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2006年11月

2006年11月29日 (水)

ロンドンと京と鎌倉-月と1.6ポンド-

オフシーズンからだろうか、学校単位でのツアーが多い
来るときもそうだったが、2日前は関西のある大学の関係業務が同じホテルであり
今日も別の大学の名前がホテルの掲示板にあった
空港ではマシンガンをもった警官がたくさんいて
今日の見学地は3カ所で金属探知器や手荷物検査があった
けれどもcityの教会は静かに訪れる者を迎え
夜のオクスフォードstはクリスマスの飾り付けでとてもにぎやか
ロンドンはとても良い街である
物価は高いが・・・・

国内、国外にかかわらず
可能な限り20代の内に、それぞれの関心に応じた形で、自分の慣れた環境以外の文化を意識する機会をたくさん持った方が良いと思う
前にも書いたが
異文化との接触という大事業をなしえる旅人を
昔の人はとても大切にした

今のようなテレビやラジオやインターネットが無い時代
定住せずに各地を遍歴する人々は
それ自体が歩くブロードキャスターだった
絵を描き、技を見せ、言葉をつぐみだし、文化を伝え文化を創った
各地の有力者達は、その重要性を熟知しており
彼らを大切にあつかい、また同時に迫害もした

日本列島の場合、木簡がその断片を示し、万葉集がその思いを遺した
律令体制が弛緩する10世紀以降
そんな文化伝播の担い手たちが明確な姿を現す
供御人・神人・寄人・聖・修験者さまざまな芸能民そして海民
日本列島における中世社会とは、まさにそんな文化の拡散と創造が
それをつたえる人間を軸にして、情報と利益という生々しい姿をとり
とてつもない勢いで駆けめぐっていた時代だった
網野善彦という人物の天才性はまさにここにある

そしてこの時初めて
弥生時代以来の個別分散社会であった日本列島の各地の文化が
ぶつかりあい化学反応をおこした
お互いに違う価値観と生活スタイル
西遷御家人を生んだ鎌倉時代は化学反応が始まったとき
南北朝期はまさにその爆発だと思う
人々は異なった文化に接し、とまどいながら認め合っていった

そして室町時代
現在の日本文化の源流が室町時代にあるというのはこれが理由である
ゆえ、現在の日本社会は、中世の文化融合によって生まれたと言える
日本中世とはそんな時代だったのである
(蛇足ではあるが、その意味で弥生時代や戦国時代の緊張状態と南北朝期の状態は
まった質の違うものだと思う)

27072奇しくもロンドンの教会はおよそ11世紀から12世紀にほとんどが出現したという
現在の都市ロンドンの骨格はこの時につくられ
ローマ帝国の支配から解放された人々が、ロンドンをめぐって交錯した
海民の活躍は日本と同じで
ヨーロッパ大陸の諸国とも活発な交流がおこなわれた
中世のロンドンもまた、激しい文化の融合の舞台だったと思う
中世成立期におけるロンドンと京と鎌倉
興味深い研究テーマになると思う

ロンドン塔を出る頃にはすっかり晴れ上がり青空がまぶしかった
27077 うれしくなって、ロンドンで初めての昼食を日本円で1000円もするフィッシュ・アンド・チップスにする
tpwer hillを西へ曲がるとすぐにall HALLOWS by the tower(saxson時代)。無料の音声ガイドがおいてある。東洋系の女性の観光客が二人だけの静かな教会
tower hillを北へ渡ってseething laに入るとその先の西にあるのがst.olave(15世紀)、お墓を併設
fenchurch street駅のロータリーに出て西へまがるとall halloows staining(15世紀)、通りに面して果物屋さんが店を出していた
fenchurch stへ出て東へalgateまで来るとst katherineの大きな尖塔がみえる
西へもどってledemhallの中程にあるのがstandrewでとなりは例の巨大な卵
右折してmary stを北へ行くと、すぐにst helenが見える。正面は西
27097 西へ抜けてbishopsgateを南へ降りると、少し登り気味で最高地点がちょうどローマ時代の宮殿のあったfenchurchとbishopsの交差点
これだから歩いてみないとわからない

そこまで行かずに途中でthredneedleに入り、すぐ北に見えるのがbank of   england
ここに銀行博物館がある
中世のゴールドスミス達から近代的な銀行業が始まった記念の施設
barthlo men laを通って北へ出てlothbury stを西へ行けばすぐにguildhall
27106 南に開いている扉から中へ入ろうと思ったらとめられ、西の入り口へ行けという
難しいところかとおもったっら、やさしいおじさんが対応してくれて中に
中世都市ロンドンを象徴する施設で、日本の戦国時代に港町に自治組織をつくった特権商人達がいた
堺の納屋衆もそのひとつだが、この施設はそのロンドン版の巨大なもの
日本にはどうして出来なかったのだろうかと思う
gildhallからgresham通を西へ向かい、突き当たりを南へ
途中日系企業があり、ビジネスマン達がたばこを吸いに外にでている
このあたりが屈曲している市壁の西側
st martinを西へ折れnewgateをgiltspurまで行くとst sepulchreがあってここが市壁の西の境

そのままold baileyを下がると、途中の建物の入り口でテレビカメラがたくさん並んでいる
だれか有名人が出てくるのだろうか
fleet stまで出て西へむかう
昨日は時間がおそく、入れなかったthe templeをめざす
中世にさかのぼる法学院だが、日本には無い文化だ
27127中心がtemple churchというのが面白い
あえて言えば大徳寺や相国寺や東福寺のような巨大僧院群からなる特殊空間だろうか
日が傾き始めた中をstrand通を急いでtrafalgarに面したst martinへ行く(12世紀)
やはり正面は西
昨日までとうってかわったcityのビジネスマンの喧噪に囲まれながらの教会巡り
あらためてcityはロンドンの中のロンドンだと実感

明日は15時にヒースローへ向かう
それまで、ウェストミニスターの国会議事堂とケンジントンのV&Aの予定

最終日、チェックアウトをして9時半にウエストミンスターに着くと
予想通り雨があがったばかりで天気が良くなりつつある
例によってテムズ川の南にわたりかつての宮殿の位置を確かめる
28009 その後、小島さんの経験を参考にウエストミンスター寺院のチャプターハウスに入る
曰く
as the rose is the flowre of flowres
so this is the house of houses
雨にぬれた道を確かめるように、cityと全く違う街をヴィクトリアまで行き
tubuでサウスケンジントンに出る
前回来れなかったV&Rと自然史博物館に入る
ロンドンの博物館はなぜか楽しい
日本の博物館といったいどこが違うのだろうかと考えながら

