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2007年4月29日 (日)

福山へ、そして福山から

うっかりしていたが、今日はゴールデンウィークの2日目だった
久しぶりの新大阪は、京都とまた違った雰囲気で大混雑
家族連れがあちらこちらで右往左往
こちらも負けずに右往左往しながらレールスターに乗ると
いかにも郷里へ帰るような若いファミリーが大きな荷物とベビーカーに四苦八苦
新幹線の通路がベビーカーで渋滞する風景が新鮮で面白い
と感じながら
広島県立歴史博物館のSさんからの依頼で企画展の講演にむかう

思えば、Sさんとは、もう四半世紀の付き合いになる
奇しくも同じ時に非常に近い材料で、非常に近いテーマの卒論に向かっていた
その時は、直接会うことはなかったが
京都の土師器皿の資料調査で、4回生の夏休みに草戸千軒町遺跡の研究所に2泊3日で
鞆のユースに泊まって通ったときに、当時の松下所長から話しをうかがった
まだ調査の真っ最中で、川の中にトレンチが明けられ
河原の中に井戸枠の木材が突き出ていた
その後、瀬戸内海沿岸の各地でも発掘調査が進んだが
それらの全てが、この遺跡の調査によって中世の瀬戸内海の歴史に投げかけられた多くの問題から始まっている

卒論では、京都の土師器皿の編年をもとに、中世前半と後半で大きくかわる京都の文化についてまとめたが
今日はもっとスケールの大きな(大きすぎる)話しを
京都と瀬戸内の関係を石清水八幡宮と西園寺氏を主人公にする予定

森先生の言葉を借りれば
「考古学は地域に勇気を与える」と言う
それをどのように実践していったらいいか
色々な方法がひとによってあるだろうが
私の場合は、大阪時代にたくさん対応したマスコミ取材が基本になっているかと思う
一般に考古学のマスコミ報道は、なにかにつけナンバーワン的な表現にとらわれることが多く
あまり良い印象はもたれていないかもしれない
確かにそういったこともままみられる
しかし、1980年代後半の大阪府庁の記者クラブには
するどく本質に切り込んでくる優れた記者も多かった
そんな彼らに一番聞かれたのが
「その発見は、これまでの歴史研究に対してどのような位置にあり、これからの歴史研究にどのような意味をもってくるのか」だった
そんなこと、簡単に答えられるかいな
と思いながら
けれども、まさに遺跡の調査の成果が果たすべき役割はこの部分だとも実感した
ただ見つかったものの紹介をするだけではなく
それが持っている歴史的な意味を、もっと積極的に説明しなければと

学者が重要だと思っているだけでは十分では無い
それが多くの人に共有され
できればそれを活かした社会還元のなにかにつなげることができれば
いや、それをしないと、本当の意味で遺跡を調査したことにはならないのではないかと
いつも言っている歴史遺産活用とはそういったことで
森先生はそれに積極的に挑戦しつづけており
同志社大学の考古学は、寒梅館の展示によって、そのひとつの実践例を示すことができたと考えているが

そんな実践活動のポイントが
イメージのふくらむような臨場感あふれる話題
そしてそれによって地域が元気になるテーマ
しかも広い視野に立った説明だと思っている
ITやグローバル化が流行っているが
それらが目指しているのも
あくまで手で触れて、具体的にイメージできるような臨場感
考古学とは実はまさにそういった学問
今日の話しは
どこにでもある土器の碗と溝がプロローグ
そこから石清水八幡宮と西園寺家をめぐる中世社会の構造へ
瀬戸内海沿岸の陶磁器を卒論にした学生くんがいたが
参考になればと思う

福山を出たのはすっかり夜が更けた頃
昨日の朝に電話のあった先輩のHさんが案内役になって
同じ大先輩のTさんと、広島県では古い知り合いのSさんとSさんとIさんと
苦労した頃の懐かしい話しをしたり
今も続く苦労のせっぱつまった話しをしたりで
あっという間に青空に夜のとばりが降りる
瀬戸内の名産に感動しながら、それ以上に人と人の出会いに感謝しながら
こんな気持ちをわかりあえる人材をどんどん創り出していかなければと思いながら
おそらくそれが今、大学に一番必要なことだと思いながら
やけに揺れるひかりの中で
吉田拓郎のコンサートに飛び入り参加した中島みゆきが歌った
永遠の嘘をついてくれという歌の中の
粉雪のニューヨークへ行くフレーズを何度も聞く
明日は醍醐

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