« 善光寺花回廊 | トップページ | 仮称・寒梅研究会始まる »

2007年5月 4日 (金)

善光寺平の平安時代とは

長野県立歴史館でひらかれていた「長野県の遺跡発掘2007」では、千曲市の東條(ひがしじょう)遺跡が注目される。近くに八日市という地名があり、街道筋にあたる集落と考えられている。漆器がよく残っており、「蘇民将来」と書かれた木簡がみつかった
1985年に大阪府松原市の観音寺遺跡でやはり「蘇民将来」の木簡がみつかっている。鎌倉時代後半の集落遺跡だった
なお、平安時代末の六角木幢が見つかった社宮司遺跡はすぐ近く
市と館と寺と、あわせて大きな町を形成していたのだろう

森将軍塚古墳館では企画展で屋代氏の資料が紹介されていたが、その中に屋代城の遺物があり、てづくね皿や瀬戸の卸皿、天目碗、内耳鍋となぞの凹石があった
また、古墳時代の交流として、屋代遺跡群の北陸系土器、南沖遺跡の東海系土器、北村遺跡の畿内系土器、城ノ内遺跡の陶質土器、伝土口将軍塚古墳の陶質土器などが並んでいる。とてもわかりやすい展示である

年表に従えば
 善光寺は11世紀中期以降に石清水八幡宮寺および園城寺の末寺となり、一方で戸隠顕光寺は比叡山の末寺となった
 天仁元年(1108)火災を経、永久2年(1114)に善光寺別当の従者が京都の法勝寺境内で乱暴をはたらき記録に残される
 九条兼実の弟の前大僧正覚忠(1118~1177)が善光寺に参詣し
元永2年(1119)には、宇治の平等院が船を用意して鳥羽天皇の中宮の藤原璋子をもてなし、神崎にあそんでいるが、この時、善光寺別当清圓も一緒だった
 治承3年(1179)の火災を受け、源頼朝は文治3年(1187)7月28日に、信濃国目代だった比企能員(ひきよしかず)宛てに善光寺再築工事を徹底させる
 建久2年(1191)10月22日、落慶を兼ねた再建の曼荼羅供養がおこなわれ、建久8年(1197)には源頼朝が大勢の御家人を率いて善光寺に参詣
 北条氏の時代に入ると、北条泰時の弟の朝時(ともとき)(名越(なごえ)氏の祖)が修造事業をおこなう。この時の金堂は東西7間、南北11間か
 修造作業はその後も続き、寛元4年(1248)3月14日には名越氏が主導した造営落慶供養がおこなわれ、建長5年(1253)には北条泰時・朝時らの弟の重時が檀那となった修造総仕上げの供養がおこなわれる
 一方京都でも、嘉禎元年(1235)頃、京都市中で善光寺如来に道俗が群参して礼拝する騒動がおき、建長2年(1250)の九条道家の処分帖に善光寺が登場する
文永8年(1271)と弘安2年(1279)に一遍が北陸から越後国府(現在の上越市)を経て善光寺に参詣し、永仁6年(1298)に一遍の後継者の他阿真教が善光寺に参詣したことも有名

 よって11世紀中頃以降、園城寺末として院の近臣に近い形(受領のような、あるいは新興の在地勢力か)で中央との関係を築いた善光寺は、親鸞や重源といった畿内の著名僧にとっての訪れるべき場所という認識を確立し、鎌倉時代以降は、源氏と北条氏の支援を受け成長していく。
 そこには東国国家の王であった鎌倉政権にとって必要ななんらかの役割があったことになり、その具体的な姿は、承久3年(1221)頃、典型的な「善光寺聖」と言われる伊豆走湯権現の浄蓮房源延が、伊勢を本貫とする御家人加藤景員の子であったようなところに考えるヒントがあると考える
 しかしその(東国との)関与の強さゆえだろうか、鎌倉時代が幕を閉じると、(西国の)足利政権下では善光寺についての記録も数を減らし、(東国で生まれた)新たな覇者の登場まで、歴史の表舞台から姿を消すことになる
 親鸞が善光寺を訪れたのは、東国布教のためだったという見方もあるが、善光寺の存在形態は常に東国国家との関係にあったと言えるかもしれない

それでは10世紀以前の様子はどうだったのだろうか
直接善光寺を語る資料は乏しいため、善光寺平をマクロ的にみることから考えなければならないだろう
たとえば平安時代の国衙は筑摩郡にあったとされている
実際、長野県の平安時代遺跡については、松本平を中心に多くの遺跡がみつかっており、畿内との関係も松本平地区が強い
一方、善光寺平の平安時代については、あまり畿内的な特徴はみられず
とくに灰釉陶器の様子も、一般には東山道をはずれた地域として見られることが多い
これらの状況を元にすれば、平安時代の善光寺平は、畿内との関係を意識しない人たちが生活していたということになる

けれども、そんな善光寺平でみつかった南宮遺跡は巨大な平安時代集落
社宮司遺跡からは六角木憧も出土し
遺物では瓦塔も見逃せない
「続日本後記」によれば、9世紀に大地震と大洪水がおきたという
もちろん五輪堂遺跡も平安時代の重要遺跡である
耕地開発についての情報も重要だ
さらに東国の古代寺院との関連も考えなければならない
奈良時代と平安時代の網羅的な情報のデータベースを考えなければ
 
岩本正二・大久保徹也2007『備讃瀬戸の土器製塩』吉備人出版

« 善光寺花回廊 | トップページ | 仮称・寒梅研究会始まる »

善光寺」カテゴリの記事