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2007年1月

2007年1月28日 (日)

東中谷遺跡と市尾墓山古墳

高取バイパスの建設に伴う橿原考古学研究所の調査が高取町でおこなわれ
平安時代の墓がみつかり、この日に説明会がおこなわれた
場所は、飛鳥から南へ壺阪山の峠を越えて高取にはいり
市尾墓山古墳の岡を北に見る位置
近鉄吉野線のはしるその北側は、狭い盆地がつづいているが
ここは低い丘陵の連続する場所で
とても平安時代のお墓があるとは思えないような場所

みつかったお墓は5基
立地は丘陵頂部の南斜面
このうち2号墓は木炭槨をもった木棺墓で
Dsc00328 土師器壺と割った八花鏡および鉄滓
八花鏡は鏡背に草花の文様が描かれており
みための質は中国製の様子
いわゆる8世紀代の唐鏡
なお、説明会の遺物展示には9世紀の土師器杯もあった

大阪時代、府庁の建て替えに伴う大坂城下町遺跡の調査で
平安時代の墓を掘った
場所は現在の大阪府庁別館(ここに府の埋蔵文化財の担当部署がある)のすぐ南東
現在は埋没していてまったくわからないが
かつての府庁周辺は
上町台地という丘陵の北先端頂部ちかくで
侵食による谷が無数にあった
この墓はその谷にはさまれた尾根状地形の南先端にあって
日本製の唐式鏡を副葬した木棺墓だった
さらにそのすぐ北からやはり日本製の海獣葡萄鏡をともなった骨蔵器もみつかった
これらの墓のすぐ南に位置するのが難波宮であるため
時期は難波宮廃絶以後だがその後継施設を維持した高級官僚の墓と推定した

そのレポートを整理するときに集成したが
木炭槨をもち割れた鏡を副葬した木棺墓として有名な例は
京都山科の安祥寺下寺遺跡の墓である
現在、京都市考古資料館で見ることができる
ここの場合は  と推定されている
いすれにしても普通の人の墓ではなく
さらに、普通の人の墓域でもないことはあきらか

それではこの場所はいったい
この時期のこういった墓のルールに従えば
その被葬者に関係する施設は、その南にあることが多い
しかしこの遺跡の南は山地帯
ヒントになるものがあるとすれば東に位置する松山古墳
この古墳は海獣葡萄鏡を出土した数少ない古墳のひとつ
さらにこの遺跡の北で近鉄電車をへだてた丘にあるのが天武・持統の皇子である草壁皇子の墓と推定されている束明神古墳

草壁皇子は
父が天武天皇で母の持統天皇は
天智天皇の皇女で幼名は「う」野讃良(うののさらら)
周知のように天智天皇の死後、その子の大友皇子と弟の大海人皇子の間で
皇位の継承をめぐって壬申の乱がおきる
したがって「う」野讃良は叔父と共に兄弟と戦ったことになる
その後彼女は、息子の草壁を即位させようと姉の姉大田皇女と天武天皇の間に産まれた大津皇子を処刑
その結果、草壁は皇太子となったがまもなく病死
結局母が即位し持統天皇となることになる
束明神古墳からは壮年期と推定される歯が発見されている
なお、天智天皇皇女の元明天皇を后とし、文武天皇・元正天皇の父となる

ところでこの高取の地にゆかりの深い古代氏族が東漢氏(やまとのあやうじ)と巨勢氏
東漢氏は大和国高市郡檜前郷(奈良県明日香村)を本拠とし
巨勢氏は大和国高市郡巨勢郷を本拠とした
乙巳の変と呼ばれる中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターの背景には
このふたつ氏族の支持が大きな役割を果たしていたともいう
ちなみに坂上田村麻呂は東漢氏の流れをくむ

飛鳥・奈良時代において
天皇家に近い人物が重視した場所であることは間違いない

平安時代に入ったすぐの時代
この地域の周辺は平安京と不思議な関係をもつ
桓武の父である光仁の皇后は聖武の皇女であった井上内親王だった
斎王をつとめた彼女は光仁の即位により立后し、子の他戸も皇太子になる
しかしまもなく厭魅大逆により
他戸親王と共に大和国宇智郡に幽閉され亡くなったという
また桓武の皇子である伊予親王とその母の吉子は
薬子の兄である藤原仲成の陰謀により川原寺に幽閉され死亡した
いずれも上御霊神社に八所御霊として祀られている

その伊予親王の子とされているのが伊予の越智氏の祖とされる藤原為世とも言われているが

平安時代はじめ、この地に天皇家に関わる人物がいた可能性は高い

飛鳥から南へ山を越えた場所にあるこの墓が投げかける問題は大きい
なお同日、石見型埴輪に似た木製品が周濠から出土した市尾墓山古墳の説明会もおこなわれ、交通が不便な場所にかかわらず多くの見学者でにぎわった

2007年1月27日 (土)

佛教大学アジア宗教文化情報研究所シンポジウム

佛教大学アジア宗教文化情報研究所は嵯峨野広沢池のすぐ南西にある
帰りのバスに乗って初めて知ったが
三条京阪から今出川の同志社前を通って立命の前を通って行く宇多野・山越行きの59番の終点にある
思えば59番は大学から三条京阪へ行くとき以外めったに西行きは乗ったことがなかった

ということになるので、このバスは3つの大学をつなぐバスということになる
とても立派な施設で、数年前に佛教大学が入手した洛中洛外図のレプリカが壁をかざり
中庭には須恵器の窯が移築されている
あらためて時間をとって見学したいところ

テーマはタイトルの通りで
この研究をリードされている門田先生のプロデュースによる
200人ほど収容できるきれいなホールはほぼ一杯で
中国の吉林省文物考古研究所所長の金旭東さん
韓国の韓神大学校教授の権五栄さんが
それぞれ集安の遺跡と百済の遺跡について
都城とその祭祀を中心に報告された

鋤柄の専門は、宮都というよりも
もっと普遍的に存在した都市や集落であるが
それらはもちろん宮都と切り離して考えることのできないものであり
その意味で日本、東アジア、ヨーロッパと比較して
刺激になるシンポジウムであった

なかでも権五栄先生の報告では
百済王都とされる風納土城の祭祀遺構が
年末に見学した四条畷の遺跡と類似するものとして紹介されており
あらためて東アジア文化圏のまとまりというものを感じることが出来た

森浩一先生の授業では
先生が専門とした古墳時代の文化の探索をひろげるなかで
必然的に朝鮮半島や江南の遺跡の調査や文化についても学ぶことになった
その時は、あまりふかく理解はできなかったが
そういった知識が記憶の断片として残っており
その後の研究の広がりの元になっている
あたりまえのことではあるが
それぞれの国の歴史は別々に動いているようで実は密接な関係をもっている
考古学や歴史を文化情報で学ぶと言うことはそういった広い視野をもつということでもある

