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2006年12月

2006年12月28日 (木)

27日

年末のつもりはないが、来週の予定を見ると年が変わっている
年内の授業は終わったが、プロジェクト科目も追い込み入ってきたので、そのサポートに上京を走る

すっかり静かになった今出川ではガス管の工事がおこなわれていて、思わず掘り出された断面をのぞき込む
深さは1m足らず
この場所は近世の公家屋敷の北におかれた御所の御用屋敷の北端でその北を東西に走っていた五本松(だったろうか)通にあたるので、どんな遺構が出てくるかわからないが、みたところでは近代以降の盛り土のみの模様

ただしクラーク館の近くの調査では、そのくらいの深さから江戸時代の土師器皿が見つかっているので油断はならない
なんといってもここは日本の歴史の中枢部である

千本釈迦堂の本堂の写真を撮りに今出川を西へ走る
途中で上京区長さんに出会う
思わず年末の挨拶

千本釈迦堂は、鎌倉時代の風景がそのまま残る静かな師走の空気の中
すっかり葉の落ちた枝の向こうに国宝の本堂が鮮明に輪郭を見せる
お昼過ぎから青空が顔を出し始めていたが
上空は強い西風で厚い雲のブロックが太陽を遮る
Dsc00168 30分待って、わずかなタイミングをとらえ西日に照らされた本堂を撮る
おもわず雲を待って足場の上で天を見上げていた大阪時代を思い出す
千本釈迦堂を西へ出たところで老松町の名前が目に入る
南へ下りた交差点が上七軒
そうかそんな場所なんだと今更ながら納得

14時の待ち合わせで下立売智恵光院へ
061227_13530002 途中綾綺殿の真新しい石碑をみつける
ここは紫宸殿の北東、仁寿殿のすぐ東
どこにでもある街並みではあるが
実は内裏のど真ん中
やはりここは京都だと実感
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.01.14.02&lon=%2b135.44.40.84&fm=0

学生くんと一緒に山中さんの丁寧な説明を聞き、お正月の準備の様子を見せていただく
やはり年末である

聚楽第の地形を確認しながら
中立売から大宮を上がり千両が辻から新町今出川へ
区役所で簡単な西陣マップの打ち合わせをしてここでも年末の挨拶

16時に寒梅館のいつものカフェで学生君たちと西陣マップのミーティング
イケメンに年末の挨拶を済ませる

いつもの古書店から連絡が入り河原町へ
来年度の授業で活用する資料をみせてもらい
やはり年末の挨拶
そう言えば学生時代
どこかの現場の帰りに、後輩と一緒に長靴にドカジャンで、この時期このあたりを肩で風を切って歩いていた
雪が舞っていたが熱い時代だった

明日は大阪

2006年12月27日 (水)

老松社

終い天神の日のひろいもの
上七軒の有名な和菓子屋さんの名前の由来でしょうか
案内によれば
北野天神の摂社で
祭神は島田忠臣翁
神徳は植林と林業

祭神の島田忠臣は、菅原道真の家臣または夫人の父ともと伝えられ
道真が配流先の大宰府で自らの無念を神々に訴えるために天拝山に登った時、道真の笏を預かったというエピソードをもつ

道真に命ぜられ松の種を現在の北野天神に蒔き、後に道真の霊が北野に降臨した時、多数の松が一夜にして生じたという

道長と松の関係は知らなかったが何に由来するのだろうか

2006年12月25日 (月)

終い天神-学生君たちに読んでもらいたい本-

Dsc00153の由来がいつからどこにあるのか知らないが、終い弘法と並んで有名な京の年末の風物詩
以前にも書いたが、寺社の境内でおこなわれるフリーマーケットの場所が北野と東寺であるということはとても面白い
直接つながるかどうかはわからないし、まだあまり注目されてはいないが、北野は中世前期に溯り、淀の神人と連携して「上の洛中」の文化と経済の中心となった場所
(できれば来年は北野の境内もテーマにしたい)
一方「下の洛中」には伏見や祇園も深く関わるが、東寺はもちろん洛中で最大の宗教勢力であり、さらに京の七口のひとつとして洛南から京に入ってくるすべての経済をおさえられる位置にあった
(馬田綾子さんの話しをもう一度聞いてみたい)
その点で言えば、やはり秀吉の土居堀の範囲が北大路を越えるのは、なにか普通の理由では説明できないものがあるからだと思う
(それを確かめに、1月末か2月にソウルへ行きたいが、行けるだろうか)

