« 続・鎌倉レンタサイクルマン | トップページ | 今城塚へ行こう »

2007年3月 3日 (土)

聚楽第探索ツアー前編

楽洛キャンパスで上京を中心とした京都の歴史を話すつもりであるが
その中でも初回はとくに西園寺と聚楽第に注目したいと思っている

このうち聚楽第についてまずは少し
歴史地理から聚楽第と秀吉の京都を説明したのは足利健亮さん
足利健亮1984『中近世都市の歴史地理』地人書房
足利健亮さんのこの論攷が目指したのは、聚楽第だけではなく
秀吉が築こうとしたあたらしい時代の伏見もふくめた京都全体の姿とその意味
そして徳川時代の京都の姿とその意味の説明

ゆえ、その点において聚楽第の詳細な形状までは復原の対象とはされていない

そのために必要だったのが、聚楽第の位置の推定
地名と大きさが記されたエピソード史料を検討することで
聚楽第が御所と東西に並列し
その南限の押小路以南には
新設された坊間小路によって特徴付けられる南北軸の街並みがひろがる
それは南を正面として、あたかも天皇と関白の二元体制をシンメトリーに表現したような都市の形だった
これに対して江戸時代の京都は
二条城を中心に高瀬川へ向かう東西を軸とした町となった
ゆえ、秀吉の時代の京都の姿と徳川の時代の京都の姿は全く違うものだ

足利健亮1992「聚楽内城について」『長岡京古文化論叢』Ⅱ
足利健亮1994「豊臣秀吉と聚楽第」『京都歴史アトラス』中央公論社

文献史研究の見方では
秀吉の事績は、とくにお土居に象徴され
それ以前の多元的な支配体制が秀吉を頂点としたものへ一元化されたことで
近世の幕開け的なエポックとして説明されることが多い
しかるに足利健亮さんが説明した京都の都市の姿はそれと少し違うように思う

確かにその後の秀吉は、秀次と共に聚楽第を破却してしまい
シンメトリーだった京都は姿を変え
秀吉の関心の中心も大坂や伏見移ったかにみえる
1582年 本能寺の変
1583年 大坂城本丸築造、京都で寺地の移動
1586年 聚楽第築造開始
1590年 天正地割
1591年 聚楽第を秀次に譲る、大名屋敷の配置替、お土居築造
1592年 伏見(指月)城築造
1595年 聚楽第破却
しかしそれは京都にとっても秀吉にとっても晩年の出来事であり
当初に秀吉が京都に対してもっていたイメージではなかった

そんな秀吉と京都にとって重要な意味をもつ聚楽第について
最近、京都の日本史研究会が編集した文理閣の本が出た
2001『豊臣秀吉と京都』
その中で百瀬正恒さんと森島康雄さんが発掘調査のデータなどを元にした
聚楽第の推定復原をおこなっている
森島康雄「聚楽第と城下町」、百瀬正恒「聚楽第の築城と都市の発展」
森島さんは「京都図屏風」と豊臣秀次の家臣で文禄4年の聚楽第の規模を記した「駒井日記」を参考にしながら
大正8年におこなわれた西田直二郎さんの調査記録と、天保14年に名倉希言さんが作成した資料の上に発掘調査地点の堀や地山などのデータを載せ新たな聚楽第の復原案を提案した
西田直二郎1919「聚楽第遺址」『京都府史蹟勝地調査会報告』第1冊
名倉希言1843『豊公築所聚楽城跡形勝』

後でも登場するが、当時西田さん観察した地形の特徴が
現在でも聚楽第を推定するときの大きな手がかりとされており
それは
1:松林寺境内
2:土屋町通下立売上るの窪地
3:裏門通り下長者の山本町と白銀町の低地
4:土屋町通の低地
という

また聚楽第の堀からみつかった金箔瓦より新しい技術の特徴をもった金箔瓦が
堀川・烏丸・一条・下立売の範囲からみつかるとして
これを天正19年の京中屋敷替えによって移動させられた大名屋敷の痕跡とする
現在残されている聚楽第周辺の町名との関係がむずかしくなるが
御所と聚楽第の間に大名屋敷がおかれたという姿はよく理解できる

百瀬さんは、絵図資料と町の形と微地形を基礎に、堀の検出地点の検討を加え
森島さんとやや異なった聚楽第の推定復原を提案した
また森島さんは、この考察以前に大阪大学文学部日本史研究室編1998『近世近代の地域と権力 』清文堂出版で、「聚楽第内郭の復元」という考察をおこなっている
櫻井さんをはじめとする既往の研究をふまえた上で
発掘調査でみつかった堀跡を調べ、それに「京都図屏風」の聚楽第配置と「駒井日記」の規模の記述をあわせたものである

それから馬瀬さんによる発掘調査地点の詳細なチェックをもとにした聚楽第跡の推定復原が一番最近出されている
京都市文化市民局文化部文化財保護課2006「聚楽第と御土居」『京の城』
京都市埋蔵文化財センター1998「平安宮跡・聚楽第跡№27、№60」『京都市内遺跡試掘調査概報』
若干表現の形は異なるが、堀の範囲と形状の本質は変わらず
豊富な調査地点のデータと共に大いに参考にできる提案である

これらの復原案と足利健亮さんの仮説と
そのどちらがどうか、という議論をここでするつもりはない
それはもちろん聚楽第に対する足利健亮さんの視点と立場によるものと思われるからであるが
とは言えマクロ的な都市京都を考えるためにも
聚楽第のミクロ的な検証もやはり必要であることは確かだろう
足利健亮さんのマクロ的な視点と思考に立脚して
発掘調査などのデータをもとにしたミクロ的な研究が
今考えているそのために必要な作業となるだろう

« 続・鎌倉レンタサイクルマン | トップページ | 今城塚へ行こう »

遺跡の見方」カテゴリの記事