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2007年3月

2007年3月30日 (金)

善光寺大本願地点の発掘調査

奈良を出るときはとても違和感のあった薄手のスキージャケットだったが
長野に着くとまだこれでもちょっと寒いくらいだった

善光寺大本願の発掘調査現場で
長野市埋蔵文化財センターの青木さんと宿野さんからお話をうかがう

場所は善光寺の大門を上がったバス通りの突き当たりのすぐ西北
あの元屋さんは、調査地点の南を東西にはしる通りをはさんで南西約数十メートル
この場所に立つと誰でもすぐに気がつくことだが
この通りの南と北では段差があり
その差は参道を越えて東に向かってどんどん大きくなっている
調査地は参道のすぐ西なので、この段差が生まれはじめる場所にあたっている
なお現在は、この段差を護るために、南の通りに面して立派な石垣が設けられている
前にも書いたが
鎌倉時代の善光寺の本堂は、現在の仲見世のほぼ中央にあったと考えられており
それを囲む境内の範囲の南限がこの段差にあたると推定されている

実は今回の調査で最初に目に飛び込んできたのが
露出した岩盤と調査区の南東で急に下降する傾斜地形だった
現在の風景は、この傾斜地が埋まった後にできたものなので
時間を溯って、この傾斜地に埋まっている土が無かった時は
当然今のような段差も無く
さらに岩盤が露出したでこぼこした姿がここにはあったわけで
今とは全く違った風景がそこにひろがっていたことになる

周辺地区の調査結果と照合しないといけないが
もしかしたら
この南東に下降する傾斜地形はそのまま参道を越えてのびているのではないかと思われ
もし、そうであるならば
現在見えている段差が東に向かって大きくなっているのは
それが元になっているからではないかと
そうすると、今まで段差と言ってきたが
それは要するに、ある時期に現在の大本願の南のどこかの高さを基準にした方形の平坦面をつくりだす工事がおこなわれた結果によるものなわけで
それが、この傾斜地を覆っている土と直接関係するのか
あるいは間接的に関係している可能性も考えなければならないのだが
記憶間違いで無ければ、門前のあたりでも、参道の東は大きく傾斜していると聞いたように思う
古代の善光寺とその門前の風景は、今と大分雰囲気が異なっていたような印象をもった

報道にもある古代の瓦は
この傾斜地形に埋まっている土の中からたくさん見つかっているという
この層が掘りあがって、その中からみつかったものがはっきりすれば
善光寺の古代と中世の風景はとても鮮明なものになると思う

善光寺の瓦については
これまでの多くの研究によって
白鳳期か平安期かの議論がおこなわれいる
今回見つかった古代瓦が、この議論をさらに活発化させることは間違い無いでしょう
詳しい検討を経ないといけないが
立派な瓦を葺いた古代寺院が、このすぐ北に建っていたことは確かである

それから、もし善光寺に対する熱い思いで勝手な希望的観測が許されるならば
この斜面に埋まっている土に関わる出来事のどこかに
頼朝の善光寺復興による何かのサインが示されないだろうかとも思っている
今後の調査が大いに期待されます
善光寺は古代も中世もとても面白い

そして今の長野も訪れる度にお洒落になっている
権堂の北にできた新しいマンションや
去年の夏にできたSBCの新社屋
それから高校の同級の白蓮坊に案内してもらった本陣の藤屋さんがとてもお洒落なイタリアンになっていた
故郷のひとつをここにおく者として
とても嬉しいことである
大本願の宝物館も初めて見学できた
天皇家の御物や戸隠神社の神像など貴重資料が多く並ぶ
善光寺を調べていたときに戸隠との関係も見ていたが
やはりいろいろなつながりを感じる

同い年の友人達と再会を約して
後ろ髪をひかれるとはこのことだろうと思いつつ
初めて長野新幹線で千曲川を溯る
軽井沢からあっけなく坂東の坂を駆け下りる
池袋で降りると季節はすっかり春になっていた
明日はスキージャケットからスーツに着替えなければ

2007年3月29日 (木)

善光寺再び

去年の3月に偶然の賜から勉強するようになった善光寺門前遺跡
あれから1年経ち、再び調査の見学に急に行くことに
年度末と春休みが重なった京都駅は大混雑
ホームにあがってあまりの人の多さにびっくりして先にトイレにいっておこうと降りてきたエスカレータの下で、ひときわめだつ学長に会う
数日後は入学式だが、相変わらずのスーパー多忙人だ

以前にも書いたが、善光寺の歴史については
とくに古代について長野県立歴史館の福島さんにおせわになった
が、その時にお会いしたかった信州大学の牛山さんには機会をもつことができなかった
今回急だったが、信州大学教育学部に連絡をして
善光寺訪問のFAXをお送りしたら、タイミング良く連絡をいただき
お会いできることになった
ありがたいことである

いつになっても慣れないが、京都と名古屋の間はわずか42分である
前近代の人間から見たらワープしているようなものだろう
人間はどこまでいったら満足するのだろうか

名古屋も家族連れで一杯
おもわず味噌カツ弁当を初めて買って12時発のしなの11号に乗る

本の構想を練りながら池亭記の論文を読んでいると松本に着く
松本から長野へは筑北の山を越えることになるが
島崎藤村の木曽路にくらべればずっと空が広い
幸い今日は北アルプスに雲がかかっているいる以外は晴れ
左手に豊科の低い山並みと斜面にひろがる田圃に耕耘機がたたずむ
もう少ししたら水がはられるのだろうか

左手には犀川の浅い水面がキラキラと光を返し
その奥に安曇野がひろがり
さらにそのもっと奥に北アルプスが雄大なスケールで存在感を示す
原体験が甦ってくるのを感じながら立峠の長いトンネルをくぐり坂北にはいる
ずっと以前、大学院の頃、長野県史の手伝いで来たことがあった
村の教育長さんが軽トラで駅へ迎えにきてくれて
小学校を改造した資料館で常滑系の甕の図面を書いた
山間ののどかな村だった