ヒースローのパブで
ギネスのショートサイズをもう一杯飲もうかどうしようか迷って1.6ポンドを握りしめてうろうろしていたら
なんとN先生に会う
さらに、飛行機に乗り込んだら別のN先生に会う
畿内の後ろは、またもや帰りの学生君達の集団でいっぱい
座席は幸いにも非常口の横
例によってパソコンの電源を聞いたら、前のシートのエリアしかないと丁寧な対応
「良いですよ」と答えて、結局ワインを飲んだらしっかり寝てしまった
イギリス時間で19時から翌日の朝3時まで寝ていたので
日本時間で午後1時に起きたことになる
しまった、時差ぼけ必至だなあと思いながら眼下に日本海を見る

王と市民と教会と職人と商人と市場と
水の道と川沿いの道と山手の道と
前も感じたことだが、cityやwestminsterでは、歴史遺産というものが少しも特別なものではない
時代にあわせて少しずつ姿を変えながらも生き続けている
london walkをタイトルにした本もたくさん出ていた
上京探索マップの参考に買ってくれば良かった
地球は広いけれど狭い
さあ、たくさん考えよう

2006年11月28日 (火)

city再び(26日)

この時期のロンドンの天気は確かに変わりやすい
いや変わりやすすぎる
イギリス紳士にコウモリ傘は必須のアイテムだが
この天気を体験すれば当たり前
さらにロンドン子たちは、この時期の雨などものともせず
普通にヤッケを頭から被ってぬれて歩く
風邪をひかないのだろうか

とは言え、今日の天気予報はSUNNYだったのに朝から雨
さすがに夜のBBCのお天気キャスターは顔をしかめてあやまっていた
なんでも突然強い低気圧がアイルランド南西海上に出現し
その雲がロンドン上空にかかったという
明日は雨模様で風も強いという
まあ普通か
暖流と寒流がぶつかるところで、
しかも季節がどんどん変わっていく時期なので予想は難しいのだろう
ちょうど冬の北陸で傘が手放せないのと同じ状況ではないだろうか

26001 ということで、天気予報を信じて雨の合間を縫ってホテルを飛び出し
3day travel cardを買ってpiccadilly lineでholbornへ
ここからholborn st.を東へ歩きcityへ向かうつもり
ところが交差点で方角がわからず、
決めて歩き出した道が北へ向かうsouthampton ROW

目印を求めて途中で右に折れたらQueens sq
しかし地図を見てもわからず、戻って少し行くと左手に広い公園
26002 これがrussell sqでようやくどこにいるか掌握
この先はBMではないか

なんとか道をもどしてholbornにやってきたらいきなりの大雨
なぜか「祭」という看板のでているビルの次で雨宿りをするも雷もなってきて
ついに予定を変更してもよりのBMへ

26004 BMはもちろん3年前にも来ているが
まともに見て回ったらきりがないので天気と相談しながら
中世のヨーロッパとギリシア・ローマをめぐる
これは12月1日の授業用教材

それにしてもどうして人はミイラが好きなのだろうと
エジプトを通過しながら思う
ロゼッタストーンは、あまりの観客の多さに
奥まった場所から入り口正面に場所を変えていた
それから2階のヨーロッパ室の奥に「時計」の部屋ができていた

例によって昼を食べることなく午後になって表に出る
まだ少し小降りの中、今日はあきらめてVAへ行くか
がんばってcityへ行くか迷う
とにかくtubeまで出ようと歩き出すとなんとなく空が明るくなってきたので
例によって勢いでcityへ向かう

途中おしゃれなパン屋を発見
ロンドンではあまり見かけない店
chanceryをすぎると、最初のモニュメントであるステイプル・イン(室町時代)
26030 holborn circusをすぎると道の両側に欄干
なにかと思って外を見下ろすと、はるか下をfarindon rdが交差して走っている
小島さんが書いているように、これがかつてのフリート川に違いない

26040橋をわたるといよいよ市壁に囲まれた旧ロンドン あのcity
左手に古い教会が見えたのでそちらに渡ると、その北がセント・バーソロミュー病院
宮崎アニメに登場するような細くて曲がりくねっている石畳の道を登っていくとロータリーに 出て、その南東が病院で、東がst. bartholomew the geat
狭い潜り戸をぬけると古い建物が姿を見せる

ロータリーにもどり北をみると大きな尖塔
26044 12世紀までさかのぼるロンドン最大の食肉市場とのこと
ここをさらに北へ行くと、江戸時代に多くの職人が住んだというcleakenwell
だが先を急ぐので南へおりてst.paul's cathedralへ
途中、みごとなcityの紋章があったので撮影

26047 セント・ポール大聖堂は、サクソン人が604年に築いた教会にさかのぼるというから飛鳥寺か
その後1087年に焼け、16世紀の絵地図には、現在のような丸い塔ではなく
尖った塔が描かれている
1666年のロンドン大火で焼け、1708年に現在の形に
復興設計は有名なクリストファー・レン
入り口は西側で圧倒される威厳
回転ドアから中に入るとおごそかなパイプオルガンの音が聞こえ、しばし敬虔な気持ちに
ここでmapをチェックし、東端まで行く時間が無いので
ウォールブルック川沿いにロンドン橋をめざす

まずは北からとbarbicanへ
1097年に建ったセント・ギルズ教会を囲んでつくられた集合住宅と諸施設のかたまりで
その一角に市壁があるという
実はロンドン博物館の北隣にあたり、ロンドン博物館の東庭にある市壁につづく北辺の市壁と櫓とそれからなんとゲートも残っている
保存が決まった時のままに残されているため
26072 断面の見えるところは、心材の角礫とモルタルの様子もよくわかる
説明板の一部が欠け、ゲートは草が生えていたが
なにより残っているだけで十分存在感があってうれしい

日曜なので行き交う人はほとんどあらず、店も閉まっているのでとても怪しい人物に見えたのではないだろうか
市壁をすっかり堪能した後、ギルドホールの南を通ってモアゲイトから王立取引所(室町時代)を横目で見ながらking william stを抜けロンドンブリッジに着く
26088ローマ時代以来、この橋をめぐって様々な歴史が生まれた
12世紀後半に石の橋になった後はその上に民家や商店がならびにぎわったと言い
本来とても感慨深いはずなのだが、まわりがすっかり都会化しており感じることは少なかった

