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2007年5月

2007年5月31日 (木)

八坂探索

その日は、それほど暑くもなく良い天気だった
京博の道長展は最終日のにぎやかさで
花背別所の経塚で発見された土器の壺が鳥羽離宮でみつかっているものと似ていることや、大和文華館の笠置曼荼羅図に中世の笠置寺の風景があったことを学ぶ
外へ出ると馬町の十三重塔がふたつ並んで建っている
良く見ればその隣にあるのは
敷地の南東の隅には五条大橋の脚もおかれてる

博物館というところは何度来ても勉強になるところだと思いながら四条京阪へ
院生5人と学部生1人を連れて森先生のギャラリーから八坂と六波羅へ探索
まずは白川
その上流には縄文時代の遺跡があり、平安時代後半には頼通の邸宅と後白河の六勝寺がおかれ、現在その下流の風景は祇園の新橋通になくてはならない風情を醸し出している
歴史の舞台が川と密接に関わっているということと
けれども、現在の白川の下流はかつての白川の支流である小川だったということ
つまり現在の風景から直接歴史を語ることの難しさの2点のポイントを説明

その白川沿いに東へ向かうとすぐに大和橋
ここが有名な大和大路の跡になる
白河から六波羅の西端を通り法住寺街区の西端を通り大和に向かう古代以来の幹線
このあたりで、現在の風景の中に立ちながら古代・中世の空間を歩く感覚を目覚めさせる
四条以北の祇園村も確かに現在有名な祇園なのだが
実は白川を北にあがった新門前通と古門前通は、近世にうまれた知恩院の門前町で、古美術の店が多い区画
ひとくちに祇園と言ってもその中身は複雑

ギャラリーで森先生の学びを会得した後
四条通を石段下へ
北西角にある有名なお鮨やさんを教えて修理中の西楼門をくぐる
京都を代表する観光スポットだけあった皆一度は来ているようだが
境内に入りぐるりとまわりを見渡してなにか感じたことがないかと聞く
さすがに院生
4月から5月にかけての授業のポイントをしっかりつかんでいて
八坂の境内の風景と身近な見慣れた神社の風景の違いをこたえる
石段下に象徴される八坂神社だが
正式な門は南にあって、中世にさかのぼれば、その先に百度大路と呼ばれる直線道路が続いていたという
祇園祭で有名なため、四条大路を軸とした洛中との関係が先に頭に浮かぶ八坂神社だが
たしかにその境内が下京であったことからそれも重要な要件ではあるが
もともと八坂の起源には平安京成立以前にさかのぼる渡来系氏族の八坂氏との関係があって
この地の意味を考えるときには、それを前提にしなければならないということ
そんな話しをしながら八坂村の南の範囲にあたる下河原に向かい八坂神社を南下する
みれば道は平坦で、右手は東山通への急な下り坂、左手はまもなく東山へ向かう上り坂
奇跡的にできた平坦面に続く道の先に見えるのが八坂の塔で有名な法観寺
そこから先は清水への坂
八坂とはそんな場所である

2007年5月23日 (水)

森浩一のささやかな歩み展

昨年の秋に続き、森浩一先生の所蔵品の中から
森先生のこだわりの品を紹介した展覧会が
祇園の○△□で開催されている

森先生の学びの軌跡をたどりながら
考古学に関わったさまざまな人との出会いの面白さと重みを実感する
後藤守一先生との出会い
井上光貞先生との出会い
松本清張さんとの出会い
司馬遼太郎さんとの出会い
考古学が人を学ぶ学問だということが実感させられる

八幡一郎先生による「子持勾玉の研究」の書評(『人文学舎』)も
そんないくつもの出会いのかたまりの中のひとつ
難解だが非常に格調の高い文章に学問の徒としての姿勢と人柄を感じる
森先生は、この『人文学舎』に啓発され、のちに『民俗と技術』という二冊の大著をつくりあげたという

目の回るような速さで進化する学びの形の中にあって
しかしずっと変わらない学問の芯の部分を見た気がした
今、学びを推進している人にも
これから学びに取り組もうとしている人にも
ぜひ感じてもらいたいことのひとつだと思う

2007年5月22日 (火)

