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2006年11月 8日 (水)

神泉苑

桓武天皇以来の宮中庭園(禁苑)。平安宮の南東外側に接してつくられ、二条・三条・大宮・壬生の各大路に囲まれた左京三条一坊九~十六町を占める。
現在の言い方では南北513m、東西251mで、
おおむね新京極を三条から四条まで歩いて、さらに四条通を鴨川へ向かって木屋町まで行き
次には高瀬川沿いに木屋町を三条まで上がり、佐久間象山先生の遭難碑を横目で見ながら
再び三条通を新京極まで歩くと、神泉苑の外周をまわったくらいになる
記録によれば、桓武天皇が延暦19年(800)に行幸しはじめて27回通い、その後の天皇も同様に
東西南北1.5町(約180m)と推定される池を中心とした庭園で、水鳥を狩り、詩歌管弦がおこなわれたという
(鳥羽の関連記事には、まさにこの神泉苑でおこなわれたような行事があらわれる)

ところが、文徳天皇から醍醐天皇(およそ850年から930年)はほとんど天皇の行幸がみられず、宗教的な性格を強める
斉衡3年(856)には僧常暁による雨の祈祷がおこなわれ、有験呪者の試験会場ともなる
貞観5年(863)には宮中と共に大般若経の転読がおこなわれ、五月に厄災を防ぐ御霊会がひらかれる
さらに貞観8年の天台座主による7日間の請雨経法以後、祈雨修法の場として、とくに貞観17年(875)の真雅の請雨経法後は東密の祈雨霊場として確立(それ以前は大和の丹生川と山城の貴船川)

10世紀以降は真言の歴代の高僧が神泉苑で祈雨をおこない、とくに仁海は雨僧正として有名な法力があったという
弘仁10年(819)や天長元年(824)には祈雨の修法がおこなわれ
今昔物語の巻14によれば、とくに天長の修法は東寺の空海と西寺の守敏の合戦だったというが
それはこの頃の神泉苑と真言僧の関係によるとされ
「神泉苑絵巻」や「贈大僧正空海和上伝記」がそれを伝えている

その後の神泉苑は、旱魃の際の利水池としても利用されるようになり
朱雀天皇から安徳天皇の時代には、まったく離宮庭園としての機能は無く
すっかり神聖な溜池化したといわれる

現在、堀川御池の交差点を西へいった北側にかつての神泉苑の一部が寺院として残り
その名のバス停もある
かつての神泉苑の範囲はそこからさらに北へのび、二条城の本丸の南濠あたりを北限とし
南は下がった三条通となる

1990年から1993年に地下鉄東西線の建設に際して発掘調査がおこなわれ
(もうそんな昔になるんだ)
神泉苑の西と東の築地跡がみつかり、さらに池の北岸や船着場とみられる遺構や
(現在、復原されて見られる様子)
池に流れ込む遣り水、小橋の跡などが発見され
緑釉瓦や「神泉苑」と名の入った瓦が出土しました
また神泉苑の場所は縄文時代にさかのぼる湿地だったようで
平安京の造営に際して自然環境を活かした都市計画がなされたことがわかります
現代社会における地域開発にとっても学ぶべきことでしょう

西田直二郎 大正15年『神泉苑』(京都府史蹟勝地調査会報告第7冊)

最初の締め切りまであと2週間

鳥羽離宮について見えてきたことと見えないことの間を右往左往する

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