« 法隆寺と筒城宮 | トップページ | アダム祭 »

2006年11月 3日 (金)

北畠について考える

後醍醐の重臣の一角を構成した北畠
岩波の日本史事典によれば
元々は村上源氏中院(なかのいん)流で
中院通方の子雅家が北畠と称したことをそのはじめとする
鎌倉時代は正二位・権大納言を極官とする家柄で
南北朝期に親房が南朝の中心として活躍したことで有名
その子顕家・顕能等も南朝として尽力し、顕能の子孫は伊勢国司として活動

中院通方は、文治5年(1189年)~暦仁元年(1239)で、別名土御門通方
初代北畠は雅家で建保3年(1215)の生まれ。(~1274)。久我通親の孫で、最初は中院を名乗り、後に万里小路、さらに後に邸宅のあった寺町西今出川北の地名をとって北畠とする
「中古京師内外地図」には現在の京都御苑の北東の一角を北畠雅家の邸宅としており
ここにもまた、鎌倉時代の有名人と上京の関係がみられる

北畠の地名は「北畠通従一条北其門三丁也」『山城名勝志』所引の「指南抄」および応安2年(1369)の『後愚昧記』に毘沙門堂の北畠と見えるため、おおむね同志社大学今出川キャンパスの東にあたることになる
なおこの地域は、中世後半になると、声聞師集団(陰陽師や久世舞や毘沙門経などの呪術的な雑芸能を生業とした人々)の住まいがあったことでも知られ、御霊社や祇園社の記録に登場すると言う

雅家の子供は師行と師親がおり、このうち師親が2代を継ぐ
有名な北畠親房は、師親の子の師重の子で、生まれは永仁元年(1293)
後醍醐天皇の信任が厚く、皇子の世良(よよし)親王の養育を任されたが、元弘の変の前年(1330)に世良親王が亡くなったことで出家、元弘の変には直接関わっていないとみられている。
しかし建武新政時には後の後村上天皇と、息子の顕家と共に東北経営に活躍して後醍醐を支えた。
なお現在青森市になった浪岡城の主は、この顕家につながる北畠氏とされている
南朝の中心人物として常陸を攻め、吉野を拠点とし、観応の擾乱の際には京都へも入るが、文和3年(1354)に奈良県西吉野村の賀名生(あのう)で死

一方師行の系譜に連なるのが北畠具行(1290~1332)で、やはり後醍醐の抜擢をうけ嘉暦元年(1326)参議、元弘元年(1331)従二位
重臣の一人として笠置遷幸に供奉するが、落城後捕らえられ近江で斬られる
43歳だったと言う

ところで醍醐寺三宝院は永久3年(1115)に勝覚が建立し、白河院の帰依を受け発展したが
その勝覚は藤原頼通の養子で左大臣になった人物でもあり
また、村上源氏最盛期を築いた源俊房の子でもあった
後醍醐の側近には村上源氏の土御門流が集中したとも言われる

鳥羽離宮から桂川を隔てた西の地が久我家の荘園だったことは有名だが
その久我家は村上源氏の嫡流で、北畠の中院はその支流だった
大覚寺系の後醍醐は、持明院系で関東申次だった西園寺公宗(1309~1335)の華やかな北山殿への行幸もおこなっているが
鎌倉への対抗意識の中で、寺院との関係もスタッフも非鎌倉系で固めていった
鎌倉時代の村上源氏と醍醐寺の役割は重要なキーワードになるかもしれない

« 法隆寺と筒城宮 | トップページ | アダム祭 »

上京」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/584942/54083698

この記事へのトラックバック一覧です: 北畠について考える:

« 法隆寺と筒城宮 | トップページ | アダム祭 »