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2006年12月10日 (日)

ドキュメント応仁の乱

瀬戸市文化振興財団埋蔵文化財センターによる「江戸時代のやきもの-生産と流通-」の研究会へ参加のために、愛知県瀬戸市の瀬戸蔵へ

寒梅館の調査をおこなっていた時に、当時瀬戸市におられた藤澤さんを訪ねて来て以来
瀬戸は昨日とはうってかわった好天でポカポカ陽気が嬉しい

報告者は京都市の永田さん、愛知県の仲野さん、愛知学院大の藤澤さん、佐賀県立陶磁文化館の大橋さん、瀬戸市の金子さん、有田町の村上さん、常滑の中野さん、福井県の田中さん、滋賀県の畑中さん、兵庫県の長谷川さん、備前市の石井さん、弘前大学の関根さん、東京の長佐古さん、岡山の森本さん、堺の森村さん、岡山の乗岡さん
いつもの顔ぶれと久しぶりの顔ぶれと初めての顔ぶれ

京都では、当たり前のように江戸時代の陶磁器が大量にみつかるが、その量に圧倒され、なかなか全体像を整理することができてない
しかしそれ以上に大量の資料と取り組んでいる東京では着実な成果をあげている
デジタル化とデータベースで近世の京都の陶磁器研究についても新たな局面を切り開いていかないといけないと思う
という話しを名鉄瀬戸線の中で大橋さんとする

帰りのアーバンライナーの中で、プロジェクト科目でK君が取り組んでいる応仁の乱ドキュメントの参考資料を作成

1441(嘉吉1)嘉吉の乱(足利義教を赤松満祐が暗殺事件)。将軍権力の失墜を、管領細川勝元と畠山持国が幼い将軍義勝(7代)に代り交互に幕政を主導。
1449(文安6)8代将軍足利義政。

1454(享徳3)細川勝元が岳父の山名持豊(宗全)と結んで畠山氏の内紛に介入。畠山氏は持国の実子義就(よしなり)方と甥の政長方とに分裂。
1460(寛正元)細川勝元が畠山義就の出仕を停止。畠山政長が優位にたつ。

一方
1459(長禄3)管領斯波義敏は家臣の甲斐常治と対立して、堀越公方足利政知援助の出陣命令に背いて失脚→大内義弘を頼る。
1461(寛正2)斯波義敏に代わり、九州探題渋川義鏡(よしかね)の子義廉(よしかど)が斯波氏を嗣ぐ。
 政所執事伊勢貞親・蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)が斯波義敏の復権を策す。
 →渋川義鏡が失脚。
これを見た斯波義廉と親しい山名宗全は、義敏方の伊勢貞親らの背後に細川勝元ありと見、伊勢貞親および畠山政長を陥れるために畠山義就と連携。

そんな中
1464(寛正5)足利義政が弟の義尋を足利義視として家督を継がせる。
1465(寛正6)足利義政の妻富子が義尚を産む。伊勢貞親はその乳人として義視を排斥
さらに
1466(文正1)8月伊勢貞親らは斯波義敏の家督回復を発令。
しかし
山名宗全らに義視暗殺計画を糾弾されて、伊勢貞親は9月6日に失脚(文正の政変)。
ついに
山名宗全は畠山義就と連携し、義就が河内などから5000の兵を千本地蔵院に送る。

そして

1、御霊林の合戦(畠山政長・細川勝元・斯波義敏・伊勢貞親・足利義尚:畠山義就・山名宗全・斯波義廉)
文正2年(1467)正月2日:将軍足利義政(室町殿)が管領畠山政長邸(万里小路(柳馬場)東大炊御門北)の訪問中止。畠山義就が室町殿へ出仕
 正月5日:山名宗全邸で、畠山義就が足利義政と義視を迎え宴
 正月6~:畠山政長重臣神保長誠が二条京極邸から畠山政長邸北の仏陀寺に移り、両者を囲む堀を掘る。
 正月15日:山名宗全が足利義視を今出川館(烏丸今出川南東)から室町殿へ移す。
 正月17日:畠山政長が、自邸を焼き上御霊の森で挙兵。筒井順宣。兵2000余
 正月18日:開戦。畠山義就方3000余。山名政豊・朝倉孝景
 正月19日:畠山政長没落により収拾

