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2007年7月29日 (日)

善光寺平の古代を考える2

 1978年に森浩一先生と金達寿さん、それに信越放送の飯島一彦さんと県史編纂委員の桐原健さんでおこなわれた「古代信濃と朝鮮ををめぐって」という座談会の記録が『日本のなかの朝鮮文化』の第39号に収録されている。
今からおよそ30年前になるが、この数年関わってきた善光寺の古代と中世をめぐる諸問題は、すでにこの時に最も体系的かつ本質的に議論されている。ゆえ、新たな資料が提示された今、この時の議論がどうだったかをもう一度学び検討を加えることは、とても重要ではないかと思う。
本文を元にして論点を整理してみたい

1、おもに善光寺創建の背景について
(1)積石塚
 ①積石塚と古墳
 積石塚が一番多いのは千曲川東岸の高井郡で、大室古墳群から始まって北の端は木島平まで。
 築造年代は大部分が7世紀だが、須坂の八丁の鎧塚1号墳は碧玉の石釧と水字貝製の貝釧と国産の方格規矩鏡を出土して5世紀前半。同じく天神1号墳は上円下方墳でやはり5世紀前半に遡る。 鎧塚1号墳の副葬品は畿内的な特徴をもっているが積石塚であることに意味がある。
 鎧塚2号墳は6世紀前半で獅子噛み文様の帯金具がでていて、百済系とも言われている。
(これについては
 積石塚の内部構造は大部分が横穴式石室だが合掌形のものもあって、大陸の墓制の影響と理解できる。
 高井郡以外の積石塚は3つ。1つは松本平の「薄町」で、延暦18年に「卦婁真老」(卦婁は高句麗桓仁王朝期の古氏族)と称した「須々岐」姓と関係。2つめは浅間温泉の桜ヶ丘古墳で5世紀後半。積石ではないが金銅の冠が出て「辛犬甘」氏との関係。3つめは坂井村の「安坂」で、延暦16年に「安坂」姓を名乗った「外従八位前部綱麻呂」の本拠。
 松代町の竹原笹塚古墳は横穴式石室の内天井が合掌造りで6世紀末から7世紀初め
 ほかに松代町の東谷に3基の古墳があって、雲珠(うず)や馬具が出土している
 川柳将軍塚は「篠井」に関係する4世紀後半から末にかけての古墳
(2)馬
 ①馬具
 長野県で馬具を出土した古墳は146基だが、最も多いのは下伊那地区の70基で年代は6世紀。
 内容は金銅貼りのきらびやかな馬具。飯田市座光寺の畦地1号墳(直径20mほどの円墳)からは、新羅の慶州とよく似た銀製長鎖式垂飾付耳飾がみつかっている。
 (これらの特徴は畿内的とも言える)
 ②牧
 信濃の古牧は望月牧など16牧で、高井郡には大室・高井・笠原。ただし8世紀の記録。
 その景観構成は、扇状地上に繋飼場所やその上に放牧場、沖積地上に飼料や塩との交換の場、生活のための水田があったきわめて広域なもの。
 ③牧成立の背景 
 大室牧→大室の積石塚、高井牧→須坂の臥竜山の積石塚、山ノ内町夜間瀬にも積石塚で対応
 水内郡には浅川扇状地に「吉田の牧」があり、吉田桐原に桐原牧神社がおかれる
 松本の埴原の牧には16の牧を管理した牧監庁(国司と同等の関係)がおかれ、現在その跡が残る。 近くの中山丘陵には古墳後期の群集墳と西側に田川が流れる。延暦8年に「田川」造が定着した場所。
 ただし牧は8世紀で積石塚は7世紀でその間をどうつなぐか。(7世紀に牧が無かった証拠にはならないので)8世紀の記録がつくられる以前にあった牧と古墳の関係は否定できない。(記録としての牧は8世紀だが、実態としての牧は7世紀以前からあった)
 更埴市の五輪堂遺跡から6世紀の馬を埋めた穴がみつかった。その様子は鮮卑や新羅に似ている。近くにあるのが須々岐水神社(卦婁真老)で須々岐氏の本拠は松本の薄町かここか。→高句麗系渡来集団との関係か
 ④信濃の牧と畿内の牧
 日本列島で馬が大量に必要になったのは5世紀で、大和川や淀川の河原に多くみられる(四条畷の蔀屋北遺跡などで5世紀中頃から後半の馬の骨や歯がみつかり、大量の製塩土器も出土した。また渡来系の人々がそれを飼育したとも考えられている) 
