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2007年4月19日 (木)

善光寺平の古代を考える

善光寺平の古代に渡来文化がきわめて濃厚なことは、これまでも多くの研究者が指摘してきたことである。
その象徴的なオブジェが、日本列島の中でも善光寺平以外ではほとんど見ることのない、「積石塚と合掌形石室である。
桐原健さんの1989『積石塚と渡来人』東京大学出版会は、この積石塚についてのこれまでの研究をたどり、善光寺平の古代史にせまっている。
その中に、信濃に関係する史料の紹介があるので引用する。
・天智5年(665)「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る。百済の男女二千余人を以て、東国に居く」『日本書紀』
・延暦8年(789)5月29日「信濃国筑摩郡の人、外少初位下後部牛養、無位宗守豊人等に賜姓田河造」『続日本紀』
・延暦16年(797)3月17日「信濃国人外從八位下前部綱麻呂賜姓安坂」『日本後紀』
・延暦18年(799)12月5日「信濃国人外從六位下卦婁真老。後部黒足。前部黒麻呂。前部佐根人。下部奈弖麻呂。前部秋足。小縣郡人無位上部豊人。下部文代。高麗家継。高麗継楯。前部貞麻呂。上部色布知等言。己等先高麗人也。
小治田、飛鳥二朝庭時節。帰化来朝。自爾以還。累世平民。未改本号。
伏望依去天平勝宝九歳四月四日勅。改大姓者。
賜真老等姓須須岐。黒足等姓豊岡。黒麻呂姓村上。秋足等姓篠井。豊人等姓玉川。文代等姓清岡。家継等姓御井。貞麻呂姓朝治。色布知姓玉井」『日本後紀』
・『新撰姓氏録 山城国諸蕃』「高井造、高麗国主(王)鄒牟王廿世の孫」

中心は8世紀の記録で、桐原さんも書いているが、数も少なく建郡も造寺の記録でもない。
ただこれらの史料の中で、「海東青の考古学」HPのあるじは、延暦18年の記事について
「vol.31 篠ノ井方田塔の年代とその背景《その1》」に関係して篠ノ井に高句麗系の人々がいたことを推定しており
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H15spr.html#vol.31

森浩一先生は、『新撰姓氏録』より、高井郡に高句麗の王の子孫だと信じている人々が住んでおり、さらにその人に使えていた大臣クラスの人たちもやってきて、後に須々木を名乗ることになる卦婁という高句麗の人などもやってきて、彼らが積石塚を残したと考えている
また、高句麗では5世紀に頃に積石塚が姿を消して土塚に変わるため、大室古墳群の年代(5世紀~7世紀)とは合わないという意見に対しては、高句麗でも平壌以外の場所では6世紀頃の積石塚が残っているため、大室古墳群に代表される善光寺平の高井郡の積石塚は、高句麗の平壌以外の人たちに関わるものだとしている

さらに善光寺平で最も古い積石塚とされるのは、須坂の八丁鎧塚で、その立地や規模などからいかにも移住してきた一代目の「王」の墓とみられ、そこから獅子の顔を施した金銅製品(獅子噛文か板)が出土しているが、それが高句麗の安岳3号墳(4世紀中頃の高句麗王美川王推定陵)の墓室内の石柱上部に描かれている獅子の顔をそっくりだとする
・森浩一2006「信濃の馬、積石塚と渡来人」『「シナノ」の王墓の考古学』川崎保編 雄山閣
森先生は、一般論として、対外交流のルートを中央経由以外も考えるべきだと指摘しているが、5世紀に遡って、善光寺平に高句麗系の人々が住んでいたことは間違いないと言って良いだろう

一方それ以前の時代については
1996年、下高井郡木島平村の根塚遺跡(3世紀)から、蕨手状に曲がった鉄剣が見つかったが、これは韓国の蔚山下岱(ウルサンハデ)遺跡からみつかった剣と似ているという
長野県の史跡情報によれば、根塚遺跡では、弥生時代後期の円形の「根塚(ねつか)弥生墳丘墓」とその周辺から2本の鉄剣がみつかり、2号剣は3箇所に渦巻文がほどこされた「渦巻文装飾付)鉄剣」と命名され、この渦巻文装飾の文様構成と鉄素材の成分分析から朝鮮半島製であることが確認されたという。
また
2001年、長野市浅川端遺跡で、竪穴式住居跡(5世紀頃)から青銅製の「馬形帯鉤」が出土。類似の製品は朝鮮半島で3世紀頃の副葬品として知られている
吉井さんも、これらの資料から、3・4世紀の朝鮮半島と日本列島の交渉のさまざまな姿を描くことができるとする。ただし、これが騎馬文化と直接関係する副葬品とはセットになっていないとして、信濃の馬文化を説明するものになるかどうかについては慎重
・吉井秀夫2003「信濃から百済をみる-善光寺平の渡来系考古資料を見学して-」『古墳時代東国における渡来系文化の受容と展開』(平成12年度~平成14年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(1))研究成果報告書)専修大学文学部

ところで善光寺平における渡来系文化についてまとめた長野市の風間さんによれば、善光寺平のなかでも、陶質土器がみつかった城の内遺跡を中心とする更埴地区と、地附山古墳群から北にかけての地区のふたつの地区に、渡来系集団の顕著な活動がみられるという
そこでは先進的な手工業技術の導入や馬の姿が見え、また前期以来の勢力と新興の勢力の関係もみえると言う
善光寺平へやってきた人々と、それを迎えた人々の関係を考える時に、非常に参考になる意見である
・風間栄一2000「科野・善光寺平における渡来系集団とその動向 (特集 古墳時代の東国に渡来系集団は住んだか) 」『月刊考古学ジャーナル 』459
・風間栄一2005「資料紹介 長野市浅川端遺跡出土の馬形帯鉤」『考古学雑誌』89(2)
・飯島哲也2003「合掌形天井の埋葬施設について-いわゆる合掌形石室についての再整理」『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』11

早くも弥生時代から朝鮮半島と交流のあったこの地で、古墳時代中期における積極的な「移住」を経た後、古墳時代後期の古代国家形成過程の中で、この地にどのような歴史が営まれたのだろうか
考えなければならないことは、多く、広い

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