16時を回る 16時半になるともう暗くなるので、キャノンst沿いの史跡を見ようと急ぐ
26098途中で教会をひとつ確認してキャノンストリート駅までくるとその先の通りが急に下っている
これがまさにウォールブルック川の痕跡である
ロンドンの中世はけっして埋没しているわけではない
セント・メアリ・ボウ(地下聖堂は11世紀)など鎌倉時代の教会を3つ確認してセントポールまで戻りフリートストリート(インクの街)を西へ進む

今日の最後の目標はtemple
CITYとウエストミンスターの中間のニュートラルな場所として
2つの法学院がテンプルという独特の空間をつくっているという
なおその向かいにあるがの王立裁判所
ここから通り名はストランドに変わる
時間は4時半をまわってすっかり夜
そのままストランドを西へ歩き、通りの真ん中にある教会に驚きながら
SOMERSET HOUSEの中につくられたリンクにも驚きながら
チャリングクロスの駅に着く

大英博物館を出て、それでも6キロほどだろうか
入り組んだ小径も通っているのでもっとかもしれない
イギリスで最初の国語辞典をつくったサミュエル・ジョンソンは
「ロンドンに飽きた人は、人生に飽きた人だ」という有名な言葉をのこした
この言葉はそのまま京都にも通じるが
そのひとつの特徴は大路と小路の絶妙な組み合わせが生み出す発見や驚きの相乗効果だと思う
それから、その後の大開発でその姿を追うことはとても困難ではあるが
cityは実はとても起伏のある街だ
結局午後は晴れた

ロンドンの天気のきまぐれは午前中の話なのだろうか
見事、予想通りに午後から晴れた

2006年11月27日 (月)

cityな午後(25日)

時差ぼけで、昨日は21時に寝たが1時頃に目が覚めて、眠れないのでそのまま5時頃までロンドン歴史地図の読み直しをしながらBBCNEWS24を見ていたら、天気予報の女性がとにかく元気で、ロンドンにやってくる雨雲を溌剌と説明してくれる
どうやら雨の降りやすい天気らしい
スポーツニュースはクリケットとフットボールとラグビーとテニス
色々な意味で面白い
なにか色々な意味で面白いかは来年度の授業で

やはり、日の出ぎりぎりになって睡魔に襲われる
が、これで時差ぼけ離脱か
今日の目標は、ローマ時代に起源の遡るcity wallと
17世紀の中ごろにおきたとロンドン大火以前の史跡をできるだけめぐること

昨日は夜でわからなかったが
25005 Hammersmith駅ビルは2階が大きなバスターミナルで
1階はちょっとしたモールになっていて、じゅうぶん買い物が楽しめるところ
zoneは2で、undergroundと言いながら線路はまだ地下にもぐっていない
シティを出てウエストミンスターを出てケンジントンを出た先
ちょっと違うが、なんとなく北大路に近い環境
駅の窓口で1・2zoneの1day travelcardを4.9ポンドで買う
自動改札を抜け、underground mapを見てDistrict線のMansion Houseへ向かう

25006 幸い座れたので、mapをひろげて有名な駅の名前を確認しながらMansion Houseまで約30分
Way outのサインに従って出口に向かい、セントポール寺院の案内を目印に地上に出ると
曇り空を背景にセントポール寺院の丸い尖塔が目に飛び込んでくる
3年ぶりの再会
地図を確認してロンドン博物館へ向かう
もちろんロンドン博物館への最寄り駅はセントラル線のセント・ポールズだが
1ゾーンの地下鉄駅は短い距離でたくさんあって、cityそのものも狭いので
乗り換えよりも、自分に便利な線の最寄りの駅をつかった方が良い場合がある
今回はまさにそれ
セントポール寺院の東の通りを北へ向かうと、すぐに3年前と同じ風景が目に入ってくる
ロンドン博物館の周辺はロンドンの都市の歴史の一番古い地区で
なかでもロンドン博物館はAD120年頃に築造された砦のすぐ西あたりにあたっている
また中世のロンドンを象徴する市壁の一部を生きた展示の一部としている

25081 市壁は、当初秀吉の土塁と同じ盛土だったようだがローマ時代の終わりには石積みの城壁となり
全体としてテムズ川に対して横長の長方形の配置を示す
ただし、その北西におかれたローマ時代の砦は、その北西隅ではなく
ロンドン博物館のあるあたりは市壁の角がとれたような、北西隅のえぐれた多角形をみせる
ロンドン博物館の東の庭に見えるのはその部分で
東からのびてきた北側の市壁が、ここで南に折れてしばらくつづく
ローマ時代の砦の西壁であり、中世のロンドンの北西隅の南北壁にあたる
ローマ人は、なぜこの部分を市壁の外に出したのだろうか
なお、現在その部分にセントバーソロミューの大きな病院と
12世紀にさかのぼるセントバーソロミュー修道院が建つ

博物館の手前の道からエスカレータで上がって橋を渡ると
3年前にランチをとったカフェがそのままある
けれども博物館のエントランスは3年前とは違って、広くきれいになったような
25015 どうやらエントランスと、ちょうど今回の踏査の目的に合わせたように
ロンドンの中世のコーナーが大幅にリニューアルされた、と思う
遺跡の調査成果がふんだんに活用され、都市ロンドンの成長がわかりやすく説明されている
詳しくは帰ってから
最高である
ショップも新しくなっていて
おもわず書籍のコーナーで時間をつかい
CHRISTOPHER THOMASのTHE ARCHAEOLOGY OF MEDIREVAL LONDONという
うってつけの本を見つける
言うこと無しである