 6世紀に馬の需要が増え、同時に渡来系の人たちが各地に居住する。同時に信濃が政治的にも経済的にも重視される。
(3)渡来系の人々
 ①百済と高句麗の記録
 天智4年に四〇〇余人を神埼郡におく、天智8年に七〇〇余人を蒲生郡におく
 天智5年(7世紀後半)百済の男女二千余人を東国に移す
 百済滅亡後に渡来した百済王家直系の百済王敬福(698~766)は、738年に陸奥介として初見、陸奥守のときに金を発見して大仏鋳造のために献上(749)。その曾祖父が百済王善光。
 延暦8年(789)後部牛養・宗守豊人に「田河」姓を
 延暦16年(797)(高句麗系)前部綱麻呂に「安坂」の姓を
 延暦18年(799)「信濃国人外従六位下卦婁真老等11人、請いて「須々岐」等の姓を賜はる」「我々は高麗人で、推古・舒明天皇の時(7世紀はじめ)に渡来した」→直接渡来した。日本海沿岸は直行文化地域で信濃もその範囲(「直接渡来」「直行文化地域」は今回みつかった湖東式瓦と共通するキーワードか)
 ほかに「豊岡」・「玉井」・「篠井」・「篠岡」など11の姓をもらう
→「篠井」は更級郡、「村上」は埴科郡、「玉井」と「朝冶」は小県郡、旧更級郡の麻績に「安坂」の将軍塚
 「篠井」は現在の篠井東の千曲川左岸の自然堤防上で弥生の遺跡、韓猫神社がある
 「新撰姓氏録」(815年成立)の山城国諸番に高井造「高井造、高麗国主雛牟王廿世孫汝安祁王よりでるなり」
 高句麗の積石塚は5世紀前半以前で、高井郡の積石塚のほとんどは7世紀半ばだが、高句麗の官職名をもった人々は、信濃の「更級」「埴科」「小県」「高井」に8世紀まで残っていた
 大室古墳群の風景は高句麗第二の都の輯安に似ている
 (高句麗を出自とする人々が8世紀の終わり頃まで存在しており、7世紀の高井郡の積石塚は、信濃に同化しつつも保持していた彼らのアイデンティティの主張か?)
 (それでは水内郡は?水内郡には高句麗の伝承は無いか)
 (高句麗系-積石塚の系譜-牧)ただし「牧」は高句麗のみではない
 ②長野という地名と百済
 弥生の前という本田善光の妻の像が立て膝して座っている。類似した木像が大本願にも本堂の奥にもあるという。
 土屋弼太郎さんの「近世信濃文化史」で紹介されている河内長野(地名で関係していると)の観心寺の秘仏が立て膝(河内長野と長野の関係は大和岩雄さんも指摘しているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_c3bf.html
 河内長野は錦織郡でほとんどが百済系の渡来集団。その中の一番古い寺が新堂廃寺。この寺は四天王寺と同じくらい古い瓦を出す。その南に錦部寺や蘇我氏と関係のある竜泉寺があって、観心寺はさらにその南。百済系の錦織氏が長野にも来ており、その中に河内と同じように初期仏教をもっていた人もいたのではないか。
 また錦織郡は古墳の少ないところで、善光寺の周辺に古墳が少ないことも問題ではないだろう。
 新堂廃寺は飛鳥時代しっかりした伽藍をもった寺院だが、日本書紀にも古事記にもみえない。それはあくまで政府との関係。畿内でも記録に登場しない寺院がある。
 ③その他の地名と新羅と高句麗と百済
 佐久市下塚原の駒形神社や浅科村八幡神社内の高良神社は高句麗系
 東筑摩郡波田町の上波多神社、善光寺平の冶田神社は新羅系渡来人の秦氏と
 白髪神社
 長野市方田の石塔は滋賀県石塔寺の石塔に似て、百済の石塔に似ているとも
 ④その他の要素 
 善光寺で儀式の後の仏具を焼く駒形神社の煙がいつも西へ吹き、それを駒送りという
 川柳将軍塚(6世紀前半)の裏山の聖川の谷間に信濃で最古の須恵器窯である松ノ山古窯がある
 上野国も重視したい 上野三碑は近畿にも無い中国的あるいは朝鮮的な碑文がある
 高崎の観音山古墳から見つかった銅製の水瓶は北魏と隋の間くらいの年代で、非常に珍しいものだが、本来の仏器ならば、『日本書紀』の記載と別に多くの人々の動きがあったわけで、とくに東国への仏器の渡来がどうのような状況だったか見直す必要がある。

