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2006年10月 7日 (土)

石清水門前を掘る

 新聞報道によれば、2006年10月6日、京阪八幡市駅から歩いて10分足らずの石清水門前で遺跡の説明会がおこなわれた。
 正式な遺跡の名称は「木津川河床遺跡」とのことだが、遺跡の歴史的な意味としては、まさに石清水門前である。
 資料によれば、調査面積は約200平方メートルで、平安時代とみられる大量の土師器や陶磁器などの遺物が出土したという。
 平安時代中期から中世におよぶ長期間、平安京と中世都市京都にとって、さまざまな意味で大きな役割を果たしてきた石清水八幡宮宮とその門前については、これまで木津川流路の変更などにより、わずかな史料と、近世に近い時期の絵図以外、詳しいことがわからなかった。
 しかし今回の調査では、その初現期に関わる遺跡が発見されたことになり、今後の石清水門前と中世前期の地域拠点の研究に大きな意味をもつことになると考える。、

 この調査地点は、石清水八幡宮の頓宮から放生川沿いに少し南へ行った安居橋を渡り、そのまま細い通りを進み、単伝寺の山門を南へ曲がった位置にあたる。
 安居橋から東へのびるこの小路は、現在は市街の幹線をはずれた、とても細い通りとなっているが、途中には江戸時代に天下の豪商と呼ばれた淀屋辰五郎が、闕所になったのちの旧宅があり
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0x&unit=0&lat=%2b34.52.56.31&lon=%2b135.42.16.19&fm=0
実は、古代・中世には地域の空間基盤となった条里線にあたっている。
 西日本における古代・中世の集落を考える際には、この条里地割との関係を常に考えなければならないが、今回の調査地点についても、安居橋(の位置が変わっていなければ)という重要ポイントによった軸を北ラインに持ち、南は中世の史料に石清水門前の東の境界ゾーンと評価されている、薬園院がおかれた森村へつづく条里線(通り)に面している。
 さらにその西は、1町を隔てて、中世石清水門前のメインストリートだった常磐大路がはしる。
 史料や絵図によれば、安居橋を基準とする、調査地点北の東西条里線と、常磐大路が交差した場所の北西には市がたち、北東には宮司家を代表する田中家とその関連の屋敷が建ち並んでいたと推定されてているため、この調査地点の周辺は、何カ所か推定されている石清水門前の中心の中でも、最も重要な場所の一角だったと言って良いことになる。

 調査面積の関係から、具体的な建物などの復原は難しいかもしれないが、今回の調査で発見された多彩な遺物は、こういった遺跡の場所の意味を読み解く大きな手がかりになる可能性がある。
 周辺地区における今後の調査に期待が寄せられます。

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