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2006年10月10日 (火)

迂闊-村雲-

Sany0903 西陣織会館のエントランス前に「村雲」地名の石碑が立っている
以前から気になってはいたのだが、そのままにしていた
西陣織関係で登場する地名に、現在の新町今出川北東の白雲という地名があるが
例によって平凡社の地名大系の助けを借りる

村雲という不思議な地名は、応仁の乱以前の風景を描いたと言われる江戸時代の「中昔京師地図」には、堀川・大宮・北小路・一条の範囲とみえ、「太平記」巻26に「一条堀川村雲ノ反橋(もどりばし)と言う所に」と登場するそうである
その頃、一条戻橋近くには、「妙吉」の侍者が建てた大休寺という寺もあり、僧俗が群集したとされている
やはり「中昔京師地図」によれば、村雲の南東に(一条堀川南東だから楽美術館あたり)、「雲寺・森寺」が、南西に(一条大宮南西だから居酒屋「一揆」の西で糸屋町あたり)「細川治部」とあって、応仁の乱では一条大宮猪熊合戦の地で「寄せ手は雲の寺に火をかけて村雲に押し寄せて、百万遍、革堂は焼け立て責める。この雲の寺は一丈六尺の盧遮那仏・多宝塔・庫裏・方丈・革堂・僧坊・冷泉殿、一片に焼亡し、革堂・百万遍の焼ける中に入り乱れ、村雲の川を渡り渡されつ」とある

上杉本洛中洛外図に描かれている革堂や百万遍がすでに15世紀前半からあり、さらにおそらく小川通に沿って「雲寺」や「森寺」のあったことがわかる
ちなみに、日曜日に行った浄福寺についても、元は一条村雲にあり、上杉本洛中洛外図にも「上福寺」として描かれている。現在の地へは1615年に移転してきたというが、それまでは相国寺門前北にあり、平安時代には25寺のひとつだった名刹である。

なお、村雲御所とは、文禄5年(1595)に豊臣秀次の母、瑞龍院日秀(秀吉の姉)が、秀次の追善のために建てた寺で、日蓮宗唯一の尼門跡寺院。二条城客殿の二棟を堂舎にして増築されたが、天明8年(1788)の大火で被害を受け、昭和38年(1963)に近江八幡市へ移転

歩けば歩く度に見つかる隠れた京都の歴史
昨日は大きな事件がおこりながら普通に授業をしていた
常にリアルに学ぶ緊張感をおろそかにできない
迂闊迂闊

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