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2007年8月

2007年8月30日 (木)

VIVID910からアクロバット3Dへ-ひとつの試みから-

文化情報学部にはvivid910という3次元レーザースキャナがある
とても使いやすい優れた装置である
春学期の実習では
このマシンを使って、手書きの実測図とレーザーの実測図の比較の授業もおこなった
誰でも簡単に3次元データをつくることができる
考古学や仏教美術など立体資料をおもな研究対象とする分野では
今後必須のツールになっていくだろう

ただ問題は、生成されたデータの活用にまだひと工夫がいること
もちろんスキャンにはある程度ハイスペックなマシンが求められるが
生成されたデータの閲覧や加工にもやはりそれなりのスペックをもったマシンがいる

それほど高度な内容の求められない閲覧の場合でも
なかなかこのハードルを越えることは難しいのだが
去年あたりからAdobe Acrobat 3Dが発表され
3次元世界にも情報の共有化の波がひろがってきた様子がうかがわれる
VIVID910からは、dxfをはじめとするいくつかのタイプのデータ出力が可能となっているが
どんな具合になるだろうかといくつかのデータを試してみた

最もうまくいったのは、vrmlタイプのデータで
下記は兵馬俑の人形の頭部をスキャンしたデータを加工したもの
4メガ近くあって、アクロバットは最新のバージョンが必要で
しかもレッツノートR6の標準スペックでは、動きにだいぶ困難さがともなうhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/vrml02heibayo.pdf

ファイルサイズの大きなものは、まだ生成できていない
けれども
できるだけ多くの人に、手軽に資料を閲覧してもらえる環境への試みとしては
とても有効で可能性の高い動きである
そんなことを試行錯誤しながら
何事も一歩ずつの積み重ねだと
BKACK&DECKERのBDL210Sを片手に思う

2007年8月25日 (土)

Proceeding of Historical Maps and GIS

23日と24日、名古屋大学で歴史地理とGISの国際シンポジウムがおこなわれた
タイトルはProceeding of Historical Maps and GIS
名古屋は今日も快晴
都合により24日のみの参加であったが、さすがにコンテンツ重視の内容のあるものだった
大量で多彩な歴史情報をリアル資料がもっている物理的な制限を超えて総合化すること
そのベースにマップがおかれることは、全世界的な共通の認識になってきたようである
たとえばLandesgeschichtliches Informationssystem Hessenなど

しかもそれは特定の分野に限ったことでも無い
屋久島で2ヶ月鹿を追っているMくんのように
むしろ専門の垣根を越えるきっかけにもなってきている
もう10年近く前になるだろうか
ある雑誌の連載で予測したことが現実になってきた

ただしこの考え方は都市や遺跡や空間や場を考えた中世都市研究会のコンセプトにも遡るとても基本的なものでもあるが
これから学ぶ人たちは、いよいよそれぞれの専門性を高めて、さらに諸情報の総合化にむけて感受性を研ぎすませてほしい
名古屋大学の博物館を見学した後で、南山大学の人類学博物館に立ち寄る時間が無くなり
また訪れる縁を残す

2007年8月20日 (月)

図書館はネットサーフィンの原点

奈文研を経由して、午後から京都府立総合資料館と今出川図書館へ向かう
嵯峨野について調べるのが目的だが
めざす論文が載っている本をめくっていると一遍が登場したり
参考文献を眺めていたら淀と山崎が登場したり善光寺が登場したり
大英博物館に象徴されるように、図書館は知と智の宝庫である
それは単にめざす本を読むだけの場所ではなく
新たな知識や知恵との出会いの場でもあるという意味で
異論もあるとは思うが
実はネットサーフィンの原型は、そんな図書館のあり方ではないかとも思っている
インターネットの活用とはそんなアナログなところにあるのでは
とも
佐藤智生「青森県における防御性集落の時代と生業-その考古学的現状の確認と仮説の検証を中心に」2006『北の防御性集落と激動の時代』 同成社
佐藤智生「青森県における防御性集落期の生業と課題(上)-考古学的現状確認と仮説の建設的批判を中心に」2006『弘前大学国史研究』121

Tくんは中世前半の瀬戸内海流通をテーマにしている
文献史研究では先行研究の多いテーマではあるが、遺跡研究では実はあまり検討されたことのないテーマである
松原弘宣さんの『日本古代水上交通史の研究』に興味深い資料が紹介されている
ひとつは伊場遺跡の溝について
それが大量の荷物を積んだ船が航行する機能を果たしていたかどうかどうかについて、加藤芳朗さん、山本武夫さん、角田清美さんの意見を紹介している
海水面の変動は縄文時代前期から平安時代にかけておこっていたが
弥生時代後期には1mの海水面の上昇があり
古墳時代には-2mの海水面の低下があったという
奈良時代にも海水面の上昇があり、10~12世紀は世界的な温暖期で海水面の上昇が最大だったという
松原さんの論点は伊場遺跡の津としての性格についてのものであるが、瀬戸内海においても湊遺跡の立地を考える際に参考になる議論である
なお、平安時代後期の温暖期については昔から有名な話で、平将門の活躍や平泉の成立を考える際にもその背景として取り上げられてきている。鎌倉時代や江戸時代の有名な飢饉もそうだが、人間の歴史と自然環境が深いところでつながっていることは、今の状況をみても繰り替えす必要はないだろう
今年の中世都市研究会は災害をテーマとしているが、ぜひこの関係はマクロ的に議論してほしいと思う

さて、松原さんの著書には畿内の諸津についての論攷もおさめられており、直接的にはこれがとても参考になる
奈良時代から平安時代の津をみれば
宇治川水系に宇治津・岡屋津・伏見津、木津川水系に泉津・伊賀山川津・田野木津・藤井荘津・矢川津・夏見津・中村津、桂川水系に大井津・葛野井津・梅津・桂津・佐比津・草津・桂川尻、鴨川水系に鳥羽津・鴨川尻があるという
このうち大井津は、秦氏に関係するとされ、記録は天平年間までさかのぼり、丹波山川津からの材木運漕に携わった。現在の渡月橋付近とも
梅津は松尾社のちかくでやはり材木津
桂津と佐比津は渡津で、それぞれ八条通西の桂大橋と鳥羽の作道と久我畷をむすぶあたりとされている(南殿の西あたりか)
鳥羽津と鴨川尻は南殿の南で鴨川を渡る位置
淀川水系では、山崎津と淀津に代表され、山崎津の初見は延暦6年『続日本紀』の「行幸高橋津」高橋とは長岡京の造営にも関わり『続日本紀』の延暦3年の条で阿波・讃岐・伊予に造営料を科した山崎橋とのこと。
淀津の初見記事は『日本後記』延暦23年の条の「幸予等津」だとされる
西国からの物資は、奈良時代は難波津・山崎津・泉津が主要津で、平安時代は難波津・河尻・淀津が主要津。また平安京と大和・河内を結ぶ陸上交通上で淀津・山崎津が重要になったという