田口先生から聞いていたが、この時期のロンドンは雨が多く
けれどもすぐにやんで、日が出て、という不安定な天候が特徴とのこと
今日も、展示をほとんど見終わった頃に家からの電話で外へ出ると大粒の雨
午後の踏査をどうしようかと思いつつショップで本を見ていたらかすかに日が射し始めている
これは行かねばと思い本を持ってレジへ
本が3冊で30.98ポンド
ふと財布を見るとTCはあるがキャッシュはちょうど30ポンド
あわてて小銭入れから1ポンド硬貨出す
ロンドンは物価の高いことでも有名だが
水曜日に京都駅で両替してきた45ポンドがもう無くなってしまった
残りは小銭入れに入ったわずか3ポンド
1ポンドが約240円なので700円ほど
いたって心細い
夕方にはTCを両替に行く予定にしていたが
これでは昼も食べられない
いやはやなんとも
まあともかく踏査はせねばと、3ポンドを握って街に出る
雨はやんだが風が冷たく強い
フード付きの薄手のスキージャケットでちょうど良かった

ロンドン博物館の東市壁を追いかけて南へfoster laneを行く
市壁の切れたところで東へ曲がる(Gresham st)とギルドホール(Guilghall)
12世紀に権利を獲得した商人達のシンボルでcityの行政の核となった場所
中庭を抜けGresham stにもどりすぐの道を見る
このギルドホールの東の通(Ironmohger)が、おそらく暗渠になっているがローマ時代のロンドンにとって重要な役割をはたしたウォールブルック川
25092 過ぎればBANK OF ENGLAND MUSEUMという重厚さに圧倒される建物を正面に見るMOOR Gate

そこからLONDON WALLまで北へ出て、東へかつての市壁の跡をたどる
途中、Bishopsgateで南へ折れ(ここを北へ行くとリバプールストリート駅)、25098Theradneedle stを過ぎたところでLeadenhall stを見る
このあたりがローマ時代の中心施設跡(フォルムとバシリカ)のあった場所
博物館でみたら、まるで平城宮や平安宮だった
Leadenhall stを東まがり、途中で大きな卵と教会を見て、Fenchurch stと合流するとまもなくALDGATE
cityの東西幹線の東の出入り口である
WALLの推定線はこのあたりでわからなくなるが、MINORIESへ出て南へ下ればすぐにtower of london
25111 陽がだいぶ傾いてきて、写真を撮るにはすっかり逆光なので、tower bridgeを渡ってテムズ川の向こうまで行く
19世紀にできた跳ね橋で橋と言うよりも芸術品のかたまり
ロンドン塔はテムズ川河口側からの攻撃に対する防御施設とも、cityの住民への圧力施設とも言われるが
25116 ロンドン塔はテムズ川から見ると普通のお屋敷で、北のtower hillから見ると圧迫感があった
なお、痕跡の途絶えていたwallは、このtower hillでその先端を見ることができる

25117 ロンドン塔の西濠に子供用のスケート城が出来ていて、そのためと一般の観光客でごった返すtowerから、さてpiccadilly circusへ出ようとしてバス停で路線図を見ると
都合良く小島さんが言っていた15番がある
待つほどもなく北ハイデッカーの2階の前から3列目に座る
小島さんが書いているように、セントポール寺院の南を通りcityを横断する
なるほどファリンドンロードがかつてのフリート川だったらしいことも
そこが低くなっていることからわかる

バスはそのままキャノンストリート、ストランドストリートを行き
チャリングクロスを越えたトラファルガースクエアで北へ折れる
CITYの東西線がオックスフォードストリートの延長にあたるハイ・ホルボーン~NEWGATE st~チープサイド~Fenchurch st~alogateだとはわかっていたが、これは丘の道で
なるほどキャノン~ストランドの南は急に下降してテムズ川にむかっているので川の道か
しかもその延長はthe mallを経てバッキンガムに突き当たるので
これは18世紀にはcityと王宮をつなぐ道でもあったのか
古代はロンドン橋と丘の道、中世以降は11世紀後半にできたウェストミンスターとの2元都市をつなぐ川の道
中世の頃には、これがセントポール寺院の西の正面につながっていた
しっかり意味があると思う

piccadilly circusは土曜の夕方でクリスマス準備開始ということで
すごい人波
手短に用事をすませ早々にホテルへ
やれやれ1day travelcardを買っておいてよかった
非常に面白い、色々見えてきた
明日、大英博物館の後、また歩きたい

23日にYAHOO ukでみたらずっと雨の予報だったが
25日の夜のBBCでは、日曜は曇りになっている
26日の朝のBBCのニュースでは、日曜日は晴れで月曜は雨らしい
博物館は明日に延ばし、ホルボーンからできるだけcityを歩こう
と思って起きたら雨が降っているではないか

2006年11月26日 (日)

ハマースミスな夜(24日)

24001 出発コンコースのラウンジでネットに入っていたら早くも搭乗10分前
あわてて38番ゲート待合室に行くと、妙に大学生らしい若者が多い
なんだろうと思いながら席に着くと後ろから「先生」という声
まさかと思いながら振り返るとやはりまさかで
首におしゃれなマフラーを巻いたおじさんが(でも同年」くらいかなあ)返事をしている
どうやらどこかの大学のなにかのツアーで、引率の教員が2名と旅行会社の担当が2名くらい
学生くんの数はおよそ40人、男女はほぼ同数
このオフシーズンの価格を利用してロンドンの見学とはなかなか、と思いながら
まさかうちの大学のツアーじゃないだろうなあと思いつつ
大英博物館でも会うのだろうかと思いつつ

待合室にいた旅行者の一番最後に機内に入ると
さすがオフシーズンだけあって
鋤柄の列は9つのうち、左端の窓際と右端の窓際のみ
主翼の少し後ろの席で、右端の窓際にすわると横に荷物を広げてやれやれ

2列離れて後ろにどこかの大学の学生君達の集団
にぎやかな旅もまた良し

機内案内を見たら、最近はパソコンの電源供給サービスもあるようだが
聞いたところ、残念ながらこの機はそれではないとのこと
LOOXもバッテリーの切れ目が縁の切れめかと思いつつ
シートベルトサインが消えたのを確認して立ち上げる

幸いにして今日は実に天気が良く、地上の風景が手に取るようにわかる
24005機はいったん北上したのち、淡路島の上空を通って旋回し
大山古墳の西を北上して大阪城で東に曲がり、淀川をさかのぼりながら
枚方から京田辺キャンパスの真上を通過して木津川沿いに東へすすむ
あっという間に伊勢湾が見え
ふと気が付くと遠くに富士山、下に北アルプスの山々が雪を被っている
前回は佐渡を見たと思いながら、すでに1340(日本時間)で北海道の西の日本海である

