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2007年8月 2日 (木)

善光寺の瓦を学ぶ2

長野県の川崎さんが、去年の長野県立歴史館の企画展を基にした善光寺と古瓦についてのレポートをまとめた
いつも多方面にアンテナを立てていて、知的好奇心の塊のような活躍を続けている川崎さんらしい仕事である
去年の企画展も、情報が錯綜して議論の難しい善光寺の古瓦について
研究史をしっかり掘り起こして、そこから学ぶべき問題のひろがりを、いくつかのヒントをエピソードを織り交ぜながら紹介していた
今から思えば、あたかも今回の単弁の湖東式に似た瓦の発見を予見したかのような展示だった

そんな川崎さんの善光寺瓦調査の基になっているのが
米山一政さんの研究であり、それをまとめた長野市立博物館の原田和彦さんのレポートである
以前にも米山さんの研究をもとに善光寺瓦とよばれるものの確認をしたが
川崎さんのレポートにならい、ふたたび原点にもどって、善光寺にかかわる瓦の研究を振り返ってみたい

米山一政1954「善光寺瓦と善光寺の草創」『地方研究論集』(一志茂樹氏還暦記念)
・大正13年:防火用水道幹線から善光寺本堂の床下への引き込み線敷設のための工事に際し、11月15日に亀腹(床下の基壇の一部)の中から丸瓦と平瓦が多数出土。瓦は1枚ずつきちんと重ねられていた。福生院に保存されていた軒丸瓦(3分の1欠損)は関野貞が奈良時代初期とする(雄山閣の考古学講座)。
・昭和27年:4月18日に防災工事のために善光寺本堂の東脇の掘り下げ中に軒丸瓦が出土。昭和28年仁王門瓦と同類。
・昭和28年:仁王門基壇から約7m北の参道石敷から東の河原崎町への約50mの道路の真下。深さは1.5m。黒色土(灰混じりか)。軒丸瓦4点、軒平瓦3点。中世善光寺五重塔の推定地か。飛鳥時代様式を有する白鳳時代のものか。
・大部分の軒丸瓦の文様特徴:直径5寸1分(約15センチ)、厚さ7分5厘(約2センチ)の8弁複弁の蓮華文で、飛鳥時代に特有の薄く低い周縁帯で内側に傾斜した匙面に波文を施す。しかもこの波文の三角形の外行の部分のみ、鋸歯のごとく陽刻し、周縁全体で24歯をかぞえる。中房も輪郭を有し、比較的大きく高めで、中に大が9、小が4の蓮子をもつ。飛鳥時代には無かった蓮子の覆輪を陽刻し、蓮子の頂点がとがって写実的となっている。連弁は中房下部から出て、弁面短く広く、中央の縦線により左右両面に分かれ、中ごろから一旦反り、子葉の先端のあたりで逆に反転し、各弁面に、飛鳥時代になかった中高の卵形の隆起を有する小葉を有する。
・大正13年の軒丸瓦の文様特徴:直径は4寸9分(ややこぶり)、周縁は薄く、狭く、波文は繊細で鋸歯状の造りだしではなく、輪郭線によって表され、その頂点は48。中房の直径が小さく(全体の直径に対する比率も小さく)、そのため連弁が長く、子葉も細長く締まりがない。連子は9で数が少ない。覆輪も無い。ただし、奈良時代のものは周縁が厚く珠文帯を有し、連弁は中央に小さくおかれるので、奈良時代初期よりそれほど下がらない。
・昭和28年の瓦は白鳳時代の要素をもち、その先駆をなしたとされる斉明天皇の川原寺や天智天皇の大津京跡発見のものに酷似する
・単弁の軒丸瓦:仁王門真北7mの地下。周縁が厚く、連弁が楕円形の10弁、各弁に輪郭がない。周縁は低く、蓮子は7個で竹管で無造作に陰刻されている。奈良時代中期以降か。
・軒平瓦:仁王門から河原崎町に通じる道路の長門屋北側の地下から出土。飛鳥時代の忍冬唐草で、文様の布置は右端から左端へ一方向。蔓の節の具合は法隆寺のものににているが、瓦当面は上面と直角をなし、縦断面も顎をもたない。葉も特殊。飛鳥時代の系譜をひくがやや新しいか。
・東沢の窯:長野市下田子(旧若槻村)で複弁式の瓦。大正5年に同所で軒丸瓦を1点採集。昭和24年の調査で、昭和28年出土軒丸瓦と同じことがわかる。またここから善光寺出土の平瓦と同種同巧のものが多数出土。
 なお原田和彦さんのレポートでは「善光寺前身寺院に供給された瓦の一部が「髻窯跡群から供給されている」としている。
髻・若槻村の瓦散布地:吉村(東沢の北)、田中(窯跡であることが、昭和23年の上水道工事で判明。9月14日の調査で唐草瓦2面(ただし善光寺とは別の奈良時代中期以降か)
・若麻績の東人と栗岩英治の余東人について:余氏は百済人の姓で「続日本紀」天平宝字2年(758)6月4日に「太宰陰陽師従6位余益人、造法華寺判官従6位下余東人等4人賜百済朝臣姓」とあり、余氏は百済王の氏である。また亡命百済王の中に善光名の人物がみられる。
・水内郡の豪族「続日本紀」神護景雲2年(768)5月28日「水内郡の人刑部智麻呂、友に情篤くして、苦楽これを共にす。同郡の人倉橋部廣人、私稲6万束を出して百姓の負稲を償う、並びにその田租を免じて身を終えしむ」
刑部氏は百済王の後とし、もとは職名だったが、渡来系の人々との関係が強いと栗田寛さんは考察し(新撰姓氏録)、倉橋部は出自不明だが部曲の氏。いずれも水内郡の有力者で、善光寺造営との関係が考えられる。
・中世の善光寺の伽藍について:今の仁王門のあたりに南門があり、ここから両脇に築地塀が出て、南門を入ると五重塔が立ち、その奥に中門があり、この中門から両脇に廻廊がつづき、中門の奥に金堂があり、中門から両脇に出た廻廊が北折してこの金堂を巡り、さらに南門に続く築地塀が曲折してこの廻廊の四周をまわっている。
 米山さんは、これら以外にも仏像の形式など多岐にわたる情報を集約して善光寺の草創についての模索をされている。そしてそれらから推考されるのは「天智天皇御代を去ること遠くない、或いは天武天皇から持統天皇ころまでの間において創立されたものではないか」ということになっている。その視野の広さと深さにおよぶべくもない。続いてもうひとつの論攷も確認しておきたい