山崎津は『土佐日記』によれば、淀川の水量が少ない時の平安京の外港であり、『本朝文粋』によれば、山河摂の中で天下の要津で、東西南北ここを経由しないものは無しとされ、『日本後紀』によれば、左右京・難波津とならび「酒屋」があり、『日本文徳天皇実録』の斉衡2年には「山崎津頭火延焼300余家」とあり、『日本三代実録』の貞観8年には山崎橋の西にあった相応寺が元漁商比屋の地とあり、同書の貞観9年の記事には、山崎津が累代商売の地で魚塩利を遂すのところとしている。またその理由として、鳥羽作道から久我畷を経て山陽道か山崎橋を渡って南海道に通じる陸上交通の要衝だったことあるいは河陽離宮があったこととしている

淀津は『延喜式』の諸記録から平安京の官物の貢納物の集積地であったこと、『日本後紀』弘仁元年の「与渡市津」の記事により、山崎津と同様に陸上交通の要衝でもあったという

さて、それでは淀と山崎という近接した場所で、このふたつの大きな津はどのような関係にあったのだろうか

そんなことを考えながら今出川の閉架で呼び止められて振り返ると
この4月に就職したSくん
休みで時間がとれたので調べものに来たという
元気そうでなによりだが、別件があって誘えないのが残念

2007年8月17日 (金)

京都府速報展と嵯峨野

最高気温が38.6度となった16日
向日市文化資料館で開催中の京都府の遺跡調査速報展を見学
丹後では梁塵秘抄でも有名な宮津市の成相寺旧境内の完形の青磁碗と難波野遺跡の鎌倉時代の建物跡と古墳時代の祭祀遺物
丹波では丹南市八木町の野条遺跡で白磁碗2類と瓦器碗と石製分銅が出土、建物は南北にならび、区画する溝が東西方向に掘られているとのこと。宿か居館か。亀岡市の国分遺跡では八角形墳の可能性のある国分45号墳が、銀装大刀も。
山城では大山崎の境野1号墳で古い型式の家形埴輪が、八幡市の木津川河床遺跡で琴柱形石製品が、京田辺の薪遺跡で4期の埋没古墳と7世紀末の土器や円面硯や蛇尾や。継体の宮があったと考えているところなのでおそらく6世紀から8世紀にかけての遺跡がみつかったことは重要。井手町の井手寺跡では200m以上にひろがる大規模な建物が、木津川市の高麗寺からは土師質の鴟尾とこれぞ川原寺式の面違鋸歯文の瓦が実見できる。
こういった速報展は滋賀県でも大阪府でもおこなわれており、とても意味のある企画だと思う。関係の皆さんは調査と併行してとても大変だと思うが、ぜひ頑張って続けてほしい。

向日市を出て桂から嵐山へ向かう
途中松尾で降りて松尾大社へ
鳥居をくぐり、楼門の脇に豊かな水量の溝がある
山上にご神体の磐が鎮まるがまたの機会として阪急にもどる
今日は送り火の日で、嵐山では灯籠流しもおこなわれるという
0816sagano ただし、さすがに真夏の京都に団体の観光客はほとんどみられず
家族連れとカップルがほとんど
法輪寺の舞台で嵯峨野から京都タワーまでを見渡し、天竜寺の向こうに見える亀山に感激しながら渡月橋へ
橋を渡ったところの交差点に三条通という表示をみて亀山殿を偲んで天竜寺の庭をめぐり
天竜寺から北へ行った交差点で丸太町通の表意を見ながら源融を偲んで清涼寺を訪れ
一条通の表示を北へ曲がって嵯峨天皇を追いかけて大覚寺へ

嵯峨の元々の名は大山田で嵯峨とは険しい山の意味
空海が日光の山にも使ったというが、長安郊外の嵯峨山が由来との意見もある
しかし嵯峨野の名称はやはり嵯峨天皇の嵯峨院で有名

後白河院が編纂した『梁塵秘抄』にも嵯峨野についての歌がみられる

307:何れか法輪へ参る道、内野通りの西の京、其れ過ぎて や 常盤林の彼方なる、愛敬流れ来る大堰河
308:嵯峨野の興宴は、山負う桂廻う廻う車谷朝が原、亀山法輪や。大堰河。ふちふち風に、神さび松尾の、最初の如月の。初午に富配る。
309:嵯峨野の興宴は、鵜舟筏師流紅葉、山蔭響かす筝の琴、浄土の遊びに異ならず
316:万劫年経る亀山の 下は泉の深ければ 苔ふす岩屋に松生ひて 梢に鶴こそ遊ぶなれ
355:鵜飼はいとをしや、万劫年経る亀殺し、又鵜の頸を結い、現世は斯くてもありぬべし、後生我が身を如何にせん
356:嵯峨野の興宴は、野口打ち出でて岩崎に、禁野の鷹飼敦友が、野鳥合はせしこそ見まほしき
385:西山通りに来る樵夫、を背を並べてさぞ渡る、桂河、後なる樵夫は新樵夫な、波に折られて尻杖捨てて掻い縺るめり
388:西の京行けば 雀燕筒鳥や さこそ聞け 色好みの多かる世なれば 人はとよむとむ 麿だにとよまずは
555:太秦の薬師が許へ行く麿を 頻りとどむる木の島の神

登場する地名は双岡南の常盤、桂、亀山、法輪寺、松尾
その中心におかれるのは渡月橋の架かる大堰川
登場する人物は遊女、樵夫、鵜飼い、筏師
中村直勝さんの研究につながるような
神仙思想にいろどられた不思議な空間がそこにみえる
嵯峨野のもうひとつの姿

