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2007年7月

2007年7月31日 (火)

この時期2つの企画展

奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で、7月21日から「大和を掘る25」が開催されている
2006年度の発掘調査速報展である
京都府でも8月中旬から同様な企画展がはじまる
いずれも前年度に行われた調査のエッセンスが展示されており勉強になる
今回の展示でいくつか紹介すると
・平城京左京3条6坊10坪・奈良町遺跡のさまざまな遺構。古代から中世にかけて冬東大寺と興福寺の境内が中心だった奈良市街が、その後どのような展開をみせたのか。奈良町の調査の集積が注目される。
 東大寺旧境内では中世の濠状遺構と木材加工所の跡がみつかった。
 平城京左京二条六坊一坪、平城京右京一条三坊一坪なども、奈良時代はもちろんだが、その後の奈良市街周辺の様子を復原するうえでの重要資料 
・シロカイト遺跡は明日香村栢森に所在する山の中の遺跡で、洪水の跡から12世紀代の土器が大量にみつかっている。この場所にどんな人がどんな生活をしていたのだろうか。森先生のゼミで課された山人の生活の姿が頭をよぎった。
・日笠フシンダ遺跡では奈良時代の絵馬がみつかっている。また木材の加工場もわかり、やはり山人の生活がみえてくる。
・エントランスホールに高松塚の墳丘の断面のはぎ取りが展示されている。版築状にしてつくられていった古墳の姿が想像できる。
・善光寺の古代にかかわっているので、渡来系遺跡にどうしても目がいく。観覚寺遺跡は高取町に所在し、石組みの方形池やかまど、大壁建物の基礎などがみつかっている。
・企画展の入口で圧倒するように立てられているのが、一本松2号墳の円筒棺。この棺とふたつの古墳の関係で被葬者の階層秩序がわかるという。

唐古・鍵ミュージアムで金剛寺遺跡の遺物展示がはじまっている
 これまでも何度も驚かされたが、田原本町は弥生時代の唐古・鍵遺跡がまず第一に有名だが、実は中世の集落遺跡が多いことでも知られている。さらにその集落からみつかる遺物がとてもバラエティに富んでいて、豊かな文化を感じさせるものばかり。
 金剛寺遺跡は箸尾駅の南東に位置し、曽我川に沿ったところ。室町時代には濠で囲まれた区画をもち、阿弥陀院という字名を隣接させた南北300m、東西100mの範囲におよぶ国中の一大拠点。めずらく濠を渡る橋もみつかっているが、遺物の中にへらキリかへらオコシでつくられた土師器がある。あきらかに畿内以外からもちこまれたもので、非常に特異なネットワークをもっていた証拠になろう。
 現在のののどかな風景からは想像できないような、活発でドラマチックな中世の田原本がそこには示されている。弥生の唐古・鍵遺跡と同様に大いに注目していきたい遺跡群である。

2007年7月30日 (月)

MAMIYAとVIVIDと探査と

この4月から考古学・歴史資料の情報取得の実習をおこなっているが
先週末の土・日は、そのまとめの授業
これまでおこなってきたアナログ的な手法とデジタル的な手法の
それぞれの長所と短所を考えてもらうのが、その一番大きなテーマ

今回はそのために必要な体験として
いくつかのデジタル機器の扱い方を学んだが
その中で一番人気だったのが
mamiyaの中型カメラの重さとシャッター音の徹底したアナログ感と
VIVID910で生成される徹底的なバーチャル世界
さすが文情の学生である
フォトショップのスキャナボタンも良いけれど
リアルカメラのメカニックには、それ以上の何かがある
ただし、やはりもうこれからはセルロイドよりCCDかもしれないが

一方バーチャル3Dを代表するVIVID910は
Img_9586 ソフトがとても使いやすくできており
学部生でも十分使いこなせるレーザー測定器
本体が大きく重いことと
今では4万円ほどで1000万画素のデジカメが買える時代になってしまったので
それと比較するのはあまりに酷かもしれないが、やはり画像の粗さは・・・・・
けれどもそれ以外は
(もちろん価格もできればもっと手軽になってくれたらいいのだが)
とても満足できる機能をもっており
これらの条件が徐々にクリアされていけば
全国の埋蔵文化財関係で当たり前に使われる機器になることは間違い無いと思う

思えば、大阪のセンターに就職してまもなく
3スペースあるいはパドラスと呼ばれた
土器の3次元実測器が登場し
その前にもベクトロンという実測器があったように記憶しており
関東の埋蔵文化財センターでは縄文土器の実測に積極的に導入されたように思う
これまでも何度も書いてきたが
考古学と歴史研究は常に情報との戦いだったことになる
あれから20年以上たち今はレーザーが注目されるが
それらの根底があくまでアナログなリアル資料であることも
デジタルが主張されるほどにあらためて強く思う

そんなアナログとデジタルの話をしながら
Kさんと柳生から西大寺へもどる
JR奈良駅周辺のあまりの風景の変わりように愕然としながら

南さつま市教育委員会2007『松坂原遺跡・入道ケ野遺跡』
南さつま市教育委員会2007『春ノ山遺跡』
南さつま市教育委員会2006『二頭遺跡・花抜園墓地』
金峰町教育委員会2005『芝原b遺跡』
南さつま市教育委員会2007『出原遺跡・有村遺跡・小園原遺跡・瀬戸口遺跡』
八幡市教育委員会2007『美濃山王塚古墳発掘調査報告』
八幡市教育委員会2007『女郎花遺跡(第8次)発掘調査報告書』
八幡市教育委員会2007『平成17年度 山田遺跡発掘調査報告』
八幡市教育委員会2007『川口扇遺跡(第2次)発掘調査報告書』
八幡市教育委員会2007『山本町遺跡(第2次)発掘調査報告』
八幡市教育委員会2007『志水廃寺(第4次)月夜田遺跡発掘調査報告書』

2007年7月29日 (日)

善光寺平の古代を考える2

 1978年に森浩一先生と金達寿さん、それに信越放送の飯島一彦さんと県史編纂委員の桐原健さんでおこなわれた「古代信濃と朝鮮ををめぐって」という座談会の記録が『日本のなかの朝鮮文化』の第39号に収録されている。
今からおよそ30年前になるが、この数年関わってきた善光寺の古代と中世をめぐる諸問題は、すでにこの時に最も体系的かつ本質的に議論されている。ゆえ、新たな資料が提示された今、この時の議論がどうだったかをもう一度学び検討を加えることは、とても重要ではないかと思う。
本文を元にして論点を整理してみたい