高速道路と県道にはさまれて競争するように麻績の谷をぬけると
長い冠着トンネルに入る

人それぞれ、土地に入る時の印象があって
京都の玄関のイメージは多くの人が新幹線から見える京都タワーだと思う

鋤柄の場合は、どういうわけか、山科から蹴揚を越えて三条へ入るときの
あの西から見下ろした京都の姿が一番印象に残っている
善光寺を訪れる人にとってのイメージはどうかというと
坂東からの人は絶対に見ることができないが
西日本からのルートをとると
このかむりきトンネルを越えて目に飛び込んでくる千曲川と善光寺平の風景は
日本一のとてつもない感動を与えるものだと
勝手に思っている
あの姨捨である
田毎の月である
そして山国の奥に開かれた肥沃な広い平地である

前にも書いたが、千曲川がたゆたゆと中央を流れ
善光寺平の向こうには飯縄山がかすむ
なるほど善光寺平には飯縄山かと思わせる場所である
古代から中世のはじめまで松本盆地に国府があり
善光寺には実質的な幕府の出先機関だった後庁があった
ゆえ
当時の官僚達も聖山の先の猿ケ馬場峠を越えてこの風景を見たと思う
北陸経由で入ったとされる一遍も帰りは見たのだろうか
重源も見たのだろうか

2007年3月26日 (月)

春のきざし

卒業式が終わり大学は新年度へ向けての準備が急ピッチ
今出川キャンパスの発掘調査にかかわった学生君たちもそれぞれ新しい目標へ向かって歩き始めている
代わって文化情報学部の学生君たちがそれぞれの学生時代の目標を定める準備に入りつつある

奥能登で大きな地震がおこる
あらためて自然の力の大きさと人間の営みの大切さを実感する

27日には、卒論ゼミに向けての準備をどうしたらいいかの説明会がおこなわれる
会場の教室には多くの学生が集まり、関心の高さを示す
文化情報学部という新しい学部で最初の卒論を書く彼らと我々
1回と2回の間は一般教養と基礎科目がほとんどだったが
3回生になる時期を向けて、いよいよ正念場である

文化情報学部には多彩で個性的なスタッフがたくさんいる
これまではその一部にしか接する機会がなかったと思う
そこであらためてそれぞれのスタッフがどんな卒論ゼミを考えているかの
説明会を5月に開催する
学生君たちには、ぜひこの機会を有効に使って
どんどんそれぞれの研究室へおしかけて多くのスタッフと交流を深め
各自のしたいことできることのみきわめをつける努力をおこなってほしい
学問の深さとバラエティ
そして実社会へのその活かし方や関わり方
視野をひろげて見方を変えれば、もっとたくさんの世界をもつことができる
その手助けを自信をもってすすめよう


重野昭茂2007「自然環境による安曇野古代鳥川扇状地の開発」『信濃』59-3
小島正巳2007「妙高山における山岳宗教遺跡の形成と変遷」『長野県考古学会誌』119
谷謙二2006「『埼玉県営業便覧』の資料的特性と明治期の埼玉県における中心地の機能と分布」『埼玉大学教育学部地理学研究報告』26

2007年3月22日 (木)

阿智と東山道

古代の官道のひとつである東山道を信濃に入ってすぐの場所に阿智という場所がある
現在も国道のとおるその集落のすぐ脇の、両側を谷ではさまれた尾根の先端に
阿智神社という式内社がある
社伝によれば、越後から勢力をのばしていた出雲系諏訪氏に対して
畿内方の防衛勢力としてこの地におかれたという
うかつにも諏訪氏が出雲系とは不勉強だった
もとより巨木伝説の時に、森先生が出雲から北陸を経由して諏訪に入る文化の流れを指摘していたが、それが今になって甦る
いつものことだが、現地を訪れることに勝る勉強は無い
名神高速道路を名古屋から京都へ向かうと
一宮を越え木曽川を渡ると長い直線コースになる
天気が良ければこの時にその正面の右手に伊吹山が見える
Pa0_0000 日本武尊の伝説にどうして伊吹山が登場するのかよくわからなかったが
なんのことはない
濃尾平野(そのころはまだ海が奥まで入っておりルートは山側を通っていたが)
から近江へ入る時、はるか遠くから
伊吹山は圧倒的な迫力でその前に立ちふさがって見えるのである
山を考えるためには、登るのではなく仰ぎ見ることが必要だと実感する風景である

Pa0_00041 飯田市教育委員会2006『駄科権現堂遺跡 安宅3号古墳』
飯田市教育委員会2006『沖平南遺跡』
飯田市教育委員会2006『飯田城下町遺跡』
飯田市教育委員会2006『上山遺跡群』
飯田市教育委員会2006『栗屋元遺跡』
飯田市教育委員会2006『恒川遺跡群』
飯田市教育委員会2006『北方西の原遺跡』

上ノ国町教育委員会2005『史跡 上之国勝山館跡』16
Pa0_0005 上ノ国町教育委員会2005『町内遺跡発掘調査等事業報告書』8
上ノ国町教育委員会2006『町内遺跡発掘調査等事業報告書』9
上ノ国町教育委員会2006『たずねてみよう エゾガ島の中世』
『勝山館とその時代』DVD

滋賀県文化財保護協会2006『西浅井町塩津港遺跡発掘調査現地説明会資料』神社遺構
滋賀県文化財保護協会2007『彦根市松原内湖遺跡発掘調査現地説明会資料』
070313_18100001
小島孝修2006「琵琶湖岸の生業」『関西縄文人の生業と環境』(第7回関西縄文文化研究会)

2007年3月19日 (月)

