながらシーズン突入直前でいつもより人通りの少ない雨の東山を
Sany0831 四条で西へ曲がり、一力さんを左手に見ながら花見小路を北へ上がる
祇園である
二つめの信号が祇園さん北を知恩院へ向かう新橋通
三つ目の信号の手前に橋が架かっていて下をあの白川が流れている
このまま川沿いに遡れば地下鉄東西線の東山駅の入り口の脇を通ってSany0826 府立図書館へ行く
橋を渡ったすぐ北の東西の通りが古門前通で、
その名の通り、この道の東は華頂短大と塔頭の間を抜け知恩院惣門に向かう
古くから古美術の店が多く並んでいることでも有名
Sany0877なるほど広い意味での祇園は祇園社門前と知恩院門前からなるのかと思いながら
その古門前通を西へ曲がったすぐのところにギャラリー○△□がある
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.39.837N35.0.13.869&ZM=12

Sany0879 10月3日(火)12時から、ここで「森浩一の大切なもの展」が始まる
師匠の森浩一先生は、とにかくあらゆるテーマにも分野にも知的好奇心の旺盛な人で
それが戦後の日本考古学と歴史研究を大きく前進させる原動力になったことは
多くの人の知るところであるが
そのまた原動力は人と人とのつながりではないかと思う
その知的好奇心の原動力の一部として
森先生と、これまた知的好奇心が旺盛な人々との関わりを物語る作品が展示されている
森先生と様々な人々との間で交わされてきた知恵や知識や感性が
これらの作品から”ずん”と伝わってくる

森先生は、やはり人間が好きで歴史を考古学を学んできたんだと、つくづく思った
手本である
10月14日(土)17時まで

詳細内容は、森浩一2006「森浩一の大切なもの展」『回想の食卓』大巧社

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