そんな「上の洛中」で生まれた同志社大学のキャラクターについて
西の大先輩からとても良い本を教えてもらって読んだ
岩波新書の『ラグビー・ロマン』という、同志社ラグビーの黄金時代を築いた名指導者の岡仁詩先生を描いた後藤正治さんの書である

岡先生には学部の体育の授業で教わったことがある
学生とラグビーをこよなく愛し
リベラルで、合理主義者で、新しもん好きで、ハードボイルドで、弱音をはかず、リーダーとして自ら先頭に立つ
学生との格闘の中で、押しつけではなく、提案をしてその説明をしっかりして
(とにかく話しが長かったそうである)
学生の判断と自主性を尊重する
「人はだれも、頭を打ち、失敗を重ね、さまざまに体験を重ねるなかで変わり得る」と思っており、「<学生>とは学んで新たに生まれいずるもの」と書くと、本気で信じているロマンティスト
良い言葉だと思う
「人間のすることやからなあ」「しゃあない」と言いながら自らの行動で学生に思いを伝える
形式にとらわれない「個性派の集合体」
本質を突いた作戦に特徴付けられる同志社ラグビーが、そこからうまれた
そんな、熟成された教師と学生の信頼関係によって培われてきた、同志社大学の伝統と文化そのものが
このラグビーの歴史の中に描かれている

この本を読みながら、心の中で思わず「そうだ、その通りだ」と
何度もつぶやいてしまったから、自らもすっかり同志社大学の伝統の中にあると思う
その本にも書いてあるが
学生の時はなんのことかわからないけれど、卒業して自分がそれに似た経験をするようになったとき、鮮明にその時のことを思い出す
同志社大学で過ごす時間というものは、そんな時間である
しなければならない日々の出来事と共に
形式ではなく、本質的で大切なことを考えることのできる時間と空間
来年度の授業では、最初にこの話しをしよう

実は上京区の西陣探索マップのコンテンツで、どうしても迷ってしまい
未だに決められないものがある
19日に成相寺へ行った時も、実際に歩いて見てまわった結果、新しい発見があった
写真や図面や文章だけでは得られない情報がそこにはある
形式ではなく、本質を伝えるために
そんな淡い期待を抱いて道具屋筋を歩き、古書店をめぐり、今日は終い天神へ
思えば去年の年末は相国寺で除夜の鐘をついて
今年の初詣は、その足で行った北野天神だった
これもなにかの縁だろうか

自転車で今出川を西へ
(今出川に自転車を置くようになって、すっかりフットワークが軽くなった)
Dsc00147 松本さんが教えてくれたように、千本の手前の般舟院陵が開いていたので少しおじゃまして、定家の伝説の地を見る
旧の今出川へ入ると路は少し登り坂になる
老松の先はすでに大変な人だかり
150円で自転車を預けて、はじめてゆっくり市をめぐる
老若男女が入り交じり、海外からの観光客と海外からの出店が入り交じる
中世の門前市の風景とはこんな感じだったのだろうか

Dsc00154 秀吉の北野茶会にちなむ長五郎餅を見て思う

菓子型を2本、糸車を1つ、埴輪人形のみやげ物をひとつ、家紋の型紙を3枚
まずまずの成果
けれども念には念を入れて、その足で、丸太町から三条まで古書店をめぐる
文化情報の学生君たちにも古書店巡りを覚えていってもらいたい
どの分野でも同様に、タイトルを眺めるだけで、それぞれの時代が持っていたコンテンツに対するさまざまな思いと見方と問題の所在が見え、そこから新しいテーマが浮かんでくる
ただしこちらは難関
はて、もう少し悩もうか

