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2007年4月

2007年4月30日 (月)

上醍醐

名前の一文字が同じだからと言うわけではないが、重源にこだわり続けている。
去年は高野山へ登り奈良博で重源に会った。

醍醐寺は、その重源が出家したことでも有名な寺
聖宝が東大寺の戒壇に登り、元興寺などで華厳・法相・三論を学び、葛城・大峯などで練行を積み、貞観16年(874)に笠取山の山上に観音を安置し、草庵を営んだことに始まるという。なお、笠取は醍醐天皇の外戚につながる宮道氏がおさめており、醍醐寺の発展には宮道氏の支援があったとも言われる。

Sany1327 延喜7年(907)に醍醐天皇の勅願寺となり発展。山上を中心に造営がおこなわれてきたが、延喜19年(919)に山下に宿院が造営され、観賢が開いた下醍醐の造営がすすむ
秀吉の醍醐の花見でも有名な下醍醐は、総門が旧奈良街道に面し、三宝院、釈迦堂および天暦6年(952)に建てられた国宝の五重塔などがならぶ
なお、醍醐寺のネットワークに村上源氏が多く関係していたことは、笠置の貞慶を調べていた時に知った

一方、その五重塔の南築地沿いに東へ登った上醍醐には、延命院、念覚院、持明院、北尾塔、一乗院、観音堂などが建てられ、久寿2年(1155)の記録により、多くの堂舎や僧房が建ち並んでいたことが知られる
Sany1335 現在、山頂に五大堂、開山堂、白河天皇皇后陵などがおかれ、おおきく開かれた西を臨むと、遠く巨椋から男山を見通すことができる
残念ながら、今日は重源に会うことはできなかったが
さて、ここから笠置や鷲峰山との関係をどう見ていくか


明日は明日香へ


ところで今日は初めてauの助手席ナビを使ってみた
ルート検索も音声案内もいたって良好ですぐれものだった
携帯の力は以前に予測していた以上に進んでいる

西山良平・藤田勝也2007『平安京の住まい』京都大学学術出版会
研究代表櫛木謙周2007『南山城地域における文化的景観の形成過程と保全に関する研究』

2007年4月29日 (日)

福山へ、そして福山から

うっかりしていたが、今日はゴールデンウィークの2日目だった
久しぶりの新大阪は、京都とまた違った雰囲気で大混雑
家族連れがあちらこちらで右往左往
こちらも負けずに右往左往しながらレールスターに乗ると
いかにも郷里へ帰るような若いファミリーが大きな荷物とベビーカーに四苦八苦
新幹線の通路がベビーカーで渋滞する風景が新鮮で面白い
と感じながら
広島県立歴史博物館のSさんからの依頼で企画展の講演にむかう

思えば、Sさんとは、もう四半世紀の付き合いになる
奇しくも同じ時に非常に近い材料で、非常に近いテーマの卒論に向かっていた
その時は、直接会うことはなかったが
京都の土師器皿の資料調査で、4回生の夏休みに草戸千軒町遺跡の研究所に2泊3日で
鞆のユースに泊まって通ったときに、当時の松下所長から話しをうかがった
まだ調査の真っ最中で、川の中にトレンチが明けられ
河原の中に井戸枠の木材が突き出ていた
その後、瀬戸内海沿岸の各地でも発掘調査が進んだが
それらの全てが、この遺跡の調査によって中世の瀬戸内海の歴史に投げかけられた多くの問題から始まっている

卒論では、京都の土師器皿の編年をもとに、中世前半と後半で大きくかわる京都の文化についてまとめたが
今日はもっとスケールの大きな(大きすぎる)話しを
京都と瀬戸内の関係を石清水八幡宮と西園寺氏を主人公にする予定

森先生の言葉を借りれば
「考古学は地域に勇気を与える」と言う
それをどのように実践していったらいいか
色々な方法がひとによってあるだろうが
私の場合は、大阪時代にたくさん対応したマスコミ取材が基本になっているかと思う
一般に考古学のマスコミ報道は、なにかにつけナンバーワン的な表現にとらわれることが多く
あまり良い印象はもたれていないかもしれない
確かにそういったこともままみられる
しかし、1980年代後半の大阪府庁の記者クラブには
するどく本質に切り込んでくる優れた記者も多かった
そんな彼らに一番聞かれたのが
「その発見は、これまでの歴史研究に対してどのような位置にあり、これからの歴史研究にどのような意味をもってくるのか」だった
そんなこと、簡単に答えられるかいな
と思いながら
けれども、まさに遺跡の調査の成果が果たすべき役割はこの部分だとも実感した
ただ見つかったものの紹介をするだけではなく
それが持っている歴史的な意味を、もっと積極的に説明しなければと

学者が重要だと思っているだけでは十分では無い
それが多くの人に共有され
できればそれを活かした社会還元のなにかにつなげることができれば
いや、それをしないと、本当の意味で遺跡を調査したことにはならないのではないかと
いつも言っている歴史遺産活用とはそういったことで
森先生はそれに積極的に挑戦しつづけており
同志社大学の考古学は、寒梅館の展示によって、そのひとつの実践例を示すことができたと考えているが

そんな実践活動のポイントが
イメージのふくらむような臨場感あふれる話題
そしてそれによって地域が元気になるテーマ
しかも広い視野に立った説明だと思っている
ITやグローバル化が流行っているが
それらが目指しているのも
あくまで手で触れて、具体的にイメージできるような臨場感
考古学とは実はまさにそういった学問
今日の話しは
どこにでもある土器の碗と溝がプロローグ
そこから石清水八幡宮と西園寺家をめぐる中世社会の構造へ
瀬戸内海沿岸の陶磁器を卒論にした学生くんがいたが
参考になればと思う

