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2006年11月 7日 (火)

ロンドンについて考える1

よく知られていることではあるが、歴史とは、面白いほどに書き手によって印象が変わる
24日からロンドンへ行くため先週の笠置の講座が終わってから右の目で鳥羽を左の目でクリフトファー・ヒバート(大阪市立大学の横山徳爾が訳)の書いた「ロンドン」を見ている

横山さんが訳者のあとがきで記しているように、原著はデイヴィッド・パイパーによる「ガーディアン」紙上で絶賛されたロンドン文化史および社会生活史の名著で、ロンドン図書館に200フィートを越える幅で並ぶロンドンの歴史書の中でも、本書ほどローマ時代から現代までのロンドン市民の生活と社会のようすを「生彩ある筆致」で語っているものは他にはみられないだろうという

「皇帝ネロの治世になって7年目」属州ブリタニアのケルト人であるノーフォーク州のイケニ族は、A.D.61年、ローマ軍の女王ボアディケア宮殿での乱暴に対抗し、近隣のトリノワンテス族の支援を得、コールチェスターを攻撃、ローマ第9軍団を壊滅させ、その勢いでテムズ川に面するロンディニウムの港に迫ったという
その頃の日本列島は弥生時代中期で西日本のいくつかの地域には、濠で囲まれた拠点集落と言える村が姿をみせていた
同じ時期のロンディニウムには、城砦も無ければウォールと呼ばれる市壁も無かった
ロンディニウムは河岸の交易の中心地で、石灰岩と瓦造りの少数の建物はあったが多くは木と藁でつくられた家だった
その時、ロンディニウムのローマ総督パウリヌスはウェールズにおり、ロンディニウムをまもる兵の数は少なく、ボアディケアはロンディニウムを一瞬にして破壊したという
しかしパウリヌスは、時を移さずブリトン人の部族を引き入れ、ロンディニウムをボアディケアから奪回し、新しく強い都市の建設を始める

ロンディニウムは、ブリタニア内における交通の要衝として、さらにヨーロッパ大陸との交通の要衝としても、重要な港湾都市でありかつ商業の中心地としての地の利を持っていたとされる
ロンディニウムより下流は地質的に橋を架けることが出来ず、上流は水深が浅くなるため大型船の航行が不可能だった
淀から鳥羽のあたりがちょうど同じ環境にあたる

そして日本列島で古墳時代と呼ばれる時間がはじまるころ
ロンディニウムの人口は約5万
そしてそのまわりには、幅8フィート、高さ20フィートの3マイルにおよぶ強固なウォールが築かれていたという

商業都市ロンディニウムの最初の姿である
アラン・ソレルが描いた見事な復原図に見とれながら
そう言えば鳥羽は権門都市であるとか西国受領の蔵地であるとか言われながら
にぎやかな人々の姿が見えないと思った
どちらかと言うとそのフレーズは淀に使われることが多い
ではロンディニウムは淀か

02_1  Photo_37西陣マップの下Photo_38 絵が完成

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