京の鎌倉または京の周縁をめぐる

最近、西園寺公経と北野天神と後鳥羽のことをずっと考えており
学際科目で西園寺の北山第の話しをした週末に
T大の中世史の方々と一緒に京の鎌倉をめぐる
北大路の駅で落ちあって、まずは船岡山から
意外と知られていないが、船岡山は岩山である
しかも北大路側からいけば、道なりに気がつかないうちに坂を登っていった先になるので
ちょっとした丘のように思ってしまうが
南側から登ろうとすれば、急でしかもかなりの比高差があって
おまけに山頂に近づくと片岩系の岩盤があちこちに顔をだしているので
場所によれば、ちょっとしたロッククライミングの雰囲気を感じることもできる
この比高差は、東の峰に建つ建勲神社の石段をおりる時も実感できる

船岡山を東におり、大徳寺を左手に見ながら少しいったところが雲林院である
ただし、ここは後に移動してきたところで、平安時代の雲林院は北大路をはさんだ北側にあったとされる
竹居先生の授業をひけば、このあたりは一般には紫野と呼ばれているが、ひろい意味では北野と呼ばれた平安京の北の一帯で、平安京と異界との境界領域であり、かつ天皇の離宮などがおかれた静かな地だったらしい
菩提講が有名な雲林院は、淳和天皇離宮の紫野院で、天長9年(832)に雲林亭と改称され、仁明天皇から皇子の常康親王に伝領され、親王が出家後、遍昭によって元慶8年(884)に元慶寺別院となったという。
京の周縁である

この雲林院のすぐ南にその京の周縁を象徴する神社がふたつ
ひとつは今宮神社の御旅所で、もうひとつが玄武神社
前者は平安京の北の御霊の象徴で、後者は平安京の北の祀りをそのものズバリと示す
注目されるのは、これらの寺社をつなぐ南北の軸が大宮通の延長線であること
竹居先生の平安時代の北野の風景では、もうひとつの象徴として現在の北野天神の東を南北に走る右近馬場(現在の御前通)が登場したが、そこは実は西大宮通の北への延長線である
大宮大路の東と西の延長はそれぞれ意味があったと言えるのだろうか

大宮通にもどって南へ
鞍馬口をすぎるとすぐに安居院である
唱道で有名な安居院についてのエピソードですぐに話しがはずむところはさすが専門家
大宮を下がって寺ノ内を西へ入ると櫟谷七野社
さらに大宮を下がって上立売のあたりが芝薬師
ここも後鳥羽関係だがうっかり失念してそのまま五辻へ
景愛寺と無外如大尼の話やら二条の話しやらをしながら五辻をうろつくあやしい集団

やはりここも見てもらいたいと、西陣の千両ケ辻の話しをしながら京都市考古資料館へ寄る
しばし見学の後、再び浄福寺通にもどり首途八幡から本隆寺へ
千代の井を見て五辻殿へ
日本建築風のすてきなマンションの前で記念撮影
ゆっくりまわっていたらもうすでに4時をまわる頃
これはいけないと少し急ぎ足になって石像寺
鎌倉にちなむ桜を求めて引接寺
しかし大報恩寺に着いたときにはすでに5時で門が閉まっていてしまった
北野天神は大丈夫だろうと思い
右近馬場を横目で見ながらすっかり人気の無い境内に入ると
やはり門が閉められ始めている
お土居を遠くに眺め、伴氏の社を過ぎた先の東向観音寺で巨大な五輪塔を拝んだところで
本日のコースはほぼタイムアップ
それでも紙屋川から北野廃寺を見ようと今出川通へ出たら
大将軍八神社が近いことに気づき
一条の妖怪ストリートを通りながら洛中へもどるところで初日が終わる

引接寺でお盆の精霊迎えを見ていたら
京都でもうひとつその有名な場所が六道珍皇寺であることに気づき
安居院の近くの地名に似た地名がやはりその近くにあることにも気づき
急遽翌日は室町殿から六波羅へ向かうことに
団栗橋の西で車を降り
人気の無い建仁寺を通り過ぎると鎌倉時代にさかのぼる勅使門の掲示が見える
おっ 京都市内に残る鎌倉時代の建築物は大報恩寺以外にここにもあったかと
一説に寄れば平家の六波羅邸の遺構とも伝えるが不詳とのこと
この勅使門をでた東西の道が八坂通で、東の突き当たりに法観寺が見える
その南の通が清水へむかう梁塵秘抄に登場する松原通
六道珍皇寺は、この二本の道にはさまれて、建仁寺の少し東よりにおかれる
目印はすぐ南の六原マーケット
そうここがあの六波羅の北の入り口になる
珍皇寺でふたたび小野篁と閻魔大王に会い、冥土通いの井戸を拝み
門前の六道の辻から六道大路をながめる
ちなみに家々の門前に貼られた恵比須神社のお札は建仁寺の西におかれた恵比須神社のもの