部屋の扉の外にさまざまな研究会の案内を貼りだしている
3回生になる学生君たちは
その時はわからない話しかもしれないが
必ず後で活きてくるので
臆せずどんどん参加してほしいと思う

時間がとれれば年度内にソウルへ行きたいが

2007年1月26日 (金)

遺跡の活用を考える研究会

第1回遺跡整備・活用研究集会が、1月25日と26日に奈良文化財研究所でおこなわれました
今回のテーマは遺跡の教育面に関する活用です

報告は
・伊勢湾噴火湾文化研究所の青野友哉さんによる「北黄金貝塚における史跡の教育的活用」
・静岡市市民環境局文化スポーツ部文化財課の中野宥さんによる「登呂遺跡における教育面に関する活用」
・千葉市立加曽利貝塚博物館の村田六郎太さんによる「加曽利貝塚における実験考古学と体験学習」
・高崎市教育委員会の若狭徹さんによる「保渡田古墳群の整備・活用」
・名古屋市見晴台考古資料館の村木誠さんによる「見晴台遺跡での取り組み」
・斎宮歴史博物館の泉雄二さんによる「史跡斎宮跡の取り組みについて」
・国東市歴史体験学習館の有馬孝さんによる「安国寺集落遺跡での取り組み」
・福島県文化財センター白河館の藤谷誠さんによる「まほろんでの取り組み」
・群馬大学教育学部附属中学校の小林大悟さんによる「学校教育における考古学的アプローチの活用について」
・NPO歴史体験サポートセンター楽古の福田和浩さんによる「楽古の挑戦」
・奈良文化財研究所の中島義晴さんによる「遺跡の教育面の活用に関する連携の事例」
でした

これまで何度も言ってきたように
鋤柄の文化情報でのスタンスは
遺跡の調査成果を社会還元する歴史遺産活用も大きなテーマとしている
これは大阪で埋蔵文化財行政に携わっていた時の経験をふまえた
今の考古学と文化財行政が一番求められている切実な思いを形にしたものだが
その源流は、以前から師匠の森浩一先生が推進している
「考古学は地域に勇気をあたえる」にある

考古学と埋蔵文化財は、ただ掘るだけのでもなく
一部の学者たちだけのものでもなく
学術財としてまた社会資源として
ひろく社会に還元し
それがもっている根源的な意味を共有し有効に活用されるべきものなのである

同志社大学の考古学はずっとこのことを考えてきたもので
奈良文化財研究所でのこの研究会はとても歓迎されるべきもので
これからの発展が大いに期待されます

2007年1月25日 (木)

成相寺と難波野遺跡

1月20日、天橋立で有名な京都府宮津市に所在する難波野遺跡で
現地説明会がおこなわれた

調査は宮津の西を走る府中バイパスの建設に伴うもので
場所は丹後国分寺跡に近い海岸沿いにあたる
このうち9トレンチから古墳時代と中世の遺構と遺物が集中してみつかっている
古墳時代は前期から中期にかけてのもので
真名井川につながると思われる小河川の岸に
大量の土器をならべて置いて祭祀をおこなった跡とされ、滑石製の勾玉も出土している

中世は柱根の残った建物跡や護岸された溝などで黒漆塗りの椀や皿が良好に残っていた

この遺跡の性格を考える際に避けられない歴史遺産がすぐ北に位置する籠神社である。
籠神社は丹後一宮で『延喜式』「神名帳」にみえ、現在は天照大神・豊受大神・天水分神および海部祖神天火明神ならびに氏神の住吉神を祀る。
「海部氏系図」によれば、海部氏の始祖は彦火明命で、応神天皇の時代に若狭の木津の高向宮で和迩氏につながる健振熊宿禰が海部の直かつ国造となったとする。
その後律令期に祝として籠神社に仕え現在に続くとされる。
海部氏は漁猟航海を生業とする品部で、住吉につながる安曇氏や凡海氏が彼らを率いた。鎌倉時代末期とされる石造狛犬一対と文治4年(1188)の銘をもつ銅製経筒を出土した経塚を境内に有する。
祭神の起源は多彩であって必ずしもその起源を特定できるものではないが、海上交通の支配と強い関係があったことは言うまでもなく、雪舟の『天橋立図』に描かれている大谷寺と共に、中世の府中地域にとって重要な役割を果たしたことは間違いない。

またこの遺跡に関わる河川としての真名井川も大きな意味がある
丹後国風土記逸文や羽衣伝説に関わる真名井に関わり
籠神社の北東に鎮座する真名井神社は豊受大神を祀り
島根県松江市の真名井神社は伊弉諾尊を祀り
丹波の出雲大神宮にも関係がある
熊野本宮の末社である真名井社は新年の初水を汲む聖なる井戸で
高千穂町には日本百選に選ばれている名瀑「真名井の滝」がある
やはり西日本海地域のネットワークを物語る

またこの遺跡の西方山上には西国二十八番札所の成相寺が所在する
『丹後国風土記逸文』によれば、郡家は「天の椅立」付近にあったとされ、国分寺と式内大社で後の丹後国一宮となるこの神社もその地区に集中する。
成相寺についてはすでに書いているが
もっと調べ直さないといけないことになった


千体地蔵尊
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.35.06.67&lon=%2b135.12.01.63&fm=0

2007年1月21日 (日)

今出川を歩く(6)

○上七軒
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.24.3N35.1.36.125&ZM=11
西陣を近くにひかえ、古風な趣をもった花街として知られ
大正初年で約30軒の茶屋が並んだ場所
由緒書によると
往古より七軒茶屋と呼ばれ、足利将軍のころに
北野神社造営の時にあわせて建てられた
太閤秀吉も北野の右近の馬場の遊覧で七軒茶屋で休み
名物の御手洗団子をめでたという
すぐ東が老松町
町名の由来は現在は北野社境内に移った老松社がここにあったことから
老松社は北野天神の摂社で祭神は島田忠臣翁
神徳は植林と林業
祭神の島田忠臣は、菅原道真の家臣または夫人の父ともと伝えられ
道真が配流先の大宰府で自らの無念を神々に訴えるために天拝山に登った時、道真の笏を預かったというエピソードをもつ
道真に命ぜられ松の種を現在の北野天神に蒔き、後に道真の霊が北野に降臨した時、多数の松が一夜にして生じたという

○北野天神
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.19.447N35.1.29.53&ZM=11
菅原道真を祀る有名な神社
道真は延喜元年(902)に藤原時平の讒言で大宰府に流され死ぬが
その後時平の死をはじめとして数々の厄災がおこり
延長8年(930)には請雨の会議中に清涼殿に落雷
これを都では道真の怨霊と懼れ雷神・天神ともむすびつけられる