松原内湖遺跡

彦根城から北へ車で5分ほどのところにその遺跡がある
かつては琵琶湖の内湖だった場所で、今はもうふつうの地面だが
その名も松原内湖遺跡で
まわりを低く幾重にも侵食された谷が取り囲む
その谷の1カ所から7世紀おわりから9世紀初め頃まで続いた集落がみつかった
中心的な時期は奈良時代という
谷の斜面を削りだして狭い平坦面をつくり小さな竪穴住居をいくつもつくっている
とても小さな竪穴住居で
見た目には2人か、せいぜい3人も入ったら一杯になりそうなくらい
重なり合っている住居もあるので
同じ場所にこだわってつくっていたことになる
(奈良時代後半には掘立柱建物に変わるらしい)
狭い谷の斜面の小さな村
立地から推し量れば
内湖の水産資源を生活の糧にしていたささやかな村かとおもわれる様な感じ

そんな村の遺跡から
平城宮でみつかるような土師器の皿が出てきて
きれいな形でよく焼けた須恵器も
そのうちのひとつには墨書もある
一方で漁業の営みを思わせるものはみつかっていない
どこにでもあるようなささやかな村かと思ったらどうもそうでもないような趣き

担当の小島孝修さんにしつこく聞く
こういった竪穴は滋賀県では普通なのか
こういった立地は滋賀県では普通なのか
竪穴の様子は珍しくないようだが、立地は珍しいとのこと

最初の様子を見て頭をよぎった姿があった
青森県のかつての浪岡町に高屋敷館遺跡という環濠の館がある
谷の斜面を利用して築かれた平安時代の集落である
大きな環濠の館が有名だが
そのまわりにたくさんの竪穴のあって
その風景が頭をよぎったのである
たしか移住集団の集落ではないかという解釈もあったように思う

彦根と言えば
すぐ南があの敏満寺と多賀大社のある多賀町
東は米原、その先にあるのが不破の関
関東と畿内の境界線
北へ足を向ければすぐに愛発の関の山を越えて北陸
平安時代の終わりには重源が拠点とし
もちろん安土桃山時代は信長が拠点とした
いつの時代でも畿内とその外世界との間をむすぶ重要な意味を持たされたところ
奈良時代と言えば、敏満寺の水沼荘もそうだが
東大寺が北近江から北陸の荘園経営に力を注いだ時代
なにか見えたような気がする

2007年3月18日 (日)

平安京の住まいを考える

京大で西山先生の研究会がおこなわれ
下御霊神社と府立図書館を経由して東山一条へ
ちなみにあまり知られていないが
府立図書館にはその地で発掘された常滑の大甕がエントランスに展示してある
ほぼ完形で、京都市内ではあまり接することのできない資料だ

西山先生の研究会は平安京のすまいについてがテーマでおこなわれており
本日の報告は寄宿・寄住と婚姻に関するもの
裏松固禅の大槐門新槐門図から寝殿造図にかかわるもの
陶磁器の品質と居住者の関係についてのもの

最初の報告は平安時代の婚姻と居住の関係についてのもので
京楽さんに代表される研究史をしっかりふまえ
報告者自らの史料の見方と扱い方についての考えも整理した
1時間のしっかりしたものだった
久しぶりに
話しを聞きながら思考をプロセスをたどり思索をめぐらせることのできる報告で
面白かった
結論と評価にはコメントできる立場にないが
歴史系の報告はかくあるべきとの良い実例だろう

2番目の報告は寝殿造り鳥瞰図の『家屋雑考』で
有名な会津藩士で江戸後期の国学者の沢田名垂(さわだなたり)の
元になったと言われている裏松固禅が収拾した諸図について
なかでも本槐門図新槐門図と古図などの成立年代
と製作者についての考察が報告された
結論にしぼれば、本槐門図新槐門図は
大永年間に溯った九条家の邸宅をモデルとしたもので
古図との関係は説明できず
またいずれも裏松固禅より以前の住吉如慶にかかわる可能性もあるという
これまで藤本さんと京楽さんの研究に依ってきたが
史料研究でも次々と新しい見解が生みだされている

最後の報告は平安時代前期における邸宅跡の事例報告
9世紀の様子はこれまであまりよくわからなかったが
豊富な遺物を元にした刺激的な報告だった

自転車で一条通りに出ると
この冬からこれまでで一番の寒さと思われる風が吹きすさぶ
「黒いダッフルコート着て背中丸めて歩」く感じで
今出川へ途中でT先生とその卒業生のグループに会う

さあ、文化情報のみんなも刺激的な学びの中に飛び込もう

2007年3月12日 (月)

春の新作

西園寺公経と聚楽第のほぼ新作による楽洛キャンパスの初日を終えて
けっこう力を入れて話しをしたので
そこそこ疲れて
ちょっと一服がてらにいつもの寒梅館のイケメンカフェに

包み焼きの凝ったランチを(これでもいつもの500円)食べて
1時からの約束を待つ
プロジェクト科目で作成したパンフレットができてきて
それを作成した学生君たちに実物を渡す約束
一人は就職が決まり二人は就職活動の真っ直中という
作成過程の苦労話をしながら暫しくつろいでいると

隣でなにやらパフェの写真撮影がはじまる
聞けば学生くんの参加企画による春の新作で
その取材とのこと
それぞれ名前がついていて
これがニャンパフェ
070312_13240001

これがコバdeレモン
070312_13240002

見た目も良いが、味も良い
社会学部の4月から3回生になるFくんがプロデュースしたようで
見事なプレゼンに皆感嘆
田辺のラテでもでるらしい
楽しみにしよう
4月1日からの期間限定
詳しくはいつもの寒梅館カフェまで


高橋慎一朗2007「「六波羅」から中世を考える」『研究紀要』20京都女子大学宗教文化研究所
山田邦和2006「日本人が描いたピラミッド」『花園史学』27
山田邦和2007「中世都市嵯峨の変遷」『平安京-京都』京都大学学術出版会

