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2006年10月28日 (土)

『平安京六角堂の発掘調査』を読む

シリーズ名は 平安京跡研究調査報告第2輯
発行は 財団法人 古代学協会
発行年は 昭和52年
文献の考察は佐々木英夫さんと朧谷寿さん

調査によって、六角堂の北限を示すと思われる平安時代中期に溯る溝がみつかった
また5枚の焼土層が確認され、このうち
第5焼土層は安土桃山時代末の遺物が多いので元和元年(1615)
第4焼土層は第5焼土層と近いので元和4年
第3焼土層は宝永5年(1708)
第2焼土層は天明8年(1788)
また
第5焼土層の下には焼土層が無く判然としないか
下の第6遺構面の下からレンズ状の瓦溜があるので
第6層は文安4年(1447)に建てられ、応仁の乱で焼失した層か?

現在の頂法寺六角堂の建築は、六角形平面の本堂の南面に唐破風を備えた礼堂部分をもつ構造で、それは『都名所図会』の挿図と同じ(本堂と礼拝堂)

「六角堂」について
五角形以上の多角形平面を「円堂」と呼び、八角形が一般的で、六角形は稀
法隆寺に現存する『黒漆六角厨子』
浅草寺の六角堂(元和4年(1618))
2001年9月に長野県千曲市(更埴市)八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡で出土した側面に多数の仏像を描いた「六角木幢(もくどう)」(平安時代末~鎌倉時代)
など
なお親鸞上人の廟堂は六角形(大谷御影堂)で、これは六角堂の影響か

一方八角堂は、法隆寺東院夢殿、同西円堂、五條市栄山寺八角堂、興福寺北円堂、広隆寺桂宮院本堂、安楽寺八角三重塔と多い
岡田英男さんの「八角円堂の平面と構造」『平安京歴史研究』によれば
八角形の施設は、古墳(舒明・斉明・天智・天武持統)・宮殿(前期難波宮内裏正殿両脇の建物)・高御座・宝殿・仏像の台座・八稜鏡などその種類も多い
前期難波宮の建物については、「荘厳のための楼閣的建築」「鐘台的建物」「仏殿あるいは経楼」「儒教道教にかかわるもの」などの見解
これらは大王や天皇を意味する

奈良時代の八角は法隆寺東院夢殿・栄山寺八角円堂・樫原廃寺・南法華寺・ドドコロ廃寺・飛鳥寺の八角円堂などなど
日本霊異記によれば、西大寺に八角七重塔が計画され、藤原永手が変更して地獄に堕ちたという
発掘調査によると土壇経26.7mで現在の基壇よりかなり大きい

この時期中国でも唐代の仏光寺無垢浄光塔が八角(土偏に専)塔で、その後の遼代宋代は八角形の仏塔が一般的になる
八角円堂との関係にふれたのは沢村専太郎さんが最初とされ
河南省の会善寺浄蔵禅師身塔が法華経にみえる多宝塔をあらわしたものといわれる
朝鮮半島では高句麗の清岩里廃寺が飛鳥寺伽藍の祖形として有名

平安時代の研究は田中重久さんが詳しく「日本の八角層塔、日本の円堂と印度の円堂、記録に見ゆる日本の円堂」、興福寺南円堂・法成寺・平等院・法勝寺(1076の有名な九重塔)・仁和寺(発掘で円堂基壇発見)・高野山・薬師寺・法金剛院経蔵・東福寺など多い

さて、問題は八角形の意味である
橋川正さんは補陀落山との関係
五来重さんは山城風土記から先祖をまつる意味
福永光司さんは中国で起源前二世紀から八角形の宗教哲学があったとし、全宇宙空間は八角形という道教思想の影響とし
網干善教さんは中国の政治・祭儀の儒教思想と仏教の融合としている

古墳時代は天空の神々を地上でまつる帝王の象徴とされ
寺院建築以降は法華経の多宝塔が意識されたのであろうか

さて六角堂にもどろう
さきに見てきたように、平安時代は八角円堂が大流行した時代で
それでは八角ではなくてなぜ、六角なのかはわからないが、頂法寺六角堂にも多くの有名貴族が参詣している
右大臣藤原実資(小右記)は物忌や厄日などあるいは夢見によって六角堂へ参詣している
藤原道長(御堂関白記)は法成寺があるので、まず行っていないだろう
左大臣藤原頼長(台記)はできものの病に悩まされ、継続的に参詣、また大願成就の目的のもとで定期的に参詣
関白藤原忠通も
高倉天皇の中宮の建礼門院徳子も安産を期して六角堂に如意輪観音像を造進
九条兼実(玉葉)もたびたび参詣、邸宅が隣接していた
白河法皇も百度参り

そして12世紀中頃から末にかけて太子信仰の高まりにあわせて多くの貴賤の参拝するところとなる
朧谷さんは、史料の初現が『親信卿記』天延2年(974)の「度六角小宅」で、上限は『聖徳太子伝暦』に見えないため10世紀中頃とされるゆえ、頂法寺六角堂を平安時代(10世紀後半)になって京内に建立された最初の私寺とみている

笠置寺の般若台の六角堂の建立は建久5年~6年(1194~1195)なので、ちょうど頂法寺六角堂が、太子信仰の高まりで多くの貴賤の参詣をあつめた時期にあたる
頂法寺六角堂がなぜ八角でなかったかのわけはわからないが
笠置の六角堂を建立した貞慶が頂法寺六角堂の繁栄を知らなかったはずはない

ところで頂法寺六角堂の太子信仰と結びつくのが、重源の太子信仰ではある
けれども、笠置六角堂の内陣に納められたのは、法隆寺にのこるものと同じような、六面の御厨子だったと言うから
そんな深読みは必要ないのかもしれないが

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