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2007年8月20日 (月)

図書館はネットサーフィンの原点

奈文研を経由して、午後から京都府立総合資料館と今出川図書館へ向かう
嵯峨野について調べるのが目的だが
めざす論文が載っている本をめくっていると一遍が登場したり
参考文献を眺めていたら淀と山崎が登場したり善光寺が登場したり
大英博物館に象徴されるように、図書館は知と智の宝庫である
それは単にめざす本を読むだけの場所ではなく
新たな知識や知恵との出会いの場でもあるという意味で
異論もあるとは思うが
実はネットサーフィンの原型は、そんな図書館のあり方ではないかとも思っている
インターネットの活用とはそんなアナログなところにあるのでは
とも
佐藤智生「青森県における防御性集落の時代と生業-その考古学的現状の確認と仮説の検証を中心に」2006『北の防御性集落と激動の時代』 同成社
佐藤智生「青森県における防御性集落期の生業と課題(上)-考古学的現状確認と仮説の建設的批判を中心に」2006『弘前大学国史研究』121

Tくんは中世前半の瀬戸内海流通をテーマにしている
文献史研究では先行研究の多いテーマではあるが、遺跡研究では実はあまり検討されたことのないテーマである
松原弘宣さんの『日本古代水上交通史の研究』に興味深い資料が紹介されている
ひとつは伊場遺跡の溝について
それが大量の荷物を積んだ船が航行する機能を果たしていたかどうかどうかについて、加藤芳朗さん、山本武夫さん、角田清美さんの意見を紹介している
海水面の変動は縄文時代前期から平安時代にかけておこっていたが
弥生時代後期には1mの海水面の上昇があり
古墳時代には-2mの海水面の低下があったという
奈良時代にも海水面の上昇があり、10~12世紀は世界的な温暖期で海水面の上昇が最大だったという
松原さんの論点は伊場遺跡の津としての性格についてのものであるが、瀬戸内海においても湊遺跡の立地を考える際に参考になる議論である
なお、平安時代後期の温暖期については昔から有名な話で、平将門の活躍や平泉の成立を考える際にもその背景として取り上げられてきている。鎌倉時代や江戸時代の有名な飢饉もそうだが、人間の歴史と自然環境が深いところでつながっていることは、今の状況をみても繰り替えす必要はないだろう
今年の中世都市研究会は災害をテーマとしているが、ぜひこの関係はマクロ的に議論してほしいと思う

さて、松原さんの著書には畿内の諸津についての論攷もおさめられており、直接的にはこれがとても参考になる
奈良時代から平安時代の津をみれば
宇治川水系に宇治津・岡屋津・伏見津、木津川水系に泉津・伊賀山川津・田野木津・藤井荘津・矢川津・夏見津・中村津、桂川水系に大井津・葛野井津・梅津・桂津・佐比津・草津・桂川尻、鴨川水系に鳥羽津・鴨川尻があるという
このうち大井津は、秦氏に関係するとされ、記録は天平年間までさかのぼり、丹波山川津からの材木運漕に携わった。現在の渡月橋付近とも
梅津は松尾社のちかくでやはり材木津
桂津と佐比津は渡津で、それぞれ八条通西の桂大橋と鳥羽の作道と久我畷をむすぶあたりとされている(南殿の西あたりか)
鳥羽津と鴨川尻は南殿の南で鴨川を渡る位置
淀川水系では、山崎津と淀津に代表され、山崎津の初見は延暦6年『続日本紀』の「行幸高橋津」高橋とは長岡京の造営にも関わり『続日本紀』の延暦3年の条で阿波・讃岐・伊予に造営料を科した山崎橋とのこと。
淀津の初見記事は『日本後記』延暦23年の条の「幸予等津」だとされる
西国からの物資は、奈良時代は難波津・山崎津・泉津が主要津で、平安時代は難波津・河尻・淀津が主要津。また平安京と大和・河内を結ぶ陸上交通上で淀津・山崎津が重要になったという

山崎津は『土佐日記』によれば、淀川の水量が少ない時の平安京の外港であり、『本朝文粋』によれば、山河摂の中で天下の要津で、東西南北ここを経由しないものは無しとされ、『日本後紀』によれば、左右京・難波津とならび「酒屋」があり、『日本文徳天皇実録』の斉衡2年には「山崎津頭火延焼300余家」とあり、『日本三代実録』の貞観8年には山崎橋の西にあった相応寺が元漁商比屋の地とあり、同書の貞観9年の記事には、山崎津が累代商売の地で魚塩利を遂すのところとしている。またその理由として、鳥羽作道から久我畷を経て山陽道か山崎橋を渡って南海道に通じる陸上交通の要衝だったことあるいは河陽離宮があったこととしている

淀津は『延喜式』の諸記録から平安京の官物の貢納物の集積地であったこと、『日本後紀』弘仁元年の「与渡市津」の記事により、山崎津と同様に陸上交通の要衝でもあったという

さて、それでは淀と山崎という近接した場所で、このふたつの大きな津はどのような関係にあったのだろうか

そんなことを考えながら今出川の閉架で呼び止められて振り返ると
この4月に就職したSくん
休みで時間がとれたので調べものに来たという
元気そうでなによりだが、別件があって誘えないのが残念

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