六原マーケットの文字にさそわれて南へむかう路地に入ると
そのあたりはまわりから一段高い平坦面
あたかも平家の館があったかのように
南へ降りれば六波羅蜜寺と三盛町、門脇町、池殿町といわくありげな地名が続く
ちなみに、その北西に北御門町と西御門町があって
その西は川原町となっている

五条大路を渡って渋谷通へ行こうと東へ向かう途中に若宮八幡がある
ここは元六条佐女牛井にあった若宮八幡だとのこと
最初の源氏の拠点におかれたその象徴である
境内をひとまわりして不思議な遺構について話しを交わし
東山を南へ渡って渋谷通との交差点の馬町へ
かつてこのあたりに善光寺式三尊ほかをおさめていた十三重石塔があったという
今は京博内
鎌倉と深い関わりのあった善光寺聖を思わせるとてもいわくありげなエピソードである
そのまま渋谷通を西へ降りていき
大和大路の交差点で、西へ下がる大きな斜面を見る
ここから西は鴨川の氾濫原で、大和大路はその東際を通っていたことになる
そしてここが六波羅の南西の角になる
さらに付け加えれば、ここから南は法住寺街区の領域になってくる
今の風景の向こうに、院政期から鎌倉時代にあった大邸宅街が見えた気がした

最近とくに言っていることだが
鎌倉時代の京都は七条を中心とした場所と持明院通を中心とした場所のふたつの拠点によって特徴付けられる
今回めぐった北野界隈と六波羅界隈も、実はそのそれぞれ西と東への延長部にあたり
その意味でこれまで言ってきたことをさらに補強することになりそう
さらに、あまり注目されることの無かった鎌倉時代の京の伝統が
お盆の精霊迎えの儀式として千本閻魔堂と六道珍皇寺に残っているとしたら
これは京の鎌倉を見直す思いがけないひろいものではないかとも思う
たくさん歩いてたくさん飲んで
小野篁に誘われたような非常に刺激的な2日間だった

豊島区教育委員会2007巣鴨町9
東京大学埋蔵文化財調査室2006工学部14号館地点
東京大学埋蔵文化財調査室2006東京大学構内遺跡調査研究年報5
三枝暁子2007「神人」『寺社をささえる人々』吉川弘文館
三枝暁子2007「北野祭と室町幕府」『中世の寺院と都市・権力』山川出版社

2007年5月 9日 (水)

Rのすすめ

文化情報学部はその名のとおり、これまでの文化の研究に対して
情報やデジタルの視点で新しい解釈や提案をおこなうところ
よって、これまでの様々なジャンルの文化に対するきちんとした知識と理解が不可欠
ゆえ、今年から3回生以上の履修ではじまった鋤柄の文化財解析は
まずはきちんとした考古学の勉強からはじまっている

もとより、考古学という学問も、歴史という学問も
基本は、多様で多彩で膨大な情報をどのように客観的に考察するかを
ずっと考えてすすめてきたものなので
その学びとめざすところの本質はこれまでの研究と多くが重なり
それがこの分野の研究の今日的な存在意義ともなっている

そんな日頃から膨大なデータをあつかっている考古学にとって
それらのデータの多変量解析的な見方の大きな手助けになってくれる手法の学びを
今日のプロジェクト3という授業でおこなった
材料は、大阪時代に府庁の建て替え工事にともなっておこなった
大坂城跡の発掘調査でみつかった秀吉時代から江戸時代の巴文軒丸瓦
すでに大坂城跡の報告2で公開しているが
巴文様の特徴を示すとおもわれるカ所のデータをとり
クラスター分析で分類し、その結果から、分類された特徴がなんであって
その分類が文様の変化と、そして時代変遷とどのように関わるかを考えたものだった