2、善光寺創建について
 善光寺の創建の原動力に渡来系の人々が担っていたということは相当強調していいだろう。さらに天武・持統という時代との関係もあるので、渡来系氏族と大和朝廷の力が相乗効果があったのではないか。
 ただし善光寺と古墳との関係では、高井郡には高句麗系と思われる積石塚があるが、善光寺は水内郡ですぐにはつなげられない
 善光寺の創建についての大枠は塚田正朋さんの『長野県の歴史』が参考になる。
「おそらく7世紀に<略>百済系の人々によって善光寺平に移され、当初は邸宅内の仮堂におさめられていたが、次第に信仰をあつめ、奈良時代にはいる頃には瓦葺きの本堂がたつようになった」と
 本尊については、石田茂作さんが「飛鳥に残る善光寺如来の伝説と実態」『飛鳥随想』で紹介
 前立三尊は米山一政さんによれば古い百済の様式で、その特徴は脇侍の桔梗半戴形の宝冠だという。
 本尊は武田信玄が甲府へ運んだ後、信長が金華山の麓の岐阜善光寺へ移し、さらに信雄が清洲の甚目寺へ移し、家康が浜松の鴨江寺へ移し、さらに甲府へ戻した後、方広寺が地震で崩れたため、ご利益のあるものとして京都へ移され、秀吉が死ぬ二日前に現在の善光寺に帰ったという

 開祖については、百済王敬福の祖父の善光説、秦巨勢大夫がどこも経由せずに来ている話、若麻績東人が背負ってきた話(伊呂波字類抄)、若麻績真人本大善光が伊奈の郡の麻績の里を経由してくる話(善光寺縁起)などが言われている
 最初は新羅系、次が高句麗系 さらに百済系が関わったのではないか

 善光寺の瓦は大正時代に善光寺本堂の亀腹からみつかって、昭和では29年に仁王門の北側から東、河原崎町に通じる道路の50メートルの下水工事でみつかった
 川原寺式の白鳳の瓦で、善光寺の北に善光寺瓦を焼いた窯が3つあって、そこからは平安時代もある

3、善光寺の特徴
 伝承の形が、やはり百済仏を本尊とする浅草寺の縁起と非常に似ている
 善光寺と浅草寺に共通するのは、広い範囲で信仰をあつめること。浅草寺は東京湾の漁民との関係、善光寺と安曇との関係はどうだろうか。または視点を変えて、宇佐神宮や出雲大社に似た性格を考えたらどうか。
(この点については、善光寺の発展の背景にいた善光寺聖の存在、そしてその存在と神人や寄人の関係について考えているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3f39.html
(浅草寺といえば、葛飾の鬼塚遺跡は同時期の関東の中で非常に多彩な交流を示す資料をもっているhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fe39.html

 はじめにも書いたが、現在も議論されている多くの課題が、すでにこの時に提示され議論されていた。しかし、このように多彩な渡来系文化が交錯する古代の善光寺平を俯瞰し、まさに地理情報を軸にして、いつの時代にどこを出自とする人々がどこでなにをしていたのかを、ひとつずつ関係を調べてつながりを確かめていけば、絡み合った糸も解けるような気がする。
 新堂廃寺や浅草寺との共通点を念頭に置き、管江真澄の記録や朝鮮実録の記録もあわせながら、南宮遺跡に代表される集落遺跡の情報を取り込むことで、善光寺平をめぐる古代史は、善光寺の中世の風景までを含めた新しい局面に向かう可能性がある。そのために最も重要な要件は、7世紀の善光寺門前から犀川までの範囲をふくめた景観復原である。
 
 1978年と言えば森先生はちょうど50歳になる年である。ただし6月24日に長野県社会福祉センターで講演会がおこなわれ、25日には善光寺から大室古墳群から竹原笹塚古墳と方田の石塔をめぐる見学会がおこなわれているので、厳密に言えばまだ49歳である。座談会は長野市の信濃路ホテルでおこなわれ、金達寿さんと桐原健さんに加えて信越放送の飯島さんが全体の流れをリードされた。一方見学会の記録は共同通信文化部の藤野雅之さんが「古代の信濃文化」という題で同書に寄せられている。
 来年はその30年後にあたり、奇しくも善光寺関連の遺跡にかかわる人たちも増えてきている。善光寺門前と大本願地点の調査をふまえた今、再びこの問題に向かってみる時期に来ているように思う。

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