310:四方の霊験所は、伊豆の走湯。信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか。土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け
261:八幡へ参らんと思へども、賀茂川桂川いと速し、あな速しな。淀の渡に船うけて、迎え給へ大菩薩
439:去来れ独楽、鳥羽の城南寺の祭見に、我は罷らし怖ろしや、懲り果てぬ、作り道や四塚に、あせる上馬の多かるに

2007年8月12日 (日)

善光寺門前の中世を読み解く

 中世の地域社会を景観復原するためには、大きく2つの方法がある。ひとつは古代からのアプローチで、もうひとつが近世からのアプローチである。
 ただし善光寺について言えば、多くの関心がその創建にまつわるエピソードにあったため、これまで主にすすめられてきた研究は古代が中心で、条里的な地割りや古墳時代の遺跡や古代瓦の情報や史料や神社などの集成とそれらの関係の説明が多くおこなわれてきた。これまでのこのブログのシリーズもまさにその通りだった。
 しかし、昨年の門前遺跡の調査以来、鎌倉時代の善光寺とその門前についても、大きなテーマであることが明らかになってきた。そうであれば、中世の善光寺門前の風景を復原するためには、当然近世からのアプローチも試みることが必要であり、地形や地名や地割りや絵図や社寺について、近世をさかのぼる情報に注目し、同時にその痕跡を現地で探し求めることが重要となってきている。

 まず前々回に紹介した元禄時代の絵画資料と現在の関係を確かめる。
 小林さんの研究から紹介したさきの元禄期までの絵図は1681年~と1683年と1688年~の順番になる。これらを現在の風景と比較すると、1688年の絵図は現在の本堂を建築中で、1683年と1681年は現在の仲見世に本堂の如来堂が描かれている。大本願と大勧進は現在と同じような位置にある。

 湯福川は、1683年と1681年の絵図共に描かれているが、1683年の湯福川は寛慶寺の東を流れ、1681年に湯福川は寛慶寺の西を流れてから東へ折れ、東之門町を南流し、河原崎町の北で東へ流れている。わずか数年で湯福川が付け替えられたとは考えにくいが、絵図の湯福川は北之門地区の北から流れ込んできて東へ曲がっているように描かれているため(現在は湯福神社からまっすぐ東に流れて善光寺の北辺を迂回する)、1681年までの湯福川は、湯福神社から東へ流れた後、現在の本堂の北から南流して東へ折れ、寛慶寺の西を南流していた可能性もある。
 そして、大本願と大勧進の位置が現在と変わっていないことを前提にすれば、周知のように1683年以前の本堂は現在の仲見世のほぼ中央に建ち、大勧進から北(北之門地区)は多くが畑地となっている。
 この風景はそのまま『一遍聖絵』に描かれた善光寺の北側の風景にとてもよく似ているが偶然だろうか。
 
 現在仲見世の北を区切っている東西の通りは「横(山)大門通」と読めるが、現在のように城山小学校へのびず、東之門町で止まっている。東へ向かう道は、「横山小路通」と読め、現在城山小学校の南を等高線に沿って北東へのびる道にあたる。
 おそらく東之門町・西之門町・横(山)大門通・東西横町の通りに囲まれた範囲が外郭の築地のラインで、「横山小路通」の西への延長ラインと現在の仁王門南の段差と釈迦堂の塔頭群の東ラインで囲まれた範囲が中門以北の内郭築地ラインと思える。
 横町を表参道からゆっくり東へ歩くと、東之門町あたりで傾斜変換点がわかり、河原崎町(現在の伊勢町)を東へゆっくり歩くと東之門町までにふたつの傾斜変換点がわかる。前者が内郭で後者が外郭の築地ラインと仮定しておきたい。

 横町以南についてみれば、現在の表参道を歩いてもすぐに気がつくが、善光寺の門前の地形は表参道に対して左右対称ではない。西側は比較的ひろい平坦面がひろがっているが、東はとくに権堂から北で東へ下降する傾斜が著しい。詳細な遺跡情報を集めないといけないが、試掘などによれば、江戸時代にはさらにこの傾斜が強かった可能性がある。
 なかでも横町から東は、少し南へいって東町へ入るあたりで明らかに傾斜の強い場所があり、横町に近い部分と東町に近い部分で違った風景を見せている。これに対して横町の西はそのまま平坦面がのび、南への傾斜も緩やかにそのまま続く。
 偶然かもしれないが、『一遍聖絵』を見ると、参道の東側は大門に近いところにのみ建物が描かれているが、西側は大門から離れた南でも建物が描かれている。あたかも、この地形に即した風景のようである。

 そんなことを考えながら大門の交差点に立って西を見ると、西町の北に西方寺の甍が見える。東を正面にして立派な築地がそのまわりをめぐる。この寺は元禄頃の絵図にも描かれており、寺伝によれば、開創は正治元年(1199)で、法然上人が善光寺参詣の折りに現在の権堂にあった往生院に開いたものと伝える。現在の場所に移ったのは室町時代前半頃までで、江戸時代には一時善光寺の仮堂ともなっている。また表参道から西方寺に入る通は広小路と呼ばれ、近くに一茶の門人宅があったという。
 そしてこの西方寺の寺伝に従えば、広小路は室町時代までさかのぼることになる。
 一方東町から坂を下りれば武井神社がやはり広い境内地を占める。元禄頃の絵図にも小さいながら描かれている。岩石町はこの神社の西を北へ上がった先にあたる。
 元禄頃の善光寺の門前は、このふたつのモニュメントを左右に配置し、南は現在の「しんきん」の交差点にあたる金鋳川までが中心で、さらにその南の北八幡川も広い意味での門前とみられていたようである。前にも紹介したが、北八幡川と表参道の交差点のすぐ西北に頼朝にちなむ十念寺がおかれ、北東の微高地が問御所という地名になっている。門前の南端を象徴する立地と施設だと思う。