1、おもに善光寺創建の背景について
(1)積石塚
 ①積石塚と古墳
 積石塚が一番多いのは千曲川東岸の高井郡で、大室古墳群から始まって北の端は木島平まで。
 築造年代は大部分が7世紀だが、須坂の八丁の鎧塚1号墳は碧玉の石釧と水字貝製の貝釧と国産の方格規矩鏡を出土して5世紀前半。同じく天神1号墳は上円下方墳でやはり5世紀前半に遡る。 鎧塚1号墳の副葬品は畿内的な特徴をもっているが積石塚であることに意味がある。
 鎧塚2号墳は6世紀前半で獅子噛み文様の帯金具がでていて、百済系とも言われている。
(これについては
 積石塚の内部構造は大部分が横穴式石室だが合掌形のものもあって、大陸の墓制の影響と理解できる。
 高井郡以外の積石塚は3つ。1つは松本平の「薄町」で、延暦18年に「卦婁真老」(卦婁は高句麗桓仁王朝期の古氏族)と称した「須々岐」姓と関係。2つめは浅間温泉の桜ヶ丘古墳で5世紀後半。積石ではないが金銅の冠が出て「辛犬甘」氏との関係。3つめは坂井村の「安坂」で、延暦16年に「安坂」姓を名乗った「外従八位前部綱麻呂」の本拠。
 松代町の竹原笹塚古墳は横穴式石室の内天井が合掌造りで6世紀末から7世紀初め
 ほかに松代町の東谷に3基の古墳があって、雲珠(うず)や馬具が出土している
 川柳将軍塚は「篠井」に関係する4世紀後半から末にかけての古墳
(2)馬
 ①馬具
 長野県で馬具を出土した古墳は146基だが、最も多いのは下伊那地区の70基で年代は6世紀。
 内容は金銅貼りのきらびやかな馬具。飯田市座光寺の畦地1号墳(直径20mほどの円墳)からは、新羅の慶州とよく似た銀製長鎖式垂飾付耳飾がみつかっている。
 (これらの特徴は畿内的とも言える)
 ②牧
 信濃の古牧は望月牧など16牧で、高井郡には大室・高井・笠原。ただし8世紀の記録。
 その景観構成は、扇状地上に繋飼場所やその上に放牧場、沖積地上に飼料や塩との交換の場、生活のための水田があったきわめて広域なもの。
 ③牧成立の背景 
 大室牧→大室の積石塚、高井牧→須坂の臥竜山の積石塚、山ノ内町夜間瀬にも積石塚で対応
 水内郡には浅川扇状地に「吉田の牧」があり、吉田桐原に桐原牧神社がおかれる
 松本の埴原の牧には16の牧を管理した牧監庁(国司と同等の関係)がおかれ、現在その跡が残る。 近くの中山丘陵には古墳後期の群集墳と西側に田川が流れる。延暦8年に「田川」造が定着した場所。
 ただし牧は8世紀で積石塚は7世紀でその間をどうつなぐか。(7世紀に牧が無かった証拠にはならないので)8世紀の記録がつくられる以前にあった牧と古墳の関係は否定できない。(記録としての牧は8世紀だが、実態としての牧は7世紀以前からあった)
 更埴市の五輪堂遺跡から6世紀の馬を埋めた穴がみつかった。その様子は鮮卑や新羅に似ている。近くにあるのが須々岐水神社(卦婁真老)で須々岐氏の本拠は松本の薄町かここか。→高句麗系渡来集団との関係か
 ④信濃の牧と畿内の牧
 日本列島で馬が大量に必要になったのは5世紀で、大和川や淀川の河原に多くみられる(四条畷の蔀屋北遺跡などで5世紀中頃から後半の馬の骨や歯がみつかり、大量の製塩土器も出土した。また渡来系の人々がそれを飼育したとも考えられている) 
 6世紀に馬の需要が増え、同時に渡来系の人たちが各地に居住する。同時に信濃が政治的にも経済的にも重視される。
(3)渡来系の人々
 ①百済と高句麗の記録
 天智4年に四〇〇余人を神埼郡におく、天智8年に七〇〇余人を蒲生郡におく
 天智5年(7世紀後半)百済の男女二千余人を東国に移す
 百済滅亡後に渡来した百済王家直系の百済王敬福(698~766)は、738年に陸奥介として初見、陸奥守のときに金を発見して大仏鋳造のために献上(749)。その曾祖父が百済王善光。
 延暦8年(789)後部牛養・宗守豊人に「田河」姓を
 延暦16年(797)(高句麗系)前部綱麻呂に「安坂」の姓を
 延暦18年(799)「信濃国人外従六位下卦婁真老等11人、請いて「須々岐」等の姓を賜はる」「我々は高麗人で、推古・舒明天皇の時(7世紀はじめ)に渡来した」→直接渡来した。日本海沿岸は直行文化地域で信濃もその範囲(「直接渡来」「直行文化地域」は今回みつかった湖東式瓦と共通するキーワードか)
 ほかに「豊岡」・「玉井」・「篠井」・「篠岡」など11の姓をもらう
→「篠井」は更級郡、「村上」は埴科郡、「玉井」と「朝冶」は小県郡、旧更級郡の麻績に「安坂」の将軍塚
 「篠井」は現在の篠井東の千曲川左岸の自然堤防上で弥生の遺跡、韓猫神社がある
 「新撰姓氏録」(815年成立)の山城国諸番に高井造「高井造、高麗国主雛牟王廿世孫汝安祁王よりでるなり」
 高句麗の積石塚は5世紀前半以前で、高井郡の積石塚のほとんどは7世紀半ばだが、高句麗の官職名をもった人々は、信濃の「更級」「埴科」「小県」「高井」に8世紀まで残っていた
 大室古墳群の風景は高句麗第二の都の輯安に似ている
 (高句麗を出自とする人々が8世紀の終わり頃まで存在しており、7世紀の高井郡の積石塚は、信濃に同化しつつも保持していた彼らのアイデンティティの主張か?)
 (それでは水内郡は?水内郡には高句麗の伝承は無いか)
 (高句麗系-積石塚の系譜-牧)ただし「牧」は高句麗のみではない
 ②長野という地名と百済
 弥生の前という本田善光の妻の像が立て膝して座っている。類似した木像が大本願にも本堂の奥にもあるという。
 土屋弼太郎さんの「近世信濃文化史」で紹介されている河内長野(地名で関係していると)の観心寺の秘仏が立て膝(河内長野と長野の関係は大和岩雄さんも指摘しているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_c3bf.html
 河内長野は錦織郡でほとんどが百済系の渡来集団。その中の一番古い寺が新堂廃寺。この寺は四天王寺と同じくらい古い瓦を出す。その南に錦部寺や蘇我氏と関係のある竜泉寺があって、観心寺はさらにその南。百済系の錦織氏が長野にも来ており、その中に河内と同じように初期仏教をもっていた人もいたのではないか。
 また錦織郡は古墳の少ないところで、善光寺の周辺に古墳が少ないことも問題ではないだろう。
 新堂廃寺は飛鳥時代しっかりした伽藍をもった寺院だが、日本書紀にも古事記にもみえない。それはあくまで政府との関係。畿内でも記録に登場しない寺院がある。
 ③その他の地名と新羅と高句麗と百済
 佐久市下塚原の駒形神社や浅科村八幡神社内の高良神社は高句麗系
 東筑摩郡波田町の上波多神社、善光寺平の冶田神社は新羅系渡来人の秦氏と
 白髪神社
 長野市方田の石塔は滋賀県石塔寺の石塔に似て、百済の石塔に似ているとも
 ④その他の要素 
 善光寺で儀式の後の仏具を焼く駒形神社の煙がいつも西へ吹き、それを駒送りという
 川柳将軍塚(6世紀前半)の裏山の聖川の谷間に信濃で最古の須恵器窯である松ノ山古窯がある
 上野国も重視したい 上野三碑は近畿にも無い中国的あるいは朝鮮的な碑文がある
 高崎の観音山古墳から見つかった銅製の水瓶は北魏と隋の間くらいの年代で、非常に珍しいものだが、本来の仏器ならば、『日本書紀』の記載と別に多くの人々の動きがあったわけで、とくに東国への仏器の渡来がどうのような状況だったか見直す必要がある。

