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2007年5月 3日 (木)

善光寺花回廊

快晴
ゴールデンウィークの後半が始まった朝の長野駅は、たぶん風林火山をめざす観光客と元気な高校生と前夜に飲みすぎた若者たちが一緒
(余談になるが、長野駅に「準急 風林火山号」が停まっていた。もちろん長野市立博物館も風林火山一色で、駅弁ももちろん風林火山
 ところで、この風林火山の出典は孫子と言われているが、それを使ったのは北畠氏が先とも。また日本書紀の継体のところで、筑紫の磐井を攻めに行くときに「良将の軍すること、恩を施して恵を推し、己を恕りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦うこと風の発つが如し」という言葉が出てくる。全く同じではないがとても似ていると思う。)

屋代は須須岐水神社の新社殿落慶を祝う春祭で、子供神輿や山車でにぎやか
近くには雨宮の渡しがあり、なるほど由緒ある村の鎮守
男たちは神輿であばれ
女たちは酒を盛る
昔から続く祭の文化が生きている

去年の3月に始まった善光寺への旅は、一遍とめぐる鎌倉時代の風景の真っ只中だったが、どうやら長い研究の歴史に彩られた一番重要なテーマへの入り口だったようである
重要なのは、善光寺のことを語るためは、善光寺を調べているだけでは不十分だということ

善光寺平の古代には、弥生時代に遡って朝鮮半島からの文化が入っていた
有名な木島平の根塚遺跡と浅川端遺跡の遺物
ただし本格的に入ってくるのは5世紀で、4世紀の善光寺平の覇者はその盆地の南端から平野の民を見渡していた

9時過ぎに森将軍塚に登る
まさかこんな朝から誰もいないだろうと思っていたら
驚いたことにすでに先客がいて
家族連れが古墳をバックに記念撮影をしていた
業界関係者としてありがたいことだと思う
整備で発掘していたとき以来だろうか
すっかりきれいになった森将軍塚の後円部から
大パノラマを前に古代人の姿をさがす
ちょうど正面の奥に長野市街が見え
手前にもどれば、右手の屋山際から左手に向かって千曲川が大きくうねりながら流れる
したがって、もし千曲川で区切られるこの山下の平地をこの為政者の耕作地としたら
その面積は意外に狭いことになる
もちろんそんなことはなく
千曲川をおさえ、その先の平地も含めた善光寺平の広い範囲に支配の手をのばしていたものと思われる
ただ面白いのは、右手の山に遮られて大室古墳群は見えず、もちろん須坂の方面も見えないこと
遺跡のネットワーク分析で見える見えないを手がかりにする考え方があって
すべての時代の遺跡について有効とは思えないが
今回については意味があるかもしれない

危なっかしい足取りで2号墳をまわって降り
畿内的な副葬品の並ぶ古墳館から歴史館へまわり、偶然センターのK君に会う
一番新しい生きた情報を聞き、合わせて古墳時代から古代の展示を見直す
古墳時代の展示のポイントのひとつは「馬」と「渡来系遺物」
どうしても避けて通ることのできない要素をあらためて確認

Dsc00903 長野へ戻ると表参道は花回廊のイベントで大にぎわい
善光寺行きのバスはあっという間に満員で
歩くことに
高校時代はもっと遠くから歩いており
そんなに距離は無いとおもっていたが1.7キロの表示にたじろぐ
大賑わいの仲見世を過ぎ大勧進の宝物館へ
はるか以前に一度来たことがあり確か瓦を展示していたことが記憶にある
平日は200円(なんと遙か以前に来たときと同じ)だが
休日はお茶席が付いて500円
瓦は昔の記憶の場所にあり、やはり長野市立博物館に展示してあるものと同じ凸鋸歯文だった
森郁夫さんや岡本さんの言に従えば、川原寺式ではないことになる
であれば、様式的には7世紀後半とされる川原寺式より後の年代があてられることになる
ただし、どれほどの時間をその間におくことになるかはなんとも言えない
岡本さんが川原寺式の亜種と呼んでいるものの他の事例を調べないといけない
展示室の最後のコーナーの壁に、善光寺や大峯山で見つかった平瓦がケースに入れてならべられていた
善光寺か善光寺の前身寺院には、今回見つかった単弁の瓦と、川原寺式に後出する瓦が葺かれてたことになる

本堂にお詣りした後
午をだいぶまわったところで元屋さんへ行く
さすがのゴールデンウィークだけあって店の外まで客が並んでいる
15分ほど待って燈明をいただく
やはり元屋さんの蕎麦である
帰りの「しなの」は空いていた
おもえばゴールデンウィーク後半の初日に観光地を出る客はあまりいないとのことで

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