福山を出たのはすっかり夜が更けた頃
昨日の朝に電話のあった先輩のHさんが案内役になって
同じ大先輩のTさんと、広島県では古い知り合いのSさんとSさんとIさんと
苦労した頃の懐かしい話しをしたり
今も続く苦労のせっぱつまった話しをしたりで
あっという間に青空に夜のとばりが降りる
瀬戸内の名産に感動しながら、それ以上に人と人の出会いに感謝しながら
こんな気持ちをわかりあえる人材をどんどん創り出していかなければと思いながら
おそらくそれが今、大学に一番必要なことだと思いながら
やけに揺れるひかりの中で
吉田拓郎のコンサートに飛び入り参加した中島みゆきが歌った
永遠の嘘をついてくれという歌の中の
粉雪のニューヨークへ行くフレーズを何度も聞く
明日は醍醐

2007年4月28日 (土)

瀬戸内の西園寺

すでに網野善彦氏によって精緻な研究がおこなわれているが(1992『国文学』146)
あたらめて、平凡社の歴史地名大系をたよりに、とくに瀬戸内海沿岸にみられる西園寺関係の場所を確かめてみた
西園寺家は、鎌倉時代に多くの庶流にわかれ、公経の男実有が「一条」、実雄が「洞院」、実藤が「四嶋 (室町)」、公相の男実俊が「橋本」、実兼の男兼季が「今出川(菊亭)」を起こした。
また鎌倉時代に伊予国の知行国主となり、実衡の子という公俊は東宇和郡に下向して河野氏の女を妻とし松葉城を拠点とした

しかし、それ以外にも瀬戸内と西園寺の関係は深い

●岡山県では
◎南北条荘:岡山県瀬戸内市邑久町
 東大寺領荘園だったが、宝治2年(1248)以後に西園寺実氏が、東大寺造立のために一時的に施入されたものとして没収
◎鳥取荘:岡山県赤磐郡山陽町
鳥取庄、現御津(みつ)郡御津町東部、現山陽町北部、現赤坂町南部の一帯、建武四年(一三三七)八月、当庄などが西園寺公重に与えられ
◎阿津村:岡山県岡山市旧児島郡地区
 高野山真言宗宝積(ほうしやく)院の阿弥陀如来立像胎内に、安貞2年(1228)銘の西園寺実氏の写経
◎通生村:岡山県倉敷市児島通生(かよう)
 建武2年(1335)の後醍醐天皇綸旨で西園寺公重に安堵
△巨勢荘:岡山県高梁市
 寛喜3年(1231)高野法印貞暁から西園寺実兼の子道勝に譲られる。『吾妻鏡』「備中国多気・巨勢両庄」
△多気荘:岡山県加賀郡吉備中央町
 尊勝寺領を経て養和元年(1181)の後白河院庁下文で京都新熊野社領として多気庄。寛喜3年(1231)高野法印貞暁から西園寺実兼の子道勝に譲られる。『吾妻鏡』「備中国多気・巨勢両庄」
・このうち南北条荘と岡山・倉敷が沿岸部で、鳥取荘も吉井川を利用すれば海は近い

●広島県では
◎沼田荘:三原市が中心
 在地領主の沼田氏による寄進地系荘園で、平家没官領を経て蓮華王院が本家。承久の乱後、領家職は幕府に没収され西園寺家に移り、預所は橘氏。地頭として小早川氏が東国からやってきて在地領主化。荘域は沼田川の周辺を中心に、一部はしまなみ海道の大三島に続く島嶼部にまで及ぶ。また沼田川沿いには市がひらかれ、小早川氏による朝鮮貿易の基盤になったともいう。西部瀬戸内をおさえる最重要拠点である。

●山口県では
◎山代荘:山口県玖珂郡
 弘安2年(1279)の『勘仲記』によれば、後高倉院皇女安嘉門院邦子の所領。建武2年(1335)の西園寺家領目録には西園寺公重の知行
 中心部は岩国市北西の広島・島根県境だが、その東は広島湾に近い

●徳島県では
◎富吉荘:徳島県板野郡藍住町
 『勘仲記』弘安6年(1283)の記事によれば、本家職は後堀河天皇皇女の室町院、領家職は西園寺実氏の妻の今林准后による荘園。
◎高越寺荘:徳島県吉野川市山川町
 建長2年(1250)の記事により、綸子の母である全子(源頼朝の妹婿である一条能保の娘)とされる石山尼から九条道家の妻准后綸子(西園寺公経の娘)に譲られた荘園
△田井荘:徳島県三好郡池田町・山城町など
 建武2年(1335)、後醍醐天皇が西園寺公重に所領を安堵
◎浦荘・浦新荘:徳島県名西郡石井町
 建武2年(1335)、西園寺家領「浦庄」など34カ所が、西園寺公重に安堵
富吉荘は吉野川河口に近い左岸の町、浦荘や高越寺も吉野川下流域

●香川県では
◎富田荘:香川県さぬき市大川町
 嘉元3年(1305)の記事によれば、元来安楽寿院領だったが、亀山院の没後、安楽寿院領の本家職とは別に西園寺公衡の妹へ譲与
◎山本荘・北山本新荘:香川県坂出市
 康安2年(1362)頃、北山本新庄内の一部が西園寺家の知行
◎弘田郷:香川県善通寺市
 寛喜2年(1230)の記事から、西園寺公経(相門)が讃岐国の知行国主で、藤原定家が弘田郷を公経から知行として与えられていたと考えられている。『明月記』
◎多度荘:香川県仲多度郡多度津町
 嘉元4年(1306)の記事に安楽寿院領としてみえ、西園寺実兼息の勝宝院道意が知行主