米山一政1971「信濃の古瓦」『一志茂樹博士喜寿記念論集』
・4種に分けられる善光寺出土の瓦
(1)直径15.6センチ、厚さ2.3センチ、複弁8弁蓮華文。陽刻界圏をめぐらせた中房は直径6.2センチで大きい。連子は中心と界圏近くの8が大きく、中心の蓮子をとりまく4はやや小さい。先端はとがり、断面三角形の細い輪郭をもつ。蓮弁はやや長めで、中央の縦線によって左右にわかれた各面は凹窪の匙面をつくりお、内に断面半円状の小葉を高彫している。が、細長く、弁面の反転際まで届いており、全体としてやや力が弱く、優しい。周縁は直立縁で上面は内向傾斜し、その面に外行面違い鋸歯文を陽刻し、周縁と蓮華文との境に細い圏線を入れている。鋸歯文の数は24。川原寺や大津宮と同類変形だろう。
(2)直径15.8センチの複弁8弁蓮華文。中房は陽刻界圏をめぐらせ、直径は5.3センチ。蓮子に輪郭は無い。蓮弁は長めで弁面に凹窪した匙面をつくるが、小葉が細長く、その先端は弁先まで達する。周縁は直立縁で幅1.8センチ、外縁は0.8センチで面は平坦でやや高い。内側は内向傾斜した面をつくり、上面に繊細な陽刻線で外行鋸歯文を刻す。
(3)直径16.3センチの素弁十弁蓮華文。周縁の幅は2.2センチ。中房は直径が4.3センチ。低く界圏は無い。蓮子は竹管で押したもの。平安時代か
(4)偏行忍冬唐草軒平瓦
・布目は細かく、糸も細く、1平方センチあたり縦糸が8、横糸が8。下面には1辺1.3センチほどの格子状叩き痕もある。下面に幅のある直条線をX形にたたいたものも
(5)巴文軒丸瓦:仁王門のある西北から出土。直径15.5センチ。鎌倉時代の特徴。