当時は、たしか統計の本に紹介されていたクラスター分析のBASICのプログラムを打ち込んで、いくつかの手法を試して試行錯誤した後、一応説明の可能な成果をだせたと考えた
この授業は、統計の専門スタッフの金先生とペアでおこなっているが
今日は金先生が推薦するRというフリーのソフトをつかったその再検討
Rについては、金先生のホームページに詳しい紹介があるが
CSV形式で作成されたデータに対して
簡単なコマンドの組み合わせでさまざまな統計分析をおこない、また図化もしてくれるという優れもの
こんな便利なソフトがることを、あの頃知っていたらもっといろいろなことを考えることもできたのではないかと思う
金先生の分析結果のいくつかは、偶然かどうか、当時鋤柄が示した成果と類似したものとなったが
次々回は、分類結果を個々の瓦に対照させ、グラフの読み方や結果の考え方について、一緒に検討できたらと思う

考古学と数量化を考える人は、ぜひこのRに関心を持ってほしい
くわしくはここをクリック(金先生の頁)
http://www1.doshisha.ac.jp/~mjin/R/index.html

2007年5月 8日 (火)

仮称・寒梅研究会始まる

7日の「みやこの景色」は文学部の竹居先生
北野天満宮の成立背景として、平安時代前期の北野の風景をお聞きした
来週の葵祭にちなむエピソードや初公開の解釈もお聞きでき
学生君たちも、これまで知らなかった京都の姿に触れることができたのではないかと思う

その中に北野天神以前にあった右近衛馬場の話しがある
西大宮の北の延長に馬場があって、歴代の天皇がよくそこをおとずれたという
その場所がちょうど北野天神の東で、現在の駐車場にあたるという
なぜ右近衛馬場がそこにあったのか
大内裏の平面図を見るとその西の端のほぼ中央を占めているのが右近衛府がある
さらにその南をみると左馬寮と右馬寮がおかれている
右近衛馬場がその場所におかれたのは、これが理由だったのだろうか

そんなことを思いながら、頭のどこかでなにかひっかかることがあった
来週話しをする西園寺家は左馬寮を奉行していたことである
鎌倉時代の北野周辺は史料が少なくよくわからない
けれども鎌倉時代の北野ほど、鎌倉時代の京都を明らかにする時に重要な場所は無い
考えるべきテーマだと思う

18時45分から寒梅館で研究会の準備会
数ヶ月前、宮津の駅前で府立大学の菱田さんと話しをしていて
大学の枠を越えて、専門分野の枠を越えて
デジタルや地理情報学の新しい技術の実践的な検討もおこないながら
考古学と歴史研究の総合的な見方と考え方について
ざっくばらんな意見を交換する場を考えています

さしあたっての予定は
6月4日、7月2日、10月1日、10月22日、11月19日
いずれも18時45分から寒梅館の6A会議室
参加自由
詳細はここをクリック
http://kambai.blog103.fc2.com/

2007年5月 4日 (金)

善光寺平の平安時代とは

長野県立歴史館でひらかれていた「長野県の遺跡発掘2007」では、千曲市の東條(ひがしじょう)遺跡が注目される。近くに八日市という地名があり、街道筋にあたる集落と考えられている。漆器がよく残っており、「蘇民将来」と書かれた木簡がみつかった
1985年に大阪府松原市の観音寺遺跡でやはり「蘇民将来」の木簡がみつかっている。鎌倉時代後半の集落遺跡だった
なお、平安時代末の六角木幢が見つかった社宮司遺跡はすぐ近く
市と館と寺と、あわせて大きな町を形成していたのだろう

森将軍塚古墳館では企画展で屋代氏の資料が紹介されていたが、その中に屋代城の遺物があり、てづくね皿や瀬戸の卸皿、天目碗、内耳鍋となぞの凹石があった
また、古墳時代の交流として、屋代遺跡群の北陸系土器、南沖遺跡の東海系土器、北村遺跡の畿内系土器、城ノ内遺跡の陶質土器、伝土口将軍塚古墳の陶質土器などが並んでいる。とてもわかりやすい展示である