●愛媛県では
・もとは後高倉院法華堂領だったが、嘉禎2年(1236)に鎌倉幕府が西園寺公経の強い要望で宇和郡を橘氏から取り上げ、西園寺氏領とした宇和庄(愛媛県西予市周辺)が有名。なお橘氏は、藤原純友討滅の功で宇和郡を賜ったという橘遠保の子孫。
 正安4年(1302)の室町院領目録には「一、後高倉院法華堂領」として「伊与国宇和(西園寺)庄」とあり、鎌倉末期に後堀河院の皇女室町院暉子が本家で、西園寺氏を領家とする荘園とみえる。
建武2年(1335)に後醍醐天皇が西園寺公重に所領を安堵した史料には、伊予国宇和庄・宇摩庄。その後西園寺公良が永和2年(1376)に宇和郡に下向し、宇和町山田・西山田の山田御所に「西園寺御方御所」がいたとされる。また在地領主化する中で、岩瀬城(宇和町下松葉)を本城とした。
 なお、ほかに伊予の荘園としては、覚園寺領西条庄、東寺領弓削島庄、醍醐寺領大島庄、後宇多院領高田庄、長講堂領忽那島庄、東福寺領吉原庄、石清水八幡宮領神崎庄、石清水八幡宝塔院領玉生庄があった
◎願成寺:愛媛県西条市丹原町
 寺伝によれば延慶元年(1308)の開基。天台宗寺門派に属したが、文中元年(1372)に西園寺公俊が臨済宗に改めたとされる。
・三島神社:愛媛県西予市宇和町松葉町
 承平6年(936)に藤原純友の乱に際し、河野好方が三島神社の加護として同地に勧請。嘉禎年間(1235~1238)以降は西園寺氏の産土神。
・三島神社:愛媛県西予市野村町野村
 建久3年(1192)宇和郡地頭の橘公業が開基。嘉禎2年(1236)以降は西園寺氏に保護された。
・等妙寺:愛媛県北宇和郡鬼北町芝村
 開基は元応2年(1320)。西園寺宣房の庇護を得る
・立間郷:愛媛県宇和島市吉田町
 元徳2年(1330)に西園寺氏の家臣で立間郷を所領とした開田善覚。
 永享10年(1438)の『管見記』に立間殿西園寺氏の立間中将西園寺公広が登場
・南方殿一族:大洲市
 暦応3年(1340)の記録に、宇和郡西園寺大旦那の下とみえる。
・来村郷:愛媛県宇和島市
 暦応3年(1340)の記録に、西園寺氏配下の在地領主として亀が淵城を本拠とした「来村殿」
・興隆寺:愛媛県西条市丹原町
 正平23年(1368)に権大納言西園寺氏が寺領を安堵 
・常定寺:愛媛県西予市宇和町常定寺村
 西園寺氏の帰依を得た名刹で、明徳3年(1392)以前の建立
・松葉城跡:愛媛県西予市宇和町下松葉村

西園寺と西伊予の関係については、その前代に西部瀬戸内をおさえた藤原純友が宇和島沖の日振島
を拠点としたと言われていることや、河野氏との関係についても、また先にみた沼田荘の役割についても、すでに網野氏が指摘しているように、瀬戸内の海上交通に対する意識を読み取らざるをえない。
瀬戸内と中世の遺跡の研究の蓄積を背景にした、新たな視点と先学の研究との有意な対話は、まだこれからの大きな研究課題として残されている

2007年4月23日 (月)

依智秦氏の里古墳公園

Dsc00686 名神高速道路を八日市インターで降りて、最初の交差点を右にまがり
多賀大社の案内板の立つ数キロ先の交差点を左折して約5キロ北へ走り
宇曾(うそ)川を渡ったところに依智秦氏の里古墳公園の標識がある
立派な標識で右へ行け

なっているが
どこへいくのだろうかと思いつつ通り過ぎてしまうような細い農道に思い切って乗り込むと
その先に古墳時代後期の群集墳が現れる
群集墳と聞くと、丘陵斜面に累々と築かれるイメージが強いが
ここの場合は、宇曾(うそ)川右岸の平坦面に累々と築かれていてとても不思議な風景である
これは百済で見てた風景に近いのだろうか
元々は298基あったが、現在は17基
内部主体は横穴式石室であるが、普通の横穴式石室以外に、玄室が羨道より低く階段をもつものがあり、これは百済系の人々に関係するものと考えられている

この古墳公園の北に湖東三山のひとつに数えられる金剛輪寺がおかれる
天台宗で本尊は聖観音
寺伝によれば、聖武天皇の勅願で天平年間の行基が開山という
行基が彫ったと伝わる本尊の木造聖観音菩薩像は秘仏で「生身の御本尊」と呼ばれる
古代の動向についてはよくわかっていないが
7間四方の本堂は弘安11年(1288)に再建され、三重塔は寛元4年(1246)に建立されている
また13世紀の不動明王や四天王立像などあり、鎌倉時代に入ってからの繁栄を知ることができる
なお、室町時代には六角・京極氏をはじめとする武士層から多くの支援を求められたが
争いに巻き込まれることなく、江戸時代には家光から寺領30石の朱印状をもらっている

この地域は、古代に秦氏が居住していたところで、現在ボストン美術館が所蔵する金剛輪寺旧蔵の金銅聖観音像の銘文(文永6年)には「近江国依智郡之内松尾寺本堂奉安置之右志者、為願主犬上利吉並芳縁依智秦氏子孫繁昌現世安穏」とあり、その姿をうかがうことができる
南には百済寺、北には東大寺領水沼荘と敏満寺遺跡と多賀大社、その先には彦根
そして南西には安土が位置する

湖東の中でも水陸交通の要衝であり、かつ豊かな耕作地に恵まれていた場所である

2007年4月22日 (日)