数日前に、ミナミの道具屋筋から千日前を歩き、自由軒の前を通り、北へ曲がって業界では有名な古書店に寄った
この日は大阪府関係の報告書が大量に棚に並んでいた
この業界でも世代交代が始まっているが、そのひとつの象徴を見た気がした
ミナミの喧噪に懐かしさを感じるのは、大阪時代のこの街との10年あまりのつきあいだろうか
京都とはまた別の熱さがあって学ぶことが多い

来年は文化情報の学生くん達も3回生
専門に目覚めたなら、京都でも大阪でも案内しよう

2006年12月22日 (金)

年末がやってくる

Dsc00021 四條畷市の歴史民俗資料館でひらかれていた「清滝越えの道」という展示を見てきた
縄文時代から中世まで、古墳時代は古墳もあれば朝鮮半島からの土器も出る
古代は山岳寺院の隣接地
中世はため池をもつお寺と館
河内から大和へむかうあの清滝越えの重要遺跡である
うかつにも勉強不足で、こんな近くにこんなものすごい遺跡のあることに
知ってはいたが認識が浅かった
しっかり調べて来年の授業で話をしよう

京都市考古資料館では「みやこの器」展をやっている
これまでの京都市内の調査の成果を土器や陶磁器の
それはものすごい量と種類で圧倒される展示である
必見必見
今年度の残りの授業と、来年度の授業で多くの学生君たちに見てもらいたい

Dsc00039 幸い宮津は心配された雪もあがりしっかり成相寺の遺跡をみてまわることができた

関東の友人から年末恒例の調査の連絡が来る

森浩一先生の「考古学は町人の学問だ」というコンセプトを象徴する大阪の古代学研究会で鳥羽殿の話をして、なんとか鳥羽にはひとくぎりをつけたので
年末年始は「いざ鎌倉」企画をすすめながら上京にもめどをつけようと思う
東京からやってきたSくんと奈文研の近くで酒を飲みながらそんな2月の話をする

今日22日は、年内の講義最終日
郷里の遠い学生君たちは、早くも帰省の準備だろうか
18時を過ぎると夢告館はすっかり静まりかえる
今日22日は、文化史の卒論提出日でもある
昔はその後、4回生を慰労する会が開かれた
その意味で大きな一区切りの日でもある
がんばってきた4回生の皆さんお疲れ様でした

Dsc00142 文化情報の学生君たちも、年が明ければすぐに3回生
卒論の準備というイメージも急速に現実味を帯びてくる
やがて来る大きな一区切りの日を意識して
がんばってくれるだろう

今年はまだいくつか予定が入っており
来週は毎日今出川へ行くことになるかもしれない
なかなか、なかなかである

小穴芳実2006「住吉荘成相郷の開発」『信濃』58-12
四條畷市教育委員会2006『清滝越えの道』
松山市考古館2006『四国・弥生の宝物』
松山市考古館2004『首長の大型建物をみる』
松山市教育委員会・松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター2005『来住・久米地区の遺跡6』
松山市教育委員会・松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター2006『松山市埋蔵文化財調査年報18』
松山市教育委員会・松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター2006『東石井遺跡 西石井遺跡』
長野県考古学会2006『長野県考古学会誌(樋口昇一氏追悼号)』118
豊島区遺跡調査会2006『染井』9

2006年12月10日 (日)