 絵図には広小路の南に馬小路の名が見えるが、この通りの西に天神宮があるため、現在の西町南の東西通りであることがわかる。一方表参道の東には上堀小路と下堀小路が描かれており、上堀小路がおそらく大門町上の東西通りであれば、下堀小路は道路の拡幅に伴い発掘調査された東町遺跡で、西町遺跡は広小路と馬小路の間にあたると思われる。(なお下堀小路の南に、1688年~の絵図には新小路という東西通りが見え、その東に康楽寺がおかれている。絵図に従えば10年以内に新しい通りとしてひらかれたことになる。さきに紹介した湯福川の付け替えもあながち不可能ではなかったかもしれない)
 調査の結果、西町遺跡の東で東西軸の溝がみつかり、その西端で南北軸の溝がみつかっている。現在の町割りとも室町時代の町割りともちがう地割りである。
 興味深いこと限りなし。
 ところで堀小路とはなんの堀なのだろうか。
 西町遺跡に注目したい。

2007年8月11日 (土)

善光寺の研究を学ぶ4-坂井衡平さんの境内図-

第5章第1節の天仁炎上説と冶承の大災の項で、応安縁起の「文永炎上以後建立之次第」や「三宝記」などから諸堂の建立について整理されている。
(1)金堂 東西7間、南北11間
(2)礼堂 東西6間、南北17間(観揚坊)
(3)南廻廊東9間(観揚坊)
(4)鐘楼(観揚坊?)
(5)常行堂(観揚坊?)
(6)中門(観揚坊?)
(7)法華堂(観揚坊?)
(8)涅槃釈迦堂(観揚坊)
(9)聖徳太子御影堂(観揚坊)
(10)南廻廊西9間(蓮浄坊)
(11)護法堂(蓮浄坊)
(12)籠屋(蓮浄坊)
(13)冷殿(蓮浄坊)
(14)唐門(蓮浄坊)
(15)拝殿(蓮浄坊)
(16)四角五重塔(性定坊)
(17)曼荼羅堂(性定坊)
(18)念仏堂(北条政子)
(19)諏訪南宮社(今溝兵衛入道)

 坂井さんは、これらの堂舎を中門によって南北のふたつの区画に分け
南の区画には唐門と諏訪南宮社と念仏堂
北の区画には金堂と拝殿と礼殿を南北に北から配置し、礼殿の西に五重塔、東に曼荼羅堂を配置した平面想像図を描かれている
 これらの堂舎の種類と配置に対する一遍聖絵の関係も興味深いが、その造立にあたった観揚坊、蓮浄坊、性定坊といった人物も興味深い

2007年8月10日 (金)

善光寺の研究を学ぶ3-善光寺と門前の絵図-

 善光寺と門前の中世的な風景を復原するためには、地下の情報を整理することと地上の情報を見直すことにくわえて、近世に描かれた絵画資料も大きな手がかりになる。
 小林さんの整理によれば、善光寺とその門前についての絵図資料は、1299年に成立した有名な『一遍聖絵』(この時の善光寺は、1268年の火災で全てが焼け、文永8年(1271)に落慶したばかり。一遍の参詣はこれを知ってのことだろうか)以外に、1307年頃に完成した『一遍上人絵詞伝』で他阿真教が参詣しているもの
 室町時代初期に描かれたとされる岡崎市満性寺本や善光寺渕之坊本(吉原浩人「豊前善光寺蔵『善光寺如来絵伝』)または「本証寺善光寺如来絵伝」
 善光寺大勧進にある享禄4年(1531)の諸堂設計図によって建てられたと推定される小山善光寺の「善光寺参詣曼荼羅図」(慶長2年頃製作)とされる。

 一方小林さんがまとめた善光寺の焼亡記録をこれと対比すれば
冶承3年3月24日(1179)に金堂と四面廻廊が焼け、1253年までに五重塔も含めて復興
文永5年3月14日(1268)に焼亡して1271年に復興。一遍と他阿真教に関わる絵図は、これ以降のものとなる
正和2年3月22日(1313)に本堂が焼け、すみやかに再建工事がおこなわれる
応安3年7月4日(1370)にも本堂が焼け1413年までかけて五重塔を含めて復興
応永32年(1425)焼亡
応永34年3月6日(1427)全てが焼け、文明元年(1470)までに塔を含めて復興
文明6年6月4日(1474)本堂焼失
文明9年6月24日(1477)前立本尊の御首が灰中に光を放つ
慶長4年(1599)豊臣秀頼が本堂を造立
慶長20年3月30日(1615)に本堂など焼失
寛永19年5月9日(1642)に西町から出火して寛文6年(1666)まで仮堂
元禄13年7月21日(1700)に寛文如来堂と新本堂用材などが消失、宝永4年(1707)に本堂再建。これが現在の本堂で、今年はその300年目にあたる
 となり、それぞれの絵図資料は必ずしも同じ善光寺を描いているわけではなく、何度かの焼亡を経た後の風景を描いていたとみられることになる

 また同書には天和3年(1683)の境内・門前図と元禄時代の善光寺町とタイトルされた資料が紹介されている。このうち後者は、長野市立博物館にパネルで展示してある近世の善光寺門前の絵図と似た構図と思える

 前者の絵地図によれば、南端は東横町と大門町がみえ、そのすぐ左上に大本願がおかれる。その右下は南天(大?)門で、大本願の北のラインの東が東大門で西が西大門。東大門の東が川原崎町(現在の仁王門の通り)。東大門のすぐ東に南北の通りがはしり、これが東之門町。東之門町は町家にはさまれており、その北を東へ折れれば横山小路通で湯福川を橋で渡る。さらに北へ行けばすぐに横大門通の東西道に出、これを西へ向かえば上西之門丁の通りと複雑に出会って、おそらく現在の戸隠行きのバス道と重なって北へ向かう。また大勧進は、この横大門通の西北におかれる。如来堂は絵図の中央で横山小路通と川原崎町の通にはさまれた位置にあり東西に長い建物となっている。なお横大門通の北は、中央を北へ延びる道があり、その回りは畑地でそのまま湯福川を橋で渡る。
 一方元禄時代の善光寺町は、この図と基本的には同じ配置がえがかれており、さらに北八幡川までの門前が記されている。ただし本堂は現在の位置に「如来堂新地形」として示され、その間の変化を知ることができる。
 また寛文如来堂を中心とした境内と門前町の図も示されており、時期は権堂が松平摂津守領だった1681~1694と推定されているため、さきの天和3年とほぼ同じ時期の風景と言えることになる。如来堂は大本願と大勧進にはさまれた位置にあり、北には北之門家数三十二軒とあり、南には東西の横町の南に東には上堀小路と下堀小路、西には広小路と馬小路がはしり、広小路の西に西光寺がおかれる。