岡本東三さんに学ぶ

岡本東三さんの『東国の古代寺院と瓦』に、川原寺式軒丸瓦をはじめとする東国の古代瓦についての詳論がまとめられている

岡本さんの論文をたどれば
川原寺式と呼ばれる創建時の軒瓦は4種とされており
このうち丸瓦は
Aが、Ⅰ文様帯は中房に1+5+9の蓮子。各蓮子の先端に乳首状の突起と周環。複弁は大きく反転して写実的な躍動感。Ⅱ文様帯は幅広く、大きな鋸歯文の面違の段は右側
Bが、Ⅰ文様帯は中房に1+5+9の蓮子。弁は大きく反転し、全体が盛り上がる。Ⅱ区文様帯は細かな鋸歯文で面違の段は左側。Ⅰ文様帯はⅡ文様帯の境に太い界線
Cが、Ⅰ文様帯は中房の蓮子が直線につながる部分がない。やや平坦で立体感にかける。
Eが、Ⅰ文様帯は中房に1+4+9の蓮子、Ⅱ文様帯の鋸歯文は范型に段階で削られて、わずかにその痕跡を残すのみ。この瓦の同范例が筑紫観世音寺

こういった川原寺式軒丸瓦は、とくにⅡ文様帯が無文・圏線文・凸鋸歯文・線鋸歯文・綾杉状鋸歯文・幅線文・珠文・U字文・雷文などに変化し多くの発展をうむ
岡本さんは、こういった多くの川原寺式系軒瓦のうちで
「Ⅱ文様帯に面違鋸歯文を配する」ことを条件に
分布が畿内を中心に、東は下野薬師寺、西は筑紫観世音寺におよぶという
 下野河内薬師寺(観世音寺とならぶ戒壇を備え、道鏡が流された寺)
 上野佐位上植木廃寺
 上野新田寺井廃寺
 上総望陀大寺廃寺
 美濃厚見長良廃寺
 美濃厚見鍵屋廃寺
 美濃厚見大宝廃寺
 美濃厚見厚見廃寺
 美濃各務平蔵寺
 美濃各務伊吹廃寺
 美濃各務山田寺
 美濃各務野口廃寺
 美濃大巣蓆田廃寺
 美濃武儀大隆寺廃寺
 三河加茂伊保白鳳寺
 尾張葉栗黒岩廃寺
 伊勢桑名額田廃寺
 越前今立野々宮廃寺
 近江滋賀崇福寺
 近江滋賀南滋賀廃寺
 近江滋賀穴太廃寺
 近江滋賀膳所廃寺
 近江栗田宝光寺
 近江栗田長束廃寺
 近江蒲生安養寺廃寺
 近江愛知屋中寺
 丹波桑田周山廃寺
 山背相楽高麗寺
 山背久世平川廃寺
 山背宇治大鳳寺
 大和高市川原寺
 大和高市飛鳥寺
 大和高市豊浦寺
 大和高市橘寺
 大和高市和田廃寺
 大和高市大官大寺下層
 大和葛上巨勢寺
 大和葛下当麻寺
 大和吉野比蘇寺
 大和添上姫寺
 紀伊伊都神野々廃寺
 和泉日根海会寺
 河内石川竜泉寺
 河内石川新堂廃寺
 河内讃良高宮廃寺
 河内安宿原山廃寺
 摂津島上梶原尼寺
 摂津川辺猪名寺
 播磨神崎溝口廃寺
 因幡法美等々坪廃寺
 出雲意宇忌部神社神宮寺
 筑前御笠観世音寺
 豊前宇佐弥勒寺
 豊前宇佐虚空蔵寺

なお、興味深い事例として、Ⅱ文様帯にU字形を配する川原寺亜式の瓦が出土し、『扶桑略記』に天武天皇崩御の686年後の建立と伝える園城寺がみえるが、この寺は院政期に初めて「善光寺」が史料に登場した時に、強い関係をもった寺として登場する

さて、それでは東国において川原寺式瓦を葺いた寺院が出現した背景はなんだったろうか
一般に、畿内以外にひろがる古代寺院の成立は天武14年の天武朝の国家仏教施策によると言われ
なかでも川原寺式瓦を葺いた寺院の出現には、壬申の乱に功績のあった各地の豪族との関係がうかがえるのではないかという高橋美久二さんと八賀晋さんの論が知られている
ただし、岡本さんは
持統6年(692)の全国の寺院は545カ寺ほどだったと言うことを前提に
天智朝の施策と各地の豪族の動向がその原動力になったとしている
白村江の敗戦後、「甲子の宣」と呼ばれる諸政策や造籍事業が、各地の豪族層の掌握を前提に考えられること
そういった国家としての組織整備に対して、それぞれの地域においても同様な組織整備の動きが生まれ、地域におけるその象徴のひとつが寺院造営だったのではないか
と考えていると読める

確かに観世音寺や下野薬師寺の存在形態をみたときに
こういった考え方は、畿内政権をモデルにしたものとして合理的な説明が可能とも考えられる
関東でみられる郡寺推定遺跡の形も、その説明を傍証するものと言えよう
ただしもちろんその時の各地の豪族は
それぞれの歴史的な背景を元にした寺院造営に力を注いだことになるだろう
各地で発見される瓦の文様が、畿内の特徴をそのまま受け継いでいるか
あるいはどれくらい変容しているかが
そのときの各地の豪族の歴史的背景を物語る手がかりとなる
そんなことを考えながら善光寺の瓦をしっかり見てみたいと思っている

2007年4月21日 (土)

善光寺の瓦を学ぶ

善光寺の瓦について、古代瓦資料の潤沢な畿内から考察を加えたものに
森郁夫さんの「古代信濃の畿内系軒瓦」『日本の古代瓦』がある

古代において寺院を造立するということは「一大事業」であり
非常に困難な工事であった
ゆえその初期段階には、仏教を受容して寺院建築をすすめていた畿内が関わっていた可能性が強く考えられるという
確かに寺院建築というものは、古代に限らず中世においても大変なことで
その象徴として重源による東大寺再見の大勧進プロジェクトが記録に残されている
また鎌倉の極楽寺に畿内の瓦が持ち込まれていることも
いろいろな解釈があるが、造営事業の大きさを示す出来事と見て良いと思う