飲むものを飲んで、食事をして
映画は帰りに残しておいて
さて鳥羽をまとめよう

24012 シベリアはすっかり雪景色と思っていたら、意外にもそうではなく
川はすっかり凍って真っ白だが、山は濃い緑に覆われていた
3年前に見たのは8月で、いたる所溶け出した水が無数の池をつくっていたが
こんなに起伏のある土地とは思わなかった
とにかく見渡す限り一面の低い山並みの中を時々白く細い線を描いて道路が走る
自然を前にして人間の営みの小ささを思い知る
けれども人間の営みの大きさは物理量だけでは測れないものがあって
それもまた、この細い一筋の道路が物語っていると思う
離陸して5時間、まだ飛行予定時間の半分にも満たない

北極圏の近くを飛ぶため、日本時間でもイギリス時間でも昼間のはずだが外は夜
ウラル山脈を越えてロンドンまで約4時間
ようやく機は南を向く
急激に明るさを増す眼下は一面の雪原
これが海なのか陸なのかわからないけれど
さすが北ヨーロッパの冬は寒そう

ヒースローに着いたのは定刻をわずかにすぎた1545(イギリス時間)
ARRIVEの表示を頼りに入国カウンターへ
滞在日数と入国目的だけを聞かれて
さあロンドンへ
ノボテルに着いたのは18時すぎ
冬のロンドンは16時半をまわると暗くなる
今はイギリスは19時12分
けれども日本時間は4時12分
早く寝なければ

と言いながら
ホテルからすぐのハマースミス(ハンマーと鍛冶屋)駅ビルにあるスタバへ勢いで行く
ipassのホットスポットがそこにあるのでつながればと思い
ちょうどハマースミス駅の出口にあって大変な人通り
なんとかつながるが、非常に遅く、メールの確認はできたが
ブログのアップはかなわず断念

とは言え、このままホテルに戻るのもつまらないので
交差点を渡ってハマースミスの街並みにもぐりこむ
わたった先が大きなパブ
なにか夜食になるものはないかと通りを行く
マークス&スペンサーが見え、マクドナルドやケンタッキーもある
それにしてもロンドンは閉店時間が早く
8時でスタバも閉まってしまうし
あいているのはパブのみ
街角のキャッシュコーナーに人だかりがしており
気が付くと今日は金曜日
まてよ、TCは土日にも換金出来るのだろうか
日本時間は5時、頭がもうろうとしてきて
勢いでパブに入りそうな気分をおさえてホテルにもどる

2006年11月24日 (金)

まもなく離陸

旧石器時代、この空港の下の地面は陸地になっていて
人が歩いていたという
さすがにシーズンオフらしく
ヨーロッパ方面は比較的すいている
出国ゲートを出ると
インターネットサービスがあって
さすがに時代がかわったなあと
3年前を思い出す
まもなく離陸

2006年11月23日 (木)

鳥羽とロンドン

来年度から始まる新しい授業のために明日から29日までロンドンへ
テーマはもちろん中世都市と歴史遺産活用としての博物館
2003年に行ったときには、ストーンヘンジとバースとケンブリッジともちろん大英博物館とロンドン博物館などをまわった
今回はロンドンの中世的景観の復原をテーマにしているので、ロンドン博物館を拠点にじっくり街を探索してみたい
テキストは
ヒュー・クラウトの「ロンドの歴史地図」
この地図はとても良くできてきて、ロンドンの立地が京田辺キャンパスのある普賢寺谷と非常に似ていることがわかる
クリストファー・ヒバートの「ロンドン」
そして鈴木博之の「ロンドン」
それから歴博の小島さんのロンドン博物館めぐりのサイト
まずはピカディリー・サーカスのジャパンセンターへ行って現地の地図を買い
ホテルのあるハマースミスのスタバでipassのローミング試験
うまくいけばロンドンブログライブを
持って行くのはモベルの携帯とデジカメ2台とGPS
それから鳥羽の原稿とデータがしっかりつまったLOOX

平等院鳳凰堂が築かれる11世紀中頃以降
ロンドンではエドワード懺悔王による整備がすすみ
それがその後のロンドンの町作りに大きな影響を与えたという
エドワードは後になってウエストミンスターと呼ばれるようになった地区に
新しい修道院と立派な境界を建立し、さらにそれに隣接してあたらしい王宮をたてた
その場所は、セントポール大聖堂の北東で、ギルドホールの近くにあたるオールダーズゲイトの旧王宮から離れた、市壁の外に位置する
その後もエドワードのノルマン王朝の後継者達は、王政庁の中心地としてウェストミンスターの開発を続けたという
あたかも鳥羽離宮のように
京都から、中世都市の原型につながる新しい王の居所が姿を現した頃
ロンドンでも同じような動きがあったことになる

また、後白河上皇が現在の国立京都博物館周辺に法住寺殿と蓮華王院をおいて実施的な院政期の京都の中心としたころ
ウィリアム・フィッツ・スティーブンは詳細なロンドンの記録を残したという
その面影を残す城跡が発掘でみつかっているとのこと

関空から12時間、LOOXのバッテリがもつあいだに鳥羽の原稿をできるだけ仕上げて
それから、いざ中世のロンドンへ

2006年11月13日 (月)

夢は元気の底力

先週突然S学部のUさんという2回生からメールが来て
相談したいことがあると言う
力になれるかどうかわからなかったが
短い時間でも良いというので、ともかく4講に部屋へ来てもらう

話しを聞いてみると
京田辺のローム記念館でおこなっている活動や
今年はじまったプロジェクト科目につながるような
大学の未来の形を予感させるような企画についての相談

残念ながら彼女の企画したいテーマとは分野が異なるため
具体的な協力ではなく
実現にむけた必要な手続きや準備のアドバイスしかできなかったが
鋤柄の授業をとったことがあり
相談できそうな気がして「飛び込み営業」に臨んだという
たくましく、また、頼もしいと思う

「最近の若者は」という言葉がある
ところがこの言葉は、実は10年前も20年前も30年前も使われてきた言葉で
少しも「最近の」というフレーズに実体的な「時間」は伴っていない
「最近の若者は」と言う前に
「最近の大人は」と言われないように自戒する日々の中
若者達は、今も昔も元気に逞しくひたむきな毎日と向き合っているわけで
かつての若者も、それをできるだけ応援したいと思っている