 もうひとつ、坂井さんの『善光寺史』の中に非常に興味深い図がみられる。

2007年8月 9日 (木)

善光寺の研究を学ぶ2-善光寺と瓦-

 善光寺瓦についての整理も、小林さんの研究がわかりやすい。
 小林さんは善光寺の軒丸瓦をA・B・B2・C・D・D2に分け、それぞれの特徴は次の通りである。
 Aは線鋸歯文の複弁八弁蓮華文で、大正13年に本堂床下で見つかったものと須坂市の左願寺廃寺跡(善光寺「中道」の東の先にあって高井郡衙か、近くに小河原氏館と言われる土塁と堀跡がある)で見つかったものと、佐久市長土呂(佐久の郡衙推定地か妙楽寺か)で見つかったもの
 Bは仁王門北東でみつかった凸鋸歯文の複弁八弁蓮華文で、その時同時に礎石も確認されたという。また牟礼バイパスと佐久市長土呂でみつかったものもこの分類に含まれるという。
 B2はBの小型で、仁王門から桜枝町に通じる羅漢小路で見つかった
 Cが境内出土の単弁十弁
 Dは仁王門の西北で見つかった中世の巴文軒丸瓦
 D2が釈迦堂前で見つかった近世の巴文軒丸瓦

 小林さんは、これらの軒丸瓦と軒平瓦の組み合わせから、8世紀から9世紀前半までの時期が軒丸瓦Aと重弧文で川原寺系の組み合わせ、9世紀後半以降が軒丸瓦Bと唐草文で法隆寺系の組み合わせと推定し、また国分寺瓦など大きさの比較からこの時の建物は小さかったと考えている。
 なお、小林さんはA系の軒丸瓦の類例として奈良市の般若寺跡や滋賀県愛知郡稲枝町普光寺跡の資料を紹介しているが、今回新たに見つかった瓦の近江とは偶然なのだろうか

 ところで信濃の古代寺院にもどれば、明科廃寺や石川廃寺、雨宮廃寺、込山廃寺が有名で、これらに加えて若槻の稲田二ツ宮遺跡でも寺院関係の遺物が見つかっており注目されるという。若槻は善光寺近辺のなかでも瓦生産や古代遺跡にかかわる資料の多い場所だが、二ツ宮遺跡では瓦塔や鴟尾が出土し、明科廃寺とも共通する特徴があるという。
 またDの巴文軒丸瓦は仁王門の西北でみつかっており、小林さんは、これを頼朝の復興による建立された五重の塔にともなうものとした米山さんの見方を紹介している。周知のように『一遍聖絵』に描かれた善光寺の屋根には瓦は葺かれておらず、中世の瓦が塔の推定地近くで見つかっているという情報をあらためて考慮しても良い可能性がある
 これまでも善光寺の瓦に関わるいくつかの研究をふりかえってきたが、やはり位置情報と資料情報を密接につないだ整理が今最も必要な作業になるだろう

2007年8月 8日 (水)

善光寺の研究を学ぶ1-善光寺と諏訪社-

 古代から近世までの善光寺について、最も有名な研究といえば、坂井衡平さんの『善光寺研究』と、小林計一郎さんの『善光寺史の研究』である。
いずれも一気に読み進めるのは困難なほどの大著で、膨大な情報の集大成でもある。
よってこれまでもその一部を見てきたにすぎなかったが、今回鎌倉に象徴される中世前期の都市を善光寺から探るため、あらためてそのうちのいくつかについて学んでみた。

 小林さんは、善光寺ののる台地を信濃国造だった金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えているが、その関係として、現在の善光寺の境内が、元は式内社である「健御名方富命彦神別神社」の鎮座地と推定している。

 この健御名方富命彦神別神社は、諏訪神系の神社と言われているが、3月に調査のおこなわれた大本願地点の南東隅に、弘化4年(1847)の大地震までは諏訪社と祢宜の斉藤家(明治初年には金刺と称した)の家があったという。
 この諏訪社がさきの健御名方富命彦神別神社とどのようにつながるかはわからない。また信濃美術館東の城山山頂にたつ現在の社は、明治11年の天皇臨幸を契機に明治12年に創建されたものではある。
 しかし小林氏が言うように、善光寺にかかわる三社(湯福神社・妻科神社・武井神社)がいずれも諏訪社であることをふまえれば、善光寺に関わった氏族を考える際に、諏訪社との関わり(善光寺の絵画資料の中に「曲鎌」が描かれていることも、県立歴史館の紀要で報告されている)も重要な手がかりのひとつであることは間違いない。
 ちなみに湯福神社は湯福川が盆地へ出た場所に鎮座し、妻科神社は金鋳川が裾花川から出た場所の近くに鎮座し、武井神社は金鋳川が大きく善光に東を北へ巻いて流れる場所に鎮座している。
 また現在の健御名方富命彦神別神社は、善光寺を中心にしたときの湯福神社に対称する位置に鎮座している。

 3月の大本願地点の調査では多くの近世遺構と近世遺物が出土しているが、このうちで1847年以前の資料については、諏訪社との関わりで見直す必要があるかもしれない。

2007年8月 4日 (土)

ナスカと胎土分析と

あの地上絵で有名なナスカは、日本で言えばおよそ弥生時代の中頃から古墳時代に栄えたという
京都文化博物館でナスカの特別展が始まった
地上絵だけではないナスカの文化を、とても詳しく知ることのできる展示である
なんといっても土器の表面に描かれたさまざまな絵画が楽しい
現在のイラストレイターが描いたような、カラフルでとてもわかりやすいタッチ
そして多彩なコンテンツ
登場人物は、なぜかそろって口から長い舌のようなものを出している
猫がいて豆があって
楽器も見たままでもよくわかるものばかり
日本で言えば弥生時代から古墳時代なのだが
とてもリアルで臨場感あふれた人々の姿をそこから想像することができる
銅鐸がつくられ、後に古墳が築かれていた時代に
地球の反対側では、こんな人たちが生活をしていたのだ
古代中国ならば、明器がタイムマシンの代わりになるが
こういった資料からも日本の古代を見直すきっかけが生まれないだろうか

