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2007年1月 3日 (水)

上京の京都の和菓子について考える

参考文献:青木直己2000『図説 和菓子の今昔』淡交社
       平凡社『歴史地名大系』京都市

ポイント1、和菓子の源流
 現在の京都の和菓子のイメージは、干菓子などと共に江戸時代にできたもので、中世の和菓子の代表はは餅・羊羹・饅頭・団子などでした。

・川端道喜
 内裏粽や道喜餅で有名な川端道喜の初代の渡辺五郎左右衛門は山城紀伊郡の人。文正・応仁年間(1466~69)に京都に入り、家が蛤御門の西の禁裏御溝(みかわ)の側にあったので川端と改名。
 和歌や茶の湯にも通じ、安土・桃山時代になると富商として有名となり「道喜ちまき」で知られ、天正5年(1577)には私財を投じて禁裏を修理するなど皇室に供御を献じ、宮中の餅御用となる。「京都坊目誌」には、御所西方の一部の通用門が道喜門と呼ばれたとある。
 ちなみに道喜家のあった竜前町は、中央を中立売が通る南北3町の片側町で、平安時代は「土御門内裏」の一角で、長元元年(1028)には藤原資良の邸宅があり、中世には一条家の別邸「花町亭」や甘露寺親長の邸宅、亀山天皇皇女の室町殿があった。
 江戸時代に入ると、北から薬院町、廬庵町、河端町となり、薬院町は三雲施薬院法印居宅があり、廬庵町は典薬頭半井廬庵法印が住み、名水「半井(なからい)」や、町の西には絹帛染に用いた和泉井があった。また、茶湯杉道具師の家があったのも上京らしい。

青木さんがまとめた17世紀の「毛吹草」と「雍州府志」の資料によれば
①清浄華院前(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)の焼餅
②室町今出川の二口屋:饅頭、饂飩(うどん)、興米(おこしごめ)[もち米を材料として作った菓子] 
③一条烏丸の虎屋:饅頭、饂飩(うどん)、興米(おこしごめ) 
④烏丸の川端道喜・渡辺道喜:餅、内裏粽 
⑤北野天神前の茶屋ノ粟餅:粟餅
⑥北野の勝栗餅
⑦北野天神近くの真盛ノ衣大豆、炒豆(真盛豆(しんせいまめ))
が知られており
このうち現在の北野関係では、鳥居の南にある粟餅所澤屋や、秀吉の北野大茶会を由緒とする長五郎餅がよく知られている。

一方真盛豆は、上七軒の西方尼寺(さいおうにじ)にちなむもので、寺伝によれば、開山は葛野郡大北山に建てられた西福寺の真盛で、永正年間(1504~1521)に現在の地に移り寺号を改めたと伝え、「坊目誌」には文禄年間(1592~1596)に北野三宮司のひとつの徳勝院の尼真盛が寄進し建立したとする。名物の「真盛豆」は真盛が提供したことを始まりと伝え、境内には秀吉の北野大茶会に千利休が用いたという「利休の井」がある。
ちなみに上京の真盛豆では、下長者町通黒門東入の金谷正廣が有名。

ところで「とらやホームページ」の「菓子資料室 虎屋文庫」の「歴史上の人物と和菓子」には、非常に興味深いエピソードがたくさんあり、その中に「井原西鶴と嘉祥の菓子」というコラムが掲載されている。
http://www.toraya-group.co.jp/main.html
詳細はサイトを参照されたいが、『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』の中に「二口屋のまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん」という文章がみられる。
『京都羽二重』に「小川通元誓願寺二丁上」と記されている松屋山城とあわせて、これも17世紀の京の和菓子の様子を具体的に示す史料だろう。

B061221_2 A 西陣プロジェクトも進んでいます

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