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2007年1月16日 (火)

今出川を歩く(1)

同志社大学の今出川キャンパスの南を東西にはしる今出川通は
上京の歴史の魅力をコンパクトに堪能できる通りである

試みに河原町通から西へその今出川通に沿ってコンテンツを紹介しよう

○寺町通
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.14.628N35.1.33.582&ZM=10
最初に出会う南北の通りが寺町通
よく知られているように
豊臣秀吉がおこなった京都の大改造事業によって
それまで洛中の各地にあった寺院がこの通に集められたと言われている
上京の範囲で言えば
御所の東から北へ向かって鞍馬口通に突き当たるところまで寺院の並びを見ることが出来る
かつて堀川の西にあった廬山寺が今出川を下がった御所の東にあり
今出川新町にあった本満寺が今出川の北にある
また現在の金閣寺の前身である西園寺もこの通の北におかれている
南に下がれば堀川今出川にあった誓願寺が寺町京極の商店街の中にある

多くの寺院が並んでいることから
年末におこなわれる百八つの鐘の音はあちこちで響き
とくに相国寺の東で寺町通に沿ったあたりでは
寺々の鐘の音に囲まれて、まるで自分が亜空間にいるような
荘厳な雰囲気を体験することができる
時期限定のお薦めスポットである

なお、寺町は秀吉のオリジナルで
彼はこの寺院群を東からの防御ラインとした
というのが一般的な説明
しかし
室町時代の「洛中洛外図」にも、堀川の東を走る小川通に沿って寺院の並ぶ風景を見ることができる
寺町は秀吉のオリジナルではなかった可能性がある

ちなみに今出川の南は一部区間が幅広い通になっている
これはかつて京都市中を走っていた路面電車の駅が、ここにあったことによる

○北畠氏の邸宅
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.8.018N35.1.33.544&ZM=10
同志社女子大学の周辺には近世の公家屋敷と中世の武家屋敷が並んでいた
鎌倉時代には、親房に代表されるように、後に後醍醐の重臣の一角を構成した北畠氏がその邸宅を構えていた
北畠氏は、元は村上源氏中院(なかのいん)流で
久我通親の孫の雅家(1215~1274)が、最初は中院を名乗り、後に万里小路、さらに後に邸宅のあった寺町西今出川北の地名をとって北畠とした
ただし、「中古京師内外地図」では現在の京都御苑の北東の一角を北畠雅家の邸宅としている

なお、北畠の地名は「北畠通従一条北其門三丁也」『山城名勝志』所引の「指南抄」および応安2年(1369)の『後愚昧記』に毘沙門堂の北畠と見え、おおむね同志社女子大学の北にあたることになる
またこの地域は、中世後半になると、声聞師集団(陰陽師や久世舞や毘沙門経などの呪術的な雑芸能を生業とした人々)の住まいがあったことでも知られ、御霊社や祇園社の記録に登場すると言う

それから、これもあまり知られてはいないが、室町時代になると、このあたりに銀閣寺で有名な足利義政の館も、一時期あり、彼はこの屋敷と花の御所と両方を使っていた

近世になると
同志社女子大学の場所に二条家の邸宅が現れる
二条家は後で登場する五摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)のひとつで
家の祖は九条道家の次男の良実
公武協調の立場をとり、室町時代から江戸時代を通じて活躍

なお江戸時代の京都御苑には、御所を護るように
この五摂家の邸宅がおかれていた
南には九条・鷹司の邸宅が、北には近衛・二条・一条の邸宅があった
ここに二条家の邸宅があるのは、そんな背景による

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