試験の終わった静かなキャンパスで胎土分析の実験をおこなう
この業界では、遺跡から見つかったさまざまな資料の自然科学的な分析は、ずっと以前からポピュラーなもので
そのまま見たままの状態ではなにも語ることのないモノ資料に対して
年代や産地や成分や同定などに対してさまざまな方法が試みられてきた
このうち胎土分析は三辻さんの研究に代表されるように須恵器を中心に進められ
須恵器生産の伝播や地域の歴史を説明する際に大きな成果をあげてきた
ここにあるのはハンディな装置で最も基本的な蛍光X線の分析ができる
ここでは、その原理と仕組みついて、考古学の研究者も知ってもらうことを目的としている
個人的には、以前から気になっていた瓦器碗の胎土の特徴について
Siの入り方が違うのかどうか調べてみたいと思っている

ところで考古学や歴史研究と自然科学との関係では
中谷冶宇二郎さんの研究も重要なテーマになる
秋学期の寒梅研究会では、このテーマも話題にとりあげてみたい
と思いながら千両ケ辻を東へ走る
地下鉄に乗ると、吊り広告に8月に京都市の予定があり
「五山の送り火」の字がおどる
えらいこっちゃ
あっという間に夏が過ぎていく

2007年8月 3日 (金)

善光寺の瓦を学ぶ3-湖東式瓦の年代と系譜について-

・小笠原好彦さんの研究
 湖東式と呼ばれる瓦は、主に近江の湖東地域の寺院でみられる単弁・重弁の軒丸瓦で代表的な遺跡は愛荘町の塔ノ塚廃寺である。
 その特徴は、中央に大きな蓮子がひとつあり、その外側の平坦面に蓮子を輪状にめぐらせ、単弁の蓮弁と外区内縁に珠文をめぐらせ、素文の狭い外区外縁をめぐらせる。
 畿内やその周辺の寺院では見られないその系譜については、文様の特徴から朝鮮半島では大通寺跡、西穴寺跡や南穴寺跡などの百済との関係、新羅の阿火付近出土瓦との関係、中房に区画する界線を入れた高句麗との関係(ただしこの文様については百済経由とも考えられている)が言われ、近江以外の分布は越前の窯と美濃でのみ知られていた。
 その成立年代の手がかりは、日野川左岸におかれる宮井廃寺から出土した市東圧痕のある(湖東式軒丸瓦とセットになる)重弧文軒平瓦で、この廃寺の南西400mにある辻岡山1号瓦窯から出土した須恵器杯で飛鳥3から4の時期にあたり、おおむね670年代ころに比定されるという。なお百済の西穴寺跡で出土する軒丸瓦は、668年以後の統一新羅時代に比定されている。また扶余にある軍守里廃寺は指頭圧痕重弧文軒平瓦と出しているが、近江の古代寺院の氏寺で多く瓦積基壇がみつかっているという。(善光寺平の古代寺院と百済系氏族との関係を積極的にみるためには、この要素も検討する必要があろう)
 百済と近江の関係では、日本書紀の天智4年(665)に百済の男女400人が神崎郡に居住した例や天智8年(669)に佐平鬼室集斯ら男女700人を蒲生郡に移住させた記事が知られ、また日本書紀の天智2年(663)の記事で、愛知郡から多くの氏族が参戦し、それに関係して寺院造営を請願したことが知られている。あるいは渡来系氏族の朴市秦氏らが中心となり、この戦いで戦死した人々を弔うにあたり、その文様を導入したのではないかともしている。
 なお、白村江の戦いの後、唐との関係は701年の遣唐使まで途絶するが、668年から新羅との交流が再開され、700年までに相互で30回を越える行き来があった。したがって湖東式瓦の文様の背景には、百済とあわせて新羅との関係も考える必要があるとも言う。

・北村圭弘さんの研究「近江・犬上郡以北と越前の重弁蓮華紋軒丸瓦」
 滋賀県で湖東式の研究に詳しい北村さんが湖東式の技法と年代について、川原寺式瓦もからんだ、善光寺出土瓦に通じるレポートを出している。
 北村さんによれば、軒丸瓦の瓦当裏面の縁辺に粘土紐を貼り付ける技法は愛知郡の湖東式軒丸瓦に多いが、最古型式にはそれが見られず、その次の型式からそれがみられるという。
 興味深いのは、この製作技法が下岡部廃寺の川原寺式軒丸瓦に伴って近江に出現したという見方である。川原寺の創建時の瓦の年代は660年代になるので、それを模倣した下岡部廃寺の川原寺式軒丸瓦が670年代とすれば、最古の湖東式軒丸瓦の年代はその直前になるという。
 また、湖東式瓦を焼いている越前の小粕瓦窯では1号窯で7世紀末から8世紀初頭の須恵器も焼いていたとする。北村さんによれば、湖東式瓦は、それに先行する2号窯で焼かれているため、その時期は7世紀末の持統朝期を推定している。

 今回みつかった湖東式系の瓦は1点である。偶然かもしれないが、川原寺式瓦と湖東式瓦の製作技法についてのつながりが善光寺前身寺院においてどんな意味をもってくるかも考えてみたい。
 
・大塚章さんの研究「美濃地方における湖東式軒瓦の展開」
 湖東式瓦がみられるのは、近江では愛知郡以外に湖北でも知られているが、近江以外では越前の窯のぞけば美濃が有名である。その中でも最も有名なものが、各務原市の平蔵寺跡で、近接する山田寺跡からは輻線式の軒丸瓦も出ているような近江的な環境の強い地区である。一方各務原の古代氏族は村国氏や各務勝氏が知られており、渡来系とされている。この地は小規模条里が複雑にみられ、中心的な再生産手段は農業ではなく窯業と考えられている。
 大塚さんは、さらに加茂郡の状況もあわせ、美濃の古代寺院の主流とも言うべき川原寺系寺院が県主グループで、これに対し、秦人などの渡来系集団の採用した瓦が湖東式という仮説を示している。元薬師寺跡のある一帯は木曽川に加茂川が流れ込む低湿な場所で、その地の開発には土木技術や農業以外の力が必要だったとされる。