ドキュメント応仁の乱

瀬戸市文化振興財団埋蔵文化財センターによる「江戸時代のやきもの-生産と流通-」の研究会へ参加のために、愛知県瀬戸市の瀬戸蔵へ

寒梅館の調査をおこなっていた時に、当時瀬戸市におられた藤澤さんを訪ねて来て以来
瀬戸は昨日とはうってかわった好天でポカポカ陽気が嬉しい

報告者は京都市の永田さん、愛知県の仲野さん、愛知学院大の藤澤さん、佐賀県立陶磁文化館の大橋さん、瀬戸市の金子さん、有田町の村上さん、常滑の中野さん、福井県の田中さん、滋賀県の畑中さん、兵庫県の長谷川さん、備前市の石井さん、弘前大学の関根さん、東京の長佐古さん、岡山の森本さん、堺の森村さん、岡山の乗岡さん
いつもの顔ぶれと久しぶりの顔ぶれと初めての顔ぶれ

京都では、当たり前のように江戸時代の陶磁器が大量にみつかるが、その量に圧倒され、なかなか全体像を整理することができてない
しかしそれ以上に大量の資料と取り組んでいる東京では着実な成果をあげている
デジタル化とデータベースで近世の京都の陶磁器研究についても新たな局面を切り開いていかないといけないと思う
という話しを名鉄瀬戸線の中で大橋さんとする

帰りのアーバンライナーの中で、プロジェクト科目でK君が取り組んでいる応仁の乱ドキュメントの参考資料を作成

1441(嘉吉1)嘉吉の乱(足利義教を赤松満祐が暗殺事件)。将軍権力の失墜を、管領細川勝元と畠山持国が幼い将軍義勝(7代)に代り交互に幕政を主導。
1449(文安6)8代将軍足利義政。

1454(享徳3)細川勝元が岳父の山名持豊(宗全)と結んで畠山氏の内紛に介入。畠山氏は持国の実子義就(よしなり)方と甥の政長方とに分裂。
1460(寛正元)細川勝元が畠山義就の出仕を停止。畠山政長が優位にたつ。

一方
1459(長禄3)管領斯波義敏は家臣の甲斐常治と対立して、堀越公方足利政知援助の出陣命令に背いて失脚→大内義弘を頼る。
1461(寛正2)斯波義敏に代わり、九州探題渋川義鏡(よしかね)の子義廉(よしかど)が斯波氏を嗣ぐ。
 政所執事伊勢貞親・蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)が斯波義敏の復権を策す。
 →渋川義鏡が失脚。
これを見た斯波義廉と親しい山名宗全は、義敏方の伊勢貞親らの背後に細川勝元ありと見、伊勢貞親および畠山政長を陥れるために畠山義就と連携。

そんな中
1464(寛正5)足利義政が弟の義尋を足利義視として家督を継がせる。
1465(寛正6)足利義政の妻富子が義尚を産む。伊勢貞親はその乳人として義視を排斥
さらに
1466(文正1)8月伊勢貞親らは斯波義敏の家督回復を発令。
しかし
山名宗全らに義視暗殺計画を糾弾されて、伊勢貞親は9月6日に失脚(文正の政変)。
ついに
山名宗全は畠山義就と連携し、義就が河内などから5000の兵を千本地蔵院に送る。

そして

1、御霊林の合戦(畠山政長・細川勝元・斯波義敏・伊勢貞親・足利義尚:畠山義就・山名宗全・斯波義廉)
文正2年(1467)正月2日:将軍足利義政(室町殿)が管領畠山政長邸(万里小路(柳馬場)東大炊御門北)の訪問中止。畠山義就が室町殿へ出仕
 正月5日:山名宗全邸で、畠山義就が足利義政と義視を迎え宴
 正月6~:畠山政長重臣神保長誠が二条京極邸から畠山政長邸北の仏陀寺に移り、両者を囲む堀を掘る。
 正月15日:山名宗全が足利義視を今出川館(烏丸今出川南東)から室町殿へ移す。
 正月17日:畠山政長が、自邸を焼き上御霊の森で挙兵。筒井順宣。兵2000余
 正月18日:開戦。畠山義就方3000余。山名政豊・朝倉孝景
 正月19日:畠山政長没落により収拾