2、善光寺創建について
 善光寺の創建の原動力に渡来系の人々が担っていたということは相当強調していいだろう。さらに天武・持統という時代との関係もあるので、渡来系氏族と大和朝廷の力が相乗効果があったのではないか。
 ただし善光寺と古墳との関係では、高井郡には高句麗系と思われる積石塚があるが、善光寺は水内郡ですぐにはつなげられない
 善光寺の創建についての大枠は塚田正朋さんの『長野県の歴史』が参考になる。
「おそらく7世紀に<略>百済系の人々によって善光寺平に移され、当初は邸宅内の仮堂におさめられていたが、次第に信仰をあつめ、奈良時代にはいる頃には瓦葺きの本堂がたつようになった」と
 本尊については、石田茂作さんが「飛鳥に残る善光寺如来の伝説と実態」『飛鳥随想』で紹介
 前立三尊は米山一政さんによれば古い百済の様式で、その特徴は脇侍の桔梗半戴形の宝冠だという。
 本尊は武田信玄が甲府へ運んだ後、信長が金華山の麓の岐阜善光寺へ移し、さらに信雄が清洲の甚目寺へ移し、家康が浜松の鴨江寺へ移し、さらに甲府へ戻した後、方広寺が地震で崩れたため、ご利益のあるものとして京都へ移され、秀吉が死ぬ二日前に現在の善光寺に帰ったという

 開祖については、百済王敬福の祖父の善光説、秦巨勢大夫がどこも経由せずに来ている話、若麻績東人が背負ってきた話(伊呂波字類抄)、若麻績真人本大善光が伊奈の郡の麻績の里を経由してくる話(善光寺縁起)などが言われている
 最初は新羅系、次が高句麗系 さらに百済系が関わったのではないか

 善光寺の瓦は大正時代に善光寺本堂の亀腹からみつかって、昭和では29年に仁王門の北側から東、河原崎町に通じる道路の50メートルの下水工事でみつかった
 川原寺式の白鳳の瓦で、善光寺の北に善光寺瓦を焼いた窯が3つあって、そこからは平安時代もある

3、善光寺の特徴
 伝承の形が、やはり百済仏を本尊とする浅草寺の縁起と非常に似ている
 善光寺と浅草寺に共通するのは、広い範囲で信仰をあつめること。浅草寺は東京湾の漁民との関係、善光寺と安曇との関係はどうだろうか。または視点を変えて、宇佐神宮や出雲大社に似た性格を考えたらどうか。
(この点については、善光寺の発展の背景にいた善光寺聖の存在、そしてその存在と神人や寄人の関係について考えているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3f39.html
(浅草寺といえば、葛飾の鬼塚遺跡は同時期の関東の中で非常に多彩な交流を示す資料をもっているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fe39.html

 はじめにも書いたが、現在も議論されている多くの課題が、すでにこの時に提示され議論されていた。しかし、このように多彩な渡来系文化が交錯する古代の善光寺平を俯瞰し、まさに地理情報を軸にして、いつの時代にどこを出自とする人々がどこでなにをしていたのかを、ひとつずつ関係を調べてつながりを確かめていけば、絡み合った糸も解けるような気がする。
 新堂廃寺や浅草寺との共通点を念頭に置き、管江真澄の記録や朝鮮実録の記録もあわせながら、南宮遺跡に代表される集落遺跡の情報を取り込むことで、善光寺平をめぐる古代史は、善光寺の中世の風景までを含めた新しい局面に向かう可能性がある。そのために最も重要な要件は、7世紀の善光寺門前から犀川までの範囲をふくめた景観復原である。
 
 1978年と言えば森先生はちょうど50歳になる年である。ただし6月24日に長野県社会福祉センターで講演会がおこなわれ、25日には善光寺から大室古墳群から竹原笹塚古墳と方田の石塔をめぐる見学会がおこなわれているので、厳密に言えばまだ49歳である。座談会は長野市の信濃路ホテルでおこなわれ、金達寿さんと桐原健さんに加えて信越放送の飯島さんが全体の流れをリードされた。一方見学会の記録は共同通信文化部の藤野雅之さんが「古代の信濃文化」という題で同書に寄せられている。
 来年はその30年後にあたり、奇しくも善光寺関連の遺跡にかかわる人たちも増えてきている。善光寺門前と大本願地点の調査をふまえた今、再びこの問題に向かってみる時期に来ているように思う。

2007年7月26日 (木)