2007年3月11日 (日)

聚楽第を探せ

明日は楽洛キャンパスで上京を中心とした京都の歴史を話します
話しは2部構成で
1部は西園寺公経を主人公とした現在の上立売通から五辻通にかけての
鎌倉時代の話し
2部は豊臣秀吉の聚楽第の話し
西田直二郎さんの研究にはじまる近代以降の聚楽第研究をふりかえり
これまでだされたいくつもの復原研究を検討して
最後に鋤柄案をだそうと考えています
その時に紹介するのが現在の聚楽第周辺の風景
Juraku01 ここについ最近の様子をのせておきました
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/jurakumap/index.htm
この数週間、何回かに分けて
中古サイクルマンになって走り回った記録です



それで問題の鋤柄案ですが
前提としたのは、京都図屏風と洛中絵図をあわせた内藤さんの研究と
天秤堀にこだわった湯口さんの研究
もちろん大前提は広島城を参考にした櫻井さんの研究
これらを前提にして
西田さんの白銀町のこだわりをいかして馬瀬さんの調査地点データをのせてみると
一番近いのは内藤さんと櫻井さんの1979をあわせた形
その時、もちろん国土地理院の5mメッシュ標高もつかったけれども
今回の決め手になったのは馬瀬さんの1998年の成果
とくにその時の図のコンターラインでした
1990年代に南河内と上町台地の等高線をひたすらトレースしていたのを思い出しました
けれども重要なことはそれだけではありません
実はこれが大坂城の縄張りに共通する要素があるように思えるのです
もしそうであるならば、やはり足利さんの復原されるような
スケールの大きな都市計画といったものもやはり重視しないといけないのではないかと
あらためて考えているところです

2007年3月 6日 (火)

聚楽第探索ツアー後編

ただ、もうひとつ確認しておきたいことがあった
現在の地名情報の検証である
実は、現在の京都市内の地名は実はかなり新しい時期のもので
それをそのまま中世まで溯らせるのはむずかしい
これは京都だけではなく、以前に河内鋳物師の研究をしたときも、多くの字名が近世以降のものであることがわかり、そこからの復原に苦労をした経験がある
京都の場合も、明治になってできたものや、江戸時代に移動してきた町もあるという
そんなややこしい京都の地名情報の整理をどうしたらいいかと思っていたら
これについては地名地図研究の専門家が一定の成果をあげており
それが湯口誠一さんの「町名の軌跡-聚楽第跡と上京の替地-」
ところがこの本は、100号記念は同志社にあるが200号記念は無い
田辺の図書館で相談したら大阪市立図書館にあるという
ということで25日には大阪へ

その研究によれば
例えば現在千本の一条に伊勢殿構町があって、これも聚楽第の周辺にあった武家屋敷の関係とも言われているが
これはもともと新町上立売か烏丸今出川にあった伊勢氏の館の周辺にできた町がその後に移動したもので
実際に先年の今出川図書館西の発掘調査では東西軸の堀がみつかっており
それがまさに伊勢殿構町の痕跡そのものだった可能性がある
これで検討すべき事前の準備は整ったことになるが
そこで問題となるのが天秤堀の存在である
湯口さんも課題とし
おそらく西田直二郎さんの知見を受けた森島さんの復原にそのまま反映されていると思われるその情報

この業界では、実際に現地を歩いてその地形やなにかの痕跡を感じた人の情報がとても重要であり
現在知られている最も有名なものが
智恵光院新出水西の竹林寺の窪地
それから東堀の井戸
それから大宮一条西北の石垣になっている段差
それに対して天秤堀はこれらの現地情報には曖昧だが
18世紀の地図に登場し、その後も畑地となって明治に続くもの

ところで技術の進歩は携帯電話と地デジだけでなくあらゆる分野におよんでおり
この業界でもさまざまなデジタルデータの活用による研究の進化が試みられている
その代表が遺跡情報の3次元化であり
なかでも遺跡全体をレーザーなどによってリアルにアーカイブしようとする試みはまもなく実用段階に入ると思う
その最も大きな仕事が遺跡の乗っている地面のレーザーによる3次元化だが
去年から国土地理院によって整備された東京・京都・大阪などの5mメッシュによる標高データが頒布されている

これまでの標高データは50メートルメッシュだったので、格段の精度アップである
そこでこれで聚楽第の周辺をみてみると見事に竹林寺の窪地も表現され
さらに千本通りの東にそって南北に続く窪地も見ることができる
もちろん大宮一条西北の段差もわかる
学生君たちを連れての現地探索でも注意していたが
中立売通りの南と千本通りの西には見た目でもよくわかる段差が存在している
実はこのデータだ入手できる以前は、実際に手測りでデータ取得しようかとも思っていた

これらの段差がいつできたのかの検証をしないといけないが
聚楽第周辺の地形がマクロ的には北西が高く南東が低く
『京都図屏風』に描かれた聚楽第の東と南に土塁のような表現があるのはそのためだ
という指摘とあわせれば
とくに千本通りの東に沿って南北にみられるくぼみは
聚楽第の西の堀を示す可能性が強いのではないかと思われる
ところが江戸時代の地図に登場して、最もその痕跡がみられそうな天秤堀がこの標高情報には見えないのである
これはどういった理由によるものだろうか
謎の天秤堀である
聚楽第に関わるものなのだろうか

そんなこんなで聚楽第とつきあっていたちょうどその時
聚楽第を描いた絵画資料として最も有名な
三井文庫所蔵の聚楽第図
堺市博物館所蔵の聚楽第行幸図
南蛮文化館の洛中洛外図
瑞泉寺縁起
(これらはいずれも京都市歴史資料館の企画展図録『聚楽第と京都』2000より)
以外に尼崎で市民からよせられた文化財資料の中に洛中洛外図屏風があって
これがきわめて稀な聚楽第を描いている江戸初期の作品で
すでに『歴史読本』で2004年の10月に紹介されているが
その修復が終わり、尼崎信用金庫の博物館で公開され、さらにそのシンポジウムが行われるということで一路尼崎へ

