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2007年1月14日 (日)

14世紀代をめぐる諸問題

13日の土曜日に
日本史研究会の2007年1月例会が「14世紀史の可能性」をテーマに開催された
場所は東山一条南西の京大会館
市澤哲さんが「14世紀政治史研究をふりかえって」
原田正俊さんが「中世仏教再編期としての14世紀」
大村拓生さんが「都市史における14世紀の位置」
伊藤俊一さんが「「自力の村」の起源」
藤田明良さんが「東アジア海域世界の変動と日本列島」
大山 喬平さんが「多様性としての列島14世紀」
の報告をされた

14世紀といえば
1983年の卒論のテーマが、京都市内の土師器皿の編年の背景にあった14世紀代で
1986年に信濃に書いた中世陶磁器の変遷の背景のテーマがまさにそれで
もちろん1985年に提出した修論の大きなテーマのひとつもそれだった
それまで中世という時代をひとくくりにして
おもに古代との差異や近世との差異をテーマに
土器や陶磁器の編年の整備に力を注いでいたこの時期の考古学研究に対し
時代区分という視点で問題を投げかけた初めてのものだったと思う

それ以後、この時期に対する問題意識は網野先生の見方と連動して続き
村落遺跡や館の成立や都市論
東のかわらけ皿と西のかわらけ碗もそれが根底に流れている
もちろんこれまでの授業で何度も話をしてきたので聞いた人も多いと思う
ただし注意しなければならないのは
中世の考古学の世界からみると
14世紀代というのは、それ以前から続いてきたひとつの文化と
この時期以降に続いていくひとつの文化が交錯しながら交代するとても大きな過渡期
ではあるが
14世紀の中で、そういった交代がパタンとおきたわけではないこと
魚住窯の捏鉢と備前の擂鉢の交代にはタイムラグがあり
いわゆる方形館の出現は13世紀後半に溯る

実はそのきざしは13世紀の後半代からあり
その終息は15世紀の初めとも言える
なにかがおこったことによって始まった変化と
なにかがおさまったことによって始まったべつの事柄
その間におこった様々なものごとの転換の総体が
いわゆる14世紀代の諸問題であって
ゆえ、この問題は
逆に14世紀代に絞ってしまうと
本来見なければならないものが見えなくなってしまう危険性もはらんでいる
と言える

今考えていることやこれから考えなければならないことに対して
とても良い勉強になった

昼休みの時間を利用して吉田神社へ行く
東一条の東のつきあたりで、神楽岡の西の麓に鎮座する
「伊呂波字類抄」によれば永延元年(987)の勧請
社伝によれば貞観年間(859~877)の勧請
藤原山陰が氏神として祀っていたが、永延元年より祭礼が始められ
正暦2年(991)には十九社のうちに並び
藤原氏の氏神としての性格をもち、道長が法成寺と吉田社をあがめるのは興福寺と春日社に比べられたという

なお、はじめは吉田二本松町あたりにあったが、文明年間に現在地に移った
社務は平安時代に卜部兼延が祠官となり、鎌倉時代の兼煕の時から吉田姓

本社の東南に斎場所大元宮がおかれる
吉田神社の末社のひとつで、文明16年(1484)に吉田兼倶が邸内から移して全国の神を合祀した唯一神道(吉田神道)の八角社殿をおく
全国60余州の神祇に詣でたと同じ効験があるとして信仰を集めた
社殿の背後には、大内裏内にまつられていたものを天正18年(1590)の秀吉の聚楽第造営により遷座した神祇官八神殿の跡がある

この岡は、元々神座(かみくら)と考えられ、周辺には天皇家の陵墓が多く築かれている
太平記の時代には城が築かれる
授業でも言っているように船岡山と同じ特徴をもつ
南には黒谷の金戒光明寺が建ち、さらにその南が平安神宮なので、院政期は白河殿の北あたり
白河街区は平安京のミニチュアだったのだろうかとも

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