横道遺跡と千光寺跡

博物館実習の関係で昨日は城陽市の歴史民俗資料館へうかがい
今日は四条畷市の歴史民俗資料館をうかがう
学生君たちにとっては博物館の実際を社会の中で体験するきわめて重要な時間
そして考古学や歴史研究が社会の中で果たす役割を大学が行政の研究機関と一緒に考える重要な機会でもある

ちょうど城陽市では横道遺跡の古墳の調査の発表がなされた時
南山城を代表する久津川古墳群についてまた新しい情報が加わった
どこでも同じ重さをもっているが、やはり久津川古墳群が南山城の古代を考える時にとくに大きな意味をもっていることは誰もが認めることであろう
その意義と意味については、これまでの先学の努力によって社会に還元されてきたが
ここを訪れることによって、その今をリアルタイムで体験することになる
これまでの学史に学びながら、そんなリアルタイムの情報をそれに盛り込むことで
さらに新しい南山城の古代を物語る努力がもっともっといる
という話を一緒にしたあと
今出川へ向かう

四条畷の資料館は東高野街道に面する住宅街にある
すこし北へいくと清滝の道が河内と大和をつなぐ
大阪時代、主に大阪市から南部の調査を担当していたために不勉強なことが多い
いつもお世話になっているNさんにご案内いただき少しだけ展示を見学
前回も不勉強なまま清滝の遺跡の遺物を見せていただいて
あまりの不勉強さにショックを受けてしまったが
今回も千光寺跡(寺口遺跡)という、またまたショックな遺跡をみせていただいた
場所は上田原という生駒市との府県境に近いところ
南に田原対馬守を主とする田原城があって、戦国大名の三好長慶が1560年に入城した飯盛山城はその西
田原城の本丸跡の周りには濠と自然河川がめぐり、北には清滝街道がはしっている
城主の田原氏は、鎌倉時代にさかのぼる記録をもち
その頃の館は、田原城の北の正伝寺西の古城と呼ばれる台地にあったと考えられている
千光寺はその田原氏の菩提寺とされている寺で地名と口伝以外はまったく情報の無かった寺だった
1994年におこなわれた調査の結果
「千光寺」と刻印された瓦がみつかり、五輪塔や埋甕をもった多くの墓がみつかり
鎌倉時代の墓の貴重な資料となっている
驚いたのは、そういった中世前半の稀な墓遺構とともにみつかった陶磁器の種類
完形の青磁袴腰香炉は鎌倉の円覚寺と同じ物
青白磁脚付小壺もきわめて稀
古瀬戸の手付水注も古瀬戸前期だろうが、長野の調査で大昔に見た以来
さらに東播の甕と鉢と古瀬戸の手付水注がセットでみつかっている
極めつけは6号墓の常滑窯甕
なんと、口縁部上面に浅い沈線がめぐるという12世紀の古い時期のもの
こんな古い時期の常滑甕の、しかもほぼ完形に復原されたものは大阪では見た記憶が無い

もっともっと見て歩かないといけないと実感しながら
今日も今出川へ向かう

2007年7月22日 (日)

葛飾区郷土と天文の博物館と鬼塚遺跡と

Sn380036 京都市には東京に京都の観光案内などをサービスする京都館という事務所がある
20日は、そこと楽々キャンパスの提携による特別講座で祇園祭と花の御所と金閣寺と六波羅の話をする
会場は浜松町から海側へ出たすぐのところ
浜松町と言えば芝公園の古墳と増上寺へ行くときに降りるところだが、海側は初めて
改札を出たコンコースから広い恩賜芝公園が見下ろせる
こんなところに広く立派な公園があったのは知らなかった
という話を枕にもってこようと思っていたが
昨日読み返していた『増鏡』の中のあるエピソードも加えていたら
用意していた画像が紹介できないまま
話題が多すぎて枕無しでも時間をオーバーしてしまった
9月は西園寺つながりで大覚寺と亀山殿である

終了後、新宿で待ち合わせをしていた、寒梅館の調査事務所時代の卒業生たちと会う
一人はT大の院生になって鹿を追いかけ、一人はメディアクリエイターへの激しい戦いの日々をすごし、一人はイベントクリエイターのサポートに生き甲斐を感じているという
先週も同じように頑張っている卒業生と会ったが、皆、それぞれの苦労と悩みを抱えながら、好きな道を良い顔をして歩いている
週末の新宿のいたって普通の居酒屋で、たくさんのサラリーマンに囲まれて鰯の握りをつまみながらそんなことを言ったら、すかさず
「先生が一番好きなことをしているじゃないですか」と、これまた良い笑顔で突っ込まれた

まずはしっかりとした芯をもつことが大切で重要だが
さらに広い視野とたくさんの引き出しをもつことが社会では当たり前に求められる
調査事務所にかかわった学生君たちは、神学部から工学部まで全ての学部にわたっていた
そんな学部や専門の枠を超えバラエティーに富んだ彼らの卒業後のつながりは、20代後半から30代前半に必ず大きな力になってくる
彼らのがんばりは、文情の学生君たちへも良いメッセージになると思う
いずれ、そんな出会いの機会もつくろうか

日暮里から京成でお花茶屋に着く
葛飾区である
東京の西半分から南北の一帯は、これまでも何度となく訪れる機会があったので少しは地理感があるつもりだが
東半分については、実は未だによくわかっていない
大昔に平国香と平将門の地をめぐったことはある
大宮から春日部を経由して江戸川と利根川の合流点にある関宿の資料館へ行き
古河の博物館へ行き、小山・水戸・土浦・鹿島・香取を歩いた記憶がある
土浦へ別の機会だったかもしれない
今から思えば手賀沼へ行っておかなければいけなかった


肝心の東京に近いその東半分はあまり行く機会がなく
大きな盲点になっていた
ただし、学部か大学院時代に、森先生がさかんに葛西城のことは言っており
東京にも中世の遺跡があるんだという記憶はあった
そして葛飾区郷土と天文の博物館が積極的に東京の中世を扱っていることはもちろん知っていた
そんなこんなで少しずつでも東京の東を見て回ろうと思いつつ
浅草寺を見たのは数年前
帝釈天と矢切の渡しを見たのは確か去年
ようやくお花茶屋の駅に降り立った