年表に従えば
 善光寺は11世紀中期以降に石清水八幡宮寺および園城寺の末寺となり、一方で戸隠顕光寺は比叡山の末寺となった
 天仁元年(1108)火災を経、永久2年(1114)に善光寺別当の従者が京都の法勝寺境内で乱暴をはたらき記録に残される
 九条兼実の弟の前大僧正覚忠(1118~1177)が善光寺に参詣し
元永2年(1119)には、宇治の平等院が船を用意して鳥羽天皇の中宮の藤原璋子をもてなし、神崎にあそんでいるが、この時、善光寺別当清圓も一緒だった
 治承3年(1179)の火災を受け、源頼朝は文治3年(1187)7月28日に、信濃国目代だった比企能員(ひきよしかず)宛てに善光寺再築工事を徹底させる
 建久2年(1191)10月22日、落慶を兼ねた再建の曼荼羅供養がおこなわれ、建久8年(1197)には源頼朝が大勢の御家人を率いて善光寺に参詣
 北条氏の時代に入ると、北条泰時の弟の朝時(ともとき)(名越(なごえ)氏の祖)が修造事業をおこなう。この時の金堂は東西7間、南北11間か
 修造作業はその後も続き、寛元4年(1248)3月14日には名越氏が主導した造営落慶供養がおこなわれ、建長5年(1253)には北条泰時・朝時らの弟の重時が檀那となった修造総仕上げの供養がおこなわれる
 一方京都でも、嘉禎元年(1235)頃、京都市中で善光寺如来に道俗が群参して礼拝する騒動がおき、建長2年(1250)の九条道家の処分帖に善光寺が登場する
文永8年(1271)と弘安2年(1279)に一遍が北陸から越後国府(現在の上越市)を経て善光寺に参詣し、永仁6年(1298)に一遍の後継者の他阿真教が善光寺に参詣したことも有名

 よって11世紀中頃以降、園城寺末として院の近臣に近い形(受領のような、あるいは新興の在地勢力か)で中央との関係を築いた善光寺は、親鸞や重源といった畿内の著名僧にとっての訪れるべき場所という認識を確立し、鎌倉時代以降は、源氏と北条氏の支援を受け成長していく。
 そこには東国国家の王であった鎌倉政権にとって必要ななんらかの役割があったことになり、その具体的な姿は、承久3年(1221)頃、典型的な「善光寺聖」と言われる伊豆走湯権現の浄蓮房源延が、伊勢を本貫とする御家人加藤景員の子であったようなところに考えるヒントがあると考える
 しかしその(東国との)関与の強さゆえだろうか、鎌倉時代が幕を閉じると、(西国の)足利政権下では善光寺についての記録も数を減らし、(東国で生まれた)新たな覇者の登場まで、歴史の表舞台から姿を消すことになる
 親鸞が善光寺を訪れたのは、東国布教のためだったという見方もあるが、善光寺の存在形態は常に東国国家との関係にあったと言えるかもしれない

それでは10世紀以前の様子はどうだったのだろうか
直接善光寺を語る資料は乏しいため、善光寺平をマクロ的にみることから考えなければならないだろう
たとえば平安時代の国衙は筑摩郡にあったとされている
実際、長野県の平安時代遺跡については、松本平を中心に多くの遺跡がみつかっており、畿内との関係も松本平地区が強い
一方、善光寺平の平安時代については、あまり畿内的な特徴はみられず
とくに灰釉陶器の様子も、一般には東山道をはずれた地域として見られることが多い
これらの状況を元にすれば、平安時代の善光寺平は、畿内との関係を意識しない人たちが生活していたということになる

けれども、そんな善光寺平でみつかった南宮遺跡は巨大な平安時代集落
社宮司遺跡からは六角木憧も出土し
遺物では瓦塔も見逃せない
「続日本後記」によれば、9世紀に大地震と大洪水がおきたという
もちろん五輪堂遺跡も平安時代の重要遺跡である
耕地開発についての情報も重要だ
さらに東国の古代寺院との関連も考えなければならない
奈良時代と平安時代の網羅的な情報のデータベースを考えなければ
 
岩本正二・大久保徹也2007『備讃瀬戸の土器製塩』吉備人出版

2007年5月 3日 (木)

