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2007年8月10日 (金)

善光寺の研究を学ぶ3-善光寺と門前の絵図-

 善光寺と門前の中世的な風景を復原するためには、地下の情報を整理することと地上の情報を見直すことにくわえて、近世に描かれた絵画資料も大きな手がかりになる。
 小林さんの整理によれば、善光寺とその門前についての絵図資料は、1299年に成立した有名な『一遍聖絵』(この時の善光寺は、1268年の火災で全てが焼け、文永8年(1271)に落慶したばかり。一遍の参詣はこれを知ってのことだろうか)以外に、1307年頃に完成した『一遍上人絵詞伝』で他阿真教が参詣しているもの
 室町時代初期に描かれたとされる岡崎市満性寺本や善光寺渕之坊本(吉原浩人「豊前善光寺蔵『善光寺如来絵伝』)または「本証寺善光寺如来絵伝」
 善光寺大勧進にある享禄4年(1531)の諸堂設計図によって建てられたと推定される小山善光寺の「善光寺参詣曼荼羅図」(慶長2年頃製作)とされる。

 一方小林さんがまとめた善光寺の焼亡記録をこれと対比すれば
冶承3年3月24日(1179)に金堂と四面廻廊が焼け、1253年までに五重塔も含めて復興
文永5年3月14日(1268)に焼亡して1271年に復興。一遍と他阿真教に関わる絵図は、これ以降のものとなる
正和2年3月22日(1313)に本堂が焼け、すみやかに再建工事がおこなわれる
応安3年7月4日(1370)にも本堂が焼け1413年までかけて五重塔を含めて復興
応永32年(1425)焼亡
応永34年3月6日(1427)全てが焼け、文明元年(1470)までに塔を含めて復興
文明6年6月4日(1474)本堂焼失
文明9年6月24日(1477)前立本尊の御首が灰中に光を放つ
慶長4年(1599)豊臣秀頼が本堂を造立
慶長20年3月30日(1615)に本堂など焼失
寛永19年5月9日(1642)に西町から出火して寛文6年(1666)まで仮堂
元禄13年7月21日(1700)に寛文如来堂と新本堂用材などが消失、宝永4年(1707)に本堂再建。これが現在の本堂で、今年はその300年目にあたる
 となり、それぞれの絵図資料は必ずしも同じ善光寺を描いているわけではなく、何度かの焼亡を経た後の風景を描いていたとみられることになる

 また同書には天和3年(1683)の境内・門前図と元禄時代の善光寺町とタイトルされた資料が紹介されている。このうち後者は、長野市立博物館にパネルで展示してある近世の善光寺門前の絵図と似た構図と思える

 前者の絵地図によれば、南端は東横町と大門町がみえ、そのすぐ左上に大本願がおかれる。その右下は南天(大?)門で、大本願の北のラインの東が東大門で西が西大門。東大門の東が川原崎町(現在の仁王門の通り)。東大門のすぐ東に南北の通りがはしり、これが東之門町。東之門町は町家にはさまれており、その北を東へ折れれば横山小路通で湯福川を橋で渡る。さらに北へ行けばすぐに横大門通の東西道に出、これを西へ向かえば上西之門丁の通りと複雑に出会って、おそらく現在の戸隠行きのバス道と重なって北へ向かう。また大勧進は、この横大門通の西北におかれる。如来堂は絵図の中央で横山小路通と川原崎町の通にはさまれた位置にあり東西に長い建物となっている。なお横大門通の北は、中央を北へ延びる道があり、その回りは畑地でそのまま湯福川を橋で渡る。
 一方元禄時代の善光寺町は、この図と基本的には同じ配置がえがかれており、さらに北八幡川までの門前が記されている。ただし本堂は現在の位置に「如来堂新地形」として示され、その間の変化を知ることができる。
 また寛文如来堂を中心とした境内と門前町の図も示されており、時期は権堂が松平摂津守領だった1681~1694と推定されているため、さきの天和3年とほぼ同じ時期の風景と言えることになる。如来堂は大本願と大勧進にはさまれた位置にあり、北には北之門家数三十二軒とあり、南には東西の横町の南に東には上堀小路と下堀小路、西には広小路と馬小路がはしり、広小路の西に西光寺がおかれる。

 もうひとつ、坂井さんの『善光寺史』の中に非常に興味深い図がみられる。

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