 善光寺のおかれる水内郡においては、大和岩雄さんによる土木技術に長けた長野氏の関係が想起されるが、もうひとつのポイントとしてここでも湖東式と川原寺式の関係があったことになる。

2007年8月 2日 (木)

善光寺の瓦を学ぶ2

長野県の川崎さんが、去年の長野県立歴史館の企画展を基にした善光寺と古瓦についてのレポートをまとめた
いつも多方面にアンテナを立てていて、知的好奇心の塊のような活躍を続けている川崎さんらしい仕事である
去年の企画展も、情報が錯綜して議論の難しい善光寺の古瓦について
研究史をしっかり掘り起こして、そこから学ぶべき問題のひろがりを、いくつかのヒントをエピソードを織り交ぜながら紹介していた
今から思えば、あたかも今回の単弁の湖東式に似た瓦の発見を予見したかのような展示だった

そんな川崎さんの善光寺瓦調査の基になっているのが
米山一政さんの研究であり、それをまとめた長野市立博物館の原田和彦さんのレポートである
以前にも米山さんの研究をもとに善光寺瓦とよばれるものの確認をしたが
川崎さんのレポートにならい、ふたたび原点にもどって、善光寺にかかわる瓦の研究を振り返ってみたい

米山一政1954「善光寺瓦と善光寺の草創」『地方研究論集』(一志茂樹氏還暦記念)
・大正13年:防火用水道幹線から善光寺本堂の床下への引き込み線敷設のための工事に際し、11月15日に亀腹(床下の基壇の一部)の中から丸瓦と平瓦が多数出土。瓦は1枚ずつきちんと重ねられていた。福生院に保存されていた軒丸瓦(3分の1欠損)は関野貞が奈良時代初期とする(雄山閣の考古学講座)。
・昭和27年:4月18日に防災工事のために善光寺本堂の東脇の掘り下げ中に軒丸瓦が出土。昭和28年仁王門瓦と同類。
・昭和28年:仁王門基壇から約7m北の参道石敷から東の河原崎町への約50mの道路の真下。深さは1.5m。黒色土(灰混じりか)。軒丸瓦4点、軒平瓦3点。中世善光寺五重塔の推定地か。飛鳥時代様式を有する白鳳時代のものか。
・大部分の軒丸瓦の文様特徴:直径5寸1分(約15センチ)、厚さ7分5厘(約2センチ)の8弁複弁の蓮華文で、飛鳥時代に特有の薄く低い周縁帯で内側に傾斜した匙面に波文を施す。しかもこの波文の三角形の外行の部分のみ、鋸歯のごとく陽刻し、周縁全体で24歯をかぞえる。中房も輪郭を有し、比較的大きく高めで、中に大が9、小が4の蓮子をもつ。飛鳥時代には無かった蓮子の覆輪を陽刻し、蓮子の頂点がとがって写実的となっている。連弁は中房下部から出て、弁面短く広く、中央の縦線により左右両面に分かれ、中ごろから一旦反り、子葉の先端のあたりで逆に反転し、各弁面に、飛鳥時代になかった中高の卵形の隆起を有する小葉を有する。
・大正13年の軒丸瓦の文様特徴:直径は4寸9分(ややこぶり)、周縁は薄く、狭く、波文は繊細で鋸歯状の造りだしではなく、輪郭線によって表され、その頂点は48。中房の直径が小さく(全体の直径に対する比率も小さく)、そのため連弁が長く、子葉も細長く締まりがない。連子は9で数が少ない。覆輪も無い。ただし、奈良時代のものは周縁が厚く珠文帯を有し、連弁は中央に小さくおかれるので、奈良時代初期よりそれほど下がらない。
・昭和28年の瓦は白鳳時代の要素をもち、その先駆をなしたとされる斉明天皇の川原寺や天智天皇の大津京跡発見のものに酷似する
・単弁の軒丸瓦:仁王門真北7mの地下。周縁が厚く、連弁が楕円形の10弁、各弁に輪郭がない。周縁は低く、蓮子は7個で竹管で無造作に陰刻されている。奈良時代中期以降か。
・軒平瓦:仁王門から河原崎町に通じる道路の長門屋北側の地下から出土。飛鳥時代の忍冬唐草で、文様の布置は右端から左端へ一方向。蔓の節の具合は法隆寺のものににているが、瓦当面は上面と直角をなし、縦断面も顎をもたない。葉も特殊。飛鳥時代の系譜をひくがやや新しいか。
・東沢の窯:長野市下田子(旧若槻村)で複弁式の瓦。大正5年に同所で軒丸瓦を1点採集。昭和24年の調査で、昭和28年出土軒丸瓦と同じことがわかる。またここから善光寺出土の平瓦と同種同巧のものが多数出土。
 なお原田和彦さんのレポートでは「善光寺前身寺院に供給された瓦の一部が「髻窯跡群から供給されている」としている。
髻・若槻村の瓦散布地:吉村(東沢の北)、田中(窯跡であることが、昭和23年の上水道工事で判明。9月14日の調査で唐草瓦2面(ただし善光寺とは別の奈良時代中期以降か)
・若麻績の東人と栗岩英治の余東人について:余氏は百済人の姓で「続日本紀」天平宝字2年(758)6月4日に「太宰陰陽師従6位余益人、造法華寺判官従6位下余東人等4人賜百済朝臣姓」とあり、余氏は百済王の氏である。また亡命百済王の中に善光名の人物がみられる。
・水内郡の豪族「続日本紀」神護景雲2年(768)5月28日「水内郡の人刑部智麻呂、友に情篤くして、苦楽これを共にす。同郡の人倉橋部廣人、私稲6万束を出して百姓の負稲を償う、並びにその田租を免じて身を終えしむ」
刑部氏は百済王の後とし、もとは職名だったが、渡来系の人々との関係が強いと栗田寛さんは考察し(新撰姓氏録)、倉橋部は出自不明だが部曲の氏。いずれも水内郡の有力者で、善光寺造営との関係が考えられる。
・中世の善光寺の伽藍について:今の仁王門のあたりに南門があり、ここから両脇に築地塀が出て、南門を入ると五重塔が立ち、その奥に中門があり、この中門から両脇に廻廊がつづき、中門の奥に金堂があり、中門から両脇に出た廻廊が北折してこの金堂を巡り、さらに南門に続く築地塀が曲折してこの廻廊の四周をまわっている。
 米山さんは、これら以外にも仏像の形式など多岐にわたる情報を集約して善光寺の草創についての模索をされている。そしてそれらから推考されるのは「天智天皇御代を去ること遠くない、或いは天武天皇から持統天皇ころまでの間において創立されたものではないか」ということになっている。その視野の広さと深さにおよぶべくもない。続いてもうひとつの論攷も確認しておきたい