実現に向けて頑張って
それが実現したら必ず報告にきてくれると言う
夢は元気の底力
それが大学の原動力だとあらためて思った

2006年11月11日 (土)

御器所

森先生の春日井シンポジウムも今年で14年目を迎える
毎回、東海を軸に地域学の視点でさまざまなテーマについて考える
基幹メンバーに加えてテーマ毎のゲストが登場する
鋤柄は3回ゲストとして参加させてもらったが
14年間毎回異なったテーマに対して
それぞれの立場で新しい見解を述べる基幹メンバーの勉強力はすごいものである
今年は「海人」がテーマ
所用でおくれて会場入りをすると市民会館の大ホールが参加者でほぼ埋まっている

古代、「海人」が郡を構成したのは、今の愛知県と和歌山県と隠岐と大分県という
それぞれ畿内から東海へ、南海へ、瀬戸内へ、そして大陸へ
情報と物流の要衝の地にその場所はあたるという
地域を視点に、場所にこだわった「森学」の原点がここでも展開する
これを継承し発展させるのが鋤柄のつとめ

会場を出て、基調講演を終えた三重県のH君と話しをしていたら
先輩の名古屋市のKさんも来ているとのこと
長年の無沙汰を詫び懐かしい話しに時を忘れる
そのまま御器所へ出て、Kさんのなじみの喫茶店で珈琲時間
来年お世話になる件についてお願いをして
気がつくと2時間

再会を期して名古屋駅にもどると高島屋は週末の大賑わい
久しぶりの名古屋なので、安くて旨いものでもと思いながら
最近では京都の伊勢丹でもみかける名古屋料理のお店で
日の丸弁当を買ってアーバンライナーに乗る

● 江戸時代のやきもの「江戸時代のやきもの-生産と流通-」
瀬戸市:12月9日(土)・12月10日(日)

2006年11月10日 (金)

博物館をはしごするの巻

来年度の段取りの関係で博物館を3つはしごする
堺市立博物館から大阪城天守閣へ向かう途中で教務から電話
天守閣で北川さんに挨拶した後、郷里の英雄、真田幸村に会う
六文銭の旗印で有名な幸村にちなむ資料が長野以外に大阪・和歌山に残されていることを知る
展示を見学しながら、来年のプロジェクト3でやることを思いつく
これが研究室に籠もってばかりでは得られない学びと研究

二の丸庭園の向こうに見えるオフィス街を見下ろして一瞬大阪時代を思い出す
多言語が飛び交い、高校生が跳ね回るにぎやかな本丸からを山里郭を経てOBPを抜けて京橋へ
このあたりは一番水の都を感じるところ
久しぶりの大阪なので、安くて旨いものを食べようと京橋まで来たが
結局290円の豚丼(味噌汁付き)

京橋から加茂行きに乗って奈良博へ
正倉院展は平日だから余裕でみられると思ったら
なんのなんの、大阪城公園と同じかそれ以上の混雑
061110_15430001 長蛇の列に並んで入館
国家珍宝帳とあわせて博物館展示見学の人たちを見学
入館してまず驚いたのが、音声ガイドの普及
エントランスのカウンターで多くの人たちが音声ガイドを借りている
これはもっと工夫とコンテンツに力をいれるべきものかも
この数年、とくに奈良博の企画力は高まっていて、入館前も入館後も丁寧なサポーターが
見学者の手助けをしており、館内の混雑にもかかわらず展示見学はスムーズ

噂の国家珍宝帳は
光明皇后が聖武天皇の四十九日に東大寺おさめた御物の願文につづくリストとのことで
そのうちの武具は恵美押勝の乱で利用され出されたが、もどされ一部が現在に伝わるという
正倉院御物の保存状況の良さはもちろん特筆されるが
そのなかでも国家珍宝帳はつい数日前に作成したもののような確かさをもっている
最後の行ちかくに藤原仲麻呂の署名がある
ため息

今回は遺跡関係の人間になじみのある馬具が種々展示してある
歴史資料館に展示している馬形埴輪の馬具と見比べよう
先々々週にプロジェクト2で話しをした巴文の原型と言われる鞆がある
鏃のついた矢もある
海獣葡萄鏡の文様に似た八稜鏡もある
十分満足して表へ出ると
奈良の写真では有名な飛鳥園
その隣は大昔にNHKの朝ドラで舞台になった日吉館
今は休んでいるがかつてここに泊まって博物館実習に行った
そしてその隣は釜飯で有名な志津香

これだけの人が博物館と歴史遺産を楽しんでいる
前から言っているように、歴史遺産活用研究の重要性はこれから一層高まる
明日は森浩一先生の春日井シンポジウム
さてここで問題です
「鳥羽の原稿はいつ書いているのでしょう」

唐古・鍵考古学ミュージアム2006『弥生時代の青銅器鋳造』
田原本町教育委員会2006『弥生の絵画』
田原本町教育委員会2006『田原本町文化財調査年報14』
堺市博物館2006『茶道具拝見』

2006年11月 8日 (水)

神泉苑

桓武天皇以来の宮中庭園(禁苑)。平安宮の南東外側に接してつくられ、二条・三条・大宮・壬生の各大路に囲まれた左京三条一坊九~十六町を占める。
現在の言い方では南北513m、東西251mで、
おおむね新京極を三条から四条まで歩いて、さらに四条通を鴨川へ向かって木屋町まで行き
次には高瀬川沿いに木屋町を三条まで上がり、佐久間象山先生の遭難碑を横目で見ながら
再び三条通を新京極まで歩くと、神泉苑の外周をまわったくらいになる
記録によれば、桓武天皇が延暦19年(800)に行幸しはじめて27回通い、その後の天皇も同様に
東西南北1.5町(約180m)と推定される池を中心とした庭園で、水鳥を狩り、詩歌管弦がおこなわれたという
(鳥羽の関連記事には、まさにこの神泉苑でおこなわれたような行事があらわれる)

ところが、文徳天皇から醍醐天皇(およそ850年から930年)はほとんど天皇の行幸がみられず、宗教的な性格を強める
斉衡3年(856)には僧常暁による雨の祈祷がおこなわれ、有験呪者の試験会場ともなる
貞観5年(863)には宮中と共に大般若経の転読がおこなわれ、五月に厄災を防ぐ御霊会がひらかれる
さらに貞観8年の天台座主による7日間の請雨経法以後、祈雨修法の場として、とくに貞観17年(875)の真雅の請雨経法後は東密の祈雨霊場として確立(それ以前は大和の丹生川と山城の貴船川)