この洛中洛外図をはじめ、尼崎の文化財調査に尽力されている京都工芸繊維大学の並木先生による地域における博物館・美術館の役割についての講演を拝聴
歴史遺産を社会にどのように還元しいかしていくかは、これからとても重要になるテーマで
鋤柄も学部と大学院を通じた授業でとりあげていきたいと考えている
今回の尼崎のシンポジウムと並木先生たちの仕事は
まさにそれを実践しているもので大いに学ぶところがあった
なかでも尼崎は博覧会資料が豊富だという
並木先生が言われるよう、博覧会とはそれをおこなった時代の最も輝いている文化が凝縮されたものである
いわば情報のかたまりでもある
ロンドンの博物館では大英博物館が有名だが、V&Aもとても面白い
それはV&Aが博覧会資料の展示をしているからではないかとも思う
そこに行けば、その時代のすべてが等身大で体験できるのである
別の見方をすれば、博覧会資料の情報化はそのまま時代の文化のアーカイブとも言えるような
鋤柄ゼミで誰かテーマにしてくれても良いと思う

そんなことも思いながら尼崎の寺町を横切って尼信の立派な博物館へ
(ここはコインのコレクションもすばらしい)
この洛中洛外図については、すでに市教委の伏谷さんが考察を発表しているが
伏谷優子2005「聚楽第と聚楽第行幸が描かれた洛中洛外図について」『文化史学の挑戦』思文閣出版
実物の観察ではそれと少し違った印象も受け、非常に勉強になった
(これについては楽洛キャンパスの授業で)

展示資料には
尼崎らしく瀬戸内海航路の史料や朝鮮通信使のみごとな史料もあり
(朝鮮通信使については学部時代に「日本の中の朝鮮文化」で学んだことがある)
平安時代中期以降、砂で航行不能になった淀川河口に代わり
神崎川から垂水を経由して三国から淀川を経由した京の外港として
中世前期には大物遺跡という港湾都市遺跡で有名な
尼崎の場所の特質を実感することができた

2007年3月 5日 (月)

聚楽第探索ツアー中編

ということで
聚楽第をマクロとミクロでみるための具体的な方法を考えていきたい
方法は3つ
発掘調査で得られる遺跡情報
絵図や地図などから得られる地図地名情報
大きさや印象が記された史料エピソード情報である

歴史地理を専門とした足利健亮さんは、エピソード史料情報と地名情報をあわせることで、マクロ的な視野に立った聚楽第と京都の関係を考察した
考古学を専門とする鋤柄は当然遺跡情報を
ということになるが
今回は最初の手がかりを同じモノ系の歴史情報である絵図および地図地名情報に求めてみたいと思う

日本の歴史と文化を代表する京都には、さまざまな形のビジュアル史料が残っており
そんな絵図・地図資料には絵図・地図資料の専門研究がある
その最も有名なものが洛中洛外図であろうが、より地図性の高いものにしぼれば
それをまとめた本が今出川図書館にある
 大塚隆編集1994『慶長昭和京都地図集成』柏書房
その最初に収録されているのが『京都図屏風』
それが存在した期間の短さ故に、描かれることに稀な聚楽第が描かれている地図性の高い史料として有名
聚楽第の時期に近い江戸時代初期には、これに加えて「洛中絵図」という有名な資料があるので、それをあわせることが最も順当な探索法となる
しかるに当然その解説には、地図地名研究からの聚楽第についてのこれまでの主要な研究成果が紹介されている

櫻井成廣さんは、この図をもとに『歴史読本』1979年7月号に「聚楽第の新史料」という考察をよせ
関連資料として
内藤昌・大野耕嗣・中村利則さんによる1971「聚楽第-武家地の建築」『日本建築学会論文報告集』180号
杉森哲也1993「京の城下町化」『図集日本都市史』東京大学出版会
湯口誠一1988「町名の軌跡-聚楽第跡と上京の替地-」『古地図研究』(月刊古地図研究200号記念論集)原書房
湯口誠一1994「京都図屏風小考」『月刊古地図研究』290号
大塚隆1979「上京の古地図」『上京乃史蹟』15号
大塚隆1980「上京の古地図」『上京乃史蹟』16号
がある

そこでまずこの中から「聚楽第-武家地の建築」を田辺の図書館でたずね
電子ジャーナルでの入手を教えてもらう
中村利則さんは室町殿の邸宅復原でも有名だが
この時は名古屋工業大の学生だった
さすが建築史の専門論文だけあって、詳細な記録調査と絵図検証で聚楽第と対峙しており、必要とされる検討はすべてしつくされたように思える
なかでも図1-1-3となっている「寛永14年洛中絵図」による聚楽第跡の復原は
ほぼ先の森島さんや百瀬さんの推定復原の原型のような姿をしている
もちろんその中で、西田直二郎さんの「聚楽第址」『京都府史蹟勝地調査會報告』第1冊大正8年、およびその補遺の第2冊も参照されている
さらに、比較すべきものは無いと思っていたら、広島城が聚楽第をモデルにしたものだともいう

そんな精緻な論攷の復原案が近似した結果となった認めているのが櫻井成廣さんの聚楽第研究だった
櫻井成廣さんは哲学を専門とする学者だが
先の関連文献にある杉森さんの「京の城下町化」の参考文献として、櫻井さんの『豊臣秀吉の居城-聚楽第・伏見城編-』日本城郭資料館出版会という大著が紹介されている
刊行年は先の「聚楽第-武家地の建築」と同じ1971年である
さっそく見たいとおもって探したら、残念ながら同志社の図書館にはこの書の大阪城編しか無く、奈良県立図書情報館で発見
豊臣秀吉という人物への知的好奇心による精緻な論攷で、櫻井さんにとって聚楽第の復原はそのためのプロセスでもある
実は、聚楽第について多くの研究は、おおむねこの著作から出発していると言っても過言ではない内容の研究書である
聚楽第分間図や広島城の縄張り図を参考に、その後の聚楽第復原図の原型とも言える復原図とさらに模型もつくられている