ただし、この考え方は、先進地の畿内からそうではない地域へ新たな文化を伝えるという構図の上に成り立っているものであって、かならずしも畿内があらゆる面での先進地でもなかった可能性もいくつかの点で指摘されてきている

森郁夫さんの研究によれば
信濃における最古のものは、明科廃寺の単弁八弁蓮華文軒丸瓦とされる
この瓦は「蓮弁内に子葉を伴わないこと、弁端が角張ること、中房がちいさいことなど」
まさに飛鳥時代の特徴をもっているという
また、「弁区の外側に一条の凸線がめぐる」のも畿内でみられるという
これらの特徴から森郁夫さんは7世紀前半と断定はできないが、畿内的な要素をもったものとしている

次に登場するのが善光寺と須坂市の小河原左願寺でみつかった線鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦である
同范と考えられており
それが千曲川をはさんだ東と西でみつかったことになる
また、この文様構成もきわめて畿内的だとする

その次に再び善光寺と、こんどは長野市東条東沢の窯からみつかった凸鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦がある。
なお、この善光寺瓦は、この窯で焼かれたものとされている
従ってひとくちに善光寺瓦と言ってもふたつの種類のものがあったことになる

森郁夫さんは、これを年代差とするかどうか決めがたいと言われているが
中房の蓮子の状況は凸鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦が白鳳の特徴が強いが
細かで密な線鋸歯文も、法隆寺式軒丸瓦の特徴に似ていると言う
なお森郁夫さんは、凸鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦の系譜については
一般に川原寺系と理解されているが、川原寺式の鋸歯文縁は面違と呼ばれるもので
http://www.geocities.jp/tk_ogw21/zuiabumi.html(岐阜県瑞龍寺出土鐙瓦)
たしかにそれ以外の部位
中房の蓮子が中央の1個を中心に二重にめぐる
中央と外周の蓮子は圏線をもつ
蓮弁の様子も川原寺の特徴をよく踏襲している
で類似した特徴はあるとするものの
その同異に対する明言は避けている

したがって、この説明に従えば、これらの瓦の関係について厳密な言い方としては
様式から類推される時期はともかく
凸鋸歯文縁の瓦をもつ寺院造営の直接の系譜を
川原寺にかかわる歴史の背景とつなげて考えることは難しということになる

ちなにみ川原寺式系と言われている面違鋸歯文瓦は(未確認も含む)
栃木県下野市下野薬師寺
群馬県太田市寺井廃寺
http://www.city.ota.gunma.jp/gyosei/0100a/005/03/ota/bunkazai2_03.html
群馬県太田市萩原窯
http://www.gunmaibun.org/jiten/iseki0957.htm
福井県武生市野々宮廃寺
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/6%E3%83%BB7-02-02-02-04.htm
岐阜県各務原市
http://www.geocities.jp/tk_ogw21/kawaradera.html
岐阜県本巣市席田廃寺
岐阜県瑞龍寺
http://www.geocities.jp/tk_ogw21/zuiabumi.html
岐阜県可児郡御嵩町伏見廃寺
愛知県春日井市勝川廃寺
三重県四日市市智積廃寺
三重県額田廃寺
滋賀県南滋賀廃寺
滋賀県穴太廃寺
滋賀県崇福寺
大阪府海南市海会寺
大分県宇佐市虚空蔵寺跡
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/hakuho/hakuho-kawara.htm

ちなみに同じような面違鋸歯文でも
芦屋廃寺の面違鋸歯文瓦は法隆寺式系?
尼崎市猪名寺跡は法隆寺式系?
静岡県静岡市・東山田瓦窯2号窯は細線の鋸歯文

ところで米山一政さんの「信濃出土の古瓦再論」『中部高地の考古学』によれば
善光寺瓦は1種が外行面違い鋸歯文の陽刻で、2種が陽刻線の外行鋸歯文としているが
この1種が森郁夫さんの言う凸鋸歯文にあたるのだろうか
しかるに米山さんの説明はさらに続き第3種として「素弁式蓮華文の変化した鐙瓦」が出土しているという
それは、直径16.3㎝で、とくに周縁が広く、幅2.2㎝が素縁で、中房は比較的小さい直径4.3㎝
低い凸形で界線は無く、その内側に竹管で押した簡略式の蓮子が7つあるとう
花弁は10で各弁は先端が丸く、面も短弁で断面は低い扁平円形という
今回見つかった瓦は花弁が6つとのことなので違うようだが
善光寺(あるいは善光寺の前身寺院)の屋根を葺いていた瓦は
数種類あったことになり
それらが複数の時期の造営または補修を示すのか
あるいは善光寺または善光寺の前身寺院に関わった異なった系譜を示すのかという問題になる

8世紀に入ると上田の国分寺に代表されるような、国家の主導による寺院が造営され
そこには当然畿内の強い影響を見ることができるが
その前の時代における東国の寺院造営と畿内の影響とみられる現象についても
同じような経緯を経たのだろうか

2007年4月19日 (木)