一方天慶5年(942)、西京に住む多治比文子に
北野右近馬場に祀れという託宣があり
また近江比良宮の禰宜神良種の息男に、北野右近馬場に道真の霊があるとの託宣があり
良種が北野朝日寺の最鎮とはかって社殿を設けたのがはじまりという

北野の地はもともと農耕に関係する祈雨の神が祀られており
そこに天神としての道真の霊があわせて祀られたのではと考えられている

境内の西を天神川が流れ、その左岸の堤は秀吉の築いたお土居の貴重な遺構
またそのすぐ東の梅園でひらかれる2月の梅花祭は有名
毎月25日には天神さんの縁日がひらかれ
古着や古道具を求めて多くの人があつまる

○北野廃寺
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.4.446N35.1.27.715&ZM=11
飛鳥時代に創建された平安京成立以前の寺院跡
文献には常住寺とも見えるが確定できていない
発掘調査により東西200m、南北240mの境内が推定されている
常住寺を示す「野寺」の墨書土器が発見され
また「鵤室(いかるがむろ)」と読める墨書土器がみつかり
聖徳太子のブレーンだった秦河勝に関わる寺院とも考えられている

史料によれば、太秦広隆寺が現在の場所に移る前は
紙屋川(天神川)上流右岸の北野神社から平野神社のあたりにあったとも考えられており
この寺院跡と太秦広隆寺(蜂岡寺)の関係も否定できない状況にある

秦河勝は京都盆地を代表する古代氏族であり
その本拠は、蛇塚や双岡の山頂など太秦に集中する古墳から嵯峨野にあったと言われている
しかし「天暦御記」(拾芥抄)によれば、大内裏は秦河勝の邸宅跡だったとされており
ここが広隆寺の旧地であったならば、
嵯峨野は秦氏の葬送の地で
その本拠はここから南東にかけての一帯だったことになる
上京は平安京以前から京都盆地の中心だった可能性があるのである

2007年1月20日 (土)

今出川を歩く(5)

○千両が辻
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.5.928N35.1.35.604&ZM=11
今出川通と大宮通の交差点が「西陣」の中心地といわれる千両が辻
西陣の大いなる繁栄をそのまま表現した地名として有名
「西陣」とは、応仁の乱のときに山名宗全に代表される西軍がこの地を本拠としたことに由来する
すでに平安時代から織物職人の中心地がその南にあり
応仁の乱以降、堺から取り入れた新しい技術などにより大きく発展
日本の織物文化を代表するその技術と伝統を今に伝える
堀川今出川に建つ「西陣織会館」がその西陣探索の出発点
この交差点を南にいった大宮通沿いには
町家を利用したさまざまな施設が並び、古い街並みの中に新しい京都の文化が創り出されている
この交差点の北から西へ行けば
西陣の面影をそのまま残す紋屋町や黒門町の石畳が旅人を迎えてくれる
耳を澄ませばどこかで機織りの音が聞こえてきそうな

○首途八幡
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.57.368N35.1.37.869&ZM=11
智恵光院通という優雅な響きの通りをあがったすぐ西に
「かどで」八幡がある
12世紀終わりに大分の宇佐八幡から勧請されたと言われ
源義経が平泉へ向かうときに寄ったといういわれが有名

義経をまもり平泉の藤原秀衡のもとへ案内したと言われる東北の大商人、金売吉次の京都屋敷がこの近くにあったとも言う
「平治物語」では宮城県の多賀城市にあった国府を本拠として毎年京へ上がって金を商売したという
中尊寺近くの長者ヶ原の地名の由来ともなり
炭焼藤太伝説ともつながって語られている

古代中世の社会はどうしても京都を中心に語られることが多いが
はるか遠くの地でも豊かな文化と生活が営まれていたことを示す意味で興味深い

○般舟院陵
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.44.86N35.1.37.455&ZM=11
後柏原天皇の母で後土御門天皇の典侍となった源朝子の陵
また、後土御門天皇の母の藤原信子や
後奈良天皇の母の藤原藤子などの墓や
後土御門天皇の分骨の塔もある

その西に後白河天皇の皇女で賀茂の斎院ともなった式子内親王塚と伝えられる石仏がある
またこの地は藤原定家の時雨邸とも言われ
この塚は謡曲「定家」にみる
定家が式子内親王への恋心を伝えた葛の塚と言われる

○千本釈迦堂
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.44.86N35.1.37.455&ZM=11
京都と言えば平安の都というキャッチフレーズがすぐ頭に思い浮かぶ
けれども残念ながら、今日の京都の街中で平安の都を直接物語る建築物を見ることはできない
多くが室町時代以降で、もちろんそれも極めて重要な歴史遺産であることに違いはないのだが、鎌倉時代の建築物についても稀
というか
京都の街中で平安時代に最も近い建築物が残っているのは実はここの本堂だけ
もちろん国宝である
正式な寺名は大報恩寺
承久3年に、「猫間中納言」として有名な藤原光隆の従者の岸高が、この地を義空に喜捨し
小堂と仏像が安置されたことをはじまりとする
室町時代になって足利尊氏の命で涅槃講がおこなわれ、以後庶民の信仰を集める
また本堂の南西には、足利義満が明徳の乱で敗死した山名氏清を弔って建てた経王堂がある
本堂建立に際してのエピソードをもつおかめ像も有名

2007年1月19日 (金)

今出川を歩く(4)

○白峯神宮
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.21.568N35.1.36.593&ZM=11
元は飛鳥井家の邸宅
飛鳥井家とは、藤原道長の孫の師実にいた16人の子のうちの一人
忠教の曾孫の飛鳥井雅経(1170~1221)が祖とされている
鎌倉時代を起源とする、和歌と蹴鞠の二道に秀でた家系
現在の白峯神宮がサッカーに関係しているのは、これに由来する

彼は祖父の頼輔から和歌と蹴鞠を学んだとも言われ、父が配流された後、関東へ下って源頼朝・頼家に厚遇され、大江広元の娘と結婚
その後蹴鞠によって後鳥羽院(1180~1239)に招かれ上洛して近臣となり、院歌壇の形成とともに歌人として成長し、新古今和歌集撰者の一人ともなる
藤原定家らの京都歌壇と源実朝らの関東を結んだ特異な人物だったと言える

鎌倉時代の京都のことは実はよくわかっていない
もちろんどの教科書にもこのことは触れられていない
そのキーマンとなるのが後鳥羽院であるが
彼は今出川通周辺に(正確に言うとその北を東西にはしる五辻通沿いに)関係する人物を多く集め、あたかも後鳥羽王国のような地区を築いている
飛鳥井家も同様にしてここに館を構えたのではないだろうか

