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2007年8月 3日 (金)

善光寺の瓦を学ぶ3-湖東式瓦の年代と系譜について-

・小笠原好彦さんの研究
 湖東式と呼ばれる瓦は、主に近江の湖東地域の寺院でみられる単弁・重弁の軒丸瓦で代表的な遺跡は愛荘町の塔ノ塚廃寺である。
 その特徴は、中央に大きな蓮子がひとつあり、その外側の平坦面に蓮子を輪状にめぐらせ、単弁の蓮弁と外区内縁に珠文をめぐらせ、素文の狭い外区外縁をめぐらせる。
 畿内やその周辺の寺院では見られないその系譜については、文様の特徴から朝鮮半島では大通寺跡、西穴寺跡や南穴寺跡などの百済との関係、新羅の阿火付近出土瓦との関係、中房に区画する界線を入れた高句麗との関係(ただしこの文様については百済経由とも考えられている)が言われ、近江以外の分布は越前の窯と美濃でのみ知られていた。
 その成立年代の手がかりは、日野川左岸におかれる宮井廃寺から出土した市東圧痕のある(湖東式軒丸瓦とセットになる)重弧文軒平瓦で、この廃寺の南西400mにある辻岡山1号瓦窯から出土した須恵器杯で飛鳥3から4の時期にあたり、おおむね670年代ころに比定されるという。なお百済の西穴寺跡で出土する軒丸瓦は、668年以後の統一新羅時代に比定されている。また扶余にある軍守里廃寺は指頭圧痕重弧文軒平瓦と出しているが、近江の古代寺院の氏寺で多く瓦積基壇がみつかっているという。(善光寺平の古代寺院と百済系氏族との関係を積極的にみるためには、この要素も検討する必要があろう)
 百済と近江の関係では、日本書紀の天智4年(665)に百済の男女400人が神崎郡に居住した例や天智8年(669)に佐平鬼室集斯ら男女700人を蒲生郡に移住させた記事が知られ、また日本書紀の天智2年(663)の記事で、愛知郡から多くの氏族が参戦し、それに関係して寺院造営を請願したことが知られている。あるいは渡来系氏族の朴市秦氏らが中心となり、この戦いで戦死した人々を弔うにあたり、その文様を導入したのではないかともしている。
 なお、白村江の戦いの後、唐との関係は701年の遣唐使まで途絶するが、668年から新羅との交流が再開され、700年までに相互で30回を越える行き来があった。したがって湖東式瓦の文様の背景には、百済とあわせて新羅との関係も考える必要があるとも言う。

・北村圭弘さんの研究「近江・犬上郡以北と越前の重弁蓮華紋軒丸瓦」
 滋賀県で湖東式の研究に詳しい北村さんが湖東式の技法と年代について、川原寺式瓦もからんだ、善光寺出土瓦に通じるレポートを出している。
 北村さんによれば、軒丸瓦の瓦当裏面の縁辺に粘土紐を貼り付ける技法は愛知郡の湖東式軒丸瓦に多いが、最古型式にはそれが見られず、その次の型式からそれがみられるという。
 興味深いのは、この製作技法が下岡部廃寺の川原寺式軒丸瓦に伴って近江に出現したという見方である。川原寺の創建時の瓦の年代は660年代になるので、それを模倣した下岡部廃寺の川原寺式軒丸瓦が670年代とすれば、最古の湖東式軒丸瓦の年代はその直前になるという。
 また、湖東式瓦を焼いている越前の小粕瓦窯では1号窯で7世紀末から8世紀初頭の須恵器も焼いていたとする。北村さんによれば、湖東式瓦は、それに先行する2号窯で焼かれているため、その時期は7世紀末の持統朝期を推定している。

 今回みつかった湖東式系の瓦は1点である。偶然かもしれないが、川原寺式瓦と湖東式瓦の製作技法についてのつながりが善光寺前身寺院においてどんな意味をもってくるかも考えてみたい。
 
・大塚章さんの研究「美濃地方における湖東式軒瓦の展開」
 湖東式瓦がみられるのは、近江では愛知郡以外に湖北でも知られているが、近江以外では越前の窯のぞけば美濃が有名である。その中でも最も有名なものが、各務原市の平蔵寺跡で、近接する山田寺跡からは輻線式の軒丸瓦も出ているような近江的な環境の強い地区である。一方各務原の古代氏族は村国氏や各務勝氏が知られており、渡来系とされている。この地は小規模条里が複雑にみられ、中心的な再生産手段は農業ではなく窯業と考えられている。
 大塚さんは、さらに加茂郡の状況もあわせ、美濃の古代寺院の主流とも言うべき川原寺系寺院が県主グループで、これに対し、秦人などの渡来系集団の採用した瓦が湖東式という仮説を示している。元薬師寺跡のある一帯は木曽川に加茂川が流れ込む低湿な場所で、その地の開発には土木技術や農業以外の力が必要だったとされる。

 善光寺のおかれる水内郡においては、大和岩雄さんによる土木技術に長けた長野氏の関係が想起されるが、もうひとつのポイントとしてここでも湖東式と川原寺式の関係があったことになる。

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