あっけないほどにおだやかでなごやかな雰囲気で
確かに武蔵とは違った東京低地の風景がひろがる
駅前の商店街の一角には日本で一番おいしい自慢のお弁当が並び
駄菓子屋の店先では自転車にまたがった「ジャリンコチエ」が
カップに入ったシャーベットをつつく
ここも東京かと、思わず赤坂の風景とのギャップにとまどう
博物館は、駅前商店街が切れたとこから道を渡ってすぐのところにある
外見は小さく見えるが中はとても充実して広い良い博物館である
東京低地を主題においているだけあって
水塚など川と流通を主人公にした展示がとてもよくできている
古代では東海系の土器がみられ(それにしても古墳時代の東海系土器はどこにでも行く)
中世では葛西城と鬼塚遺跡で多彩な陶磁器が出土している
葛西城は知っているつもりだっが、鬼塚遺跡はすごい
石鍋もあるし、備前のすり鉢は15世紀のものがあって
13世紀後半から14世紀の魚住と東海のすり鉢
伊勢型の鍋も出ている
まさかここで魚住や15世紀代の備前に出会えるとは思わなかった
確かにこの場所が鎌倉時代後半にさかのぼって東京湾最奥部の重要な流通拠点としてその存在を主張していたことがわかる

かつて利根川がこの地へ流れ込み、あの浅草寺が隅田川の脇にあるように、葛飾区は板東武士の拠点である武蔵の各地へ、河川交通で物資を運び込むための正面玄関だった
葛西城が重視されるのは、しごく当たり前のこと
そのことがとてもよくわかる博物館だった
一遍にみちびかれて
善光寺に続いて注目したい場所はここににしようと思った

昨日充電を忘れたが、新幹線のコンセント座席を選んで良かった
まもなく京都
16時から四条のJ堂で森先生の新刊「京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻」の
出版記念イベントが始まる

本日のポイント
・新宿はとても国際色豊かな街だった
・週末の新宿では人が多すぎて携帯がつながりにくい

高橋慎一朗2007「鎌倉時代の鐘銘と『鎌倉遺文』」『鎌倉遺文研究』19
五味文彦2007「宇治の平等院を歩く」『UP』417
霧島市教育委員会2007『平家物語の世界を訪ねて』
安中市教育委員会2007『清水Ⅱ・Ⅴ・Ⅵ遺跡』
「都市平泉」CG復元論集制作会2007『「都市平泉」CG復元論集』
中井淳史2007書評「鈴木康之著『中世集落における消費活動の研究』」
鈴木弘太2007「中世鎌倉における「浜地」と「町屋」」『考古論叢 神奈河』15
鈴木弘太2007「中世都市鎌倉における「町屋」」『東北亜文化研究』12
中澤克昭2007「日本中世狩猟文化史論序説」『狩猟と供犠の文化誌』森話社
柳川英司2006「中世における食器の使用について」『考古論文集』尖石縄文考古館開館5周年記念
茅野市教育委員会2006『荒玉社周辺遺跡』
葛飾区郷土と天文の博物館『下町・中世再発見
葛飾区郷土と天文の博物館『東京低地の中世を考える
北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室2007『北九州市蜑住稲国遺跡』
北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室2007『小倉城三の丸跡第3地点』
北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室2007『大門遺跡第3地点』

2007年7月19日 (木)

男山逍遙

京都の中世都市化を考えるときに、最も大きなポイントとなる石清水八幡宮
鎌倉の鶴岡八幡宮を代表に全国にその名を知られた八幡信仰の要であるが
京阪電車の八幡市駅からすぐの男山山頂に鎮座するその詳細は意外にもあまり知られていない
頓宮をすぎ、二の鳥居を越えてメインストリートである大坂道
最初はなだらかだが、岩盤をかけ落ちる瀧のような沢を越え、下馬碑を見下ろすあたりから勾配がきつくなり道は斜面に沿ってつづらおりとなる
2回ほど角を曲がると少し広い平坦面に出て、ここから右を登れば中谷、まっすぐ登れば東谷
あの松花堂はちょうどこの交差点を見下ろす尾根の上にたつ
東谷の道を選び右手をみると延々と石垣が連なる
聞けばこの上にそれぞれ坊跡と思われる平坦面があると言う
とはいえ、石垣を子細にみれば、明らかに数度の修復や作り替えや増築の痕跡が見え
これらの全てが同時に存在したものでないことがみてとれる
おそらく印象では秀頼時代の石垣整備が最初ではないだろうか
ただし、石垣が築かれる前にさかのぼる坊跡ももちろんあったであろうから
石垣の新しい場所であっても、中世にさかのぼる時期の坊舎があった可能性は十分ある
さらに東谷を登り、三の鳥居の近くにまでくると、平坦面は道の右手だけではなく、左手にあたる丘陵南斜面にもみられる
本殿に詣でてから中谷を目指して石清水社にむかう
ここが石清水の名の由来となった湧水地点という
井戸を中心にその両脇にも平坦面があり
なるほど古い景観が残っている
急な石段を降りれば東谷との交差点の広場である
松花堂とその平坦面の調査はおこなわれているが
それ以外の多くの平坦面の調査はまだ手つかずのまま
平安時代に遡り、歴代の天皇が参詣し、あの白河が経蔵をつくり
源氏によって鎌倉を代表する神社となった八幡宮
東高野街道の起源も調べ直さないといけない
その繁栄の物語を甦らせる作業はこれからだ

2007年7月18日 (水)

7キロ歩く

文化情報学部の文化担当のスタッフの一員として
祇園祭のいずれかには毎年触れておかなければと思い
長刀鉾の巡行帰りを四条新町で待つ
ここで巡行を見るのはほとんどが地元の人間だと思っていたら
隣のサラリーマン達はなんの人波かわからないままにその登場を待っていたようで
出張で得た意外な幸運に驚いていた
http://scoophand.cocolog-nifty.com/gion2007.mp4
長刀鉾について、すっかり人波がひいた四条を東へ向かい
東洞院でその終わりのお囃子を聴く
いつも思うのだが、京都のお祭りはあれだけ有名なものにもかかわらず
とても日常生活になじんでいて、ときにはなにか不思議な物足りなささえ感じる
長刀鉾のお囃子が消えていく脇を、ふつうに市バスが通り抜け
午前中の喧噪が幻だったかのように四条通りはいつもの顔に戻る
けれども麩屋町の角には八坂の竹柱が残っており
脇道に入れば、商店の人たちが今年の巡行の人出を立ち話する
日常の中に溶け込んだ祭りの姿がまさに京都の文化なのだろうか