○堀川通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.17.09N35.1.35.443&ZM=11
平安時代は祇園社の堀川神人による材木の集散地として
近代は友禅染めに不可欠な存在として知られる堀川
市内の交通量の増加によって徐々にその姿が縮小され
現在その面影は、一条通周辺でしか感じることができない堀川

そんな堀川について
地面の下のことなので、それこそあまり表にでてきていないが
もうひとつ大きな特徴がある

上京の地形は大きく3つの谷にはさまれたふたつの丘でできている
一番東の谷を流れている川は鴨川、一番西の谷が天神川
中央の谷を流れているのが堀川である
洛北の山に降った雨は基本的にこの三河川を流れて淀川に集まることになるが
洛北の山にしみこんだ雨水のうち、とくに賀茂川と堀川の間を浸透しくものは
北東が高く南西が低い京都盆地の地形によって西へ西へ移動し
堀川の東の斜面から湧き出て清らかな名水を生み出していると言う
今出川通をはさんだ堀川通の東には、有名な三千家の邸宅が並ぶ
京都府庁の南西にあったと言われる名水の滋野井もやはり同じ地形にあたる
堀川のもうひとつの顔は名水のラインなのである

○京都市考古資料館
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.8.884N35.1.36.036&ZM=11
日本の歴史と文化の中心である京都は、それを具体的に物語るものとして
日本で一番豊富な遺跡の密集地でもある
それらの遺跡は、限られた文献史料にあらわれない豊かな歴史の存在を
私たちに伝えてくれる
そんな京都の遺跡をすべて網羅し、展示公開している施設がここ
京都の歴史を学ぶ人は必ず訪れないといけない場所
建物は元の西陣織物館
通りに沿って「西陣」の碑が建つ

2007年1月18日 (木)

今出川を歩く(3)

○花の御所と室町通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.38.797N35.1.33.16&ZM=11
烏丸通と同様に平安京の路の名称を残した通の北への延長
鎌倉時代以降、京都の街並みは一条を北へ越え
室町時代は、この通に面して東に花の御所が築かれるようになり
この通がメインストリートとなった

どの歴史の教科書にも載っている室町幕府のおかれた「花の御所」であるが
その名称はここがオリジナルではなく、それ以前にあった貴族の邸宅の呼び名を継いだもの
また「室町殿」と呼ばれるのは、「花の御所」の正門が室町小路に面していたことによる
室町時代後半の「洛中洛外図」によれば、当時の京都はほぼ現在の上京区と中京区のふたつの中心からできており、それ以外の地は田圃や畠などであった
この室町通はそのふたつの中心をつなぐ路であり
現在の東京にたとえれば、「花の御所」周辺を「皇居」と「霞ヶ関」として、祇園祭の山鉾を競った町衆(ちょうしゅう)の中心を「銀座」にたとえれば、室町通は、桜田門と歌舞伎座をむすぶ有楽町マリオン前の大通りのようなものだろうか

○新町通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.32.047N35.1.34.185&ZM=11
平安時代に町小路と呼ばれた通の延長にあたる
平安時代には、今出川通の南の修理職殿地区に、内裏につとめた多くの職人さんたちの住宅街があり
そこが商業地区として賑わった「町」になったという
町小路の名称はそれに由来する
なお鎌倉時代になるとこの通の北に築かれた持明院御所が後の北朝の拠点として大きな勢力をもち、教科書には書かれていないが、鎌倉時代の京都の中心地となった

ちなみに今出川を上がった新町通は、同志社大学新町キャンパスに突き当たり、軸を東にずらす
現在その通がそのまま北へのびて寺ノ内通に達するが
実は新町キャンパスから北へのびる通は新町通の延長だが新町通ではない
新町キャンパスの北の本当の新町通は
その通の一筋西を北へのびる細い路で、さきの持明院御所跡にあたる
光照院の東を通る路である

それでは新町キャンパスの東を北へのびる道はなにか
実は誰もそれを知らない上京の七不思議?のひとつ?

○小川通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.25.583N35.1.35.317&ZM=11
現在は暗渠になっているが、かつて上立売から一条まで、この通の西側には堀川へ流れ込む川が流れていた
そのため現在は「おがわ」だが、かつては「こかわ」または「こがわ」と呼んだ
平安京の街路にあたる西洞院大路と油小路の北の延長にはさまれた通りで
秀吉による京都改造によると言われているが
「徒然草」89段には連歌の法師が夜に小川の端で「猫また」に会うというエピソードがあるため
すでに中世に溯ってあったらしい

室町時代後半の洛中洛外図には、この通に沿ってにぎやかな商店街があったことが描かれているが
なぜかわからないが、中には小川の上にまたがるように建てられた家もある
洛中洛外図と言えば、祇園祭の風景に象徴されるような
室町時代後半の京都の繁栄を描いた作品でもある
しかしその洛中洛外図の中で、繁華街を象徴する場所としてとりあげられるのは、四条界隈ではなく実はこの小川通沿いの風景が多い
その意味で、室町時代後半の京都を代表する繁華街は
ここだったと言って良いと思う

また、この商店街の西側には、現在、京大の近くにおかれる百万遍や
丸太町寺町にある革堂や寺町京極にある誓願寺などが軒を連ねていた
その様子はあたかも寺町の様である
ちなみに今出川からこの小川を上がったあたりに
戦国大名を代表する細川氏の屋敷があった
室町通りにあった花の御所からこの小川通りまで
今出川通りは室町時代の最も華やかなところを横切ってきたことになる

2007年1月17日 (水)

今出川を歩く(2)

○相国寺
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.54.565N35.1.33.162&ZM=10
同志社大学の正門が見えたら、その北が相国寺
足利義満が、「花の御所」の東隣に築いた一大禅苑
約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に竣工
開基は夢窓疎石で本尊は釈迦如来
夢窓疎石(1275~1351)は伊勢国生れで、初め天台教学を学んだが、後に来朝した一山一寧に禅を学び禅僧にすすむ。
彼は後醍醐天皇に国師号を贈られ、後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を開山。
造園にすぐれ西芳寺、天竜寺、鎌倉瑞泉寺、山梨恵林寺などに名園を残す。
この相国寺には禅宗寺院を統制する僧録司の職が置かれ、最初の職に夢窓疎石の高弟(甥)の春屋妙葩(1311~1388)がその任じられ、将軍のブレーンとして活躍。
その意味で相国寺は夢窓を開山とするが、事実上春屋が初代とも言われている。
伽藍は竣工後まもなく失火で炎上、すぐ再建にかかり、応永6年(1399)には高さ109mに及ぶ七重塔を造立。
現在国立歴史民俗博物館にある「洛中洛外図」は、その上からの眺望を元にしたとも考えられている。
しかし応仁の乱ですべてを失い、のちに豊臣・徳川氏により再興。
また天明8年(1788)の大火でも焼け、法堂以外の伽藍はその後の再建。
境内の宗旦稲荷は開山堂の南で鐘楼の後。伝説で有名な宗旦狐をまつる。
相国寺の雲水に化けて禅の修行をしていた狐がいたといい、塔頭の慈照院で茶会が開かれた時は千宗旦に化けてみごとな手前を見せ、その後も時々宗旦に化けたと伝える。