善光寺平の古代を考える

善光寺平の古代に渡来文化がきわめて濃厚なことは、これまでも多くの研究者が指摘してきたことである。
その象徴的なオブジェが、日本列島の中でも善光寺平以外ではほとんど見ることのない、「積石塚と合掌形石室である。
桐原健さんの1989『積石塚と渡来人』東京大学出版会は、この積石塚についてのこれまでの研究をたどり、善光寺平の古代史にせまっている。
その中に、信濃に関係する史料の紹介があるので引用する。
・天智5年(665)「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る。百済の男女二千余人を以て、東国に居く」『日本書紀』
・延暦8年(789)5月29日「信濃国筑摩郡の人、外少初位下後部牛養、無位宗守豊人等に賜姓田河造」『続日本紀』
・延暦16年(797)3月17日「信濃国人外從八位下前部綱麻呂賜姓安坂」『日本後紀』
・延暦18年(799)12月5日「信濃国人外從六位下卦婁真老。後部黒足。前部黒麻呂。前部佐根人。下部奈弖麻呂。前部秋足。小縣郡人無位上部豊人。下部文代。高麗家継。高麗継楯。前部貞麻呂。上部色布知等言。己等先高麗人也。
小治田、飛鳥二朝庭時節。帰化来朝。自爾以還。累世平民。未改本号。
伏望依去天平勝宝九歳四月四日勅。改大姓者。
賜真老等姓須須岐。黒足等姓豊岡。黒麻呂姓村上。秋足等姓篠井。豊人等姓玉川。文代等姓清岡。家継等姓御井。貞麻呂姓朝治。色布知姓玉井」『日本後紀』
・『新撰姓氏録 山城国諸蕃』「高井造、高麗国主(王)鄒牟王廿世の孫」

中心は8世紀の記録で、桐原さんも書いているが、数も少なく建郡も造寺の記録でもない。
ただこれらの史料の中で、「海東青の考古学」HPのあるじは、延暦18年の記事について
「vol.31 篠ノ井方田塔の年代とその背景《その1》」に関係して篠ノ井に高句麗系の人々がいたことを推定しており
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H15spr.html#vol.31

森浩一先生は、『新撰姓氏録』より、高井郡に高句麗の王の子孫だと信じている人々が住んでおり、さらにその人に使えていた大臣クラスの人たちもやってきて、後に須々木を名乗ることになる卦婁という高句麗の人などもやってきて、彼らが積石塚を残したと考えている
また、高句麗では5世紀に頃に積石塚が姿を消して土塚に変わるため、大室古墳群の年代(5世紀~7世紀)とは合わないという意見に対しては、高句麗でも平壌以外の場所では6世紀頃の積石塚が残っているため、大室古墳群に代表される善光寺平の高井郡の積石塚は、高句麗の平壌以外の人たちに関わるものだとしている

さらに善光寺平で最も古い積石塚とされるのは、須坂の八丁鎧塚で、その立地や規模などからいかにも移住してきた一代目の「王」の墓とみられ、そこから獅子の顔を施した金銅製品(獅子噛文か板)が出土しているが、それが高句麗の安岳3号墳(4世紀中頃の高句麗王美川王推定陵)の墓室内の石柱上部に描かれている獅子の顔をそっくりだとする
・森浩一2006「信濃の馬、積石塚と渡来人」『「シナノ」の王墓の考古学』川崎保編 雄山閣
森先生は、一般論として、対外交流のルートを中央経由以外も考えるべきだと指摘しているが、5世紀に遡って、善光寺平に高句麗系の人々が住んでいたことは間違いないと言って良いだろう

一方それ以前の時代については
1996年、下高井郡木島平村の根塚遺跡(3世紀)から、蕨手状に曲がった鉄剣が見つかったが、これは韓国の蔚山下岱(ウルサンハデ)遺跡からみつかった剣と似ているという
長野県の史跡情報によれば、根塚遺跡では、弥生時代後期の円形の「根塚(ねつか)弥生墳丘墓」とその周辺から2本の鉄剣がみつかり、2号剣は3箇所に渦巻文がほどこされた「渦巻文装飾付)鉄剣」と命名され、この渦巻文装飾の文様構成と鉄素材の成分分析から朝鮮半島製であることが確認されたという。
また
2001年、長野市浅川端遺跡で、竪穴式住居跡(5世紀頃)から青銅製の「馬形帯鉤」が出土。類似の製品は朝鮮半島で3世紀頃の副葬品として知られている
吉井さんも、これらの資料から、3・4世紀の朝鮮半島と日本列島の交渉のさまざまな姿を描くことができるとする。ただし、これが騎馬文化と直接関係する副葬品とはセットになっていないとして、信濃の馬文化を説明するものになるかどうかについては慎重
・吉井秀夫2003「信濃から百済をみる-善光寺平の渡来系考古資料を見学して-」『古墳時代東国における渡来系文化の受容と展開』(平成12年度~平成14年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(1))研究成果報告書)専修大学文学部

ところで善光寺平における渡来系文化についてまとめた長野市の風間さんによれば、善光寺平のなかでも、陶質土器がみつかった城の内遺跡を中心とする更埴地区と、地附山古墳群から北にかけての地区のふたつの地区に、渡来系集団の顕著な活動がみられるという
そこでは先進的な手工業技術の導入や馬の姿が見え、また前期以来の勢力と新興の勢力の関係もみえると言う
善光寺平へやってきた人々と、それを迎えた人々の関係を考える時に、非常に参考になる意見である
・風間栄一2000「科野・善光寺平における渡来系集団とその動向 (特集 古墳時代の東国に渡来系集団は住んだか) 」『月刊考古学ジャーナル 』459
・風間栄一2005「資料紹介 長野市浅川端遺跡出土の馬形帯鉤」『考古学雑誌』89(2)
・飯島哲也2003「合掌形天井の埋葬施設について-いわゆる合掌形石室についての再整理」『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』11

早くも弥生時代から朝鮮半島と交流のあったこの地で、古墳時代中期における積極的な「移住」を経た後、古墳時代後期の古代国家形成過程の中で、この地にどのような歴史が営まれたのだろうか
考えなければならないことは、多く、広い

2007年4月12日 (木)