またその後、「京都図屏風」の公開を受け、その修正案を提出されている
先の『歴史読本』と1981『戦国名将の居城』新人物往来社

ただ、もうひとつ確認しておきたいことがあった

2007年3月 4日 (日)

今城塚へ行こう

ということで、今日は残りの必要な文献として
櫻井成廣1981『戦国名将の居城-その構造と歴史を考える-』新人物往来社

矢守一彦編集1981『浅野文庫蔵諸国古城之図』新人物往来社
を見るために奈良県立図書情報館へ行くつもりが

高槻市の今城塚古墳の現地説明会が今日だったことを思い出して急遽摂津富田へ
南山城の古代を語る上で不可欠な継体大王の墓で
かつ戦国時代には砦に利用され、さらに慶長伏見の大地震の明瞭な痕跡も残す重要遺跡
今回はその整備のための10回目の調査で、後円部に築かれた横穴式石室の基盤と推定される石組遺構が慶長伏見の大地震でくずれた姿で見つかったという
この業界の人間は、狭い自分の専門に閉じこもらずに
重要な遺跡の調査にはいつも知的好奇心を鋭敏にしておかなければならないと

後期古墳の大王墓級の主体部が発掘されたのはあまり例が無く
今後の古墳時代研究に貴重な資料になり
今回の調査結果により、継体大王がそれ以前の皇統を継ぐものか
あるいは新たな皇統を主張したものかについて説明できる可能性があるとも
ともあれJR摂津富田駅からすっかり春模様の道を急ぎ
ひろく平坦な扇状地に築かれた今城塚を訪れる

到着したのは公開時間ぎりぎりの3時で
最後の説明が始まったところだが
まだ多くの見学者が残っている
早い人は8時ころからきていたという
この仕事が社会に求められており、その意味で責任も重いことをあらためて実感する
これまでも何度も言ってきたが
部屋にこもって資料にあたるのも大切だが、リアルに社会と向き合うことはもっと重要
今回の調査が生みだすテーマと議論の重要性とその展開の可能性はともかく
少なくとも目の前の状況は圧巻

ところで今城塚の西南が宮田町
駅から今城塚へいく途中には春日神社がある
また駅のすぐ北を国道が横断している
中世の集落遺跡の研究がはじまったころ
高槻の宮田町3丁目の宮田遺跡の集落が
代表的なひとつの基準資料としてとりあげられた

そこでは、もちろんプリミティブではあったが
限られた資料情報から様々な議論がうみだされた
その頃はまだ遺物研究も盛んで
集落遺跡もそれにちかいミクロ的な検討が専らだったため
全く気がつかなかったが
あの宮田遺跡がここにあったとすれば
古墳時代後期にさかのぼる地域拠点の範囲内で
さらにもちろん街道沿いだったということも重要な要素だったことになる
もう一度昔の論攷を見直してみようと思いつつ
奈良県立図書情報館へとってかえす

2007年3月 3日 (土)

聚楽第探索ツアー前編

楽洛キャンパスで上京を中心とした京都の歴史を話すつもりであるが
その中でも初回はとくに西園寺と聚楽第に注目したいと思っている

このうち聚楽第についてまずは少し
歴史地理から聚楽第と秀吉の京都を説明したのは足利健亮さん
足利健亮1984『中近世都市の歴史地理』地人書房
足利健亮さんのこの論攷が目指したのは、聚楽第だけではなく
秀吉が築こうとしたあたらしい時代の伏見もふくめた京都全体の姿とその意味
そして徳川時代の京都の姿とその意味の説明

ゆえ、その点において聚楽第の詳細な形状までは復原の対象とはされていない

そのために必要だったのが、聚楽第の位置の推定
地名と大きさが記されたエピソード史料を検討することで
聚楽第が御所と東西に並列し
その南限の押小路以南には
新設された坊間小路によって特徴付けられる南北軸の街並みがひろがる
それは南を正面として、あたかも天皇と関白の二元体制をシンメトリーに表現したような都市の形だった
これに対して江戸時代の京都は
二条城を中心に高瀬川へ向かう東西を軸とした町となった
ゆえ、秀吉の時代の京都の姿と徳川の時代の京都の姿は全く違うものだ

足利健亮1992「聚楽内城について」『長岡京古文化論叢』Ⅱ
足利健亮1994「豊臣秀吉と聚楽第」『京都歴史アトラス』中央公論社

文献史研究の見方では
秀吉の事績は、とくにお土居に象徴され
それ以前の多元的な支配体制が秀吉を頂点としたものへ一元化されたことで
近世の幕開け的なエポックとして説明されることが多い
しかるに足利健亮さんが説明した京都の都市の姿はそれと少し違うように思う

確かにその後の秀吉は、秀次と共に聚楽第を破却してしまい
シンメトリーだった京都は姿を変え
秀吉の関心の中心も大坂や伏見移ったかにみえる
1582年 本能寺の変
1583年 大坂城本丸築造、京都で寺地の移動
1586年 聚楽第築造開始
1590年 天正地割
1591年 聚楽第を秀次に譲る、大名屋敷の配置替、お土居築造
1592年 伏見(指月)城築造
1595年 聚楽第破却
しかしそれは京都にとっても秀吉にとっても晩年の出来事であり
当初に秀吉が京都に対してもっていたイメージではなかった