善光寺花回廊

快晴
ゴールデンウィークの後半が始まった朝の長野駅は、たぶん風林火山をめざす観光客と元気な高校生と前夜に飲みすぎた若者たちが一緒
(余談になるが、長野駅に「準急 風林火山号」が停まっていた。もちろん長野市立博物館も風林火山一色で、駅弁ももちろん風林火山
 ところで、この風林火山の出典は孫子と言われているが、それを使ったのは北畠氏が先とも。また日本書紀の継体のところで、筑紫の磐井を攻めに行くときに「良将の軍すること、恩を施して恵を推し、己を恕りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦うこと風の発つが如し」という言葉が出てくる。全く同じではないがとても似ていると思う。)

屋代は須須岐水神社の新社殿落慶を祝う春祭で、子供神輿や山車でにぎやか
近くには雨宮の渡しがあり、なるほど由緒ある村の鎮守
男たちは神輿であばれ
女たちは酒を盛る
昔から続く祭の文化が生きている

去年の3月に始まった善光寺への旅は、一遍とめぐる鎌倉時代の風景の真っ只中だったが、どうやら長い研究の歴史に彩られた一番重要なテーマへの入り口だったようである
重要なのは、善光寺のことを語るためは、善光寺を調べているだけでは不十分だということ

善光寺平の古代には、弥生時代に遡って朝鮮半島からの文化が入っていた
有名な木島平の根塚遺跡と浅川端遺跡の遺物
ただし本格的に入ってくるのは5世紀で、4世紀の善光寺平の覇者はその盆地の南端から平野の民を見渡していた

9時過ぎに森将軍塚に登る
まさかこんな朝から誰もいないだろうと思っていたら
驚いたことにすでに先客がいて
家族連れが古墳をバックに記念撮影をしていた
業界関係者としてありがたいことだと思う
整備で発掘していたとき以来だろうか
すっかりきれいになった森将軍塚の後円部から
大パノラマを前に古代人の姿をさがす
ちょうど正面の奥に長野市街が見え
手前にもどれば、右手の屋山際から左手に向かって千曲川が大きくうねりながら流れる
したがって、もし千曲川で区切られるこの山下の平地をこの為政者の耕作地としたら
その面積は意外に狭いことになる
もちろんそんなことはなく
千曲川をおさえ、その先の平地も含めた善光寺平の広い範囲に支配の手をのばしていたものと思われる
ただ面白いのは、右手の山に遮られて大室古墳群は見えず、もちろん須坂の方面も見えないこと
遺跡のネットワーク分析で見える見えないを手がかりにする考え方があって
すべての時代の遺跡について有効とは思えないが
今回については意味があるかもしれない

危なっかしい足取りで2号墳をまわって降り
畿内的な副葬品の並ぶ古墳館から歴史館へまわり、偶然センターのK君に会う
一番新しい生きた情報を聞き、合わせて古墳時代から古代の展示を見直す
古墳時代の展示のポイントのひとつは「馬」と「渡来系遺物」
どうしても避けて通ることのできない要素をあらためて確認

Dsc00903 長野へ戻ると表参道は花回廊のイベントで大にぎわい
善光寺行きのバスはあっという間に満員で
歩くことに
高校時代はもっと遠くから歩いており
そんなに距離は無いとおもっていたが1.7キロの表示にたじろぐ
大賑わいの仲見世を過ぎ大勧進の宝物館へ
はるか以前に一度来たことがあり確か瓦を展示していたことが記憶にある
平日は200円(なんと遙か以前に来たときと同じ)だが
休日はお茶席が付いて500円
瓦は昔の記憶の場所にあり、やはり長野市立博物館に展示してあるものと同じ凸鋸歯文だった
森郁夫さんや岡本さんの言に従えば、川原寺式ではないことになる
であれば、様式的には7世紀後半とされる川原寺式より後の年代があてられることになる
ただし、どれほどの時間をその間におくことになるかはなんとも言えない
岡本さんが川原寺式の亜種と呼んでいるものの他の事例を調べないといけない
展示室の最後のコーナーの壁に、善光寺や大峯山で見つかった平瓦がケースに入れてならべられていた
善光寺か善光寺の前身寺院には、今回見つかった単弁の瓦と、川原寺式に後出する瓦が葺かれてたことになる