 京都の戦はおさまるが、各地で争いがおこる

2、東軍の攻撃-細川参戦(東軍161500騎と西軍116000騎か)
 3月3日の節供に細川勝元(上立売小川)が出仕せず
 5月20日:細川勝元が室町殿をおさえる
  土倉正実房屋敷(小川東今出川北)は西軍一色義直(邸宅は室町西五辻北)が占拠
 5月24日:土倉正実房は東軍筒井光宣が占拠
 5月26日:前線は大手の陣所太田垣館(実相院の北で堀川~小川上立売)、舟橋(堀川今出川上る)、百々の透(小川寺ノ内)、安居院大宮(大宮上御霊前通)、花ノ坊(堀川寺ノ内)、細川勝久邸(一条大宮)、芝の薬師(西軍:堀川上立売西)
 東は百万遍(一条小川)~西は細川勝久邸(一条大宮)~北は堀川上御霊前通~南は二条

3、西軍の反撃-大内参戦
 6月3日:足利義政が細川方を宣言、山名方に大内政弘(石見と伊予)が参戦
 7月20日:大内が兵庫に上陸
 8月20日:大内が淀・山崎へ
 8月23日:大内が東寺口から船岡山へ。後土御門天皇を室町殿へ。東軍総大将の足利義視が逐電
 9月1日:内裏警備の三宝院(土御門北柳馬場東)を西軍5万余が攻撃、東軍京極の守る浄花院(土御門烏丸西)を西軍が攻撃
 9月13日:山名宗全が細川勝元邸(上立売小川)を攻撃、畠山義就が内裏を占拠
  東軍の範囲は北小路烏丸殿・相国寺・室町殿・今出川殿内
 10月3日:西軍が2~3万の兵で相国寺を攻撃
 10月4日:東軍が3000の兵で相国寺を奪還

4、膠着状態
 応仁2年(1468)正月元旦:細川勝元が西軍本陣を攻める
 3月:烏丸今出川で東西両軍戦闘
 4月:西軍が高さ21mの大井楼(だいせいろう)を、東軍も30m以上の櫓を築く
 9月初旬:嵯峨野で戦闘。東軍が能成寺口・安居院口・紫野から船岡山を攻める
 1条通に深さ1丈(3m)、幅2丈(6m)の空濠が掘られる
 細川勝元は斯波義廉に対抗して東軍の管領となり、足利義視は伊勢貞親の復帰を嫌って西軍に移り将軍格となる。
 東西両軍は東幕府・西幕府の姿をとり、互いに敵方の領国の攪乱を図るが戦局は膠着。

5、終息
 文明5(1473)細川勝元と山名宗全が死ぬと、山名宗全の外孫政元が細川氏を継いで細川・山名両氏は講和するが諸将は戦闘を続行。
 足利義尚が将軍職を継ぐと日野富子が補佐
 文明8年(1476)から大内政弘・足利義視と和睦交渉を進め、西幕府は1477年11月11日に解散

日本歴史の中で地域活性化の時期がいくつかある
最初は律令体制がゆるみ始めた時の大名田堵と呼ばれる人達の登場から受領の時代だと思う
その後、源氏による標準化がはかられるが実態にあわず
結果的に北条氏による地域との連携による社会が出来上がる
次の時代の盟主となった足利氏は鎌倉の源氏以上に標準化が好きだったのだろうか
矛盾のひとつとして嘉吉の乱がおき、その最も象徴的な事件としてこの応仁の乱がおこる
結果、地域活性化が促進され、各地で特色ある産業の発達を生んだ
ともすれば現在残る中央権力に関係する有名なモニュメントが目が向きがちだが
いわゆる京文化の拡散と共に、日本の文化と社会の本質は
実はこの時期以降の、いわゆる戦国時代にかけての時期の各地の歴史遺産に学ぶべきことも多い
公的な情報はどんどんひろげて共有化すべきだと思う
けれどもその運用はあくまでも地域に根ざしたものだと言うひとつの具体的な例である

2006年12月 7日 (木)