そんな秀吉と京都にとって重要な意味をもつ聚楽第について
最近、京都の日本史研究会が編集した文理閣の本が出た
2001『豊臣秀吉と京都』
その中で百瀬正恒さんと森島康雄さんが発掘調査のデータなどを元にした
聚楽第の推定復原をおこなっている
森島康雄「聚楽第と城下町」、百瀬正恒「聚楽第の築城と都市の発展」
森島さんは「京都図屏風」と豊臣秀次の家臣で文禄4年の聚楽第の規模を記した「駒井日記」を参考にしながら
大正8年におこなわれた西田直二郎さんの調査記録と、天保14年に名倉希言さんが作成した資料の上に発掘調査地点の堀や地山などのデータを載せ新たな聚楽第の復原案を提案した
西田直二郎1919「聚楽第遺址」『京都府史蹟勝地調査会報告』第1冊
名倉希言1843『豊公築所聚楽城跡形勝』

後でも登場するが、当時西田さん観察した地形の特徴が
現在でも聚楽第を推定するときの大きな手がかりとされており
それは
1:松林寺境内
2:土屋町通下立売上るの窪地
3:裏門通り下長者の山本町と白銀町の低地
4:土屋町通の低地
という

また聚楽第の堀からみつかった金箔瓦より新しい技術の特徴をもった金箔瓦が
堀川・烏丸・一条・下立売の範囲からみつかるとして
これを天正19年の京中屋敷替えによって移動させられた大名屋敷の痕跡とする
現在残されている聚楽第周辺の町名との関係がむずかしくなるが
御所と聚楽第の間に大名屋敷がおかれたという姿はよく理解できる

百瀬さんは、絵図資料と町の形と微地形を基礎に、堀の検出地点の検討を加え
森島さんとやや異なった聚楽第の推定復原を提案した
また森島さんは、この考察以前に大阪大学文学部日本史研究室編1998『近世近代の地域と権力 』清文堂出版で、「聚楽第内郭の復元」という考察をおこなっている
櫻井さんをはじめとする既往の研究をふまえた上で
発掘調査でみつかった堀跡を調べ、それに「京都図屏風」の聚楽第配置と「駒井日記」の規模の記述をあわせたものである

それから馬瀬さんによる発掘調査地点の詳細なチェックをもとにした聚楽第跡の推定復原が一番最近出されている
京都市文化市民局文化部文化財保護課2006「聚楽第と御土居」『京の城』
京都市埋蔵文化財センター1998「平安宮跡・聚楽第跡№27、№60」『京都市内遺跡試掘調査概報』
若干表現の形は異なるが、堀の範囲と形状の本質は変わらず
豊富な調査地点のデータと共に大いに参考にできる提案である

これらの復原案と足利健亮さんの仮説と
そのどちらがどうか、という議論をここでするつもりはない
それはもちろん聚楽第に対する足利健亮さんの視点と立場によるものと思われるからであるが
とは言えマクロ的な都市京都を考えるためにも
聚楽第のミクロ的な検証もやはり必要であることは確かだろう
足利健亮さんのマクロ的な視点と思考に立脚して
発掘調査などのデータをもとにしたミクロ的な研究が
今考えているそのために必要な作業となるだろう

2007年3月 2日 (金)

続・鎌倉レンタサイクルマン

鎌倉市教育委員会で小林さんにお世話になった後
昨日行き着くことのできなかった化粧坂をめざす
事前に聞いておいて良かったが
Photo_64 03_2 なるほどレンタサイクルでの化粧越えはとても無理
けれども
行ったおかげで源氏山が寿福寺の背後になることを理解
六浦からの道の終点が寿福寺で、その裏が源氏山
なるほど
そうかあ
という感じ

さだまさしの名曲に無縁坂というのがあって
その中に源氏山から縁切寺へ向かうという歌詞がある
はて、どんなコースだろうと思っていたが
Photo_65 山頂の頼朝像に挨拶をして案内板をみたら
なるほど、寿福寺の南から登ることもでき
佐助の銭洗弁財天からも登ることができ
山頂からは、北西の稜線沿いに葛原岡神社を経て北鎌倉の浄智寺におりるルートがある
東慶寺は浄智寺のすぐとなりなので
おそらくこういったルートなのだろうと独り合点

自転車は下に停めていたので
もういちど扇ケ谷にもどって市役所前から佐助ケ谷へ向かう
Photo_66 Photo_67 御成トンネルをくぐるとすぐに法務局
ここが有名な佐助ケ谷遺跡
その先の十字路を北へ折れれば、その先に佐助稲荷神社と銭洗弁財天
先に佐助稲荷へ詣で
もどる途中に脇の路地から観光客が出てきて
銭洗弁財天の標柱があったのでおもわずそちらへ
Photo_68 鎌倉の路の狭さには慣れてきたが
ここはもうほとんど人が歩けるだけの幅
山際ちかくで団地の造成工事がおこなわれており
そこから先はなだらかな階段
山の斜面をトラバースしながら登ると右に急な階段と銭洗弁財天の標識が
さすがにこれは自転車では無理と断念してもとの路に戻る
けれどもせっかく登ってきたのでと谷の写真を撮るが
なるほど鎌倉の谷々にはこういった形で奥まで家並みが続いていたのかと実感

02_2 Photo_69 Photo_70 見事な岩陰遺跡を思わせる銭洗弁財天に詣で
佐助の交差点から再び西へ
新佐助トンネルとくぐると長谷入口の交差点
南は細い谷が大仏まで続いている

ゆるかな登りで長谷のトンネルをくぐり北条氏常盤亭跡へ
八雲神社前まで行って大仏へもどる
有名な大仏切通はこの道の北の尾根とのこと
Photo_71 トンネルをぬけて振り返ると
なるほど、みごとなまでに城壁のような山並み
今回は実際の切通を踏破できなかったが
あらためて歩いてみないと
中世の鎌倉をめぐるネットワークは実感できないなあと思う