○冷泉家
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.49.739N35.1.33.843&ZM=11
同志社大学の正門を過ぎてすぐ北にあるのが冷泉家
鎌倉時代に溯り、江戸時代には武士・公家から庶民まで多くの門人を輩出して和歌宗匠家の地位を確立した和歌の家系
冷泉家の家祖は藤原為家の子の為相(ためすけ)。為家の父は定家で、為相の母は、御子左家との分裂にも関係した「十六夜日記」の作者で有名な阿仏尼(平度繁の養女で、女房名は安嘉門院越前・右衛門佐・四条)。
江戸時代のこの地区は今出川に面して並ぶ公家屋敷街だったが、明治になって多くの公家が東京へ移ったため、現存する貴重な公家屋敷としてまた、多くの典籍・古文書と共に平安時代以来の文化を伝える冷泉家時雨邸文庫として保存されている。

○近衛邸
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.49.518N35.1.32.801&ZM=11
今出川通をはさんで冷泉家の南にあたる京都御苑の敷地内には
藤原氏の筆頭を誇る近衛家の近世の邸宅があった
近衛家の家祖は、平安時代末期の藤原忠通の長男の基実
その子の基通と共に平清盛の娘婿となり
九条家の兼実と対立しながら平氏滅亡後は後白河法皇と連携して摂関を維持
なお、基通の孫の時に鷹司家が分立
中世の本邸は現在の烏丸丸太町を上がった護王神社周辺にあり
応仁の乱以降は、別邸が同志社大学新町キャンパスの場所にあった
この別邸の姿は洛中洛外図にも描かれ
そこに義満がもとめたと言われる糸桜が描かれている
京都御苑に残されている近世の近衛邸の跡地には
4月の御所一般公開の時期には多くの垂れ桜が咲き誇り
池にその頃の面影を写す

○烏丸通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.43.805N35.1.33.25&ZM=11
日頃からなんの疑問も無く今出川通と呼んでいるが
それでは「今出川」とは一体何なのか
実は戦国時代の頃、烏丸通に実際に川が南北に流れていて
その名前が「今出川」だった
本来の今出川は烏丸通と相国寺の境内を南北に流れる二筋の川で
現在の今出川通で屈曲して少しの間、東西に流れた
現在その痕跡の一部が相国寺の山門の南の通の西に見える
烏丸通を流れていた今出川の方は
記録によれば、しばしば氾濫し被害がでるほどだったという
足利義満が最初に築いた花の御所には方1町というから
1000平方メートルほどの広さの池(金閣寺の池と同じ広さ)があったとするが
その水はこの今出川から取り込まれたことになる
寒梅館の新築に際しておこなわれた発掘調査で
その流路の軸を思わせる溝が見つかり
現在寒梅館の北西隅に移築展示されている

なお烏丸通の名称は、平安京の路である烏丸小路によるもの
ただし、平安京はこの今出川通より南の一条通を北の境としているため
正確には、平安時代の路が京外の北にのびたところの通ということになる

2007年1月16日 (火)

今出川を歩く(1)

同志社大学の今出川キャンパスの南を東西にはしる今出川通は
上京の歴史の魅力をコンパクトに堪能できる通りである

試みに河原町通から西へその今出川通に沿ってコンテンツを紹介しよう

○寺町通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.14.628N35.1.33.582&ZM=10
最初に出会う南北の通りが寺町通
よく知られているように
豊臣秀吉がおこなった京都の大改造事業によって
それまで洛中の各地にあった寺院がこの通に集められたと言われている
上京の範囲で言えば
御所の東から北へ向かって鞍馬口通に突き当たるところまで寺院の並びを見ることが出来る
かつて堀川の西にあった廬山寺が今出川を下がった御所の東にあり
今出川新町にあった本満寺が今出川の北にある
また現在の金閣寺の前身である西園寺もこの通の北におかれている
南に下がれば堀川今出川にあった誓願寺が寺町京極の商店街の中にある

多くの寺院が並んでいることから
年末におこなわれる百八つの鐘の音はあちこちで響き
とくに相国寺の東で寺町通に沿ったあたりでは
寺々の鐘の音に囲まれて、まるで自分が亜空間にいるような
荘厳な雰囲気を体験することができる
時期限定のお薦めスポットである

なお、寺町は秀吉のオリジナルで
彼はこの寺院群を東からの防御ラインとした
というのが一般的な説明
しかし
室町時代の「洛中洛外図」にも、堀川の東を走る小川通に沿って寺院の並ぶ風景を見ることができる
寺町は秀吉のオリジナルではなかった可能性がある

ちなみに今出川の南は一部区間が幅広い通になっている
これはかつて京都市中を走っていた路面電車の駅が、ここにあったことによる

○北畠氏の邸宅
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.8.018N35.1.33.544&ZM=10
同志社女子大学の周辺には近世の公家屋敷と中世の武家屋敷が並んでいた
鎌倉時代には、親房に代表されるように、後に後醍醐の重臣の一角を構成した北畠氏がその邸宅を構えていた
北畠氏は、元は村上源氏中院(なかのいん)流で
久我通親の孫の雅家(1215~1274)が、最初は中院を名乗り、後に万里小路、さらに後に邸宅のあった寺町西今出川北の地名をとって北畠とした
ただし、「中古京師内外地図」では現在の京都御苑の北東の一角を北畠雅家の邸宅としている

なお、北畠の地名は「北畠通従一条北其門三丁也」『山城名勝志』所引の「指南抄」および応安2年(1369)の『後愚昧記』に毘沙門堂の北畠と見え、おおむね同志社女子大学の北にあたることになる
またこの地域は、中世後半になると、声聞師集団(陰陽師や久世舞や毘沙門経などの呪術的な雑芸能を生業とした人々)の住まいがあったことでも知られ、御霊社や祇園社の記録に登場すると言う

それから、これもあまり知られてはいないが、室町時代になると、このあたりに銀閣寺で有名な足利義政の館も、一時期あり、彼はこの屋敷と花の御所と両方を使っていた

近世になると
同志社女子大学の場所に二条家の邸宅が現れる
二条家は後で登場する五摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)のひとつで
家の祖は九条道家の次男の良実
公武協調の立場をとり、室町時代から江戸時代を通じて活躍

なお江戸時代の京都御苑には、御所を護るように
この五摂家の邸宅がおかれていた
南には九条・鷹司の邸宅が、北には近衛・二条・一条の邸宅があった
ここに二条家の邸宅があるのは、そんな背景による