10世紀以降は真言の歴代の高僧が神泉苑で祈雨をおこない、とくに仁海は雨僧正として有名な法力があったという
弘仁10年(819)や天長元年(824)には祈雨の修法がおこなわれ
今昔物語の巻14によれば、とくに天長の修法は東寺の空海と西寺の守敏の合戦だったというが
それはこの頃の神泉苑と真言僧の関係によるとされ
「神泉苑絵巻」や「贈大僧正空海和上伝記」がそれを伝えている

その後の神泉苑は、旱魃の際の利水池としても利用されるようになり
朱雀天皇から安徳天皇の時代には、まったく離宮庭園としての機能は無く
すっかり神聖な溜池化したといわれる

現在、堀川御池の交差点を西へいった北側にかつての神泉苑の一部が寺院として残り
その名のバス停もある
かつての神泉苑の範囲はそこからさらに北へのび、二条城の本丸の南濠あたりを北限とし
南は下がった三条通となる

1990年から1993年に地下鉄東西線の建設に際して発掘調査がおこなわれ
(もうそんな昔になるんだ)
神泉苑の西と東の築地跡がみつかり、さらに池の北岸や船着場とみられる遺構や
(現在、復原されて見られる様子)
池に流れ込む遣り水、小橋の跡などが発見され
緑釉瓦や「神泉苑」と名の入った瓦が出土しました
また神泉苑の場所は縄文時代にさかのぼる湿地だったようで
平安京の造営に際して自然環境を活かした都市計画がなされたことがわかります
現代社会における地域開発にとっても学ぶべきことでしょう

西田直二郎 大正15年『神泉苑』(京都府史蹟勝地調査会報告第7冊)

最初の締め切りまであと2週間

鳥羽離宮について見えてきたことと見えないことの間を右往左往する

2006年11月 7日 (火)

ロンドンについて考える1

よく知られていることではあるが、歴史とは、面白いほどに書き手によって印象が変わる
24日からロンドンへ行くため先週の笠置の講座が終わってから右の目で鳥羽を左の目でクリフトファー・ヒバート(大阪市立大学の横山徳爾が訳)の書いた「ロンドン」を見ている

横山さんが訳者のあとがきで記しているように、原著はデイヴィッド・パイパーによる「ガーディアン」紙上で絶賛されたロンドン文化史および社会生活史の名著で、ロンドン図書館に200フィートを越える幅で並ぶロンドンの歴史書の中でも、本書ほどローマ時代から現代までのロンドン市民の生活と社会のようすを「生彩ある筆致」で語っているものは他にはみられないだろうという

「皇帝ネロの治世になって7年目」属州ブリタニアのケルト人であるノーフォーク州のイケニ族は、A.D.61年、ローマ軍の女王ボアディケア宮殿での乱暴に対抗し、近隣のトリノワンテス族の支援を得、コールチェスターを攻撃、ローマ第9軍団を壊滅させ、その勢いでテムズ川に面するロンディニウムの港に迫ったという
その頃の日本列島は弥生時代中期で西日本のいくつかの地域には、濠で囲まれた拠点集落と言える村が姿をみせていた
同じ時期のロンディニウムには、城砦も無ければウォールと呼ばれる市壁も無かった
ロンディニウムは河岸の交易の中心地で、石灰岩と瓦造りの少数の建物はあったが多くは木と藁でつくられた家だった
その時、ロンディニウムのローマ総督パウリヌスはウェールズにおり、ロンディニウムをまもる兵の数は少なく、ボアディケアはロンディニウムを一瞬にして破壊したという
しかしパウリヌスは、時を移さずブリトン人の部族を引き入れ、ロンディニウムをボアディケアから奪回し、新しく強い都市の建設を始める

ロンディニウムは、ブリタニア内における交通の要衝として、さらにヨーロッパ大陸との交通の要衝としても、重要な港湾都市でありかつ商業の中心地としての地の利を持っていたとされる
ロンディニウムより下流は地質的に橋を架けることが出来ず、上流は水深が浅くなるため大型船の航行が不可能だった
淀から鳥羽のあたりがちょうど同じ環境にあたる

そして日本列島で古墳時代と呼ばれる時間がはじまるころ
ロンディニウムの人口は約5万
そしてそのまわりには、幅8フィート、高さ20フィートの3マイルにおよぶ強固なウォールが築かれていたという

商業都市ロンディニウムの最初の姿である
アラン・ソレルが描いた見事な復原図に見とれながら
そう言えば鳥羽は権門都市であるとか西国受領の蔵地であるとか言われながら
にぎやかな人々の姿が見えないと思った
どちらかと言うとそのフレーズは淀に使われることが多い
ではロンディニウムは淀か

02_1  Photo_37西陣マップの下Photo_38 絵が完成

2006年11月 5日 (日)

西陣プロジェクト通信

14時から寒梅館のいつもの場所でミーティングをしようと思っていたら
今日はホームカミングデーで、いつものカフェも寒梅館の1階奥も全て満員状態
今年は天気も良く例年以上のOBが集まったのではないでしょうか
大変ありがたいことだと思います

とはいえ、ミーティングの場所はさて、どうしようかと今出川キャンパスに戻ってたどり着いたところが明徳館地下のラウンジ
外のにぎやかさを全く感じさせない静寂の中で

まずは町田さんから表紙面のコンテンツの説明開始
資料を一杯抱えて本隆寺・雨宝院・妙蓮寺・岩神祠についての思いたけを語る
いずれも秀逸

次は並木さん
テーマは西陣の映画産業と街並みそして日暮通
ノートにぎっしり書き込まれた調査結果を基に詳しい説明が
とても70字終わらせるにはもったいない内容ので、急遽枠を増やすことに決定
あっぱれ

続いて西尾さん
1年の時からこだわりつづけた清明神社についての説明を聞くが
意外なほどすっきりしていて一同(?)
けれども、このすっきりさが、西尾さんのこだわりの強さの裏返しだと一同深く
納得

とりは松本さん
コンテンツは浄土院(湯たく山茶くれん寺)・紋屋町・綴織・織屋建・高機・千家十職
さすが院政(もとえ院生)の風格をみせ洗練された中にも含蓄のある説明
感服