善光寺大本願地点の続報

4月6日の信濃毎日新聞と読売新聞によれば、大本願地点の調査で新たな発見があったという
みつかったのは軒丸瓦であるが、これまで知られているいわゆる善光寺式の軒瓦が複弁の蓮華文だったのに対して
今回見つかったものは単弁の蓮華文様という
長野市の埋蔵文化財センターでは、専門家を含めて類例の検討に入っている
瓦の含まれていた包含層にはほかにどんな遺物が含まれていたのだろうか
いろいろな思いが頭を渦巻くが
とにかく実物を見てみないことにはなんとも言えない
なんとか実物を見たいが
動けるとすれば5月1日と2日か

服部敬史2006「博物館二様論」『月刊社会教育』613
服部敬史2006「近世墓標の調査2」『東京家政学院生活文化博物館』16
服部敬史2007「中国東北地方における古代・中世の小札甲」『和光大学表現学部紀要』7
川崎保2007「ハクチョウ形埴輪をめぐる一考察」『日中交流の考古学』茂木雅博編
滋賀県教育委員会2007『土の中から歴史が見える』(第88回滋賀県埋蔵文化財センター研究会
小島孝修ほか2007「竜ヶ崎A遺跡出土土器付着炭化物の炭素14年代測定結果(補遺)」『紀要』20財団法人滋賀県文化財保護協会
小島修孝2007『落川遺跡・高月北遺跡』滋賀県教育委員会
小島修孝2007『長浜城遺跡・一丁田遺跡』滋賀県教育委員会
小島修孝2006『蜂屋遺跡』滋賀県教育委員会

2007年4月10日 (火)

古代学研究

昨日着いた古代学研究に興味深いレポートが載っている

大槻瓊士さんの「電気技術者から見た放射性炭素年代測定法の問題点-その2-」

奥田尚さんの「考古学における自然科学の応用」
である

共に文化情報学にかかわるテーマであるが
考古学研究にとってずっと以前からあるテーマでもある
古代学研究は森浩一先生がはじめた考古学の有名な雑誌で
研究会も毎月大阪でおこなわれている
今回のテーマもそうだが
非常に広い視野にたった考古学と古代史の生きた研究を学ぶことができるので
文化情報で鋤柄ゼミにすすむ者の何人かは
ぜひこの研究会に参加してほしいと思う

2007年4月 8日 (日)

さあ 探索に出かけよう

いよいよ新しい年度が始まります
ここ郡山では有名なお城祭で花見客がいっぱい
宇治市では木幡で平安時代の井戸がみつかったという
出るべき所から出たと言うべき
醍醐では秀吉の花見の再現
さあ、探索にでかけよう

脇田晴子2005『能楽のなかの女たち』岩波書店
横井孝2007「源氏物語版本挿絵考」『国文学研究資料館紀要』33
横井孝2007「紫式部と鴨川の風景」『実践国文学』71
五味文彦2007「王の記憶11東夷の記憶が独自の王権を築く-平泉(2)-」『歴史読本』813
大分市歴史資料館2005『都へのあこがれ』
国立歴史民俗博物館2007『西のみやこ 東のみやこ』
国立歴史民俗博物館2007「コンピュータ歴史学の歴史」『歴博』
愛媛大学法文学部内田研究室2007『松山城登り石垣調査報告書』2
岡山県埋蔵文化財調査研究センター2007『鹿田遺跡』5
養老町教育委員会2007『養老町遺跡詳細分布調査報告書』

2007年4月 7日 (土)

山王日枝神社

昔、猫というグループが「地下鉄に乗って」という歌をうたっていて
確か高校時代のことで、その頃は長野市に住んでいて、小学校の家族旅行以来東京へは行ったことがなかった
だからその歌詞の中にあった「イマアカサカミツケヲスギタバカリ」というフレーズが、まったくなんのことかわからないままにくちずさんでいたことを思い出す
その後東京へ行くようになって
「イマアカサカミツケヲスギタバカリ」が
「今、赤坂見附を過ぎたばかり」で「新宿まではまだまだ」だということがわかった

webでホテルを探したら意外にも手頃な宿がみつかったので
初めて赤坂に泊まることにした
新入生ガイダンスで賑わう赤門を出て本郷三丁目から丸ノ内線に乗ると
お茶の水・小川町・大手前・東京・銀座・霞ヶ関・国会議事堂で赤坂見附
新宿はさらのその先の四谷を越えてまだまだである
丸ノ内線という、都内の最も重要かつ有名な場所をつなぐ路線で
歌にもどれば、お茶の水の学生街で乗ったふたりが中野か荻窪あたりのアパートへ帰るために乗っている情景だろうかとなる
けれども
お茶の水から新宿ならば総武線に乗れば良いのに
まさか銀座で乗ったのだろうかと、地下鉄の路線図を見ながら
つまらないことを考える

テレビでよく耳にする赤坂・六本木とはどんなとこだろうかと地上に出ると
さすがに10時をまわっていても人通りが多い
地図を見ると南へ行って山王下を曲がれという
Dsc00673 山王って・・・と思いながら歩いていくと
左手にどこかで見たことのある大鳥居がライトアップされている
そう、比叡山の東麓、近江坂本に鎮座する、あの山王日枝神社である
そのすぐ東は国会議事堂、北西は東宮御所と迎賓館、西の先が青山霊園で南は新橋と六本木
そんな東京の中枢に山王日枝神社があるとは知らなかった

田舎者にとって東京は平らなイメージがあるが
歩いてみるとわかるように神楽坂や赤坂や乃木坂など坂の地名も多く
渋谷も地下鉄の駅が2階か3階にあるという谷である
今のファッションの流行は原宿から表参道を下った表参道ヒルズにあると聞くが
この下りきったところが渋谷から北東へのびる谷筋
この谷は明治通り沿いにうねうねと南東にながれ、慶応大学をまいて海に出る
増上寺のある丘陵は、この谷が海に出る直前の北の崖にあたっている
赤坂はこの谷に囲まれた北側にあたり
カシミールで見ると伊勢志摩のようなリアス式のでこぼこの地形がよくわかる
実際に昼間歩いてみれば、丘や谷がまわり中にあることに皆気づく