Photo_72 Photo_73 長谷観音の交差点から由比ヶ浜大通りをもどる
途中で甘縄神神社と和田塚に寄る
この一帯は起伏も少なく鶴岡八幡宮周辺に次いで立地の良い環境ではないかと思いながら
02_3 報告書で見た笹目や六地蔵などの地名を確認
御成通との交差点の先が江ノ電の踏切で
その先が下馬
なんとか最低限の地理感は得られたような
070228kamakura

2007年3月 1日 (木)

鎌倉レンタサイクルマン

鎌倉駅を降りると春を思わせる好天
こういった仕事で一番大切なことは土地勘をどれだけ知っているかである
それはこれまで鎌倉へ来た回数とは無関係
よって
とにかくマクロ的に自分の頭の中に鎌倉を入れ込むべく1日1500円のレンタサイクルで鎌倉をまわる

データベースとマップをみて
ともかく一番身近で遠くへ行こうと思い光明寺へ向かう
向かいは、あの和賀江島
03_1 若宮大路を海に向かい、国道134号線を東へ
歩道は海側が整備されているが、山側は狭く入り組んでいて自転車にはちょっと大変
海の家をながめなら飯島トンネルの手前で自転車を停める
前に同じレンタサイクルと地図を持った若者がいてこちらへ戻ってくる
えらいやっちゃなあ
もう少し時間が遅ければ飲ましてやるのにと一瞬思う
Photo_41 国道を降りてその下をくぐって海岸に出ると和賀江島の石柱があって正面がそれ

すぐにとって返し、材木座の道を光明寺へ向かう
手前で小坪トンネルを見て、そのまま光明寺の裏をまわりそうになって住Photo_42 Photo_43 宅街の間の階段を自転車を抱えて降りる
記念に材木座の交番の写真を撮ってすぐ北が光明寺
見事な山門である

駅前の本屋で買った200円のガイドブック付きマップを片Photo_44 Photo_45 Photo_46 Photo_47 Photo_48 手に補陀洛寺の細くてくねくねした路を行き
九品寺。実相寺・五所神社・来迎寺をまわる
五所神社ではとても懐のひろい猫の出迎えを受ける
すぐ手前に宅地開発がすすめられており、地面と視野の開けた空間が出現する
ゆえ、鎌倉の東の山に沿ってこれらの寺社が立地していることがよくわかるが
これも半年後には見られなくなるかと思うと少し複雑な気持ちになる

この路は北へむかい、国鉄の線路の手前で東西の路に行き止まりのT字路になる
Photo_49 Photo_50 ここを東へ曲がれば長勝寺を経て名越へ向かう路
今は車がぎりぎりで通れる路だが
かつては名越から鎌倉の前浜に入る重要路だったのではないだろうか

この角を東へ折れ、由比ヶ浜大通りに出たところを少し行けば長勝寺
Photo_51 踏切の様子をみながら今の名越の写真を撮って安国論寺へ
妙法寺の辻を確認したところで逆川を見つけ、名越の交差点へ向かう
名越のバス停がちょうど逆川の橋で、2人の妙齢のご婦人がうまい具合に立ち話
逆川の意味がわからないまま由比ヶ浜大通りを西へ
Photo_52 安養居ん・上行寺・別願寺をすぎたところで南へ折れ逆川橋を探す
なるほど
このところでこの川は鎌倉盆地の常識を覆して北へ流れている
そのまま大町へ出て辻の薬師を拝み再び北へ
逆川沿いの路を小学生達が下校時間
側の石碑に気がつけばこの地区のいわれと繁栄が記されている

070227kamakura よく知られているように
Photo_53 Photo_54 大町の四つ角はかなりな坂で
ここから南はなるほど浜かということがよくわかる
逆にここからきたは平坦な地形となって緩やかな登りで夷堂橋を渡れば本覚寺が正面
ここで地図を見て延命寺へ行きたくなり再び路を南へ
途中から西へ入り若宮大路へ出たが
このあたりは起伏が複雑でかつ比高差もあってなかなか
Photo_55 結局若宮大路からガード下を経て国鉄を渡って鎌倉女学院まで行って戻って延命寺へ
でも、この時
琵琶橋からガード下のあたりが、滑川の中でもとても流路の溜まるところとわかり
鎌倉の地形と地勢に触れた気がした

Photo_56 とってかえし十二所稲荷へ向かう
鶴岡八幡宮から東へ、大倉へ経て鎌倉女子大学へ経て杉本寺を経てさらに東へ
滑川沿いに金沢街道を行くルート
ここでもやはり道の狭さがレンタサイクルの通行を困難にしているが
Photo_57 これはやむをえないこと

十二所のバス停を過ぎたあたりから道は北へ向かい道はさらに狭くん登り坂となる
ここだけではないが、周知のように鎌倉は
いたるところが谷で
中心地の平坦部はそのなかで奇跡的とも言える状況がうみだしたもの
ゆえ
Photo_58 Photo_59 鎌倉を考える時は、その中心部のみをみているだけでは不十分で
多くの谷をあわせて考えることが必要そしてこの業界での常識
すでに先学が多くを示してきた通りである
今回の場合も、十二所神社へ行くまでの報国寺や明王院がその具体的な事例をsiteしてくれている
ただし、鎌倉女子大の坂は鎌倉を知る時の大きな意味をもつことも身体でわかった

Photo_60 Photo_61 もどり、荏柄神社から覚園寺へ向かう
ここも同様に奥の深い谷
あれやこれやで気がつくとまもなく4時半
自転車を返す時間までにと
巨福呂坂のバイパスを大学生らしいカップルを立ちこぎで追い抜いて(途中まで)
Photo_62 Photo_63 建長寺を降りて長寿寺からなにも知らずに亀ヶ谷を登り
扇ヶ谷へ入ったところでタイムアップ
化粧坂へもアタックしようと思ったがあきらめて
駅までもどり
歩いて佐助まで行った頃には春の夕暮れが静かにおとずれ始めていた

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