今日来られなかった寺本さんからも釘抜き地蔵とおかめと閻魔の説明がとどき
大方出来上がり

みな、それぞれの思いを抱いて資料を彷徨い西陣を歩き、人と出会い心に記憶と記録をとどめたようだ
良い仕事をしています
マップ面の風景写真の候補も整理でき水曜日に上京区役所で打ち合わせをします
完成予定は2月
次のミーティングは16日の予定

暗くなって地上に出ると
すっかり片付けも終わり
いつもの静かな今出川だった
お疲れさまでした

2006年11月 4日 (土)

アダム祭

とは良く言ったもので、そのまま11月下旬におこなわれる今出川のEVE祭に対する
061104_18270001京田辺の学園祭の呼称である

去年は初めての試みであり、かつ天気も思わしくなかったため
学園祭の雰囲気を十分楽しめた趣ではなかったようだが
今年はしっかり学園祭だった

屋台?がたくさん並び
家族連れの市民の皆さんもふくめた多くの人で京田辺キャンパスが賑わい
061104_18270002 暗くなっても、図書館の前は
ステージ上で繰り広げられるバンドの演奏を聴く学生で一杯
おもわず携帯で写真を撮りながら
一足お先にEVEの雰囲気を味わった気がした

学部学生の父母のみなさんとの交流会も兼ねた日程だったが
楽しんでいただけただろうか

2006年11月 3日 (金)

北畠について考える

後醍醐の重臣の一角を構成した北畠
岩波の日本史事典によれば
元々は村上源氏中院(なかのいん)流で
中院通方の子雅家が北畠と称したことをそのはじめとする
鎌倉時代は正二位・権大納言を極官とする家柄で
南北朝期に親房が南朝の中心として活躍したことで有名
その子顕家・顕能等も南朝として尽力し、顕能の子孫は伊勢国司として活動

中院通方は、文治5年(1189年)~暦仁元年(1239)で、別名土御門通方
初代北畠は雅家で建保3年(1215)の生まれ。(~1274)。久我通親の孫で、最初は中院を名乗り、後に万里小路、さらに後に邸宅のあった寺町西今出川北の地名をとって北畠とする
「中古京師内外地図」には現在の京都御苑の北東の一角を北畠雅家の邸宅としており
ここにもまた、鎌倉時代の有名人と上京の関係がみられる

北畠の地名は「北畠通従一条北其門三丁也」『山城名勝志』所引の「指南抄」および応安2年(1369)の『後愚昧記』に毘沙門堂の北畠と見えるため、おおむね同志社大学今出川キャンパスの東にあたることになる
なおこの地域は、中世後半になると、声聞師集団(陰陽師や久世舞や毘沙門経などの呪術的な雑芸能を生業とした人々)の住まいがあったことでも知られ、御霊社や祇園社の記録に登場すると言う

雅家の子供は師行と師親がおり、このうち師親が2代を継ぐ
有名な北畠親房は、師親の子の師重の子で、生まれは永仁元年(1293)
後醍醐天皇の信任が厚く、皇子の世良(よよし)親王の養育を任されたが、元弘の変の前年(1330)に世良親王が亡くなったことで出家、元弘の変には直接関わっていないとみられている。
しかし建武新政時には後の後村上天皇と、息子の顕家と共に東北経営に活躍して後醍醐を支えた。
なお現在青森市になった浪岡城の主は、この顕家につながる北畠氏とされている
南朝の中心人物として常陸を攻め、吉野を拠点とし、観応の擾乱の際には京都へも入るが、文和3年(1354)に奈良県西吉野村の賀名生(あのう)で死

一方師行の系譜に連なるのが北畠具行(1290~1332)で、やはり後醍醐の抜擢をうけ嘉暦元年(1326)参議、元弘元年(1331)従二位
重臣の一人として笠置遷幸に供奉するが、落城後捕らえられ近江で斬られる
43歳だったと言う

ところで醍醐寺三宝院は永久3年(1115)に勝覚が建立し、白河院の帰依を受け発展したが
その勝覚は藤原頼通の養子で左大臣になった人物でもあり
また、村上源氏最盛期を築いた源俊房の子でもあった
後醍醐の側近には村上源氏の土御門流が集中したとも言われる

鳥羽離宮から桂川を隔てた西の地が久我家の荘園だったことは有名だが
その久我家は村上源氏の嫡流で、北畠の中院はその支流だった
大覚寺系の後醍醐は、持明院系で関東申次だった西園寺公宗(1309~1335)の華やかな北山殿への行幸もおこなっているが
鎌倉への対抗意識の中で、寺院との関係もスタッフも非鎌倉系で固めていった
鎌倉時代の村上源氏と醍醐寺の役割は重要なキーワードになるかもしれない

2006年11月 2日 (木)

法隆寺と筒城宮

本日は考古学と歴史文化情報の勉強会第2回目

最初は渡邊俊祐くんの「中門」
法隆寺の成立に関わる再建・非再建論を皮切りにして
法隆寺の伽藍配置の説明をおこない
あの梅原猛が一世を風靡した中門の意味に挑戦
法隆寺中門というひとつのモニュメントに対して
5つの見方があることを説明してくれました
歴史文化情報の考え方とは、まさにこのことで
多面体である人間の歴史とその結果を
いくつもの見方で考えていける力をつけていってくれるものと思います

次は坂田桂一くんの「継体天皇」
京田辺キャンパスの近くに宮をおいたと言われる継体天皇(大王)の
出自と生涯を日本書紀と古事記の記述をたどり説明してくれました
継体天皇について書かれたある図書を参考にして
詳細に系譜をたどり
登場人物の関係も把握し
さらにきちんと年を追って継体の事績を確認してくれました
考古学も歴史研究も同じように時の流れの正確な把握が重要です
最も基本的で当たり前のことですが
物事を分割して整理していくと、つい相互の関係が見えにくくなって
うっかり見落としがあることもまま
良い勉強をしてくれました

ふたりのテーマは既存の分野では「建築史」と「古代史」ですが
前者は「若草伽藍」にかかわる遺跡研究と
後者はまさに後期古墳の研究と密接に関わっています

研究史と史料の読み方に磨きをかけて
模索を始めてほしいとおもいます

次回の予定は11月17日(金)

昨日から渡邊くん製作の京田辺キャンパス紹介ビデオが
大学サイトで公開開始されました
ぜひ御覧下さい

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