 米山さんの論攷はこの後、上田国分寺や飯田の開善寺までひろく信濃の古代瓦について詳しく論述されており、その後の古代寺院と瓦の研究の原典となっている。
その内容については、原田和彦さんのレポートで詳しく紹介されているため省くが、
いくつか気のついたことを記しておきたい。

・雨宮正法寺瓦について
 更埴市雨宮の雨宮坐日吉神社西からみつかったもので、関野貞さんが考古学講座で奈良時代後期に属するものとして紹介している。独特の6弁単弁蓮華文軒丸瓦が有名。直径は16.2センチ。蓮弁は紐状の陽線で輪郭をつくり、先端が丸くやや細長い卵形を呈する。上原真人さんの研究によれば(歴史発掘11)、類例は越後(新井市)の栗原や大和の奥山につながるという。また異なった系列ではあるが、尾張の篠岡2号窯とも関係があるとされる。畿内・東海・北信・越後南部とつながる線は、日本海と善光寺平とのつながりを物語るものと思える。
 なお、米山さんは、長野市篠ノ井上石川の上石川廃寺(布制神社参道西から出土)からみつかった瓦のひとつの文様が雨宮正法寺瓦と類似した特徴があるとしている。「篠井」はもちろん高句麗系の改姓にみえる名称で、上石川廃寺の北の丘陵には川柳将軍塚があり、信濃で最も古い松ノ山須恵器窯も近い。

・明科廃寺瓦について
 昭和28年に発見された資料で、軒丸瓦は素弁と単弁の3種類あり、このうち素弁のものは、上原さんによって甲斐・飛騨・近江にその系譜を比較できる資料があるという。これは言い方を変えると近江と東国といったことになり、やはり渡来系の集団に関係した要素になるのだろうか

・須坂市小河原左願寺瓦について
 水内郡の善光寺に対し、高井郡の左願寺廃寺とその2キロ離れた場所にある長者屋敷の散布地は、原田さんが指摘するように、後者が推定郡家で、前者がその郡寺にあたる関係の可能性が考えられ(長者屋敷の西に延喜式に見える墨坂神社があるという)、善光寺前身寺院の草創かあるいはその時期に近い頃の同寺の運用構造を考えるときにおおいにヒントになる遺跡だと思う。ここからは、大正13年に見つかった善光寺瓦と同じ外縁内側に陽刻線で外行鋸歯文を配する複弁蓮華文軒丸瓦のほかに重圏文軒丸瓦と蕨手文軒丸瓦(坂城町込山廃寺に似ている)もみつかっている。
 原田さんの非常にわかりやすい比較対照の図面で示されているように、これらの寺院と国分寺瓦との関係は、そのまま国分寺造立に対する信濃国内の豪族の関わり方を示したものであろうが、高井郡の左願寺廃寺と水内郡の善光寺前身寺院の瓦の関係は、7世紀おわりから8世紀初め頃の善光寺平の社会構造を明らかにする大きな手がかりだと思う。
 また米山さんの指摘は蕨手文を大陸系の文様としているが、これについてもあらためて注目する必要があるだろう。

この3月にみつかった単弁の軒丸瓦は、すでに上原さんによって、湖東式にきわめて似ていると評価された。そのことが善光寺前身寺院の成立とどのような関係になるかは、上でみたような7世紀終わりから8世紀にかけての善光寺平の古代集落と氏族の実態を明らかにしたうえでなければ説明できないが、これまでの多くの先学の意見と同じように、その中に平安時代初めまで高句麗の姓を名乗っていた人々が関わっていたことは間違いないだろう。

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