2007年1月14日 (日)

14世紀代をめぐる諸問題

13日の土曜日に
日本史研究会の2007年1月例会が「14世紀史の可能性」をテーマに開催された
場所は東山一条南西の京大会館
市澤哲さんが「14世紀政治史研究をふりかえって」
原田正俊さんが「中世仏教再編期としての14世紀」
大村拓生さんが「都市史における14世紀の位置」
伊藤俊一さんが「「自力の村」の起源」
藤田明良さんが「東アジア海域世界の変動と日本列島」
大山 喬平さんが「多様性としての列島14世紀」
の報告をされた

14世紀といえば
1983年の卒論のテーマが、京都市内の土師器皿の編年の背景にあった14世紀代で
1986年に信濃に書いた中世陶磁器の変遷の背景のテーマがまさにそれで
もちろん1985年に提出した修論の大きなテーマのひとつもそれだった
それまで中世という時代をひとくくりにして
おもに古代との差異や近世との差異をテーマに
土器や陶磁器の編年の整備に力を注いでいたこの時期の考古学研究に対し
時代区分という視点で問題を投げかけた初めてのものだったと思う

それ以後、この時期に対する問題意識は網野先生の見方と連動して続き
村落遺跡や館の成立や都市論
東のかわらけ皿と西のかわらけ碗もそれが根底に流れている
もちろんこれまでの授業で何度も話をしてきたので聞いた人も多いと思う
ただし注意しなければならないのは
中世の考古学の世界からみると
14世紀代というのは、それ以前から続いてきたひとつの文化と
この時期以降に続いていくひとつの文化が交錯しながら交代するとても大きな過渡期
ではあるが
14世紀の中で、そういった交代がパタンとおきたわけではないこと
魚住窯の捏鉢と備前の擂鉢の交代にはタイムラグがあり
いわゆる方形館の出現は13世紀後半に溯る

実はそのきざしは13世紀の後半代からあり
その終息は15世紀の初めとも言える
なにかがおこったことによって始まった変化と
なにかがおさまったことによって始まったべつの事柄
その間におこった様々なものごとの転換の総体が
いわゆる14世紀代の諸問題であって
ゆえ、この問題は
逆に14世紀代に絞ってしまうと
本来見なければならないものが見えなくなってしまう危険性もはらんでいる
と言える

今考えていることやこれから考えなければならないことに対して
とても良い勉強になった

昼休みの時間を利用して吉田神社へ行く
東一条の東のつきあたりで、神楽岡の西の麓に鎮座する
「伊呂波字類抄」によれば永延元年(987)の勧請
社伝によれば貞観年間(859~877)の勧請
藤原山陰が氏神として祀っていたが、永延元年より祭礼が始められ
正暦2年(991)には十九社のうちに並び
藤原氏の氏神としての性格をもち、道長が法成寺と吉田社をあがめるのは興福寺と春日社に比べられたという

なお、はじめは吉田二本松町あたりにあったが、文明年間に現在地に移った
社務は平安時代に卜部兼延が祠官となり、鎌倉時代の兼煕の時から吉田姓

本社の東南に斎場所大元宮がおかれる
吉田神社の末社のひとつで、文明16年(1484)に吉田兼倶が邸内から移して全国の神を合祀した唯一神道(吉田神道)の八角社殿をおく
全国60余州の神祇に詣でたと同じ効験があるとして信仰を集めた
社殿の背後には、大内裏内にまつられていたものを天正18年(1590)の秀吉の聚楽第造営により遷座した神祇官八神殿の跡がある

この岡は、元々神座(かみくら)と考えられ、周辺には天皇家の陵墓が多く築かれている
太平記の時代には城が築かれる
授業でも言っているように船岡山と同じ特徴をもつ
南には黒谷の金戒光明寺が建ち、さらにその南が平安神宮なので、院政期は白河殿の北あたり
白河街区は平安京のミニチュアだったのだろうかとも

2007年1月12日 (金)

プロジェクト科目大詰め

Pa0_0004 下御霊神社の出雲路先生と一緒におこなっているプロジェクト科目が大詰めである
毎週木曜の3講の今出川がその授業日
11日は年明けの最初の日で、年末にだしておいた宿題をもってみんなが集まる
こちらも正月の間に目を通して赤を入れたみんなの資料を持っていく

いよいよ大詰めの時期なので、ホワイトボードをもってきて
担当と進捗状況の表をつくってそれぞれの居場所をわかりやすくする
Pa0_0001 マップチームはリーダーの佐藤君が中心になって
各項目をチェック
各自の残りの仕事を確認した後
懸案だったマップのタイトルについてのディスカッションが始まる
ホワイトボードを囲んで議論百出
良い感じのプロジェクト科目の形になってきた

食文化チームは茶碗担当の村山さんと京都市考古資料館へ
秀吉時代に、実に多彩で大量で華やかなやきもの文化のあったことを
ちょうど今開催されている「みやこの器」展で説明
生の資料にたくさん触れることもこの科目の重要なテーマ
資料館の人とも話ができ、良い体験になったのではないだろうか


★3D新時代
Google Earth  がバーションアップして、さらにGoogle SketchUp 6もバージョンアップした
http://www.yomiuri.co.jp/net/cnet/20070111nt0b.htm
3Dの世界はほんの数年前と違って、ずっと身近になってきた

2007年1月10日 (水)

西陣マップ製作余話-シネマトグラフと稲畑健太郎-

昨年の終わり頃から、京都市内の歴史遺産ポイントのいくつかで、それまで無かった説明板が設置されたところがある。
今出川キャンパスの西門にある「薩摩藩邸跡」の石碑に説明板が付いたのも、そのひとつ
これまで日本の文化と歴史に欠かせない街として、あまりに有名すぎた京都だが、埋蔵文化財だけでなく、意外にもまだまだ知られていない歴史遺産ポイントの多いことが改めて確認され、充実がはかられているのだろう
とても良いことだと思う
年末には、その「薩摩藩邸」が記されている古地図も入手できたので、これもあわせて授業で活用と展開を考えたい

070110_14440001 そんな行政が主体の整備の一方で、地域が主体となったさまざまな活動もおこなわれており、この写真もその良い例
千本通りと言えば、二条以南は平安京の中心軸だった朱雀大路として有名で、実際に二条駅の東からは、その西側溝が見つかってもいる
一方二条以北は平安宮の中にあたり、中でも丸太町から上長者町周辺は平安宮の最重要施設だった大極殿や内裏にも近く、これまた平安京の歴史を語るときに欠かせない場所

