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2007年8月12日 (日)

善光寺門前の中世を読み解く

 中世の地域社会を景観復原するためには、大きく2つの方法がある。ひとつは古代からのアプローチで、もうひとつが近世からのアプローチである。
 ただし善光寺について言えば、多くの関心がその創建にまつわるエピソードにあったため、これまで主にすすめられてきた研究は古代が中心で、条里的な地割りや古墳時代の遺跡や古代瓦の情報や史料や神社などの集成とそれらの関係の説明が多くおこなわれてきた。これまでのこのブログのシリーズもまさにその通りだった。
 しかし、昨年の門前遺跡の調査以来、鎌倉時代の善光寺とその門前についても、大きなテーマであることが明らかになってきた。そうであれば、中世の善光寺門前の風景を復原するためには、当然近世からのアプローチも試みることが必要であり、地形や地名や地割りや絵図や社寺について、近世をさかのぼる情報に注目し、同時にその痕跡を現地で探し求めることが重要となってきている。

 まず前々回に紹介した元禄時代の絵画資料と現在の関係を確かめる。
 小林さんの研究から紹介したさきの元禄期までの絵図は1681年~と1683年と1688年~の順番になる。これらを現在の風景と比較すると、1688年の絵図は現在の本堂を建築中で、1683年と1681年は現在の仲見世に本堂の如来堂が描かれている。大本願と大勧進は現在と同じような位置にある。

 湯福川は、1683年と1681年の絵図共に描かれているが、1683年の湯福川は寛慶寺の東を流れ、1681年に湯福川は寛慶寺の西を流れてから東へ折れ、東之門町を南流し、河原崎町の北で東へ流れている。わずか数年で湯福川が付け替えられたとは考えにくいが、絵図の湯福川は北之門地区の北から流れ込んできて東へ曲がっているように描かれているため(現在は湯福神社からまっすぐ東に流れて善光寺の北辺を迂回する)、1681年までの湯福川は、湯福神社から東へ流れた後、現在の本堂の北から南流して東へ折れ、寛慶寺の西を南流していた可能性もある。
 そして、大本願と大勧進の位置が現在と変わっていないことを前提にすれば、周知のように1683年以前の本堂は現在の仲見世のほぼ中央に建ち、大勧進から北(北之門地区)は多くが畑地となっている。
 この風景はそのまま『一遍聖絵』に描かれた善光寺の北側の風景にとてもよく似ているが偶然だろうか。
 
 現在仲見世の北を区切っている東西の通りは「横(山)大門通」と読めるが、現在のように城山小学校へのびず、東之門町で止まっている。東へ向かう道は、「横山小路通」と読め、現在城山小学校の南を等高線に沿って北東へのびる道にあたる。
 おそらく東之門町・西之門町・横(山)大門通・東西横町の通りに囲まれた範囲が外郭の築地のラインで、「横山小路通」の西への延長ラインと現在の仁王門南の段差と釈迦堂の塔頭群の東ラインで囲まれた範囲が中門以北の内郭築地ラインと思える。
 横町を表参道からゆっくり東へ歩くと、東之門町あたりで傾斜変換点がわかり、河原崎町(現在の伊勢町)を東へゆっくり歩くと東之門町までにふたつの傾斜変換点がわかる。前者が内郭で後者が外郭の築地ラインと仮定しておきたい。

 横町以南についてみれば、現在の表参道を歩いてもすぐに気がつくが、善光寺の門前の地形は表参道に対して左右対称ではない。西側は比較的ひろい平坦面がひろがっているが、東はとくに権堂から北で東へ下降する傾斜が著しい。詳細な遺跡情報を集めないといけないが、試掘などによれば、江戸時代にはさらにこの傾斜が強かった可能性がある。
 なかでも横町から東は、少し南へいって東町へ入るあたりで明らかに傾斜の強い場所があり、横町に近い部分と東町に近い部分で違った風景を見せている。これに対して横町の西はそのまま平坦面がのび、南への傾斜も緩やかにそのまま続く。
 偶然かもしれないが、『一遍聖絵』を見ると、参道の東側は大門に近いところにのみ建物が描かれているが、西側は大門から離れた南でも建物が描かれている。あたかも、この地形に即した風景のようである。

 そんなことを考えながら大門の交差点に立って西を見ると、西町の北に西方寺の甍が見える。東を正面にして立派な築地がそのまわりをめぐる。この寺は元禄頃の絵図にも描かれており、寺伝によれば、開創は正治元年(1199)で、法然上人が善光寺参詣の折りに現在の権堂にあった往生院に開いたものと伝える。現在の場所に移ったのは室町時代前半頃までで、江戸時代には一時善光寺の仮堂ともなっている。また表参道から西方寺に入る通は広小路と呼ばれ、近くに一茶の門人宅があったという。
 そしてこの西方寺の寺伝に従えば、広小路は室町時代までさかのぼることになる。
 一方東町から坂を下りれば武井神社がやはり広い境内地を占める。元禄頃の絵図にも小さいながら描かれている。岩石町はこの神社の西を北へ上がった先にあたる。
 元禄頃の善光寺の門前は、このふたつのモニュメントを左右に配置し、南は現在の「しんきん」の交差点にあたる金鋳川までが中心で、さらにその南の北八幡川も広い意味での門前とみられていたようである。前にも紹介したが、北八幡川と表参道の交差点のすぐ西北に頼朝にちなむ十念寺がおかれ、北東の微高地が問御所という地名になっている。門前の南端を象徴する立地と施設だと思う。

 絵図には広小路の南に馬小路の名が見えるが、この通りの西に天神宮があるため、現在の西町南の東西通りであることがわかる。一方表参道の東には上堀小路と下堀小路が描かれており、上堀小路がおそらく大門町上の東西通りであれば、下堀小路は道路の拡幅に伴い発掘調査された東町遺跡で、西町遺跡は広小路と馬小路の間にあたると思われる。(なお下堀小路の南に、1688年~の絵図には新小路という東西通りが見え、その東に康楽寺がおかれている。絵図に従えば10年以内に新しい通りとしてひらかれたことになる。さきに紹介した湯福川の付け替えもあながち不可能ではなかったかもしれない)
 調査の結果、西町遺跡の東で東西軸の溝がみつかり、その西端で南北軸の溝がみつかっている。現在の町割りとも室町時代の町割りともちがう地割りである。
 興味深いこと限りなし。
 ところで堀小路とはなんの堀なのだろうか。
 西町遺跡に注目したい。

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