村の祭りは晴れの場と時間で
その終わりには名残惜しさが糸をひく
田舎から出てきて四半世紀を過ぎるが、未だにこのギャップが
京の祭りを新鮮なものに感じさせてくれる

高島屋を南へ折れて最初の押しボタン式の横断歩道を渡って東へ
おしゃれな和食レストランのならぶ路地をぬけて高瀬川から団栗橋へでる
水面を見下ろすと釣り人が数人
鴨川で釣りとは風流なと思いながら大和大路へ
20日に東京で話をするが
その話の中で確かめたいことがあって六波羅へ
建仁寺から珍皇寺を経て三盛町から池殿町へ
ザックの肩に揺れるGPSを感じながら
やはりそうだろうと納得しながら

「本で得た知識を、目で見て確かめ、歩いて納得する」

約束の時間が迫ってきて少し残してしまったが
後でGPSのログを見ていたら7キロ歩いていたようだ

森先生も、京都は見直せば見直すほど面白いと言っていたが
見直したいと思った時に
歩いて確かめに行ける距離にいることにあらためて感謝
来年はできたら四半世紀ぶりに還幸祭に行ってみたいが

2007年7月16日 (月)

古墳を測る、山城を測る

台風が過ぎ去った15日の午後
Dsc01109 京田辺キャンパスの下司1号墳で墳丘の測量実習をおこないました
方法はふたつ

ひとつは従来から行われているレベルと平板を使った墳丘測量法
もちろん、自然地形と人工地形の違いに注意した遺構測量

もうひとつはトータルステーションにより複数の点を測量して
そのデータを「R」で等高線生成するもの
後者の場合、その等高線は、金先生によれば線形補完されたものから生成されたものという
ところが、古墳は自然地形と違うので、不自然な形状がいたるところにある
そんな対象に対して、線形補完で等高線を生成するのが妥当かどうか

そこで
(1)墳丘に対してメッシュを張った形を意識して測点を配するもの
(2)墳形が単純な円墳の場合なら、墳頂から等高線と直交するかたちで測点を配するもの
(3)墳丘形状の細部を意識して、形状の変化地点を基準に測点を配置するもの
の方法を考え、そのうち(2)と(3)について実習をおこないました

予想では、こういった方法以外に
形状の変更点を測点の前提にしながら、その測点によって線形補完で生成されるデータを点も予測して、測点を選ぶと、最も忠実な形状記録になるのではと思うのですが

こういった測量法の経験者はよく知っているように、忠実な墳丘測量をめざせばめざすほど
実作業量は、従来型の平板測量とあまり差の無いものになってしまい兼ねず
自然地形の測量はともかく、遺構の形状測量には、まだまだ克服しなければならない問題を多く含んでいるものと思います

ただし、周知のように、デジタル化したデータの汎用性はアナログデータに対して比べようもないほどに大きく、その可能性はやはり注目されるものです

リアルタイム性については、ブルーツースなどで常に出力してRで再計算をさせ続ければ、それほど困難なものではないと思いますが

山城調査でも期待されているこの方法
はてさて今後の展開はいかに

2007年7月15日 (日)

静岡地域講座

台風が九州に上陸しようとしている山鉾巡行の3日前
三連休の初日にビジネスで新幹線の改札を通るのは
逆に迷惑かもしれないと思いながら新幹線のコンコースに入る
コンチキチンの音楽は流れているもののあまり旅行者は多くない
博多からののぞみはやはり20分程度の遅れがあるというが
今回は行き先が静岡なので、新大阪発のひかりは定刻通りに京都駅を出る

校友課の企画による大学の地域講座が静岡市でひらかれる
静岡は、伊豆の韮山へは何度か行っているが
静岡市は2度目だと思う
ただし中世の静岡は、一の谷墳墓群や元島遺跡や菊川の遺跡群など
注目すべき遺跡が多くある
もちろんあの有名な登呂遺跡も静岡

今回は京都の中世の話が中心になるが
森先生の教えにしたがって地元の遺跡の話もと思い
台風の関係で1本早めた時間をつかって駿府城と浅間神社脇の文化財資料館へ行き
ケイセイ遺跡の墳砂のはぎ取り断面をメモする
以前から気になっていたのだが駿府城の平面形はとても不思議な形をしており
Dsc01107 本丸・二の丸と三の丸は軸が違い、その周りにひろがる平野の地割りも異なった軸をもっている
それがなんなのかずっと気になっていたが
しっかり調べないままに今日まで来た
そんな中、静岡を訪れたので、せめて本物だけでも見ようと
雨の中駿府城まで歩いたという話を枕に
足で稼いだ京都の町の歴史を語る

室町殿と持明院御所の話をして
さて、しかし京都の鎌倉時代の風景はこれだけではないと
平安京と貴族文化を源流とする風景とは違った風景がこの時代に登場すると
それは言うまでもなく六波羅
三盛町は泉殿で清盛、池殿町は頼盛、小松町か小松谷は重盛と
平家全盛期の拠点がよみがえる
そんな六波羅の特徴がなにかと言えば起伏のある地形
体で感じることのできる京の鎌倉である
言うまでもなく関東武士の拠点に共通する谷戸の風景であろう

先週山梨で歴博の小野さんとも話をしたが、静岡で言えば、菊川市の横地遺跡群の風景がこれに通じると思う
場所は東を大井川、西を磐田にはさまれた遠州灘からやや奥へ入ったところ
伝説によれば、八幡太郎義家につながる名族の横地氏は
15世紀後半に今川氏に滅ぼされるまで、ここを拠点に活躍したという
その背景には海上交通の難所である遠州灘と陸上交通の難所である菊川上流をおさえたネットワークの支配者の姿があったのだろうか
京都の鎌倉時代は人の姿も都市の姿もコラボレーションそのものだったと言える

そんなことを物語りながら、余談で浅間神社の賤機山古墳の話もしながら、多くのOB・OGと懇談をして帰りの新幹線に乗る
途中で懐かしい人にも会えた
雨は強く災害が心配だが、ダイヤの乱れは今のところ無い

2007年7月12日 (木)

うかつにも

Tさんと来週の予定の話をしていたら
その日が巡行の日だということに同時に気がついて
そういえば今年もちゃんと7月になって祇園さんが始まっていたことに
遅まきながら気がついて一瞬間が開いてしまった