それではそこからさらに北の中立売から一条あたりはどうかというと、これが知る人ぞ知る、日本映画の源流の場所
西陣探索マップの作成で並木さんが調べてくれたものと

ふたつのサイトから少し紹介
詳細はぜひこちらを御覧下さい
「京都の初期映画事情(1896-1912)-シネマトグラフと稲畑勝太郎」:鴇明浩&水口薫
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO1/SUBJECT1/INAJAP.HTM

「稲畑健太郎と京都産業の発展」
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html

立役者は稲畑勝太郎(1862~1949)という人物
京の由緒ある和菓子屋の生まれとされる彼は、長じて京都府師範学校へ入学
その優秀さにより勧業生として15歳で、最先端染色技術を学ぶために8年間のフランス留学

帰国後は、京都染工講習所の所長を務め最先端技術を指導し、また官民をあげた京都織物会社の設立に奔走
明治23年(1890)三条大橋東の店を経て西陣に「稲畑染料店」を開業
フランス時代の人脈や経験を活かして、問屋を通さずに合成染料の輸入販売や、国産染料の開発などをすすめる

大いに京都経済の活性化に貢献した著名な人物のひとりであるが、その彼が同時に日本映画史上にも名高い人物で
リヨン時代の同級生だったオーギュスト・リュミエールリュミエールが発明した「シネマトグラフ」の成功を聞いた彼は
欧米の文化の実況を日本に知らせるための最適の機械として、その「シネマトグラフ」という撮影と映写のできる機械とフィルムと興行権を譲り受け、ひとりの映写技師兼撮影技術者と共に帰国

さっそく映写を、ということになるが、今と違い電灯がまだ不完全の時代、大変な苦労の末に
当時の京都電燈株式会社の庭(現在の河原町蛸薬師東入る北側の旧立誠小学校の敷地)で、試写実験に成功したとされる
そして、明治30年2月15日に大阪の南地演舞場で第1回の有料上映を開催
これが、日本における映画の幕開けを記念する有名なエピソードである

映画史の詳細に従えば、「シネマトグラフ」とは別にエジソンが発明した「キネトスコープ」というものがあって、こちらも重要な映画史の主役とのこと
とは言え、「日本で最初の興行者は稲畑勝太郎であることは間違いがない」とのことで
これはやはりすごい

その後、「シネマトグラフ」の興行権は稲畑氏の友人に譲られ、それが横田兄弟商会となり、明治40年に千本座の牧野省三と出会うことで、その後の活動写真の繁栄が始まることになる
歴史は運命と縁で動いている
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.01.37.90&lon=%2b135.44.34.02&fm=0
千本通の歩道沿いには、そんな千本通り繁栄を物語る案内板が設けられていて、京都の文化の厚みを実感することができる


070110_14550001
その写真を撮り終えたところで、和菓子のコラムを思い出し、北野天神の南ある粟餅の澤屋さんへ行く
店に入り注文をすると、ご主人がいきなり粟餅のかたまりを握ってちぎり、きな粉と餡の鉢へ放り込む
その存在は「毛吹草」に見え、徳川五代将軍にも溯る技術と伝統のお店である


070110_17270001もちろん美味
良いものを見せていただきました
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.01.39.96&lon=%2b135.44.06.37&fm=0



070110_15090001さて、今出川へ戻ろうかと思った時
聚楽第の北の堀の痕跡を示す石垣が、一条大宮の西北にあることを思い出す
実物は一条通から北の奥に入っているので直接見ることはできないが
一条から大宮を上がって南をみると、一条の北から一条の間と中立売の南で、確かに傾斜が急になっている
現在推定復原されてきている聚楽第の範囲は、足利健亮さんが復原したものよりずっと複雑で、この段差もそのひとつになるのだが、それぞれのモミュメントが聚楽第にとってどのような意味をもつのか、いまひとつよく070110_15100001わからない

来週の文化史特論はいよいよ最終回
秀吉の京都改造である
例によって臨場感のある試行錯誤を話そうと思う

2007年1月 9日 (火)

いざ京都(1)

鎌倉の調査地点データベースの作成と並行して
京都の調査地点データベースをMANDARAで作成中
谷謙二さんのつくったこのソフトはとても良くできていて
解説本のタイトルにあるように
まさに「市民のためのGIS講座」そのもの
これからの考古学・歴史系の研究者は、高級なGISソフトはともかく
MANDARAには馴染んでおいておしいもの
授業でも具体的なテーマやコンテンツを題材にどんどん活用していきたい

ということで、鎌倉のデータベースにあわせて
昔つくった京都の調査地点データベースをMANDARAにのせてみた
最初につくったデータはゼンリンのZに載せていたが
これを出力してカシミールで世界測地系に無事変換

京都市域の数値地図をMANDARAで接合したものに
そのデータをのせたものの一部がこれhttp://www.geocities.jp/sukigara_toshio/kyoto/demoweb/01/demo01

webで公開している時期別情報の一部を入れ込んでいるが
あれから大分時間が経つので
このデータベースを元にしてあらためて整備してみたい
目標は年度内

2007年1月 8日 (月)

いざ鎌倉(1)

いよいよ「いざ鎌倉」プロジェクトを本格的に開始
昨年に鎌倉の地形図を接合・分割して簡単なラスターマップのインデックスをつくる
このあたりは腕力の仕事なのでそれほど問題ではない

一応見通しがついたので
次にとりかかったのは既存の遺跡情報データの整理
かつて資料調査委員として参加した国立歴史民俗博物館の
陶磁器データベースが公開されているので
http://www.rekihaku.ac.jp/
そこから鎌倉市内の報告書を検索し、記録されている緯度・経度情報を含めてエクセルに
1990年に歴博の陶磁器データベースを作成する際に重視した緯度・経度情報は、もちろん現在の世界測地系と異なる日本測地系
けれどもデータを最初から入れるのとそうでないことの差は大きい
もっとこのデータベースの活用を考えてみたい
緯度・経度の60進法を10進法に変換してとりあえずゼンリンのZにとりこんでみる
ゼンリンのZは日本測地系なので、おそらくまずまずの形でマッピング

次にこれをMANDARAへ移行しようとカシミールを使って変換の模索
しかしどうもうまくいかず、結局場所を確認しながらgooglemapへのせたところで一区切り
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/maps/historysite.html

中世京都の調査地点データベースは約500のポイントを整備している
はて鎌倉はどのくらいになるのだろうか

2007年1月 6日 (土)

七十一番歌合から餅売

71_5 中・近世の職人絵巻については、網野先生のわかりやすい研究もあるが
原史料として最も有名なのがこの七十一番職人歌合
成立は明応9年(1500)頃とされ、142種類の職人が登場する
図は「餅売」をトレースしたもの
この人物もそうだが、女性の割合が25パーセントを占め、中世における女性の役割の重要性がわかり面白い。また白氏文集を模した構成をとるとも言われる


