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2007年2月27日 (火)

「御土居」に関する一考察から

昨日にひきつづき素晴らしい天気
朝の京都駅からビジネスひかりに乗る
ウィークデイの朝だがひかりはガラガラで、E席の客はみなパソコンをひらいている
やれやれと思いながら同じ風景に溶け込む

昨年からカマクラの調査地点データベースを作成していて
あまりに知らないことの多いことに愕然としてなんとか時間をつくってレンタサイクルすることに

文化情報の学生くんたちもいよいよ1期生が3回生になる。これまで何度も言ってきたが、鋤柄のゼミを選ぼうとする学生君は、天気の良い時は部屋を出て、現地を探索することを普通の生活にできることが必須の条件になる。
知的好奇心を鋭敏にして現地を探索するということは、研究にリアリティを与えるだけでなく、史料だけでは見えなかったことやわからなかったつながりを発見する機会にもなる
そういったことは、机の前で考え込んでいるだけでは生まれない
この種の研究には、そういった意味のあるクリエイティブな時間がとても重要

<米原>

先日から聚楽第もそうだが京都についてもまとめなおそうと思いあちこちへ行ってあれやこれや見直していて、聚楽第関係の論文を国会図書館の雑誌データベースでみていたら
御土居と韓国文化にかかわる論文がヒットしてきた
昭和49年に北陸でおこなわれた日本建築学会大会学術講演梗概集に掲載されているもので
片桐正夫さんの「「御土居」に関する一考察 日本建築におよぼせる韓文化の影響・その3」という
数年前の京都府の研究会で話しをして、文化史特論でも話しをしてきたが
御土居の範囲の意味について、とくにその北のラインが北山の北までのびていることを
朝鮮半島や中国大陸の都城景観との関係から考えている
これなどもまさに現地をおとずれたことが一番大きな理由だが
佛教大学の門田さんの論文なども参考にしながら、もっと積極的な説明を探し続けていた

とても古い論文なので、大学にあるかどうかと思い探したらやはり実物は無い
ところが最近は論文の全文データベースが普及してきており
大学の図書館のデータベースからそれにアクセスできる
さっそく調べてみるとみごとヒット
PDFで入手できるという

<岐阜羽島>
みれば手書きの文章である
思えば学部時代は皆、手書きのレポートで、もちろんレジュメも手書き
前にも書いたが、1行7文字の液晶画面をもったパーソナルワープロのオアシスが登場したのは大学院時代
思わず感慨にひたる

「御土居」を報告している大正9年の『京都府史蹟勝地調査報告』第2冊には
江戸時代につくられた『京都舊記録』に「洛中四辺土居之事 文禄元年高麗陣之時 秀吉公の肥前之名護屋之城ニ御在陣為成 高麗ノ都乃構本唐之様子などを被為聞召 細川玄旨法印等に御相談有之其後京都之四辺ニ土居を築き是ニ竹を植江 七口を開き是ヲ土居ト言 鴨川の西北より堤を築き皇都の構となる
東粟田口 坤東寺口 西丹波口 北清蔵口 艮鞍馬口 北大原口 東荒神口」

<名古屋>

そして報告書は、この文章について、御土居の築造は文禄の役の前なので、関係は間違えと記しているが、片桐さんは注目すべき記録だと言っている

秀吉が明への侵攻をいつから考えたかは不明だが、天正17年(1589)には李王朝と交流のあった対馬の宗義智を通じて李王朝に来貢を求め、天正18年(1590)には高麗の正使を聚楽第で会見し、宗義智を通じて高麗通過の許可を求めている
小西行長を通じて宗氏から高麗に関する情報を受け、天正19年(1591)に宗義智から『朝鮮国八道総図』の献上
片桐さんは、これらのことから、秀吉が御土居の築造以前から明や高麗の情報を入手し、とくにそれらの国の防衛施設について多くを学んだ可能性の強いことを指摘している

周知のように、韓国には山をとりこんで城壁をめぐらせた城郭都市が多く、その代表が現在のソウルにあたる漢城である
また片桐さんは、あわせて築造された伏見城との関係にも注目している

<豊橋>

建築学の視点からゆえであろうか
ひろい視野でその時代と秀吉という人物を見ていると思う
前にも書いたが、やはり韓国へ行かなければ

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