京都以外では麻疹騒動で大変な今年の春学期だったが
文化情報学部の1期生がいよいよ専門に向かい始めた
今年の春学期もまもなく区切りがつこうとしている

数年前まで共通選択科目でおこなっていた考古学から
文化情報学部の視点にたって
一歩踏み込んだ遺跡の見方をベースにした授業をおこなってきたが
授業後に求めているメールの中に
「とくに地理情報とマクロ的視点をもつことの重要性を認識できたと思う」
「古墳時代が頭に入りました」
「この夏休みはいろいろな古墳を訪れてみようと思います」
「この講義を受けることで自分の価値観、考えが変わりました」
というフレーズを見て
最も伝えたかったことが伝わったと思った

膨大で多彩なデータをニュートラルな立場で総合化して
さらにそれを合理的に解釈してわかりやすく語る
歴史研究だけにとどまらない学びの姿が
そこにはあると思う

2007年7月 8日 (日)

春鶯囀あるいは笛吹川で京都に浸るの巻

毎年この時期は山梨にある帝京大学文化財研究所で考古学と中世史の研究会がおこなわれている
その業績は大きく、この分野の研究を推進する大きな原動力のひとつとなっている
ただし西日本からの場合、交通の具合が中央線か身延線経由となるため
少々時間がかかりあまり行く機会は多い方でない
今年は宴会をテーマにしたシンポジウムであるが
中世京都では、かわらけ(土師器皿)を考える際に避けて通りことができない話題でもあり
昨年にひき続いて笛吹川へ

春学期が終了間際で学生さんたちがまだ動き出していないため
新幹線も中央線もそれほど多くの人はいない
8時6分の新幹線に乗って以後
乗り換えの時間以外はR6で来週の静岡での講座資料をつくり続け
12時をまわってまもなく甲府に着くが
バッテリー表示はまだ2時間の使用を可としている
さすがのレッツノート

塩尻はおだやかな薄曇りの日差しのもと
ラベンダーのきれいな紫が線路の向こうにひろがっていた
日帰りハイキングの一団が賑やかに1本前の各駅停車で東へ向かう
こんな当たり前の風景に気づかされ嬉しくなる

今年のテーマは「宴の中世」
というわけだからではないと思うが懇親会はこの数年で一番の盛り上がり
去年の鎌倉以来のたくさんの人にも、それ以前に遡って久しぶりの人たちにも会って、昔と今の関心を交錯させて盛り上がり
ただし今回はK大院生のMさんも一緒なので
いつも以上に注目を集めてしまったかも
もちろんシンポジウムの内容も大盛り上がり
そして例によって議論は結局日付が変わるまで

2日間共に興味深い報告が続く中
話題の大きな中心は、京都を意識したかわらけの意味と足利将軍御成の記録
卒論で京都の土師器皿の編年と式三献の関係をあつかい
現在は寒梅館の発掘調査の関係で室町殿ととても近い関係にある身にとって
「現地の様子はどうなっているんだ」と四方八方からせめられているような
自意識過剰な気分になって内心オロオロドキドキ状態

羽柴さんの報告を聞いていてあらためて思ったのは
すでに以前に書いているが、東日本で注目されている京都的なかわらけの大量一括廃棄が、実は京都では同時代現象としてはあまり見つかっていないこと
もう一度調べ直さないといけないが
以前の記録ではそういった出土状況がみつかるのは14世紀代が一番多かったと思う
だから昔からこのことを聞きまた目にする度に、平泉や鎌倉や御所ノ内では具体的などんな風景が繰り広げられていたのだろうかとずっと思っていた

平泉や鎌倉の時代と言えば
京都では院政期もその最盛期を過ぎた平安時代末期
その頃の中心地は後白河の法住寺街区か
宇治なら忠実の晩年から頼長または忠通の時期で
少し新しくなれば七条町の時代にあたる
そういった出土状況が無いわけではないだろうが
気づかないか目立たないだけだろうか
少なくとも七条町では見ないし、同時期の八条院でも気づかない
一方これらの時代に近くてそういった儀礼を確実におこなっていて最も情報量の多いのが鳥羽だが
ここではそれこそ瓦ばかりが出る状況
あれだけ調査面積の多い金剛心院でも同様

そうなると、平泉や鎌倉や北条の御所ノ内遺跡の状況というものは
きっかけかあるいは手本は京都の儀礼だったかもしれないが
(ちなみにすでに公表しているように、その背景に白山日吉神人の存在を考えているのが持論のひとつ)
それは実はきっかけか手本であって、平泉や鎌倉や御所ノ内の状況は
そのきっかけか手本を、きわめて東国的な文化の中で著しく増幅した姿だったのではないだろうか
とも思ってしまう
ただしこの問題は、すでに書いているように、それが12世紀を起源とするものではなく10世紀後半を起源とする可能性があり、その場合はもう少し考え方を整理する必要がある
いずれにしても平泉や鎌倉や御所ノ内の状況が京都のどこでどのように見つかっているかの検証を、こちらの仕事として真剣にしなければならないと痛感

もうひとつは桜井さんの報告にあった「助成」
これまで何度も言ってきたが
寒梅館地点でみつかったのは義晴の代の遺構と遺物
不思議なくらいに義満・義政・義教の代の遺構も遺物も見つからなかった
(厳密に言えばそのいずれかの時代に伴う石組み水路遺構は見つかっている)
その理由は室町殿の数奇な運命から説明してきたが
簡単に言えば、邸宅の移転にともなって、その度にきれいに引っ越しをしたのだろうということ

よって、実際の室町殿跡では足利将軍家がおこなっただろう宴会の痕跡も見つかっていないのだが
桜井さんの話にあった「助成」とは
宴会に必要な室礼や備品が、当時から流動的な
いわば会場準備的な状態だったということなので
遺構や遺物からその痕跡を探すことがきわめて難しいということは
やはりけっして不思議ではなく、当たり前のことだということになる
遺跡で見つかるもののほとんどは本来の役割を終えた状態のもので
それらが本来機能していた時の状態がわかりにくいことが多いのだが
その意味を考える際にとても参考になる事例ではないだろうか

そうは言っても室町殿の故地をキャンパスにもつ大学の関係者として
それだけではすまされない責任感も感じるので
そのことも含めて今回のシンポジウムは
京都で中世史に関わる者全体に大きな問題提起を与えてくれたものと思う
文化情報の学生君たちもどんどん参加するようになってほしい
今回もまた多くの仲間に感謝をしつつ
ただし学生君たちの前ではあまり昔話をしないように願いながら
日々是勉強