米山一政1971「信濃の古瓦」『一志茂樹博士喜寿記念論集』
・4種に分けられる善光寺出土の瓦
(1)直径15.6センチ、厚さ2.3センチ、複弁8弁蓮華文。陽刻界圏をめぐらせた中房は直径6.2センチで大きい。連子は中心と界圏近くの8が大きく、中心の蓮子をとりまく4はやや小さい。先端はとがり、断面三角形の細い輪郭をもつ。蓮弁はやや長めで、中央の縦線によって左右にわかれた各面は凹窪の匙面をつくりお、内に断面半円状の小葉を高彫している。が、細長く、弁面の反転際まで届いており、全体としてやや力が弱く、優しい。周縁は直立縁で上面は内向傾斜し、その面に外行面違い鋸歯文を陽刻し、周縁と蓮華文との境に細い圏線を入れている。鋸歯文の数は24。川原寺や大津宮と同類変形だろう。
(2)直径15.8センチの複弁8弁蓮華文。中房は陽刻界圏をめぐらせ、直径は5.3センチ。蓮子に輪郭は無い。蓮弁は長めで弁面に凹窪した匙面をつくるが、小葉が細長く、その先端は弁先まで達する。周縁は直立縁で幅1.8センチ、外縁は0.8センチで面は平坦でやや高い。内側は内向傾斜した面をつくり、上面に繊細な陽刻線で外行鋸歯文を刻す。
(3)直径16.3センチの素弁十弁蓮華文。周縁の幅は2.2センチ。中房は直径が4.3センチ。低く界圏は無い。蓮子は竹管で押したもの。平安時代か
(4)偏行忍冬唐草軒平瓦
・布目は細かく、糸も細く、1平方センチあたり縦糸が8、横糸が8。下面には1辺1.3センチほどの格子状叩き痕もある。下面に幅のある直条線をX形にたたいたものも
(5)巴文軒丸瓦:仁王門のある西北から出土。直径15.5センチ。鎌倉時代の特徴。

 米山さんの論攷はこの後、上田国分寺や飯田の開善寺までひろく信濃の古代瓦について詳しく論述されており、その後の古代寺院と瓦の研究の原典となっている。
その内容については、原田和彦さんのレポートで詳しく紹介されているため省くが、
いくつか気のついたことを記しておきたい。

・雨宮正法寺瓦について
 更埴市雨宮の雨宮坐日吉神社西からみつかったもので、関野貞さんが考古学講座で奈良時代後期に属するものとして紹介している。独特の6弁単弁蓮華文軒丸瓦が有名。直径は16.2センチ。蓮弁は紐状の陽線で輪郭をつくり、先端が丸くやや細長い卵形を呈する。上原真人さんの研究によれば(歴史発掘11)、類例は越後(新井市)の栗原や大和の奥山につながるという。また異なった系列ではあるが、尾張の篠岡2号窯とも関係があるとされる。畿内・東海・北信・越後南部とつながる線は、日本海と善光寺平とのつながりを物語るものと思える。
 なお、米山さんは、長野市篠ノ井上石川の上石川廃寺(布制神社参道西から出土)からみつかった瓦のひとつの文様が雨宮正法寺瓦と類似した特徴があるとしている。「篠井」はもちろん高句麗系の改姓にみえる名称で、上石川廃寺の北の丘陵には川柳将軍塚があり、信濃で最も古い松ノ山須恵器窯も近い。

・明科廃寺瓦について
 昭和28年に発見された資料で、軒丸瓦は素弁と単弁の3種類あり、このうち素弁のものは、上原さんによって甲斐・飛騨・近江にその系譜を比較できる資料があるという。これは言い方を変えると近江と東国といったことになり、やはり渡来系の集団に関係した要素になるのだろうか

・須坂市小河原左願寺瓦について
 水内郡の善光寺に対し、高井郡の左願寺廃寺とその2キロ離れた場所にある長者屋敷の散布地は、原田さんが指摘するように、後者が推定郡家で、前者がその郡寺にあたる関係の可能性が考えられ(長者屋敷の西に延喜式に見える墨坂神社があるという)、善光寺前身寺院の草創かあるいはその時期に近い頃の同寺の運用構造を考えるときにおおいにヒントになる遺跡だと思う。ここからは、大正13年に見つかった善光寺瓦と同じ外縁内側に陽刻線で外行鋸歯文を配する複弁蓮華文軒丸瓦のほかに重圏文軒丸瓦と蕨手文軒丸瓦(坂城町込山廃寺に似ている)もみつかっている。
 原田さんの非常にわかりやすい比較対照の図面で示されているように、これらの寺院と国分寺瓦との関係は、そのまま国分寺造立に対する信濃国内の豪族の関わり方を示したものであろうが、高井郡の左願寺廃寺と水内郡の善光寺前身寺院の瓦の関係は、7世紀おわりから8世紀初め頃の善光寺平の社会構造を明らかにする大きな手がかりだと思う。
 また米山さんの指摘は蕨手文を大陸系の文様としているが、これについてもあらためて注目する必要があるだろう。

この3月にみつかった単弁の軒丸瓦は、すでに上原さんによって、湖東式にきわめて似ていると評価された。そのことが善光寺前身寺院の成立とどのような関係になるかは、上でみたような7世紀終わりから8世紀にかけての善光寺平の古代集落と氏族の実態を明らかにしたうえでなければ説明できないが、これまでの多くの先学の意見と同じように、その中に平安時代初めまで高句麗の姓を名乗っていた人々が関わっていたことは間違いないだろう。

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