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2007年8月 8日 (水)

善光寺の研究を学ぶ1-善光寺と諏訪社-

 古代から近世までの善光寺について、最も有名な研究といえば、坂井衡平さんの『善光寺研究』と、小林計一郎さんの『善光寺史の研究』である。
いずれも一気に読み進めるのは困難なほどの大著で、膨大な情報の集大成でもある。
よってこれまでもその一部を見てきたにすぎなかったが、今回鎌倉に象徴される中世前期の都市を善光寺から探るため、あらためてそのうちのいくつかについて学んでみた。

 小林さんは、善光寺ののる台地を信濃国造だった金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えているが、その関係として、現在の善光寺の境内が、元は式内社である「健御名方富命彦神別神社」の鎮座地と推定している。

 この健御名方富命彦神別神社は、諏訪神系の神社と言われているが、3月に調査のおこなわれた大本願地点の南東隅に、弘化4年(1847)の大地震までは諏訪社と祢宜の斉藤家(明治初年には金刺と称した)の家があったという。
 この諏訪社がさきの健御名方富命彦神別神社とどのようにつながるかはわからない。また信濃美術館東の城山山頂にたつ現在の社は、明治11年の天皇臨幸を契機に明治12年に創建されたものではある。
 しかし小林氏が言うように、善光寺にかかわる三社(湯福神社・妻科神社・武井神社)がいずれも諏訪社であることをふまえれば、善光寺に関わった氏族を考える際に、諏訪社との関わり(善光寺の絵画資料の中に「曲鎌」が描かれていることも、県立歴史館の紀要で報告されている)も重要な手がかりのひとつであることは間違いない。
 ちなみに湯福神社は湯福川が盆地へ出た場所に鎮座し、妻科神社は金鋳川が裾花川から出た場所の近くに鎮座し、武井神社は金鋳川が大きく善光に東を北へ巻いて流れる場所に鎮座している。
 また現在の健御名方富命彦神別神社は、善光寺を中心にしたときの湯福神社に対称する位置に鎮座している。

 3月の大本願地点の調査では多くの近世遺構と近世遺物が出土しているが、このうちで1847年以前の資料については、諏訪社との関わりで見直す必要があるかもしれない。

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