本堂にお詣りした後
午をだいぶまわったところで元屋さんへ行く
さすがのゴールデンウィークだけあって店の外まで客が並んでいる
15分ほど待って燈明をいただく
やはり元屋さんの蕎麦である
帰りの「しなの」は空いていた
おもえばゴールデンウィーク後半の初日に観光地を出る客はあまりいないとのことで

2007年5月 2日 (水)

牛にひかれて

天気予報では良くなると言っていたが、どうやら曇りの様子
難波の堀江で金銅佛を見つけた本多善光を思い山背から東山道へ

ゴールデンウィークの谷間の朝の京都の混雑はさすがにそれほどでもない
0915の予定だったが0909に間に合う
指定席は混んでいたが、自由席は空いていたのでやれやれと座ったら喫煙車両だった
近江は田んぼに水が張られている
6分間の時間をおいて200数十キロの速さの列車が同じレールの上にいることに未だに慣れない

特急しなのは、ゴールデンウィーク後半へ向けての行楽客でのどかな雰囲気
座席のポケットには信州のガイドブック
後ろの席は、母と娘の親子旅行
なによりも車窓の風景を目で追えることが嬉しい

鎌倉時代に藤原定家の使者が歩いた木曽路は、低い雲に覆われて霧雨の中だった

トンネルを抜けひろがる善光寺平は薄曇り
古代に生きた人々の姿は、まだ見えない

2007年5月 1日 (火)

明日香へ

明日から長野へ行く予定だが
その前にどうしても確認しておかなければならないことがあって
明日香へ
朝起きるとすっかり雨模様
さてどうしようかと思いながら午前中の用事をすませているうちに
なんとか空が明るくなってくる
よかったと思いながら郡山をでる

明日香に着く頃にはありがたいことにすっかり良い天気
明るい陽射しが広がる中
それまでどこにいたのかと思われるような観光客や
小学生の団体が姿を現す
石舞台を通り過ぎ川原寺へ

明日香の中心部は、甘樫丘と雷丘に西を、談山神社のおかれた多武峯に続く吉野高取の山塊のはずれを東にはさまれれ、石舞台から北西に流れる飛鳥川を軸に展開する
川原寺はそのほぼ南端にあって、ここより南は、ゆるやかな登りの傾斜で聖徳太子生誕の伝承にちなむ橘寺がおかれることになる

Dsc00782 法号は弘福寺(ぐぶくじ)で、『続日本紀』の大宝3年(703)に、大安寺・薬師寺・元興寺と共に見える。東を飛鳥川が流れる。
日本書紀、元亨釈書、扶桑略記などにより、斉明の川原宮からの造寺や天武の造営そして、斉明7年(661)の斉明天皇没から天智6年(667)の近江京遷都の間に、川原宮跡に斉明天皇の冥福を祈るために天智天皇が造営したとするなど、多くの考え方がだされている。
また、上御霊神社の祭神のひとりともなった

豊浦寺は、川原寺から飛鳥川を下って甘樫丘を越えた南に位置する
仏教伝来にかかわる重要遺跡で
『日本書紀』欽明天皇13年条には、蘇我稲目の小墾田家に欽明王から受けた仏像を安Dsc00793 置し、次いで向原(むくはら)の家を寺としたとあり、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』には、蘇我稲目が向原の家を寺としたことを起源として、敏達朝には桜井道場に移され、後の推古朝に等由良宮を寺として豊浦寺と号し、宮は小墾田宮に移されたとする。
小墾田宮推定地から歩いて5分ほど南東の集落の中に向原寺が建ち、現在それを伝える遺構が残されている。

蘇我馬子が発願した飛鳥寺は、『日本書紀』によれば、崇峻元年(588)に百済から寺工・露盤博士・瓦博士が来て造営を開始し、推古4年(596)に塔が完成したと伝える。また、推古14年には今の安居院に残る丈六の銅の像を元興寺の金堂におさめたとされる。藤原京四大寺の一つであり、平城遷都後は元興寺に寺籍を移すが、日本最初の本格的寺院として明日香散策の起点となっている。

見たいものは見たが、見たかったものが見えなかったところもあった
けれども見ていなかったことが見えたところもあった
なにし明日香である
そう簡単にはことは運ばない
これも生涯不塾
日々是勉強と思いつつ

明日は長野

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