さてこの山王日枝神社
祭神は大山咋神
貞治元年(1362)の熊野那智大社文書旦那願文に「豊島郡江戸郷 山王宮」という文字があり
中世の在地領主だっ江戸氏が、後白河法皇によって東山に勧請された新日吉社へ寄進した、江戸郷内に建立したものと言われている。
1590年に家康が江戸城に入る時、梅林坂付近にあった社を紅葉山に移し、秀忠が江戸城の拡張で半蔵御門外に移遷、さらに明暦の大火後に現在の松平主殿頭屋敷跡に移されたという

国会議事堂と皇居は、赤坂のでこぼこの地形の北で、東京湾を望む安定した尾根上に立地している
江戸城以前から山王社がその場所にあったならば
しかるべき場所にしかるべきものがあったことになる

070407_11080001 翌日9時半の開館にあわせて佐倉の国立歴史民俗博物館へ行く
小島さんの企画による洛中洛外図を中心にした「西のみやこ 東のみやこ-描かれた中・近世都市-」の展示がおこなっている
久しぶりなので常設展もまわっていく
古墳時代前期の基準資料である
新山古墳の鏡が並んでいたもちろんレプリカだが壮観である
粉河寺の資料と共に、村上遺跡だろうか、中世の村の堂跡の遺跡の模型展示があるが、以前は気がつかなかった
平泉の展示では鋳鉄製の大きな花瓶がある
鉄の文化の象徴だろう
以前からあったと思うが、今回初めて鎌倉の巨大な地形模型に見入る
まわりの尾根上に、あたかも万里の長城のようは切岸がみえるが
今も現地で確認できるのだろうか
関東平野の平氏と藤原氏とそのほかの人々の分布がとてもわかりやすく
また応仁の乱の前と後の鉾立町や酒屋やなどの分布の図も良いなあと思いながら
リニューアル中の第3展示室以外、近代の展示までしっかり見て企画展の部屋で有名な歴博甲本の実物に再会する
寒梅館の展示制作で上杉博物館を訪れたとき以来

戦国から近世を描いた洛中洛外図と近世から近代の江戸図と長崎と堺と横浜
洛中洛外図屏風は、京都駅前の道の資料館の様に
左右に並行にたててその間に立って見られるコーナーもある
もちろんレプリカ
けれども、この見方はとても臨場感あふれる洛中洛外図の見方で面白い
できれば、真ん中より少し北に立ち
北を向いて、左右を振り返るように見るとよりリアルな中世の京都に出会える
前から気になっていたのだが
歴博甲本では入江殿が近衛殿の北にあって上杉本では東にある
これはどのように説明しよう
また歴博甲本の上立売通の南に今小路という通がある
これも気づかなかった
迫力ある江戸図屏風も面白く、堺の詳細な元禄図も見応えがあった
できれば品川もあればと思ったが、いずれするでしょう

浜名湖を過ぎた辺りから雲が厚くなってきた
奈良は雨だという

2007年4月 6日 (金)

春霞

柳町の交差点まできたら渋滞にあたってしまった
タクシーの運転手さんが言うには今日は今年一番の花見の日で
市ヶ谷から千鳥ヶ淵のあたりは大変な人出だという
総武線に乗って飯田橋を通り過ぎるところで北を見ると
確かにカナルカフェにも人だかり

去年の秋の健康診断で注意をされながら
そのままにしていた胃カメラをようやく飲んで
結局普通の慢性胃炎だと言われて田辺坂を上がると
070402_14190001 新入生の歓迎で賑わう京田辺は春霞に覆われていた

今年もこの季節がやってきた
文化情報の1期生たちもあっと言う間に3回生
もうすっかり先輩である
いよいよ自らの進む道を決める準備に入らないといけない
2期生たちもあっと言う間に2回生
少しずつ専門の授業に触れられる期待の年
そんな先輩達に迎えられて5日はアドバイザークラスのオリエンテーション

070402_12480001 3回生と2回生の自己紹介やアピールに続いて新入生が初めての言葉を交わす
西は長崎、東は埼玉各地からやってきた若者達が希望と夢を胸一杯にして自己紹介
皆口々にサークルでやってみたいことを言うが
少しは勉強もしようねと苦笑

この学部はほかの学部と違って異なった価値観の人間の集団である
そのそれぞれを認め合い、さらにそのそれぞれの専門を極めるために
070402_15200001 横のつながりと縦のつながりを有効につかってほしい
言い古された言葉だけれど
今という時間は二度と来ません
この恵まれた環境の中で
やってみたいことを見つけたら果敢に挑戦していいと思います

けれども、臆病であることは少しも恥ずかしいことではありません
つねにまわりを見る注意と慎重さも忘れずに

専門の関係で、部屋でじっとしていることは少ないけれど
みかけたら気軽に声をかけてください

聞けば、先週末に行った善光寺の遺跡は
その後マスコミでも大きくとりあげられ注目を集めているという
多くの人がそれぞれの地域の文化遺産に関心を持ち
それを地域が元気になる力としてくれることになればそんな嬉しいことはない
まさに「考古学は地域に勇気をあたえる」という森先生の言葉そのものである
今回は、そんな出来事に少しはお手伝いできたのだろうかと思う

昨日より少しは寒さがゆるんだものの
まだしっかり春とは言い難い中
再び新幹線で鎌倉へ向かう
隣の席は英語圏からきた夫婦
初めての日本ならば車窓の案内でも思ったら4回目だという
探索マップを持ってくればよかったと思いながら増鏡の扉をひらく

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