西陣プロジェクト途中

印刷屋さんからラフスケッチが来て
先週の土曜日に西陣プロジェクトのミーティングをおこないました
ラフスケッチですが、やさしい良い感じのテイストです
なんでもそうですが、頭の中で考えているより、形になったものを見ると
頭の中で考えていることがより鮮明になって仕事が前に進みます
映画でも、建築でも、そして論文でも
昔からのことわざにもありますが、文化情報学部にとって、このことはとても重要です

表紙面では
まず表紙が、Nさんのデザインで背景画にのせるキャラクターを待っての段階
各コンテンツでは、文章は一部をのぞきほぼ出来ているので、短いものは文章を追加して、西陣関係は内容を吟味して、あとはキャッチコピーを入れるくらい
仮の写真の入れ替えは、できれば担当が、自分の目で見て納得できるものをじっくりと
マップ面は、いよいよこれから
Mさんは近世の呉服屋さんの場所を
Nさんはかつての映画館の場所を
調べてきてくれました
地図におとすと、さずが、文化とものづくりの街だということがよくわかります
それから、せっかくなので、表紙面に載せられなかったさまざまなコンテンツのちょっとした説明も吹き出しでたくさん載せたいです

この後は、今週中にメンバーからの校正をまとめて印刷屋さんにもどして
それを年末までに直してもらい
お正月の間にもう一度メンバーで検討したら
あとは細部調整ということでいけるでしょう

京田辺も今出川もクリスマスの電飾がきれいに輝いています
今年もあとわずか

2006年12月 5日 (火)

鳥羽殿跡の歴史空間情報的研究・緒論-歴史情報の数量化にかかる考え方への試みについて-

夏前から準備を進めてきた鳥羽離宮跡の原稿が、とりあえず第1段階の終わりに到達しました。まだあくまで緒論ですが、さわりを少しだけ紹介します。1000を越える史料項目のデータと、150次の発掘調査データも調べてきました。もちろん実物はあたることはまだできていません。そのための長い助走のようなものです。大学院の授業にも使います。文化情報学部の歴史情報系をめざす学生君達は、ぜひ参考にしてください。

 鳥羽殿とは、平安時代後期の応徳3年(1086)7月頃に、白河天皇が現在の名神高速道路南インターチェンジ周辺に造営を開始した離宮とその関連施設の総称である。これまで文献史研究により、「後院」としての性格と西国受領との関係が指摘されてきたが、50年におよぶ遺跡研究の結果、それらの評価に加えて、鳥羽殿のある景観が、中世都市の原型につながる重要な意味ももっていた可能性がみえてきた。小論ではその検討を、文献と遺跡の歴史空間情報的な総合化によって試みる。
 1086年から1184年の間で、東京大学史料編纂所が公開している「史料綱文」「古記録」「平安遺文」データベースから「鳥羽」をキーワードに検索し、これに『城南』および『平安京提要』でとりあげられいる記事を加えた結果、現時点で1100件を越える鳥羽殿関係のデPhoto_39 ータを得た。①移動記事は白河期と鳥羽期で一端とぎれること、②それぞれの上皇が注目した地区が北殿と東殿であったこと、③御堂については鳥羽期が多いこと、④遊興儀式の回数および宗教儀式の回数は両期で類似し、⑤院の支援スタッフに関係する施設の数も類似している、とまとめることができる。
 このうち①~③の状況は、このような鳥羽殿に対する二人の上皇の関わり方の違いを、拠点とその具体的な事業について明確に示したものと考える。一方④については、鳥羽期の鳥羽殿が「王家の墓所」としてあるいは「聖地」としての性格を強めたと言われていることと、必ずしも整合しない可能性を示す。また⑤についても院をささえたスタッフが、鳥羽殿の役割の変更にともなって変化した状況ともみえにくい。確かに鳥羽期の鳥羽殿は御堂の建築ラッシュではあったが、それと「王家の墓所」としての性格付けの関係については再考が必要かもしれない。
  鳥羽殿関係の調査は現在までに150次を数え、さらに試掘等の調査が加わる。発見されている時代は弥生時代に遡り近世におよぶ。報告書に掲載されている情報を出来る限り読み込んだデータベースを作成し、谷謙二氏による地理情報分析支援システムのMANDARAで分布図を作成し、今回は鳥羽殿期に限って検討をおこなう。
Photo_40   限られた条件に加え、全体の遺跡情報に対してわずかなデータ数にすぎないが、全体的な傾向としては、11世紀終わり頃から12世紀初頭の資料は少なく、大半の資料が12世紀代の中頃に属する可能性が指摘できる。 確かに東殿の中心部は墓所であるが、鳥羽殿全体としては、白河期より生活の場としての意味も加わっている可能性を指摘したい。
 鳥羽殿の成立に先行して、10世紀後半頃から11世紀後半に大きく変貌を遂げる平安時代後期の京都については、すでに五味文彦・高橋昌明氏らをはじめとする多くの重要な先行研究がある。小稿でおこなってきた鳥羽殿の検討は、道長から清盛および後鳥羽までを包括するものになるため、今後はこれらの先行研究に多くを学びながら、左京繁栄の理由から中世都市京都の成立までを視野にすすめなければならない。