この種の史料で最も古いのは「東北院職人歌合」
建保2年(1214)の成立とされ、藤原道長の法成寺の東北にあった上東門院彰子の発願で建立された三昧堂院の念仏会に集まった東北院の念仏会に集まった職人たちによる歌合とされ、10職種などが知られる
中世前期における職人と寺社の関係をうかがうことができる

これに続くのが「鶴岡放生会職人歌合」で、鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会が舞台
24種の職人が登場し、「東北院職人歌合」と一致する職人がほとんどないのは、地域性によるものだろうか。鶴岡八幡宮の神主が主人となっており、これもやはり、この時期の職人と寺社の関係をしめす

「三十二番職人歌合」は明応3年(1494)に成立したとされ、農人を詠者として花や述懐を題に32番に組合せて表現している
中世の後半と前半の異なった社会と文化を知る手がかりでもある
アーカイブしてデータベースにすれば、中世文化の貴重な絵引きになるだろう

・泉佐野市教育委員会2001『日根荘中世石造物調査報告書』
・荘園研究会、歴史館いずみさの2005『日根荘の遺跡と史料』

2007年1月 3日 (水)

上京の京都の和菓子について考える

参考文献:青木直己2000『図説 和菓子の今昔』淡交社
       平凡社『歴史地名大系』京都市

ポイント1、和菓子の源流
 現在の京都の和菓子のイメージは、干菓子などと共に江戸時代にできたもので、中世の和菓子の代表はは餅・羊羹・饅頭・団子などでした。

・川端道喜
 内裏粽や道喜餅で有名な川端道喜の初代の渡辺五郎左右衛門は山城紀伊郡の人。文正・応仁年間(1466~69)に京都に入り、家が蛤御門の西の禁裏御溝(みかわ)の側にあったので川端と改名。
 和歌や茶の湯にも通じ、安土・桃山時代になると富商として有名となり「道喜ちまき」で知られ、天正5年(1577)には私財を投じて禁裏を修理するなど皇室に供御を献じ、宮中の餅御用となる。「京都坊目誌」には、御所西方の一部の通用門が道喜門と呼ばれたとある。
 ちなみに道喜家のあった竜前町は、中央を中立売が通る南北3町の片側町で、平安時代は「土御門内裏」の一角で、長元元年(1028)には藤原資良の邸宅があり、中世には一条家の別邸「花町亭」や甘露寺親長の邸宅、亀山天皇皇女の室町殿があった。
 江戸時代に入ると、北から薬院町、廬庵町、河端町となり、薬院町は三雲施薬院法印居宅があり、廬庵町は典薬頭半井廬庵法印が住み、名水「半井(なからい)」や、町の西には絹帛染に用いた和泉井があった。また、茶湯杉道具師の家があったのも上京らしい。

青木さんがまとめた17世紀の「毛吹草」と「雍州府志」の資料によれば
①清浄華院前(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)の焼餅
②室町今出川の二口屋:饅頭、饂飩(うどん)、興米(おこしごめ)[もち米を材料として作った菓子] 
③一条烏丸の虎屋:饅頭、饂飩(うどん)、興米(おこしごめ) 
④烏丸の川端道喜・渡辺道喜:餅、内裏粽 
⑤北野天神前の茶屋ノ粟餅:粟餅
⑥北野の勝栗餅
⑦北野天神近くの真盛ノ衣大豆、炒豆(真盛豆(しんせいまめ))
が知られており
このうち現在の北野関係では、鳥居の南にある粟餅所澤屋や、秀吉の北野大茶会を由緒とする長五郎餅がよく知られている。

一方真盛豆は、上七軒の西方尼寺(さいおうにじ)にちなむもので、寺伝によれば、開山は葛野郡大北山に建てられた西福寺の真盛で、永正年間(1504~1521)に現在の地に移り寺号を改めたと伝え、「坊目誌」には文禄年間(1592~1596)に北野三宮司のひとつの徳勝院の尼真盛が寄進し建立したとする。名物の「真盛豆」は真盛が提供したことを始まりと伝え、境内には秀吉の北野大茶会に千利休が用いたという「利休の井」がある。
ちなみに上京の真盛豆では、下長者町通黒門東入の金谷正廣が有名。

ところで「とらやホームページ」の「菓子資料室 虎屋文庫」の「歴史上の人物と和菓子」には、非常に興味深いエピソードがたくさんあり、その中に「井原西鶴と嘉祥の菓子」というコラムが掲載されている。
http://www.toraya-group.co.jp/main.html
詳細はサイトを参照されたいが、『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』の中に「二口屋のまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん」という文章がみられる。
『京都羽二重』に「小川通元誓願寺二丁上」と記されている松屋山城とあわせて、これも17世紀の京の和菓子の様子を具体的に示す史料だろう。

B061221_2 A 西陣プロジェクトも進んでいます

2007年1月 2日 (火)

古本屋へ行こう

年末に梅田で待ち合わせをして
時間が早かったので
久しぶりにカッパ横町の阪急古書街をのぞいた
学生時代は、現場に行く以外は京都からほとんど出ることが無く
実際に大阪の街を知ったのは就職してからになるが
061228_17150001 それでもこの梅田の古書街は当時から有名で
どうしても欲しい本があると阪急電車に乗って
はるばる北区東高縄町の下宿からやってきたことがある

そう言えば、ある時1万円の論集がどうしても欲しくて
当時、百万遍の南西にあった京都学生センターで
アルバイトを探して、京都では有名な、とあるファミリーレストランで
夜と昼と働いて1万円もらい、その足で本を買いに行ったこともあった
昔話である

インターネットの無い時代
古本屋さんは図書館より専門性の高い情報のサロンで
前にも書いたが、背表紙を眺めているだけで
さまざまな研究の発想が、その中から浮かび上がってきた
その日のカッパ横町も、昔を変わらぬそんな空間だった

この分野の研究が、多くの先学の試行錯誤の蓄積の中にあるということを
あらためて実感させてくれる貴重な空間である
今やっている研究や勉強に迷ったら
ぜひ古本屋をのぞいてほしいと思う

・1月2日の京都新聞によれば、中京区四条新町北西の角で
平安時代中期(11世紀前半)の庭園の洲浜がみつかったという
みつかった洲浜は2時期で、藤原公任の四条宮推定地との関係も
考えられると言う

・大谷信介2004『問題意識と社会学研究』ミネルヴァ書房
・門田誠一2006『古代東アジア地域相の考古学的研究』学生社
・安里進2006『琉球の王権とグスク』山川出版社
・川崎保編2006『「シナノ」の王墓の考古学』雄山閣
・川崎保、川崎輝美訳 A.JI.イブリエフ「日本の文献史料から見たシャイギンのパイザ」『古代学研究』175

2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

03 2007年になりました
明けましておめでとうございます
今年も皆さんにとって良い年でありますように

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