 京都の戦はおさまるが、各地で争いがおこる

2、東軍の攻撃-細川参戦(東軍161500騎と西軍116000騎か)
 3月3日の節供に細川勝元(上立売小川)が出仕せず
 5月20日:細川勝元が室町殿をおさえる
  土倉正実房屋敷(小川東今出川北)は西軍一色義直(邸宅は室町西五辻北)が占拠
 5月24日:土倉正実房は東軍筒井光宣が占拠
 5月26日:前線は大手の陣所太田垣館(実相院の北で堀川~小川上立売)、舟橋(堀川今出川上る)、百々の透(小川寺ノ内)、安居院大宮(大宮上御霊前通)、花ノ坊(堀川寺ノ内)、細川勝久邸(一条大宮)、芝の薬師(西軍:堀川上立売西)
 東は百万遍(一条小川)~西は細川勝久邸(一条大宮)~北は堀川上御霊前通~南は二条

3、西軍の反撃-大内参戦
 6月3日:足利義政が細川方を宣言、山名方に大内政弘(石見と伊予)が参戦
 7月20日:大内が兵庫に上陸
 8月20日:大内が淀・山崎へ
 8月23日:大内が東寺口から船岡山へ。後土御門天皇を室町殿へ。東軍総大将の足利義視が逐電
 9月1日:内裏警備の三宝院(土御門北柳馬場東)を西軍5万余が攻撃、東軍京極の守る浄花院(土御門烏丸西)を西軍が攻撃
 9月13日:山名宗全が細川勝元邸(上立売小川)を攻撃、畠山義就が内裏を占拠
  東軍の範囲は北小路烏丸殿・相国寺・室町殿・今出川殿内
 10月3日:西軍が2~3万の兵で相国寺を攻撃
 10月4日:東軍が3000の兵で相国寺を奪還

4、膠着状態
 応仁2年(1468)正月元旦:細川勝元が西軍本陣を攻める
 3月:烏丸今出川で東西両軍戦闘
 4月:西軍が高さ21mの大井楼(だいせいろう)を、東軍も30m以上の櫓を築く
 9月初旬:嵯峨野で戦闘。東軍が能成寺口・安居院口・紫野から船岡山を攻める
 1条通に深さ1丈(3m)、幅2丈(6m)の空濠が掘られる
 細川勝元は斯波義廉に対抗して東軍の管領となり、足利義視は伊勢貞親の復帰を嫌って西軍に移り将軍格となる。
 東西両軍は東幕府・西幕府の姿をとり、互いに敵方の領国の攪乱を図るが戦局は膠着。

5、終息
 文明5(1473)細川勝元と山名宗全が死ぬと、山名宗全の外孫政元が細川氏を継いで細川・山名両氏は講和するが諸将は戦闘を続行。
 足利義尚が将軍職を継ぐと日野富子が補佐
 文明8年(1476)から大内政弘・足利義視と和睦交渉を進め、西幕府は1477年11月11日に解散

日本歴史の中で地域活性化の時期がいくつかある
最初は律令体制がゆるみ始めた時の大名田堵と呼ばれる人達の登場から受領の時代だと思う
その後、源氏による標準化がはかられるが実態にあわず
結果的に北条氏による地域との連携による社会が出来上がる
次の時代の盟主となった足利氏は鎌倉の源氏以上に標準化が好きだったのだろうか
矛盾のひとつとして嘉吉の乱がおき、その最も象徴的な事件としてこの応仁の乱がおこる
結果、地域活性化が促進され、各地で特色ある産業の発達を生んだ
ともすれば現在残る中央権力に関係する有名なモニュメントが目が向きがちだが
いわゆる京文化の拡散と共に、日本の文化と社会の本質は
実はこの時期以降の、いわゆる戦国時代にかけての時期の各地の歴史遺産に学ぶべきことも多い
公的な情報はどんどんひろげて共有化すべきだと思う
けれどもその運用はあくまでも地域に根ざしたものだと言うひとつの具体的な例である

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