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2007年7月19日 (木)

男山逍遙

京都の中世都市化を考えるときに、最も大きなポイントとなる石清水八幡宮
鎌倉の鶴岡八幡宮を代表に全国にその名を知られた八幡信仰の要であるが
京阪電車の八幡市駅からすぐの男山山頂に鎮座するその詳細は意外にもあまり知られていない
頓宮をすぎ、二の鳥居を越えてメインストリートである大坂道
最初はなだらかだが、岩盤をかけ落ちる瀧のような沢を越え、下馬碑を見下ろすあたりから勾配がきつくなり道は斜面に沿ってつづらおりとなる
2回ほど角を曲がると少し広い平坦面に出て、ここから右を登れば中谷、まっすぐ登れば東谷
あの松花堂はちょうどこの交差点を見下ろす尾根の上にたつ
東谷の道を選び右手をみると延々と石垣が連なる
聞けばこの上にそれぞれ坊跡と思われる平坦面があると言う
とはいえ、石垣を子細にみれば、明らかに数度の修復や作り替えや増築の痕跡が見え
これらの全てが同時に存在したものでないことがみてとれる
おそらく印象では秀頼時代の石垣整備が最初ではないだろうか
ただし、石垣が築かれる前にさかのぼる坊跡ももちろんあったであろうから
石垣の新しい場所であっても、中世にさかのぼる時期の坊舎があった可能性は十分ある
さらに東谷を登り、三の鳥居の近くにまでくると、平坦面は道の右手だけではなく、左手にあたる丘陵南斜面にもみられる
本殿に詣でてから中谷を目指して石清水社にむかう
ここが石清水の名の由来となった湧水地点という
井戸を中心にその両脇にも平坦面があり
なるほど古い景観が残っている
急な石段を降りれば東谷との交差点の広場である
松花堂とその平坦面の調査はおこなわれているが
それ以外の多くの平坦面の調査はまだ手つかずのまま
平安時代に遡り、歴代の天皇が参詣し、あの白河が経蔵をつくり
源氏によって鎌倉を代表する神社となった八幡宮
東高野街道の起源も調べ直さないといけない
その繁栄の物語を甦らせる作業はこれからだ

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