藤原道長(966~1027)[法成寺(1020)・土御門殿・宇治別業(998)・木幡浄妙寺]
藤原頼通(992~1074)[平等院(1052)・白河殿]
(村上源氏)源俊房(1035‐1121)
藤原師実(1042~1101)[平等院・宇治泉殿]
白河天皇(1053~1129)[法勝寺(1077)・鳥羽殿南殿(1087)北殿]
藤原師通(1062~1099)[平等院・富家殿]
藤原忠実(1078~1162)[平等院・富家殿・小松殿(成楽院御所)・西殿]
鳥羽天皇(1103~1156)[鳥羽殿勝光明院・金剛心院・安楽寿院・△淀]
後白河天皇(1127~1192)[法住寺殿・蓮華王院]
藤原秀衡(1122~1187)[無量光院・平泉館・柳之御所・△衣が関]
平 清盛(1118~1188)[六波羅・福原・◎輪田泊]

次は宇治と鎌倉

2006年12月 3日 (日)

楽洛キャンパス

3月に『楽洛キャンパス』と銘打った京都の歴史と文化の講座が開かれます
コンセプトは、「新しい視点で京都の魅力を理解し、楽しみながら学んでいただくための体感型学習プラン」だそうです
鋤柄も、都市史の視点と歴史遺産活用の視点から2回話しをします
詳細はこちらをどうぞ
http://rakurakucampus.jp/
関連して、京都市と京都市観光協会が協力する「京都おこしやす大学」
という企画もはじまっています
考古学と歴史の教育と研究を通じて
日本の歴史と文化の凝縮した京都を知ってもらうための
実践的な活動を、これからもどんどん続けたいと思います

以下、まったく個人的なことを少し
我が大学では今年からアンチエイジングドックシステムの老化判定チェックができるようになりました
現在、実年齢48歳ですが、老化度判定は
筋年齢39.6歳、骨年齢49.0歳、ホルモン年齢44.2歳、神経年齢45.6歳、血管年齢49.0歳とのこと
みかけ通りかどうかわからないが、全体として年齢相応の老化のようです
注意点としては、運動量が少なめなので、週2回の筋力トレーニングとウォーキングなどの有酸素運動をする必要があるようです

その中で難しい言葉がひとつ
フリーラジカル発生要因が多いようなので、抗酸化サプリメント(コエンザイムQ10など)を服用してください
このフリーラジカルとは、加齢やストレスや紫外線や喫煙や電磁波などの外的な要因で、身体のタンパク質や脂質などが酸化し変質して老化の原因になるものだそうで
毎日パソコンに向かっている身にとっては、なんとも言いようのないご指摘
確かに遠視は急激に進んできたが
適度な飲酒は良いようなので
パソコンを最小限におさえて、その代わりに早足で遺跡をたくさんまわって、汗をかいて

つとめることにしましょう

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