甲府駅前の「小作」で「ちゃんぽんほうとう」を食べ
例によって身延線に乗る
まもなく富士宮
そういえば次の土曜日もまた静岡から新幹線に乗る予定だったと
横地遺跡群の資料に目を通しながら頭を抱える

2007年7月 5日 (木)

文化情報学部で遺跡調査法の授業をやっています

文化情報学部の1期生もついに今年から3回生
1・2回生時代の基礎的な授業の段階を終え
いよいよ専門の授業がはじまります
鋤柄の担当では、やはり考古学と歴史を見る目をしっかり学んでもらうために
春学期に実験・演習3Bの中で考古学の専門的な実習と演習をおこなっています

テーマは、歴史文化情報の核である遺跡をどのように情報化して総合化して歴史叙述につなげるか
最初はやはり安全講習
「ヒヤリハット」に代表されるような、現場に不可欠な危機管理をしっかり講義
そしていよいよ現場へ
とは言っても実際の発掘調査はすぐには難しいので踏査の体験的学習
この先のスケジュールは
踏査の体験的学習をGPSとMANDARAでデータベース化

一方遺物情報取得では
まずは鉛筆をカッターで削ることから始めるアナログ実測
それに加えてレーザー測定器による3次元測量
そして蛍光X線分析器による胎土分析と土色計による色調記録
写真撮影は、まずはアナログの中型と35ミリの一眼レフから
次いでジナーの箱に1億8千万画素のCCDをつけた高精細スキャナも

次に遺構情報取得では
京田辺キャンパスの下司2号墳を
まずはやっぱりアナログ平板測量で
7月1日の薄曇りの中
最初はエスロンテープを使って草をかき分け汗いっぱい
次にはエスロンテープをレーザーの測量器に代えてスッキリと
確かに技術力は作業の省力化に貢献すると実感
けれどもわかってもらいたいのはもちろん単なる省力化ではない
遺跡の測量とは自然地形の測量とは全く違うもの
機械を使って簡単に測れれば良いものではない
かつての誰かかが意図的に変えた地形を正確に(良い意味で抜け目なく)読み取って
それをその時の社会の仕組みの説明に還元すること
これが遺跡を見る眼の重要なトレーニング

機器を使うと言うことは
その眼に費やす時間と力を多く配分するということ
その意味で機械を使うと言うことは
けっして楽になるわけではなく
もしかしたら逆にこれまでよりしんどくなることかもしれない
できあがった古墳のコンター図はイラストレータでトレースして
下司古墳群の報告書に載っているコンター図にかぶせて検討

再来週はトータルステーションで座標と高さをとって
Rで等高線を生成してみる予定

2007年7月 3日 (火)

最強のツール

今回は、文化情報学の金明哲先生に教わって、Rで等高線を描くことにします
これは、数量化された鳥羽離宮跡の遺跡情報をイメージ化して
それが物語る意味を考えるためです

R version 2.4.1 (2006-12-18)

まずは金明哲先生のホームページを参考にして
Rをインストールします
さらにここではとくに「akima」というパッケージをインストールします

まずはakimaを立ち上げます
> library(akima)

次にデータを準備します
データは、鳥羽離宮跡の調査地点データを使います
形式はcsvでファイル名は仮にtoba.csv
x y z
135.749601 34.954014 20
135.743866 34.949302 12
135.743884 34.948473 9
135.743719 34.948134 3
135.743412 34.948069 23
135.753577 34.953331 3

あとは次の様に
まずCドライブのtempフォルダに入れたtoba.csvをRに読み込んで「toba」という名称を付けます
> toba<-read.csv("c:/temp/toba.csv",header=T)
このデータは整ったメッシュ構造になっていないので、次にinterpという補間関数を使って線形補間で等高線のかけるメッシュ構造にします
> interp(toba$x,toba$y,toba$z)
生成されたデータをtoba.liという名称で保存します
> toba.li<-interp(toba$x,toba$y,toba$z)
ここからさまざまに加工表示します
まずは暖色系の濃さを変えたもの
> image(toba.li)
それに調査地点の場所を入れます
> points(toba)
さらにそれに等高線を入れます
> contour(toba.li,add=T)

表示された図の左上が京都南インターチェンジで
右上が近鉄の竹田駅です
ピットの定量分布をみれば、南殿に大きなピークがあり
東殿にはいくつかのピークがあります
またそれぞれ不規則な形で、その裾野の広がりが見えます
もちろん遺跡情報の動向には自然のものとは違って正規分布のような考え方は通用しません
Photo_74 けれどもこれらのイメージには、未調査地点のがどうであったのか知るなんらかのヒントが含まれている可能性があります
それを知るためには、さらに、ほかの種類の遺跡情報や遺物情報を重ねることが必要です
それらを総合することで、未調査部分を含めた鳥羽殿の構造を復原することが可能になるでしょう

金先生ありがとうございました

2007年7月 2日 (月)

コラボが2つ-寒梅研究会(松本さんの巻)-

工学部の金田先生のチームとは以前から上京区のイベント関係で共同研究をおこなっており、金曜日はその会議が今出川で
今日はこの4月からはじまった府立大学の菱田先生との共同の勉強会
場所は寒梅館
本日は京大院の松本さんの報告
テーマは鎌倉遺文にみる土地売券を材料にした、中世前期の左京の構造へのアプローチ
鎌倉遺文のページをめくり、左京域に該当する売券の史料をひたすらデータベース化したという
卒論の時に、図書館に籠もって「群書類聚」と「続群書類聚」と「続々群書類聚」のページをひたすらめくって、「土器」や「かわらけ」の文字を探したことを思い出す
京都の土師器皿(かわらけ)の編年の背景を考察するためだった
あの成果を超える調査は未だに無い
どんなに精巧な分析をしても、元のデータに執着心が無いと
その成果は意味のあるものにならない
松本さんの苦労の成果は、新しい議論をたくさん生んだ
あらためて言うまでもないが
データの収集とそのビジュアル化はとても重要な研究基盤である

その意味で同じ重要性をもった報告を谷口君が続ける
前回の報告を発展させるため
岡山平野の古代・中世的景観をとらえるための海岸線の復原を
イドリシでおこなう
もちろんこのデータだけでその課題を解決できるものではないが
画面を見ながら話題がひろがり、その先になされるべき議論が見えてきた

詳細はこちらを
http://kambai.blog103.fc2.com/

菱田さんの提案によって、秋学期はこのグループでもうひとつ別のプロジェクトが立ち上がることにもなった
とても刺激的で元気をたくさんもらった時間だった

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