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2006年10月26日 (木)

栢杜遺跡(かやのもりいせき)

伏見区醍醐栢ノ森町に所在する平安時代終わりから鎌倉時代初めの寺院跡である
醍醐寺の南約1キロで、上醍醐につながる笠取山の西麓に形成された標高48~50mの段丘先端に位置する
西を見れば山科南部の低地がひろがる
昭和47年(1972)の遺跡地図には古瓦の散布地とあり、開発にあたり、昭和48年(1973)5月~6月に試掘調査がおこなわれ、その結果をうけ、昭和48年7月から昭和49年3月まで本調査がおこなわれ、八角円堂と方形堂の二つの建物が南北に並んで確認された
これらの遺構は『醍醐雑事記』や『南無阿弥陀仏作善集』に記された、源師行「大蔵卿堂」或いは俊乗房重源の「栢杜堂」と推定され、現在国の史跡となっている
また2004年には、その近接地で調査がおこなわれ、塔跡と推定される基壇遺構がみつかっている

『醍醐雑事記』によれば、久寿2年(1155)に正四位で大蔵卿の源師行が、八角形で二階建の堂舎と三重塔を建てたことが記されており(大蔵卿堂 八角二階 九躰丈六堂 三重塔一基 各檜皮葺 本佛阿彌陀丈六像 願主大藏卿正四位上源朝臣師行之建立也、敷地者三寳院領也)
平家の南都攻撃で被災した東大寺を再興した俊乗房重源の『南无阿彌陀佛作善集』には、その仕事として栢杜堂一宇と丈六阿弥陀如来像9体および金色三尺立像などを安置したとの記録がある(下醍醐栢杜堂一宇并九躰丈六 奉安置皆金色三尺立像一ゝ 上醍醐經蔵一宇 奉納唐本一切經一部)

史料にあるように、この地は醍醐寺三宝院の領であったが、三宝院は永久3年(1115)に勝覚が建立して白河院の帰依を受け発展をはじめるが、勝覚は、藤原頼通の養子として左大臣にのぼり村上源氏の最盛期を築いた源俊房(水左記の作者)の子なので、まさに村上源氏の寺
(ちなみに鳥羽離宮と桂川をはさんで西にある久我は村上源氏を出自とする)
源師行は師時(長秋記の作者)の子で俊房の孫にあたる。山城守と長門守を経て大蔵卿になり醍醐に住んでいたが、「支度第一の俊乗房」と呼ばれた重源が手本とした人物でもある(師行は重源の支援者でもあった)
(ちなみに2:杉山信三氏によれば、父の師時は鳥羽離宮の北殿の勝光明院造営の苦労を語っているので、子の師行も同様な素質があり、八角堂は彼の発案で、それもあり「支度大蔵卿」と呼ばれたのではという)
また重源は醍醐寺を本拠としていた
(ちなみに3:重源は、この醍醐寺と村上源氏の関係を背景に東大寺復興のリーダーに選ばれたとも言われる)
ゆえ、源師行がひらいた栢杜は、重源にとっても非常に深い関係のある地だったことになる
そこに八角形の建物があった

発掘で見つかった八角円堂跡は、平面形が東に付属棟をもつ柄鏡形をしており、西には小石の敷かれた庭園をもつ
八角円堂は、その外側に1辺9mの石組の雨落ち溝を輪郭とし、その内側約2mの位置で、8カ所の礎石とその抜き取り穴が配される(間隔は約5.2m)
またその内側にも対応する抜き取り穴がある
ただし、これらの柱跡と中心との距離が離れており、構造は弱かったものと考えられている。

一方方形堂は、重源が建久3年(1192)に建立した兵庫県小野市の浄土寺浄土堂と同じ規格であることから、建久6年(1195)頃の重源の「栢杜堂一宇」に推定されている
笠置の般若台に貞慶が六角堂を建てたと言われる建久5年(1194)頃と、とても近い

ちなみに4:後醍醐の側近を代表する北畠氏は、村上源氏中院(なかのいん)流で、中院通方の子雅家が北畠と称したことに始まる。また後醍醐の側近には村上源氏の土御門流が集中したとも言われる。

今回の「ちなみに」連発による謎かけの答えは11月4日に

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